今週の礼拝メッセージ
開かれた目は閉ざされ、
    閉ざされた目を開け
   1999.9.19(SUN)

新城教会牧師 上條 実

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 創世記3章1節〜7節
さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

 ハレルヤ!今日健康でこの所に立つことができ、心から感謝いたします。先週の十四日、十五日と県民の森でスーパーミッション2000のキックオフ大会が行われました。感謝な事に事故もなく、無事終えることができて感謝します。台風が近づいたためき大雨となり、交通機関など心配しました。また徹夜祈祷会など外で行うプログラムも考えておりましたので心配しました。しかし神様はすべて守ってくださり、祈祷会も聖会会場の森林学習館で行うなどして、何のプログラムに支障もなく行うことができました。参加人数も当初百二十名定員という募集をして来ました。しかし全国からリバイバルの勇士が三百五十名程の方がお集まり下さいました。皆様に祈っていただき感謝いたします。では今からみ言葉を学びましょう。先ほど読んでいただきました、創世記の中から今日は特別「目」について学びたいと思います。
 私はもう何年も前から眼鏡をかけています。眼鏡をかけたくなくて高校時代にはかけたりはずしたりしていました。しかしこの会堂が建ってすぐに、私はこの講壇である集会の司会の奉仕をさせていただきました。前の方の席に座っている方に祈ってくださいと指名しました。しかしその方はなかなか祈ってくれません。おかしいと思い、再度名前を呼んでお願いすると、その方は「私違います」と手を振って合図されていました。人違いをしていました。また、近所の方だと思って大きな声とにこやかな顔で挨拶すると全く知らない人で無視されたこともありました。その時からしかたなく眼鏡をかけるようになりました。私たちの情報はほとんどが目から入ってきます。今回スーパーミッションのキックオフ大会にお二人の盲人の方が来られました。その方々は皆さんご存じの平岡先生が連れて来られました。十四日の午前中は全日本リバイバルミッションの実行委員会がありましたので、その方々は十時頃この教会に来られました。あの忙しい平岡先生は、ミッションの実行委員会が終わり、すぐ県民の森に行かなければならないわずかな時間に新城教会の色々なところへ自らお連れして事細かに案内されていました。その姿に素晴らしい神様の愛を感じました。今日の聖書箇所であるアダムとエバの箇所はとても有名な所です。昨日この箇所を子ども達の集会である「ほさなクラブ」でも学びました。その時子ども達にアダムとエバは何の実を食べたかと聞くと、知っていると思ったのですが「リンゴ」とほとんどの子どもが答えました。違うというと「なし」とふざけて答えた人もいました。しかし正確には「善悪の知識の木」と書いてあります。その実を食べてしまったため、この地に罪が入り、人は死ぬようになり、地もいばらやアザミなど生えるなど神様の祝福を頂くことができなくなりました。また男性は汗を流して働き、女性は産みの苦しみがあるなど、「善悪の知識の木」の実を食べたことにより大きな影響をもたらしています。私は時々、「アダムとエバが罪を犯さなかったら今の世はどんな風になっているだろうか」と考えたりします。しかし現実は罪を犯したことの上に祝福を失いました。罪によってです。特に今回この箇所をもう一度読み直したとき、蛇とエバのやりとりの中で五節に、

『あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』

と書かれています。始めにこの実を食べたらと蛇はエバに「その時目が開かれる」と誘惑しています。六節には、

『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった・・・』

と書かれています。見たときにエバもその実が美味しそうに見えていました。そしてそれを取って食べたときに七節に、

『このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。』

と書かれています。なぜ蛇が一番はじめに「目が開かれる」と言ったのだろうか。なぜ「目」何んだろうか。と疑問を持ちました。アダムとエバが善悪を知る知識のこの実を食べた時。言い換えると、罪が入ったことにより神様が閉ざしていた目をサタンは開かせたというのです。どんな意味があるのでしょうか。今回そのことを神様の前に出て祈りました。その時神様は私に教えて下さいました。それは私たちは罪により、霊的に目が開かれてしまったということです。それは神様は創造の時、開いてはいけないと神が閉じた目です。しかし人が神のようになれるという高慢の上に、罪を犯してしまいました。その結果人間の目は「神の国では開いてはいけない目」が罪によって開いてしまいました。神様の領域をサタンによって奪い取られてしまったのです。開かれてはいけない目が開かれ、開いていなければならない目が閉ざされてしまったのです。以前順牧師を通して「霊的な後ろの扉を閉めなさい」というテーマで学んだことがあります。今まで罪を通して関係があった霊的関係を閉めろ。関係を断ち切ろう。その扉を閉めようという祈りをしました。今日は更にアダムとエバの時に罪によって開かれた目を閉じる祈りをしなくてはいけないと教えられました。目が開かれたことの故に、神の栄光が去り裸であることがわかったのです。罪にたいして目が見えるようになりました。神の部分が見えなくなったのです。ですから今日は神の権威によって「開かれた目は閉じ、閉ざされた目を開け」と祈る時を持たなくてはならないと教えられました。
 今日私たちクリスチャンは福音を信じてします。十字架が私のためであり、あなたのためであることが分かっています。イエス様がどのように私たちのために死んでくださったかを知っています。それは、十字架です。十字架によって私たちは地獄に行かなくて良いのです。イエス・キリストが十字架にかかり、死んで葬られ、私たちの身代わりとなり、三日目によみがえられました。そのことを信じただけで私たちは救われるという福音を信じています。信じるだけで天国に行けます。これは素晴らしい恵みです。そして新しくされています。古い人間から新しい人間、「人は、新しく生まれなければ神の国を見ることができません」。ですから、私たちは全部イエス様のものとなっています。では私たちはイエス様が与えて下さった新しいからだを預かったのですから、いつも神様だけを見続けているでしょうか。いやまだサタンが開けた目が私たちの中にあり、罪を魅力的に感じさせることがあります。私たちは御言葉によってこれはやってはいけない、悪いことだと教えられています。罪を犯す事によって私たちは苦しみの場所・地獄に行ってしまうことがわかっています。さばきの場所である地獄に行きたくない。そのために救い主イエスキリストを信じたにも関わらず、悪魔の誘惑を魅力的に感じてしまうのです。どんな時でもイエス様について行きますと思いますが、色々な罪の誘惑を見ると、なぜか罪が魅力的に感じてしまうのです。私も「ほさなクラブ」で子どもたちに悪いテレビは見ないようにしようと教えていますが、私もテレビを見ながら「これは変だ、やめよう」と思いながらも、それに魅力を感じ、見入ってしまうことがあります。「次週に続く」となると次週が楽しみで、待ち遠しくなってしまいます。私たちの目は罪の誘惑に引かれていくことがあります。また苦しみ、問題の中で私たちはイエス様に任せることを教えられています。

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』

神様の御言葉です。私たちはイエス様を救い主として信じているので、その通り「アーメン」と信じています。しかしまわりの状況を見てしまいます。私たちの霊的な部分ではイエス様に任せれば良いとわかっているのです。しかし状況を見て焦り、不安、恐怖になり、信仰が落ち込んでいくことがあります。また過去犯してしまったこと、現在起きていること、将来・未来に関して私たちは色々な不安を抱きます。聖書は

『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』

と、神様に全て任せることを知っています。それがどんなに素晴らしいこと事か知っています。しかし生きておられる全能なる神様を知っていながら私たちは平安を持っていません。毎日の生活の中で恐れ、不安がいっぱいです。人前では「クリスチャンです。平安です。」と証しはするのですが、心の中ではいつも不安だらけです。私たちは現状をサタンが開いた目で見ています。まだサタンが開いた目が開き放し状態になっていることを覚えて下さい。ですからサタンが開いた目を閉じ、神の目を開いていただくことを祈るべきです。また、人を見る時、神は愛し合い、一致する事を教えています。しかし私たちは仲良くしようと思いながら、何か言われると怒りが来てしまい、人を許せなくなります。またあの人は何と言われるだろうか、近所の人は何と言われるだろうか、クリスチャンになったら親族は何というか、人を恐れてしまいます。なぜ、全能なる神様が生きていて、どのような時にも助けて下さる方だと信じているのにそうなるのでしょうか。それはまだサタンと人間との契約が残っているのです。信仰の目、神の目で見ることが出来ず、アダムとエバ時に開かれた目。人間が罪から開かれた目で見てしまい、信仰生活の中で大きく邪魔、敗北になっていることを覚えるべきです。イザヤ書二十二章二十二節には、

『わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。』

と書かれています。わたしとは全能なる神のことですが、「彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」と書かれています。神様には絶対なる権威があります。祈ったらその通りなります。もう一度私たちはどのような神様を信じているか、全能なる神様、何でもできる方、すべて時にかなって美しいことをして下さる方。今がどのようであろうとも、必ずあなたを孤児とせず、あなたを祝福して下さる。また日本のリバイバルを祈っていく中でもリバイバルを下さるという約束を見る目を開いていただきましょう。そして不信仰の目・アダムとエバが開かれてしまった罪からくる目を今日は閉ざしましょう。創世記十九章にはロトの話が書かれています。ロトがソドムとゴモラが滅ぼされる場面です。十九章十二節に、

『ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。』

と書かれています。天の使い二人がソドムとゴモラに住んでいるロトの所に来て、この場所は火と硫黄によって滅ぼされる。だからすぐに逃げなさいと言いました。それも、「この場所から連れ出しなさい。」と書かれています。「出て行きなさい」ではありません。この場所から親族、家族すべての者を連れ出しなさい。」と言われました。一緒に連れて出て行けと言うことです。しかし十四節で、

『そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」』

と書かれています。神様は「連れて出て行きなさい」と言われました。しかしロトは「立ってこの場所から出て行きなさい。」と言っています。ソドムとゴモラが滅ぼされるから人々を連れ出せと強い口調で言っています。しかし、ここでロトは娘をめとった婿たちに「出て行きなさい。」と弱い口調で言っています。トーンダウンし柔らかい言葉になっています。そのまま忠実に伝えなくなっています。また十五節に、

『夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。」』

と書かれています。今度も奥さんと娘を連れて行けと言っています。しかし、また十六節で、

『しかし彼はためらっていた。』

と書かれています。この町が滅ぼされる、罪があるからだめだ。すぐに連れ出せと神様が強く言われているにも関わらず、ロトはこの世の中を見ていました。ソドムとゴモラの町、罪の生活に彼は魅力を感じていました。だから、御言葉を見ることができなくなってしまっています。二度もはっきりと天の使いが「連れ出せ」と言っているにも関わらず、見えないのです。今が滅びの時だということをロトは見えていないのです。その時十六節の後半に、

