今週の礼拝メッセージ
健康なクリスチャン   1999.9.5(SUN)

新城教会牧師 岡本信弘

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 テサロニケの手紙 第一 5章23節
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。 

 ハレルヤ!主の御名を賛美します。皆さんとご一緒に礼拝することができ、感謝します。今まで皆さんのお祈りによって健康が支えられていることを感謝します。健康なときには健康のありがたみがわかりませんが、風邪をひいたり、体調を崩したりすると健康のありがたみがよくわかります。私たちはよく家庭集会などの証で「健康であることを感謝します」と、いとも簡単に言いますが、健康であることは恵みであり、素晴らしい祝福だと思います。私も恵みによっていつも健康が支えられ、あまりあちらこちらが痛んだり苦しかったりということがないのですが、先週、歯を治療しに歯医者に行きました。「炎症が起きているので、時間がかかります。また来週来て下さい」と言われ、痛くなる恐れがあるということで痛み止めをもらって帰りました。その日はあまり痛まなかったのですが、次の日、その次の日と痛みがあったので痛み止めを飲みました。そしてその三日目くらいに東京に行かなくてはならないのに、すごく痛くなってしまいました。痛み止めはなくなっていたので、歯医者に電話すると休みだったので、とりあえず祈って鎮痛剤を薬局で買い、飲んで出かけましたが、途中静岡くらいで激痛が来て運転もできなくなり、再び祈って何とか夜中に東京までたどり着きました。しかし、その晩は痛くて一睡もできず、次の日、東京で歯医者に診てもらいました。その時にも「炎症が起きているからすぐには痛みはとれませんよ」と簡単に言われてしまいました。それでも何とか痛みが治まり、仕事を済ませて帰ってくることができました。いつも何の気なしに「健康であることを感謝します」と言っていますが、健康が支えられていることをもう一度感謝したいと思います。
 今日は「健康なクリスチャン」というタイトルで話しますが、健康といってもいろいろな意味があると思います。礼拝に来られた時、まず私たちは「お元気ですか」と挨拶を交わしますが、当然体の健康に関して言われます。私くらいの年になると体重が増え、脂肪が増えて体が重くなるので、夏前から少しダイエットをしました。あまり食べることに執着がないのでダイエットも簡単にでき、何キロかすぐ落とすことができました。そのようにして体重の調整をしていますが、何キロか落としたときに、何名かの兄弟姉妹から、「先生、夏は大変ですよね。先生やせられてしまい本当に苦労が多いのですね」と言われ、「いいえ、そうではないのです」と弁解していましたが、皆さんに心配していただき、祈っていただいているので、健康が支えられていることを感謝します。
 私たちは外見を見ただけでも「少し顔色が悪いなあ。体重も減って夏バテしているのではないかなぁ」と心配します。自分自身のことを思っても、痛みや苦しいところがあったり、熱が上がったりと、自覚症状が出て、体調の異変を感じるときがあります。そんなときには、何とかして元に戻そうとします。体温といっても三十六度の平熱の人もいれば、三十六度五分が平熱の人もいます。少しの違いですが、五分高くなっただけでも微熱がある、ということになってしまうくらいに私たちの体は敏感です。ちょっとした異変にも反応して、もう一度健康な体に戻そうとする機能が私たちにはあります。そのようにして健康を保ちます。
 今世間では健康食品や健康器具が売れているそうです。すごいビジネスです。それほど皆がどのようにしたら健康が保てるかということに関心をもっています。私たちはクリスチャンだから、健康について考えなくても良いというわけではありません。私たちは神様から与えられた聖霊の宮ですので、自己管理をし、食事に注意し、塩分を控えたり、運動して健康を維持する努力も必要です。暑い夏が過ぎて、健康が守られている方、あるいは夏バテで体重が何キロも落ちてしまった人もいると思いますが、九月になって一番ほっとしているのは、小さな子どもを持っておられるお母さん方だと思います。夏休みで一ヶ月以上も毎日家で騒がれて、疲れ果ててしまった。やっと学校に行くようになったとホッとしているのではないでしょうか。ある保育園児を抱えた奥さんが「一日も早く保育園に行って欲しい。私の方が倒れそうだ」と言っていました。そんな疲れを回復させる一番の良い方法は、寝ることです。睡眠をとって疲れを取ることが、一番手っ取り早い体力回復方法です。
