今週の礼拝メッセージ
神の命令を守る祝福   1999.8.22(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 出エジプト記 20章1節〜17節
それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。・・それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

ハレルヤ!今日皆さんの前でメッセージが語れますことを感謝します。この夏も、終わりに近づきました。今週私は、昨年ここに来られたアメリカ、ワシントン州ヤキマのジョー先生の教会に行くことになっています。何名かの兄弟姉妹と共に行きます。その地のリバイバルと、霊的戦いの前進のために集会を持ちますのでぜひ祈って下さい。
一昨日、アルゼンチンのアドリアン先生から電話があり、「今週は特別、新城教会と日本のために祈る週なので、祈りの課題を下さい」と連絡があり、情報を送りました。私たちは地球の表側と裏側とつないで祈ることができることを感謝します。明日の祈祷会でともにリバイバルが起こされるよう祈ります。アルゼンチンのリバイバルのためにも、祈っていただきたいと思います。「受けるよりも与える方が幸い」とあります。共に祈るときに神様の祝福が流れ出ます。
 聖書は私たちが生きるためのマニュアルです。人生ほど複雑なものはないと思います。しかし、神様は人間を創り、どのように生きるべきかの情報を与えてくださいました。それが聖書に含まれています。御言葉を読むときに、どのように生きるかについての情報を受け取ることが出来ます。
 私は半年に一度くらい携帯電話を変えることで有名です。毎回、新機種になればなるほどマニュアルが厚くなります。めんどくさくて読むのが嫌になりますが、暇を見て一ページずつでも読んで機能を覚えていくと携帯電話ライフが豊かになります。聖書も同じことです。毎日一節でも一章でも、読むと人生が豊かになります。
 携帯電話のマニュアルでも、絶対に覚えなくては使えない重要な部分があります。発信ボタンなど基本操作は覚えなくてはなりません。それらの必読箇所はマニュアル中、太字で書かれています。聖書も同じです。
 聖書は神が人類に与えた言葉です。神は預言者を選び出し、その人たちにご自分の言葉を代筆させました。それが集まって一冊になったのが聖書です。六十六冊が一つになっています。しかし「この部分だけは人には任せられない。この部分は自分で書く」と、神がご自分の指で書かれた箇所があります。それは、一番重要な部分です。それが今お読みした、「十戒」です。出エジプト記の二十章です。神様が石の板に書いて、モーセに渡しました。ということは、聖書中、ある意味で、神様が一番思い入れを持って書かれたところです。これは法律に属するものです。しかし、これを守れば救われる、とは教えていません。救いはあくまでも、「恵み」によります。
 エジプトにとらわれていたイスラエルが、神様の一方的な力によって解放されました。今、話題になっている映画で「プリンス・オブ・エジプト」がありますが、そこにも紹介されているように、彼らが紅海の前に立った時、自動的に海が開かれました。救いはそのようなものです。私たちが努力して開かれるのではありません。神の前に立ったときに、一方的に開かれるものです。
 その後、神はイスラエルに律法を与えられました。この「十戒」は救われるためのものではありません。しかし、クリスチャン生活に重要なものです。
 聖書を調べていくと、十戒は旧約聖書で集結してはいません。新約聖書でも、概念が貫き通されています。ということは、現代の私たちにとっても、十戒に心を留めることがとても重要です。家に帰ってから、もう一度読んでみてください。
 今から、それらをざっと学んでみましょう。
 まず第一に、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」と書かれています。神様はイエス様だけです。日本には八百万の神々がありますが、それは神ではありません。本当の神様は天地宇宙を造られた方です。