『・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい・・・。」』

と書かれています。ロトはためらっていました。その時に天の使いが彼と彼の奥さんと娘たちの手を握って町の外に引っ張って連れ出し、命がけで逃げるようにと言っています。ロトは罪の目が開かれて神様の目が閉ざされてしまっていました。そのロトの前はアブラハムと一緒に素晴らしい祝福をいただいていました。アブラハムの生活からたくさんの神の祝福を見てきました。神様の栄光をたくさん見せて頂いたにも関わらず、ロトは神の目を閉ざし、罪の目を開けて生活していました。その生活に満足し、神に目が見えていないロトを見ることができます。今日あなたはどちらでしょうか。生活の中で御言葉に従って行動ができているでしょうか。色々な誘惑、悲しみ、不安、問題があります。しかし、神の目によって見ているでしょうか。私たちは最高の神様を信じながらも不安で意気消沈してばかりの生活をしていないでしょうか。今日その目、罪から開かれた目を閉ざしていただきましょう。イエス様の名前、権威によって閉ざしていただき、信仰の目を神様に開いて頂きましょう。
 また、私たちは罪の目が開かれているままですので閉じることを学びましたが、神の目が開かれているかどうか覚えるべきです。第二列王記六章ではエリシャについて書かれています。彼は素晴らしい預言者でした。エリヤよりも更に力をいただいた預言者でした。素晴らしい奇蹟をたくさんしています。そのような中、ある時アラムの王がイスラエルに戦いを仕掛けて来たとあります。しかしイスラエルは神様によって常にアラムが考えた作戦を読み、連戦連勝でした。作戦を全部神様に教えられていたのです。アラムの王は作戦が漏れているのではないかと思うくらいにいつも負けていました。ある時だれかアラムの中にイスラエルへ情報を流しているスパイがあるのではないかと書かれています。その時召使いが「王様、あのイスラエルには預言者エリシャがいます。彼は神の人であり、寝床であなたが言っていることでさえわかるのです。」と言っています。神の力を召使いは認めてエリシャについてそのように表現しています。その時アラムはエリシャただ一人を狙うために、大群を率いてドダンの町に夜中行きました。ドタンの町でテントで野宿していエリシャに、兵隊たちが陣を敷きました。戦車があり、一刻を戦うような状況でエリシャ一人を狙いました。朝明るくなってエリシャの使いがテントから出ました。その時非常に恐れ驚きました。ドタンの兵隊たち大軍が自分たちのテントを取り巻いていました。彼は驚いて「エリシャさま。大変です。私たちは包囲されています。」そのような時、エリシャは六章十七節に、