 微熱が続いていたり、だるさが続いていたりする外見に表れる症状もありますが、目に見えない内臓などに浸透して、気がつかないうちにガンに冒されているということもあります。私は調子が悪くなると「ひょっとしたら癌かなぁ」と思ったりします。クリスチャンですので私自身は天国に行けるのでいいのですが、今死んだら、家のローンはどうなる?教会は牧師が四人いるから私一人いなくても何とかなるが、プレイズ出版の働きは私が死んだら・・・などと考えます。多くの人は健康診断を受けます。目に見えない部分の病気を早期発見して直していくことができます。それでも私たちの体は年とともに耳が遠くなり、重いものも持てなくなり、だんだん体力が衰えていくのを感じます。「若い頃はもう少し力があったのに、あんなことも、こんなこともできたのに・・・」。しかし、いくら健康維持管理をしても、それだけでは健康なクリスチャンであり毎日幸せな生活を送ることは不可能です。
 私たちの体の異変とは別に、もう一つ重要なことがあります。それは心の健康です。私たちの心、たましいの部分は健康でしょうか。いろいろなプレッシャーや不安の中で、問題を持って悩んでおられる方も多いと思います。
 今のような不況の時代、会社が倒産したり、トルコの大地震で一万人以上の人が一瞬にして亡くなるようなすごい惨事が起こったりします。トルコの地震が報道されたときには、多くの人がテレビに釘付けになり、新聞や雑誌もたくさん売れたそうです。そんな事件も何週間もすれば私たちの記憶から離れます。ところが、トルコの地震からしばらくしたとき、ある雑誌が非常に売れたそうです。なぜなら、「トルコの大地震は、次はあなたの町です」というタイトルを付けたからです。皆の関心は、トルコの大地震よりも自分にその危険が降りかかることに一番関心があります。自分の町は大丈夫なのか、自分の家は・・・。自分の生活に関わってくると心配なのです。阪神大震災の時もそうでした。阪神地区では多くの人が仮設住宅に入り、いまだに大変な生活を送っている人もいますが、ここからはだいぶ離れているので、次第に関心が薄れてしまっているのではないでしょうか。
 そのような災害だけでなく、家庭、会社、友達などので、人間関係に疲れることもあります。また日本の経済、自分の経済など、いろいろな不安や圧迫の中で、年間三万人もの人が自殺しているということを考えると、やはり心を病んでいる人がたくさんいると感じます。
 私たちもいろいろな不安を抱え、自分のたましいが健康であるかを考えるときに、このままで大丈夫だろうかと心配になります。自分で解決できない場合は人生相談やカウンセリングに行き、たましいの変調を回復させようとしますが、それだけではなかなか回復されません。たましいの健康と同時に霊の健康が大切です。私たちはイエス様を信じてたましいの部分においては祝福・恵み・癒しをいただいています。ある人は半年、ある人は一年、ある人は十年・・・と送ってきた信仰生活の中で、心の状態はどうでしょうか? 知らない内にガンに冒されてしまうように、自分では健康だと思っていても、実は知らない内にどこかが病んでいるかもしれません。病気なら病院に行くように、心の状態もどこかで修復され、健康に戻されるべきです。礼拝に来て、御言葉を学び、良かった悪かったと批評するだけではなく、私たち一人一人が神様の前に出て、自分の見えるところ、感じるところだけではなく、自分の内面が傷を負っていないかをチェックする必要があります。
 心の問題はクリスチャンだけではなく、すべての人が少なからず持っているものです。しかし多くの人が、まず体の健康を求めます。テサロニケ人への手紙第一の五章二十三節の最後に、