 第二は、「偶像礼拝から離れること」です。このことについては、後から詳しく学びます。
 第三には、「みだりに神の名前を使わないこと」、これをユダヤ人は厳格に解釈し、「ヤーウェ」の四文字を別に置き換えて使っていました。しかし、そのような意味よりも、聖書には、「名前は実体と共にある」という概念があります。イエス様という名前は、実体と共にあります。イエス様の名前を使うことは、イエス様が私たちと共に働いてくださるという意味です。私利私欲のために、この名前を使ってはいけないのです。特に昔は神様の名前も、悪霊的なまじないのために使っていました。そのようなことをしてはいけないのです。私たちが主の名を使うときは、いつも、「名前は実体と共にある」のです。ですから、よく理解してその名を使うべきです。
 第四に、「安息日を覚えて聖なる日としなさい。」私たちは日曜日を主の日としています、だから、礼拝を「主日礼拝」と言っています。今日皆さんはその日を守って教会に来られました。この日を大切にすると祝福されます。現代は生活が多様化しており、曜日感覚がない二十四時間サイクルの風潮です。私の幼い頃はそんなことはありませんでした。店はたいてい夜七時頃には閉まっていました。私は組長をしたことがありますが、七時くらいに集金に行くと、すでに電気が消え、鍵がかかっている家がほとんどでした。東京に行くと、深夜十二時や一時にも満員で電車が走っています。こんな時代に生活していても、きちっと日曜日を主の日として守ることが大切です。
 第五に、「父と母を敬いなさい」ということです。これは神様の教えです。現代は多くの家庭が崩壊してますが、社会の基本は家庭です。家庭がしっかりしていないと社会が崩れるということを教えています。皆さんもご自分の家庭を大切にしていただきたいと思います。子どもが父母を敬い、家庭が強くなる事は社会に貢献している事です。教会に来て、壊れかけた家族が回復し、一致し、祝福されます。
 当時イスラエルでは、男性主導で女性の身分は認められませんでした。日本においても女性の地位が確立されたのはつい最近です。「父と母を敬う」とは、男女が並列に差別なく、同じ扱いを受けるということも教えています。聖書は根本的には何千年も前から、男女平等を教えています。
 第六は、「殺してはならない。」これは当然のことです。しかし、これを聖書で見ると矛盾しているように感じます。神様が戦争を命令し仕掛けたり、聖絶を命じられたりします。「殺してはならない」とは、戦争のことではなく、個人的利害関係の中で「殺してはならない」と教えているのです。動物に対しても除外しています。
 今、自殺が増えているそうです。昨年は三万人以上だったそうです。自殺も、「殺してはならない」という命令に含まれます。与えられた命の尊厳について神が教えています。どんな辛いことがあっても、死んではいけません。神様は天を開いて、生きる道を与えてくださいます。
 第七に、「姦淫してはならない。」性的な罪が広がっていますが、きよくあるべきです。姦淫の罪は、支払いを人生の中で受けなければなりません。必ず、家庭の中に、夫婦関係の中に問題が起こります。若い方々にお勧めします。どのような誘惑があっても、この罪に陥ってはいけません。
 第八に、「盗んではならない。」多くの人が万引きする時代です。絶対に良くありません。盗みは神の臨在を取り去るものです。今までに盗みをした方は、返さなくてはなりません。
 第九に、「偽証してはならない。」うそを言って人生が間違った方向に進んでいる人がいます。
 そして最後は、「隣人の所有物に対してむさぼってはならない」と教えています。これは私たちの内面について語っています。欲求についてです。欲求が止まらない人がいます。生活の中でむさぼりから守られることが大切です。
 これらのことを守ることは祝福の道です。これは神が直筆で書かれた、人生に重要な部分であることを覚え、自分のものにしたいと思います。
 しかし、今日、特に学ぶところは、二節から六節です。