『「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」』

召使いのために、彼が目が開かれるように祈りました。その時エリシャの使いは目が開かれました。なんと山に火の馬と戦車が山にエリシャを取り囲んで見えたと書かれています。守りと攻撃の御使いが取り巻いていたのです。私たちの悪しき目を閉ざしていただきましょう。家族や会社の状況を考える時、変わらない状況があるかも知れません。今日神の目で見た時、助け主がいると教えていただきましょう。エリシャは自分の使いに彼の目が開かれるようにと祈りました。ドタンの町を包囲していたアラムの兵隊よりももっと強い火の馬や戦車がエリシャを守るためにずっと見守っていました。そしてその後を読むと、神様はアラムの兵隊全員の目を見えなくしています。その時エリシャがアラムの王の所に行き、「おまえの探している人の所に連れて行く。」と言い、彼は堂々と言葉でアラムの全員をサマリヤに連れて行き、そこで目を開けました。すると自分たちがドタンの町を包囲していたにも関わらずエリシャによってサマリヤにまで連れて来られたことを知って恐れ、アラムはもう二度とイスラエルを襲って来なかったと書かれています。神の奇跡です。血を流さなくても、私たちが信じることができないことを神様がして下さっています。私たちは「神にとって不可能なことは一つもありません」という御言葉知っています。あなたの神様はこの御言葉をあなたに語って下さっています。「神はえこひいきされる方ではありません。」神にとって不可能なことは一つもありません。ですから今日信仰の目を開けていただきましょう。あなたにもエリシャと同じように火の馬と戦車が満ちています。今まで無理だとあきらめてしまい、閉ざしていた部分を、今日は開いていただきましょう。今日イエス様は、あなたに信仰の目をあげたいのです。
特別今日イエス・キリストは、あなたに目を開いて頂きたい事は「魂の救い」です。日本の人々がイエス・キリストを信じることです。日本のリバイバルです。イエス様はあなたが魂に対して目を開いて、伝道して欲しいと神様は願っています。しかし、私たちは失われていく魂に対して、あまりにも目が閉ざされています。自分の肉親の救いのため、家族の救いのためなら必死になって祈り、伝道するかも分かりません。しかし家庭が円満であると、自分の家族のことでも必死に伝道できなくなってしまっています。家族が地獄に行ってしまうことは分かっていても、伝道できないのです。自分の友達が、私たちの周りの人が亡くなって行っても何とも思わないような、目が開かれていない鈍感な私たちです。魂が滅んでも、失われた魂に対して涙一滴もないことを覚えます。この夏色々な事件がありました。私がこの夏テレビを見て一番悲惨だと思ったのは、八月十四日神奈川県玄倉川の中州でキャンプをしていて流されて水死してしまった人たちのことです。前日「危ないので避難してください」「避難して下さい」と警告されました。増水するからと言われその付近でキャンプをしていた百名程の内ほとんどの人が避難しました。しかし二十一名の中州でキャンプしていた人たちだけは避難しませんでした。その後も何度も警察も河川事務所の人も危ないですからと警告し二十一人のキャンプの中で三人だけその声を聞いて避難しました。しかし十八人は残りました。自分たちが川の状況を見ているから、危なくなったらそこを立ち退くから大丈夫と言い張りました。しかし次の朝、もう遅かったです。何と全員が寝込んでいたと聞きました。テレビでは十八名が中州の溢れた洪水の中で必死になって身を寄せながら流されないように立っている姿を放映されました。あなたもニュースで見たかも知れません。始めは膝までだったのが腰までになり、最後に力尽きて流されてしまいました。テレビも衝撃的なところを映していました。あの姿を見た時、かわいそうだと思いました。それと同時に後日その事件の新聞を読んで神様に教えられました。今ソドムとゴモラが滅びる寸前だから出て行けと天の使いが言っているにも関わらずロトが、まだこの生活で満足しているから行きたくないとためらっていました。また中州に取り残された人たちは、危ないから避難するようにという警告を無視しました。大丈夫。危なくなったら自分で避難する。現状しか見ていなかったのです。しかし間もなく濁流が押し寄せ必死に耐え、結局あっという間に流されてしまいました。今の日本の神様を知らない人々も同じ状態ではないだろうか。濁流で胸ぐらいまで水位が上がり、もう流される寸前になっている状況にも関わらず、私たちは何も見えていません。わかりません。目が閉ざされているのです。もう滅びが来る。いつ死が来るのか、この世の中がいつ終わるかわからない、魂が地獄に行ってしまうことがわかっているにも関わらず、見えていないのです。またそんな状態になって救助しなくてはと思っても、あの時も消防の人が必死に救助しようとしましたが間にあいませんでした。神の目を開いて頂きましょう。閉ざされている目を開いて下さい。私たちの目の前には、まだ救われていない多くの民が濁流の中にいます。今にも流されて死んでしまうような状況があなたは見えないでしょうか。今の日本、あなたの家族、友人を神の目で見て下さい。消防署員があなたです。懸命に救助作業したにも関わらず間に合わずに流されてしまったらおしまいです。流さる寸前、亡くなった人たちは叫んだことでしょう。「早く助けてくれ」そして心の中で「死に対しての恐怖」で一杯だったでしょう。あなたがその濁流の中にいたらどんな思いでしょうか。半狂乱状態だと思います。あなたの家族・親族・日本の民が今流される寸前です。今閉ざされた目を開きましょう。目を開いて、声を大にして、ロトに遣わされたの神の使いのように「連れ出しなさい」という神様の言葉を聞き、手を無理矢理にでも引いて、救いに導きましょう。私たちは病気が治ればそれで良いんですか?家庭の問題、夫婦の問題が解決すれば良いんですか?経済的に恵まれたらそれで良いんですか?目を開いて下さい。自分の事しか見ておらず、周りの状況が見えなくなっています。今日、あなたの罪で開かれた目を閉ざしていただき、神様によって信仰の目を開いていただきましょう。今がどのような状況かわかるように神の目を開いていただきましょう。魂が滅びに行ってしまうことを開いていただきましょう。最後に宣言して祈りましょう。「今日全能なる神の権威によって、私の罪によって開かれた目を閉じます。そしてその時閉ざされた神の目を開きます。修復します。そしてサタンからの呪い、サタンの契約を破棄します」と宣言して祈りましょう。

『わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。』

今日神の権威によって宣言して祈る時、必ず「彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない」という、みことばが成就します。開かれた目を閉じ、閉ざされた目を開きましょう。神の目でこの日本を見ていきましょう。お祈りします。

バックナンバー
戻る
戻る