『霊、たましい、からだが完全に守られますように。』

と書かれています。人はまず自分の体の健康を気にかけますが、一番重要なところは霊の部分です。ですから霊の部分の健康を置き去りにして、体の健康を求めても健康にはなりません。それは順番が狂っているからなのです。多くの人は、心に問題が起こるとすぐ、偶像、占い、まじないなどに解決を求めます。しかし、そのようなものには解決がないことを私たちクリスチャンは知っています。人間だけに神を求める霊的な心が与えられています。私たちが体調をくずしたり、けがをしたときには病院に行き、適切な処置を受けます。同じように多くの人が霊に病み、たくさんのお金をつぎ込んで偶像や新興宗教の所に行きます。偶像礼拝や新興宗教に頼ることは、医師の免許を持っていない医者に診てもらうようなものです。霊的な部分で痛んでいるにも関わらず、全く関係のない部分につけこまれたりします。新興宗教や偶像礼拝をすることは、神様を礼拝することと全く逆の、悪霊礼拝をすることです。
 先週、順先生を通してモーセの十戒から、偶像礼拝は悪霊礼拝であるということを学びました。弱っているところに一番適切な薬を与えると回復しますが、新興宗教は、悪い部分が進行するように薬を与えているのです。新興宗教=悪霊礼拝です。私たちは以前、サタンの支配下にいた者でしたが、イエス様が私の罪のために十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえってくださったことを信じるだけで私たちは救われ、贖われ、聖霊なる神様を私たちの内にお迎えすることができました。それはただ、一方的な神様の恵み、あわれみによるのです。人間は心に、聖霊なる神様を迎え入れるか、悪霊なるサタンを迎え入れるかのどちらかです。何もないということはありません。霊の部分が生きている限り、どちらかが必ず宿っています。私たちは以前は偶像礼拝をし、自分勝手な生活をし、サタンの思うがままに動かされているような者でした。しかし、イエス様を信じて恵みの中で私たちは聖霊様をお迎えし、喜びの生活を与えられています。しかし、世間の多くの人たちはその逆で、常に偶像礼拝をし、悪霊礼拝をし、弱っているところ、足らないところに、もっとひどくなるように薬を投与されているのが現実です。私たちが霊の部分で生かされて健康になるならたましい、からだが健康になります。そのことをぜひ覚えてください。
 私たちは霊の部分で健康チェックの必要があります。テサロニケ第一の手紙五章を全体を見ると、私たちが健康なクリスチャンとして生活するためのマニュアルが書かれています。その通りに行うならば、私たちは喜びに満たされた、充実した生活をすることができます。
 五章の初めには、神様の日が近い、主は突如として来られる、ということが書かれています。私たちはどんなに肉体を鍛錬し、健康管理をしてもいつかは死にます。そして神の前に立つときがきます。また、私たちがこの地上にいる間にイエス様が帰って来られるかもしれません。ですから、準備が必要です。聖書では神様は盗人のように来られると書かれているので、眠っているときに来られたらどうしようと心配する方もいらっしゃるかもしれませんが、私たちが光の中にいる(イエス様につながっている)なら、神様は盗人のよう来ることはないとも書かれています。私たちはイエス様が来られるときに、「イエス様、感謝します」とイエス様と共に天に携え上げられることができますから、そのことについて心配する必要はありません。しかし私たちは健康なクリスチャンとして、何もしなくて良いということはありません。努力も必要です。神様に近づいて行くべきです。十一節に、

『あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。』

と書かれています。私たちは弱く足らないものですが、礼拝に集まり、主にある交わりをしていく中で強められ、慰められます。そのようにして信仰が成長するのです。そして、霊の部分が豊かになります。
更に、十二節から十三節には、

『兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。』

と書かれています。
 恵みによって私は牧師として立てられ、皆さんのお祈りによって今まで守られてきたことを感謝しています。今後も神様に立てられていくことを願っています。私たち牧師は、皆さんの願うところを祈りによって補う一方で、反対に祈っていただき、お互いに祈り合い、徳を高め、励まし合っていくことが重要なです。また「お互いの間に平和を保ちなさい」とも書かれています。これは教会にとって、とても重要なことです。そして兄弟姉妹一人一人には、

『兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。』

と十四節で述べています。
 教会にはいろいろな方が来られます。小さな子どもからお年寄りまで、体の不自由な方やお金のある方ない方・・・。そのように、全く違った背景や境遇の人たちが、同じ所でメッセージを聞き、大きな一つのグループをとしてやっていくのは珍しいことです。これは主を中心とした交わりをし、同じ霊的な恵みを受けているからこそできることなのです。ですからお互いに、神の家族として十四節の言葉を実行するべきです。
 テサロニケ第十五章 十六節から十八節をお読みします。

