今週の礼拝メッセージ
イエス様以外に救いはない   1999.8.29(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 使徒の働き4章12節
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

ハレルヤ!これから皆さんと共に御言葉を学びます。今お読みしました使徒の働き四章十二節の御言葉から学びます。

『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。』

一九七〇年に私たちは日本リバイバルクルセードを始めました。そのリバイバルクルセードのテーマを決めるにあたってこの御言葉を選びました。そしてその御言葉を、私流に訳し、「天下にイエス・キリスト以外に救いはない」としました。それから現在の全日本リバイバルミッションのテーマ的なみことばとして、日本中で集会をさせていただいています。私はハッキリと救いはイエス様以外にないと断言できます。「天下にイエス・キリスト以外に救いはない。」と言う言葉はクリスチャンにとっては素晴らしい確信を与えますが、しかし、一般の人にとっては反発を感じるようです。
 ずいぶん昔に、私は北陸の金沢でクルセードを開きました。その時に「天下にイエス・キリスト以外に救いはない」というポスターを作り、五百枚ほど金沢の町に掲示しました。五日間集会を行いましたが、私が当日金沢に行くと牧師先生がある方から手紙が届いたと言って私に見せてくれました。送り主はずいぶん熱心な仏教徒のご高齢の方でした。内容はこの様でした。「滝元さん。あなたが伝えているキリスト教は間違っている。なぜならば、「天下にイエス・キリスト以外に救いはない」ということばは排他的である。他の宗教にも救いがある。だから、直ちにその言葉を取り下げてください。そうではないと、キリスト教の伝道は進まないでしょう。」と書かれていました。私はその手紙を受け取り、早速その方に手紙を書きました。私は五日間お話しますので、一日是非あなたも集会に来てください。そうしたら答えを見いだすでしょう」と書きました。するとその方が最後の晩の集会に来られました。その晩、私は「天下にイエス・キリスト以外に救いはない」という話をしました。非常に反発を持って変えられたかと思いますが、たとい誰が反発しようと、これは私の言葉ではなく、「この方以外に救いはない」という聖書の御言葉です。だからこれを曲げることは絶対できません。また、これもずいぶん昔の話になりますが、田中政男先生は現在浦川、浜北、水窪の3ヶ所教会を持っています。ある時、佐久間町の浦川にある北遠教会でクルセードを開きました。その時にも同じポスターを使いました。それを見た一人の仏教に熱心な男性が勢いを持って北遠教会に電話をしてきました。電話に田中先生の奥さんが出られると、いきなり「やい、やい、何だ俺の家の前に天下にイエスキリスト以外に救いはないというポスターを貼って!!すぐに取れ!」と怒鳴られました。奥さんは驚いて「ポスターには「天下にイエスキリスト以外に救いはない」ではなく、この方以外に救いはないではないですか。」というと、「違う、天下、天下と書いてある!」「いや、この方以外では・・・」と論じ合っている内にその方が受話器を置いて見に行くと、「やはり俺の言うとおり、天下にイエスキリスト以外に救いはないと書いてあるじゃないか。俺は仏教を信じている。天下にイエスキリスト以外に救いはないというと仏教に救いはないということではないか。あんなことを書かれると、俺の信仰がグラグラする。」と言われたそうです。天下にイエスキリスト以外に救いはないです。イエス様は十字架に付けられ、復活され、四十日間確かにご自分が生きられたことを証しされて天に帰られました。それから十日後に聖霊が下り、弟子たちが素晴らしい力を受けて伝道しました。聖書の使徒の働き三章では素晴らしい奇蹟が記されています。ペテロとヨハネが祈りのために会堂に入ったときに、生まれつき足なえの人が座って物乞いをしていました。ペテロとヨハネは「私を見なさい。金銀は私にはない。私にあるものをあなたにあげよう。ナザレのイエスの名によって立ち上がれ。」と言ってその人の手を取り起こすと、足が完全にいやされて立ち上がり、飛んだりはねたりしたという素晴らしい奇蹟を見ました。これを見ていた大勢の人々は「すごい、ペテロは何とすごい人だろう。」と思いました。その時にペテロは説教し、「皆さん、これは私の信仰や私の力ではありません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神がよみがえらせた。そのよみがえられたイエスの名によってイエスご自身がいやされたのです。私たちはイエスの復活の証人です。」と説教しました。このことは大きな反響を呼び、ユダの指導者たち、学者、祭司長たちが集まって伝えるのを止めなければならないと考えました。しかし、その時に彼は「皆さん、救いはイエス様だけです。彼は死人の中からよみがえられ、今も生きています。」と言いました。これが今日の御言葉です。この時になぜ、「天下にイエスキリスト以外に救いはない」と言ったか、死人の中からよみがえったイエスは主であり、キリストであり、この方こそ救い主であり、この方こそ死の力をうち破ってよみがえってくださった方で私たちを救われる方はイエスキリスト以外に絶対にないという証をしました。イエス様は神のひとり子、十字架につけられて死人の中から三日目によみがえられ、今日も生きておられます。死の力をうち破られた方はイエス様以外にありません。
