今週の礼拝メッセージ
神は正しい方   1999.9.12(SUN)

新城教会牧師 滝元 明

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書  ヘブル人への手紙6章10節
神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。

 ハレルヤ!御言葉を取り次ぐことができ感謝します。今日はヘブルの人への手紙六章十節から学びます。最近、この教会ではうれしいことが続いています。今日ここに来られていますが、先日は、松井英幸兄と隆子姉が結婚されたり、昨日は、長谷川兄と智美姉が結婚されました。そして、これからも村田姉や横川姉の結婚式も行われます。嬉しいことが続いています。甲子園ミッション後、この教会では二十組くらいのカップルが誕生しています。また、今日は、久しぶりに峯田姉が礼拝に来られました。退院されて元気になられました。感謝します。昨日、私は結婚式が終わってから心から感謝しました。今この読んだ御言葉は、

『神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。』

と書かれています。甲子園ミッションの時は、約二年間程、この教会の結婚適齢期の兄弟姉妹たちが、結婚のことは考えずに日本のリバイバルのために働きます、と決心していました。年頃の娘さんがいると、「家の娘はどうして結婚できないのですか。」と家族の方に言われます。私はある時、苦肉の策で、ひとりの姉妹に男性を紹介しようと、私の家に招いて結婚を勧めようとした時、彼女は泣き出して御飯も食べず、「リバイバルのために働こうと思う時に、結婚と言われると悲しいです。」と言われ、私もそのことを言わないようにしました。甲子園ミッションの時には、命をかけて日本のリバイバルのために働きました。しかし、甲子園ミッション後、数えてみたら二十組以上が結婚しました。その中の一人が、昨日結婚された智美姉です。とても感謝でした。長い間祈っていた人がそれぞれ結婚し、家庭を作ることは慰めです。まだ決まってない方にも、必ず、良い配偶者を神様が与えて下さいます。

『神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。』

これはとても素晴らしい御言葉です。文語体では「神は不義な方ではない。」と書かれています。神様は素晴らしい良いお方で、神様のために働いたことは必ず覚えられ、報いて下さる方です。色々な戦いがあっても、必ず、素晴らしいことをして下さる主を確信しましょう。
 イスラエル民族が、四三〇年間の奴隷生活の後で、カナンの地に入れなかった人が大勢いました。入れなかった人たちの大部分は、「神が私たちを憎んで荒野で滅ぼそうとしている」と悪い解釈をしました。しかし、カナンの地に入った人は、「神の約束は必ず成就する」という信仰を持っていました。ですから、信仰生活の中ではいつでも、「神様は良い方です。正しい方です。愛して下さいます。必ず報いて下さいます」という信仰を持つことが大切です。
 使徒の働き十章に、コルネリオという人について書かれています。彼はイタリア人の百人隊長で、いつも喜んで施しをし、祈っていたそうです。その時、天使が「あなたの祈りと施しは、神の前に覚えられています。ヨッパにペテロがいるのでその人を招き、神の御言葉を聞きなさい。」と語られました。今日も私たちは献金しますが、献金は素晴らしいことです。献金は神様に献げることです。天に宝を積むことです。喜んで献金する人、喜んで奉仕する人を神様は覚えておられ、必ず報いて下さることを信じていきたいと思います。
 神様の報いについてさらに学びたいと思います。マルコの福音書十章二十八節、

『ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。』

と書かれています。ペテロが「何もかも捨ててイエス様に従いました」と言いました。するとイエス様はそれについて、「福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者は必ず百倍にして報いる」と言われました。神様は正しい方で神様のためにしたことには、必ず報いてくださいます。
 ルカの福音書に、ペテロがイエス様に従い、網を繕うとしている朝早く、イエス様が来られ、「舟を貸して下さい。」と言われ、船を借りて岸から離れ、群衆たちに話されました。その時イエス様がペテロに、「さあ、深みに漕ぎ出して網をおろしなさい。」と言われました。その時ペテロは、「先生、私たちは夜通し働きました。しかし、何一つとれませんでした。でも、お言葉ですからやってみます」と言い、漕ぎ出して網を下ろしました。船の右側に下ろしたときに、たくさんの魚が捕れて、網が破れそうになったと書かれています。それで、あまりにも恐ろしく思い、「先生、私は罪深い男です。私から去って下さい。」と言いました。その時、イエス様が、「心配しないで良い。あなたは人を砂取るようになる。」と言われました。
 イエス様は舟を借りて説教され、「どうもありがとう。さようなら。」というのではありませんでした。借りたことに対しては、必ず報いられます。「漕ぎ出して網を下ろしなさい。」網が破れるほど捕れた魚はペテロのものになりました。彼は報いられました。神様は私達の行いを見ておられ、報いてくださる方です。信じましょう。たといどのような苦しみを通っても、神様のために行ったことは報いられます。
 私は東京から開拓伝道に入った時に、仕事も家も結婚も与えられず、行き詰まって山の上に登り、「どうして私はこうなのでしょうか。家もないです。仕事もないです。私を忘れられたのですか。」と祈りました。その時にこの御言葉が与えられました。この御言葉によりイエス様は良い方で、決して私のことを忘れられない。」信じました。あれから五十年が経ちますが、イエス様は今まで真実を尽くされたことを考えると、イエス様に何と感謝して良いのかわかりません。良くしてくださったことを感謝しています。マタイ二十五章三十一節から四十六節に、

『人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」』

と書かれています。これは最後の審判の時に、全ての国民が集められ、右と左、羊と山羊に分けられ、裁きを受けることが書かれています。イエス様が言われたことは、

『「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」』

と書かれています。
 今朝私は、家内と一緒にここで祈りました。今日まで私たちは色々な兄弟姉妹の愛で支えられた事を覚えて、一人一人の名前をあげて感謝しました。新城に来た時はとても貧乏で、ダンスホールを買い教会を始めましたが、次から次へと子どもが産まれ、ある時、三男の望が栄養失調になりました。すでに天国に帰られた方ですが、見城姉が、その時に、「私が望ちゃんのために毎朝牛乳一本とります。」と言って、毎日牛乳をとってくれました。そして彼は良くなりました。今彼は、とてもたくましくなっています。そのような愛を考えると、見城姉妹はきっと天国でイエス様から、「あなたは滝元望が栄養失調の時に牛乳を差し入れた。報いてあげよう。」と報いを受け取っていると思います。
 私が献身し伝道者になったのは、「もし一人の人でも幸せになれるならば、私の人生をささげよう」と考えました。
 私は当時、子どもが嫌いでした。きれいな子どもは良いですが、汚い子どもが嫌いでした。私の務めていた、日本農業研究所は終戦直後で、農夫さんの子どもはとても汚かったです。着物も一枚しかなく、洗ったら服が乾くまで布団の中という子ども達でした。非常に貧乏で、当時は栄養が少なかったせいか鼻水を流し、腕で拭いて、その部分がキラキラ光っていました。頭にシラミのわいた子どもが私の周りに遊びに来ます。「おーい、滝元さんよ。」「汚いなあ、おまえたち、あっちに行け。バカ野郎!シラミが移る。」「何言っているバカ野郎!」「大人に向かってバカ野郎とは何だ!・・・」と言っていつも追い回していじめていました。しかし救われた時に、だれが子どもを悪くしているかと考えました。その一人は私だと思いました。私が「バカ小僧」と言うと彼らも「バカ小僧」と言います。私は悪いと思い、悔い改めました。そして悔い改めのしるしとして、イエス様のことを伝えようと思いました。ある時、子どもたち七人を私の部屋に招待しました。二畳半の部屋でおしるこを作って、子どもたちを招待しました。子どもたちはキラキラした目で、うれしそうに食べていました。私はその時、愛を初めて知りました。愛すると言うことはこんなに幸せなことか・・。
 十九才なので異性についての愛はわかります。可愛いとか、きれいとか、これは利益的な愛です。しかし子どもたちに対する愛は利益的なものではありません。「滝元さん、今度私がおごります」というような利益はありません。貧乏な子どもたちがとても喜んで食べて、それから私は慕われて、毎日のように子どもたちが遊びに来ました。始めは七人だったのが五十人・・七十人にもなりました。部屋に入れないので、男女別々に話をしたり、とても大勢来ました。ある時、子どもたちが帰った後、体がかゆくなりました。そしてシラミがいるのを見つけました。私はシラミを殺そうかと思いましたが、愛することができるようになったと思うとうれしくて、シラミを記念にとっておこうかと思ったくらいでした。この時、私は愛を知りました。人のために仕えることは、何とうれしいことかと思いました。
 その当時、私は、毎日のように路傍伝道に行きました。すると西浜さんという方が救われました。その方が「近くに西村さんという人が病気で、ひとりぼっちで寝ているので伝道してください。」と言われたので訪問しました。煎餅布団に一人のおじいさんが寝ており、私はそこでイエス様のことを話しました。「イエス様を信じたら天国に行けれますよ。」と言うと、素直に彼はイエス様を信じました。着ているものもとても古びており、着るものもないように見えました。丁度その時、私の母親が私に送ってきた爪入りの洋服があり、それを西村さんにあげました。彼はとても喜んで着てくれました。それから何日か後に、西村おじいさんは亡くなりました。私があげた服を着て、喜んで死んでいきました。その時、人生の中で人のために働くことにより、だれか一人でも救われるなら、私の人生をイエス様のためにかけていこうという決心が付きました。
 あれから五十年近くが経ちますが、イエス様もそのことを覚えて下さっていると思います。今日、皆さんも奉仕されていると思いますが、人にほめられるのではなく、見えない所で、「いと小さき者のために、わたしの兄弟のためにしたことはわたしにしたのだ。」と書かれています。