  『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

この御言葉はクリスチャンであったなら、誰もが聞いたことがある御言葉だと思います。これが私たちの霊的な部分において、いつも健康が保たれる秘訣です。私たちは苦しいとき、悲しいとき、いろいろなときがあります。しかしいつも喜ぶことです。いつも笑っていたら気持ちが悪いですが、私たちの心の底からいつも喜びがわき上がっていることが必要です。牧師が「先生。疲れていますね。喜びがないですね。」と言われたら問題です。
 「いつも喜んでいなさい」。疲れることがあったとしても私たちの内側に喜びがあり、それが表情に出てくることが大切です。もしそれができていなかったら、どこかに支障をきたしていることを覚え、修復する必要があります。
 「絶えず祈りなさい」。私は小学生のとき、絶えず祈るって・・・と考えたことがあります。ご飯を食べるときもあるし、学校に行って目をつむって祈ったら寝ているように思われるし・・・。これは、どのようなときにでもイエス様との交わりを大切にする、イエス様の方を向いている、ということです。もし、私たちがイエス様が遠くにいるような、イエス様がどこにいるのかわからないような状態にあったなら、原因を突き止め修復するべきです。
 「すべてのことについて感謝しなさい」。「健康であることを感謝します」と言いながら、私たちはなかなか感謝できないものです。順調なときは良いのですが、逆境のときはイライラし、つぶやきます。私も気が短いのですぐにイライラします。しかし、そうではいけません。神様に信頼していくなら、どのような問題でも解決してくださることを覚え、すべてを感謝してみてください。そしてそのことは「キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と書かれているように、それを私たちが実行していくときに神様が喜んでくださることを覚えてください。
 しかし、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」とわかっていてもなかなかできないときがあります。この御言葉に続いて、「御霊を消してはなりません」と書かれています。私たちに喜びがない、感謝がないということは、御霊を消すことです。なぜ、御霊が消えてしまうのでしょうか? 救われたときの恵み、感謝、喜びをずっと持ち続けることはなかなか難しいことです。しかし、私たちはそれを常に持っているべきです。どんなによく燃えている火でも燃料がなくなったら消えてしまいます。同じように、私たちの信仰生活においても、霊的な健康を保つために、燃料を常に補充することが必要です。礼拝において、日々のデボーションの中で、主に補充していただくべきです。日曜日の午後にある「油の注ぎ祈祷会」は、文字通り私たちが直接油をいただける集会です。すでに燃えている火に、油をかければ更に燃えます。油を補充していくことによって私たちは、より満たされていきます。そして健康な状態を保つことができます。
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」と語られても、それは難しいことだとあきらめてしまうのではなく、主を求めていくことが必要です。それでも今後のことに不安を覚えている方もいらっしゃるかもしれません。 二十節、

『預言をないがしろにしてはいけません。』

 この御言葉で言う預言には、預言の賜物という意味も含まれていますが、そればかりではありません。神様は、私たちがその道を迷うとき、御言葉によって、祈りの中で、メッセージの中で、どのように歩むべきかについて教えてくださいます。しかし私たちは自分の考えで、こっちが良いと言って神様の導きを拒むことがあります。それが預言をないがしろにしているということです。人間の力に頼ると私たちは壁にぶち当たったり、落とし穴に落ちたりします。ですから、いろいろな問題が起きたときも、預言をないがしろにしないように、示された神様の道を受け入れていくべきです。そうするなら神様は解決を与えてくださり、最善の道を私たちに示してくださいます。そのことを覚えてください。
二十一節、

『すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。』

 皆さんはクリスチャンになる以前と比べて、いろいろなことが素直に信じられるようになったのではないでしょうか。それは本当に素晴らしいことですが、しかし、サタンもいるということを覚えてください。恵まれれば恵まれるほど、サタンは私たちに攻撃を仕掛け、人々を惑わそうとします。私たちが、これからのことで悩み、問題にぶつかるとき、神様の声を聞かせまい、何とか神様から引き離そうとしてきます。サタンは欺くものであり、うそつきであり、偽りを訴えてきます。私たちが注意深く神様に耳を傾けていなければ、サタンが私たちに間違った方向を示し、こうしたら素晴らしい、とささやきかけてきます。私たちがしっかりとしたものを持っていないとそれに惑わされ、不信仰になり、サタンに負けてしまうことになりかねません。ですから、一つ一つのことをよく考え、見分けて、つまり、神様からのものなのか、悪霊からなのかを見分けていくことが必要です。聖書には「本当に良いものを堅く守り、悪はどんな悪でも避けなさい」と書かれています。これはまずいと思うときには立ち止まって、もう一度主の前に祈り、何が良いことなのかをよく吟味し、目の前に良いように見えても、悪いと示されたのなら、それを避けなさいと御言葉の中で神様が言われています。
 私たちが霊的な部分が健康になれば、内側に喜びがあふれ、たましいにも肉にも健康が与えられ、主の前に整えられ、主に仕えることができるようになります。ペテロ第一の手紙八節、九節には、

『あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。』

と書かれています。私たちは世の中の人とは違い、イエス様を信じ、救いを受け入れ永遠の命をいただいている確信を持って進み行くことによって、すべての問題を解決に導いていただくことができます。人間は弱く、力のないものです。しかし、イエス様が私たちと共におられるなら、圧倒的な勝利者となることができます。
 今日皆さんの中に、からだに病を持っておられる方、また、いろいろなことに不安感じている方もいらっしゃるでしょう。また、霊的な部分で弱っていると思われる方がいらっしゃるかもしれません。その一つ一つをイエス様の前に告白し、霊、たましい、からだ、すべての部分で健康にしていただき、主に喜ばれ、主のために生きるものでありたいと思います。お祈りしましょう。

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