『「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。』

 第一の戒め、「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」は、いわば全体の戒めの前提ともいうべきものです。ですから、守るべき戒めとして、最初に語られているのは、「偶像礼拝」です。人生に、最も恐ろしい結果をもたらす事柄を、神が最初に直筆で記されたのです。
 日本はどこに行っても偶像だらけです。過去に悪霊のリバイバルが起こらなかったら、こんな状況は起こらなかったはずです。先日訪問した、アルゼンチンやブラジルではマリヤ像が町に建っていますが、日本ほどではありません。日本全体の偶像を琵琶湖に投げ込んだら、水が干上がるほどかもしれません。
 どうして偶像礼拝が恐ろしい罪かというと、「偶像礼拝=悪霊礼拝」だからです。詩篇一〇六篇はエジプトから解放されたイスラエルについて書かれた歌です。三十四節から、

『彼らは、主が命じたのに、国々の民を滅ぼさず、かえって、異邦の民と交わり、そのならわしにならい、その偶像に仕えた。それが彼らに、わなであった。彼らは自分たちの息子、娘を悪霊のいけにえとしてささげ、罪のない血を流した。カナンの偶像のいけにえにした・・・。』

と書かれています。ここでは、はっきりと、「偶像礼拝が悪霊礼拝に属する事」として記されています。偶像を拝むことは、木や石を拝む空しいことで、本物の神から目を逸らす罪だけだと思わないで下さい。これは、恐ろしい「悪霊礼拝」であると聖書は教えています。その点について、多くの日本のクリスチャンが気づかなかったのです。だから、クリスチャン生活にも偶像的な考え方や、偶像との縁が切れなかったりするのです。ということは、その面で大きな祝福を失っているのです。この田舎で、新城教会が祝福されていると言うならば、その理由は、初代のクリスチャンが、偶像と関わりを断ち切って戦ったことです。
 組つき合いの中で、偶像とのつき合いを断るのは勇気のいることです。昔は封建的なところがありましたので、村八分になる勢いがありました。しかし、「イエス様を信じたので、偶像から離れます」と、はっきり宣言することは素晴らしい祝福です。偶像に関係したら、人生に祝福ではなく、のろいが来ます。だから、偶像礼拝に断じて関わらないようにすべきです。
 地域生活の中では、時々、組費の中に含まれる神社費の戦いがありますが、偶像礼拝のためには支払わないことを、はっきりと宣言すべきです。波風が立つと言って宣言しないならば、信仰生活の中に混ざりものが入り、隠れて侵入する存在があるのです。偶像礼拝に対して、はっきりと線を引いて戦わなくてはなりません。
 人が罪を犯すならば、結果はその人自身に帰するのが、基本的原則です。誰かが泥棒したら、その本人の罪です。殺人も詐欺事件も同じです。しかし、このような事件を聞いたことがありますか。
 ある人が罪を犯したところ、本人ではなく子どもに逮捕状が来た。ましてや、ある人が罪を犯したら、孫の代に孫たちに逮捕状が来たという事件を聞いたことがありますか。おじいさんが罪を犯したのに、曾孫のところに逮捕状が来たという話を聞いたことがありますか。聞いたことはありません。本人が罪を犯したら、結果はその本人の頭上に帰します。
 しかし、偶像礼拝の恐ろしさは、おじいさんの犯した罪の支払いが、曾孫に請求が来るような側面があるからです。だから最も注意するように聖書は警告しています。

『主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし・・・』

と記しています。偶像礼拝ののろいが三代、四代に渡ります。したがって、偶像礼拝から離れることは、新しい世代に対しても重要です。逆に、偶像礼拝から離れたとき、一番大きな祝福が来るのです。

『わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。』

クリスチャンになったら、のろいではなく千代に至る祝福があるのです。悪霊ののろいから断ち切られるときに、千代に至る祝福があるのです。 
 中には、クリスチャンであっても呪われた人生を送っている方がいるようです。先々週、ある教会のキャンプに行きました。その時、家系の束縛からの解放の恵みを現して下さいました。特に、最後の集会はとても祝福されました。聖霊様が働かれました。それは十代の青年たち中心の集会で、二百名ほどが集まりました。夜八時半くらいに集会が始まり、終わったのは午前二時半でした。メッセージが終わってから祈り始めたら、聖霊様が働かれて解放が起こり始めました。悪霊の力がうち砕かれ、家系の束縛からの解放が与えられました。ある方が姪と共に来られ、「私の家庭はクリスチャンですが、無傷なのは、私たち二人です。他は皆、事故や病気、早死にしたりしている」と言われました。「何か家系に呪いがあるかももしれない」と言われました。「あなたのおじいさんおばあさんは何をされていましたか」と聞くと、偶像礼拝やオカルトをしていたと言われました。だから、その束縛が砕かれるように祈りました。
 また、先週ある方が来られ、「私の四人の兄弟はクリスチャンでしたが、この二年間に相次いで死んで、私だけが残された」というのです。そして、先日恐ろしい体験をしたと言われました。悪霊が、「今度は、おまえの番だ。おまえを殺してやる。」と言うのを聞いたそうです。その家系も偶像礼拝の固まりのようでした。「祈ってください」と言われました。そこで祈ると、悪霊の力が破られ解放されました。今現在はクリスチャンであっても、過去に偶像礼拝を熱心にした人が家系にいると、呪いを生活の中に引きずる時があります。
 なぜでしょうか。それは偶像礼拝に二つの側面があるからです。一つは「神への反逆」であり、同時に「悪霊に対する契約」だからです。詩篇の一〇六篇に悪霊に対して、「いけにえ」をささげたとありましたが、「いけにえ」とは契約でした。ノアは箱船から出て、まず祭壇を築き、神にいけにえをささげました。神様はいけにえを見て「二度と人類を洪水によって滅ぼすことはしない」と永遠の契約を立てられました。即ち、偶像礼拝は悪霊との契約行為です。悪霊は神ではないので、その契約の裏付けとなる神からの保証がいるのです。それが神の御言葉です。それが、偶像礼拝ならば「三、四代に至るのろい」という神が人類に語った言葉を裏付けとしているのです。この御言葉を悪魔はつかんでいるので、人が偶像礼拝を犯したときに、悪魔は人と契約を結ぶことができるのです。即ち、「三、四代はお前の家系と関わることができる」というのです。その結果、人々の生活の中に悪魔は契約書を持って、堂々と入り込むのです。もしもクリスチャン生活の中で、イエス様を信じているけれど、周りに起こっていることは千代に至る祝福とはほど遠い事柄が起こっているならば、今一度家系を振り返って見なくてはなりません。もしもその中に偶像的な束縛があったら、打ち砕いていただくべきです。
 イエス様が十字架にかかられた目的は罪の身代わりでしたが、コロサイ人への手紙二章十三節から十五節に、

『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

と書かれています。イエス様は十字架について罪を赦してくださいました。その意味は、私たちを責め立てていた「債務証書」を無効にしてくださったということです。債務証書とは契約書です。その契約的な罪の中で一番大きなものが偶像礼拝なのです。偶像礼拝により債務証書ができてしまうのです。それを無効にするために、イエス様が十字架についてくださいました。
 信仰の領域で、「知る」ことはとても重要です。救いは二千年前に完成しましたが、知らなかったがゆえに私たちは救われませんでした。しかし、知ったとき救われたのです。同様に、偶像礼拝の罪が契約的な罪であることを「知る」ならば解放されるのです。今日、家系に持ち込まれた、私たちを責め立てている債務証書が廃棄されるならば、悪魔が捕虜としてあなたの凱旋の行列に加えられるのです。
 教会は、「悪魔は家系を通してのろいを与えることは出来ない」と宣言すべきです。今日もし、家系の呪いを受けている人がいたら、その呪いは打ち砕かれ、完全に解放されますように。今日からは三、四代に至るのろいが全く消え去り、「千代に至る祝福」に代わりますように。人生、家系がこの時から変えらるように祈りましょう。そのために、まずイエス様の十字架の血潮を仰いで祈りたいと思います。「私を責め立てていた債務証書を釘付けにして下さることを感謝します」と祈りましょう。そして千代に至る祝福を与えて下さるよう祈りたいと思います。一言お祈りします。

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