『「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」』

と書かれています。神様は愛を忘れられません。不義なことはないということは正しいということです。不義理という言葉があります。時々、私たちの人生は義理をたてない時もありますが、神様は必ず報いてくださる方です。マタイの福音書十章四十二節に、

『わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」』            

と書かれています。
 先日「ベン・ハー」という映画をテレビでやっていました。「ベン・ハー」という少年が奴隷として売られて行く時に、のどが渇いて倒れたとき一人の人がそっと水をくれるという場面が出てきます。そして彼は元気になります。やがて彼はローマに行き、色々なことがありエルサレムに帰って来ます。そして最後にイエス様の十字架の姿に遭遇します。その時に、イエス様がゴルゴダの上で十字架を背負って倒れたときに、彼は水をくれたのがイエス様であるのわかり、人々の反対を受けてもイエス様に水を飲ませました。私はそれを見て感動しました。「聖書の中には冷や水一杯も報いを失わない」と書かれていますので、大きなことではなくても日常生活の中に、小さな者のために何かをすることです。
 私はある時、私の所から伝道に出た牧師の奥さんが、米袋を開けながら立っている姿を夢で見ました。夢から覚めて、早速、私は米を持って出かけました。すると、「先生。丁度米がない時でした。」と喜んでくださいました。聖書の中に、「預言者ということで彼らに良くしたら、預言者の報いを与える。義人だということで良くしたら義人の報いを受ける。」と書かれています。ですから、これからの人生の中で、イエス様のために良いことをしてください。そして、イエス様のために貧しい人を助け、イエス様のために病んでいる人を助け、旅人を助けたら、イエス様が必ず終わりの時に報いてくださると書いています。しかし、呪われた人に対しては、「呪われた者よ。永遠の火に入れ。」という時に、「わたしが飢えたときに、わたしが病気の時に、わたしが渇いた時、わたしが旅人だったときに助けてくれなかった。」と言われます。ただ人生を自己中心に生きた人を神は祝福されないということです。私たちは自己中心ではなく、神様のために生きる時に報いてくださると知ってください。第二テモテ四章一節から八節に、

『神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。』

と書かれています。パウロが最後に語ったことです。ローマのバチカンには大きな彫刻があり、その中にペテロとパウロの彫刻があります。パウロの彫刻は刀を持っています。パウロは最後に殉教し首を切られました。ペテロは逆さ十字架にかけられて殺されました。パウロは、

『今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。』

と言っています。まもなく天国に帰るという時に、「私には義の栄冠が待っているだけだ」という希望です。一日は二十四時間、皆同じです。生きることは同じ時間ですが、これから残された時間、一つでも良いのでイエス様のために何かをし、天に帰る時に「義の栄冠が待っている」という希望を持つべきです。天国に行くときに、「何もない」という空手ではいけません。こんな寂しいことはありませんので、心から喜んで神様の前に出ることが出来るように準備していきましょう。今日もこれから献げものをしますが、イエス様が受け取られ、祝福してくださることを信じましょう。これから、スーパーミッションもあり、人間的に考えるとまた忙しくなりますが、イエス様が祝福してくださるということを心に留め、イエス様のために奉仕していきましょう。イエス様は必ず祝福してくださいます。一言お祈りします。

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