 つい最近「カイロス」という本がプレイズ出版から出されました。今回のテーマは「家庭と信仰継承」というテーマです。家族レベルでの霊的戦いについて書かれています。私と家内の記事も掲載されています。また「代々に渡る信仰の継承」というテーマでスティーブ・ケーラー先生が書いています。先生は八代目のクリスチャンで、今先生のご実家が九州の熊本にあり、お父さんと長男が伝道されています。その記事の中で、長男に教会を引き継いだ時のことが書かれています。八代目である長男に移るときにとても感動したそうです。それはドイツから持ってきた代々使われ続けてきた聖書を涙ながらに引き渡されたそうです。これは素晴らしいことです。皆さんの信仰の中で子どもをクリスチャンにすることができない人は失敗です。しかし、望みを捨てないで下さい。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と書かれています。今はどんなに難しく思われても絶対に救われます。そしてあなたの孫も救われ、これからずっと信仰が継承されるべきです。八代に渡って信仰が継承されたことは素晴らしいことです。私たちもそのような家庭を作りましょう。
 また、N先生が「墓地と日本人の祖先崇拝」というテーマで書いています。彼は現在M大学で助教授で、哲学博士です。彼がアメリカのルイジアナ州で人文学を勉強したそうです。主に墓の研究でその州の四百くらいの墓を調べ、二十五万の墓を調べたそうです。その時、彼はクリスチャンではありませんでした。そしてその中で彼が確信したことは「人間は必ず死ぬ」ということでした。彼は二十五万の墓を調べてわかったそうです。このことがわかることは素晴らしいです。現代の日本人はわかっていないのです。死について、明日以降の将来について考えていません。そして、N先生は墓を調べているうちに日本とアメリカの墓の違いに気がついたそうです。皆さんに外国で見ていただきたいものは墓です。外国の墓を散歩しても飽きない、きれいな所です。アメリカのお金持ちは死んだ人の血を抜き、防腐剤を入れて保存していることがあります。日本では残念なことですがクリスチャンになると先祖を粗末にして、墓も拝めないのかと言われます。日本の墓はとても汚いです。盆が来るので草を刈ります。お化けが出る・・・と言われるほど汚くなっています。しかし、アメリカは違います。時々寂しくなると墓に散歩に行きます。死んだ人のことを考えるのは悪いことではありません。しかし、拝んではいけません。アメリカの墓には希望があります。日本の墓は燈があり何が書いてあるかわかりません。葬式でお経を読みますが何を言っているかわかりません。それは「へぼだまし」と言われ、ばかを騙すという意味があります。わからないことを言って皆が、僧侶は頭の良い人だと思うのです。しかし、聖書はそうではありません。人間がどこから来て、どこに行くとはっきりと書かれています。だから、このN先生はアメリカで希望を得ました。イエス様を信じたら罪が赦され、天国に行ける。そしてイエス様が帰って来られたときには復活できるという希望です。「天下にイエスキリスト以外に救いはない」ということは希望です。イエス様を信じたら死んで終わりではなく、天国があり、イエス様が帰ってこられるときに私たちもよみがえることができるという希望です。ですから、この時のペテロは、「あなたがたが十字架につけたイエスを神が死人の中からよみがえらせたのです。この方が主であり、キリストです。」と言われました。「この方を信じたら罪の許しがある」と断言しました。イエスキリストには救いがあり、他には救いはありません。このことを信じましょう。ペテロは素晴らしい奇跡をしました。彼はイエス様がよみがえられたことの証人です。リバイバルが起こされ彼の説教で三千人が救われ、また、素晴らしい奇跡が起こされたのです。ある時、レビ人バルナバが全財産を教会に献金しました。それを見た人々はバルナバを誉めました。その時、アナニヤとサッピラも考えました。「あのバルナバが土地をささげて皆にちやほやされるなら、私もささげよう」と考えました。そこで彼らは土地を売り、その夫婦で共謀しました。たとえば一千万円で土地が売れたとしたら、ご主人が奥さんに「一千万で売れたが全部献げるのはもったいないので三百万円取っておき、七百万円ささげよう」と言いました。七百万円ささげても素晴らしいことです。しかし問題はうそを言ってはいけません。彼らは人々の前で、ほめられたい為に、「ペテロ先生、私たちも土地を売り、全財産を献金します。受け取ってください。」と言いペテロに差し出しました。するとペテロはよみがえられたイエス様と共におり、彼を見抜きアナニアに「なぜ、あなたは聖霊を欺くのか、あなたが売ったものはあなたのものではないか。なぜ、あなたは隠して偽りを言うのか、あなたは聖霊を欺いた」と言った途端、彼は倒れて死にました。彼は神の前と人の前に嘘を言いました。これは恐ろしいことです。その後妻であるサッピラも来ました。ペテロが再び彼女に聞きました。そして彼女も彼と同じことを言いました。その途端、その場所で彼女も倒れて死にました。イエス様の前で偽ることは出来ません。わたしたちは偽ることは大きな罪であると知らなくてはなりません。本当は正直に言えば良かったのです。「ペテロ先生。一千万円で売れましたが全部はもったいないので三百万円家に置いてきました。そして七百万円をささげさせていただきます。」と言えば良かったのです。レビ人のバルナバが献げたことは、レビ人は土地を持ってはいけないので悔い改めて献げたのです。しかし、アナニヤとサッピラはレビ人ではないのでそのようにする必要がありませんでした。しかし、そのことによって彼らは神の怒りによって滅ぼされました。教会は恐れを成しました。私たちは神様を恐れなくてはなりません。その後人々はクリスチャンたちに近寄ることも恐ろしいくらいに考えましたが、クリスチャンを信頼し信じるものがますます増えたと書かれています。使徒五章十三節から十六節に、

『ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。』

と書かれています。これはすごいことです。神様が臨まれてよみがえられたイエス様がペテロと共にいたので、死人が担がれて大通りに出され、ペテロが歩いた陰に触るだけで死人がよみがえったそうです。聖書を見るとパウロもパウロの前掛けに触れただけでいやされたと書かれています。主ご自身が共にいたら素晴らしいことが起こされます。ですから、人々がペテロが通りかかるときにせめてその影に触れたいと思ったようです。このような奇跡を見たいと思いませんか。エルサレム中から病人を運び出し、祈ってもらい、神に触ってもらったらすべて癒されました。癒されたことは中途半端ではありません。私が最近祈っていた時にイエス様が、「わたしは熱いか冷たいかどちらかが良い」とイエス様が言われました。「イエス様、あなたは癒されるか癒されないか、中途半端は嫌いではないですか。熱いか冷たいかでしょう。イエス様中途半端ではなく、すっかり癒して下さい。」と祈りました。よみがえられたイエス様を信じたら今日も同じ奇跡が起こります。信じましょう。今日この教会でも死人の中から復活されたイエスを信じたら、神様は奇跡を起こすことができます。前回ビジョンについて語りました。ビジョンは妊娠のようなものではじめは小さいけれど、だんだん大きくなり、やがて生みだされます。今はどうあってもやがて、前回お話しした二千五百人の教会を造らせていただきたいというビジョンも必ず可能です。若い方もビジョンを持って下さい。そうなったら、教会は病院のようになると良いと思います。病院に行くと耳鼻科、内科、外科があります。教会の中にも主に祈り、癌も癒される。私は痔が癒されたので、肛門科かも知れません。痔に対しては信仰があります。そのように教会に癒しがあることは、イエス様以外に救いはないことがわかり、教会行ったら罪が許される。良い家庭生活が出来るということです。信仰継承は素晴らしい家庭が出来るということです。私たちがイエス様を信じたら死ぬことは怖くない。確実に天の御国に入ることができる。感謝な事です。教会の葬式は素晴らしいです。一度私は葬式の話を上條牧師にしてもらうと良いと思います。ゴスペルサパーで一度素晴らしい説教をされました。上條牧師が行政区の組長をし、組長だと葬式の責任を持たなくてはいけないので亡くなる人がいないようにと祈っていたそうです。しかし任期も後一週間くらいの時に電話があり、「組長さん、私の主人が亡くなりました。」と言われ、その家に行ったそうです。その方はまだ若い方で、子どももいる。しかし、イエス様を知らないので葬式を寺で行いました。僧侶に会い、「通夜はいついつです。葬式もいつです。何万円払いなさい。」と言われました。教会はそうではありません。素晴らしいです。花を飾ってあげます。花料で大体まかなわれます。世の中の葬式は生きている時から葬儀代を心配しなくてはいけません。多くのお金を積み立てます。しかし、教会は心配いりません。そして希望があります。天国に行けます。その救いの道はイエス様以外にありません。どのような道徳であっても、金があっても、天の御国には入ることは出来ません。今日もイエス様がここにいます。イエス様は必ず病気をいやして下さいます。家庭も崩壊していても回復されます。まだイエス様を信じていない家族がいたら伝道するべきです。イエスキリストを信じなかったら滅びます。地獄に行きます。しかし、信じたらどのような罪でも許され、永遠の命を持つことが出来ます。死ではなく命です。だからイエス様にここから従っていきましょう。一言お祈りします。

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