今週の礼拝メッセージ
霊的領域における男性と女性の役割   1999.9.26(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 創世記1章27節
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 ハレルヤ!今から皆さんと共に御言葉を学びます。先週は色々な出来事がありました。紀元二千年を間近にして、まさに世紀末のような様相を呈しています。このような時にこそ、私たちはイエス様を見上げて進んでいきたいと思います。イエス様を救い主として、まだ信じられていない方も、今日からイエス様に信頼を置いて欲しいと思います。私たちの目を天に向けていきたいと思います。
 先日、夫婦セミナーが行われ、多くの方が参加され恵まれました。この地上には、二種類の人間しか住んでいません。それは「男性」と「女性」です。動物も、雄と雌です。これはとても興味深いことです。そして、神は男性にも女性にも同様に素晴らしい役割を与えておられます。今日は、男性と女性にどのような役割が嫁せられているのか、特に、目に見えない領域の役割について学びます。
 教会に来ると心の目が開かれます。この世の中においては、目に見えない領域には、あまり目を向けませんが、教会に来ると目に見えない領域が大変重要な領域であることがわかります。それを知ることは人生の大きな祝福です。
 今日お読みした箇所には、神が人をどのように創造されたかについて書かれています。

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』

 世界人口を調べると、男女が同じ比率でうまくバランスがとれています。平成七年に国勢調査が行われました。その結果、日本国民は約一億二千五百五十万人でした。そして、男女数は、男性が六千百五十七万人、女性が六千三百九十九万人でした。人口性比、即ち、女性百人に対する男性の数は九十六、二です。女性の方が少し多いようです。それには理由があります。女性の方が長生きだからです。どこの国でも、男女比はほとんど同じです。ある夫婦は、女の子が欲しくても男の子ばかり産まれてしまったり、又、逆もあります。うまく産み分ける方法はないだろうかと思います。しかし、全体からすると、男女の比率はほとんど同じです。これは背後で神様がコントロールされているからです。
 男性と女性のどちらが先にこの世に産まれたのかについて考えると、女性がいなければ男性も産まれるとは出来ません。女性は人類の重要な鍵を持っている存在です。しかし、男性が先か、女性が先かということは、鶏が先か卵が先かという議論と同じです。けれども、聖書は

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』

と書かれています。
 最近は遺伝子工学が発達し、男性が先でなければ女性は産まれないことがわかりました。人間は通常、二十三対の染色体を持っています。そして、性はどこで変わるかというと、二十三対の染色体の中にたった一対だけ、性染色体があり、その一つのために男性か女性かが変わるそうです。男性の染色体はXYと表され、女性の染色体はXXです。女性にはY染色体がありません。ということは、女性が先なら男性は生まれないのです。
 神は最初、男性を創られ、動物を創られ、最初の男性アダムに仕事を与えました。それは、動物に名前を付ける仕事でした。しかし神様はもう一つの目的を持っていました。

『神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。』

 生き物の中から、アダムの助け手を見つけることがもう一つの目的でした。それはお見合いのようでした。アダムは色々な動物と面接し、名前を付けたと思います。しかし、その中からふさわしい助けを見出すことができませんでした。もしも、アダムがマントヒヒと出会い、「すばらしい、これを私の生涯の助け手としたい」と選んだならば、男性はいつもマントヒヒを連れて歩かなければならないところでした。なにしろ、助け手を見出すことが出来ませんでした。それで神様は、もう一つの新しい創造をしました。それが女性です。アダムはエバを見たとき感動して、「これこそが私の肉の肉、骨の骨、これを女と付けよう」と言いました。「女」という名もアダムが付けました。このようにして、神が男性と女性を創造しました。それで人類を二分する男性と女性ができあがった、と聖書は教えています。
 さて、男性と女性が生まれるとすぐに、動いた存在があります。創世記三章一節に、

『さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」』

 「蛇」と書かれていますが、聖書全体から見るとこれは人類の敵である悪魔の事です。聖書は、悪魔とその一族、悪霊のことを「蛇」と現しています。
 人類には敵がいます。今の世界はあまりにも悲惨です。東ティモールでは殺し合いがあります。今朝、レポーターが、「これは人間の中にある憎しみの結果だ」と叫んでいました。なぜ、憎しみをもって互いに殺し合うのでしょうか。悲惨なことがたくさん起こっています。どうにも解決できない問題が世界中で起こっています。これは単なる人間だけのせいではなく、背後で後押ししている「蛇」がいるのです。このことを知るべきです。私たちの人生の中には敵、それも目に見えない、蛇が狙っているのです。蛇は、男性だけの時には何もしませんでした。しかし、女性が創造された時、すぐに動き出しました。
 神は、男性と女性を造られ、その中に栄光を現そうとされています。神様の業がそこに現されるのです。ということは、神様の定めた位置に男性と女性が着き、敵に戦いを挑まなくてはなりません。
 さて、神様は、男性にどのような役割を与えて創造されたのでしょうか。旧約聖書を読むと、神に対して男性的なイメージを持ちます。だから、ある人は、「キリスト教は男性優位的な宗教だ」と言われます。しかし、これは間違いです。

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』

 この箇所で最初に出てくる「人」とは「男性」のことです。男性は神様に似せて造られました。ということは、男は神様のイメージ、ご性格に似せて造られたのです。旧約聖書は男性的ですが、これは男性的と言うよりも、最初に神がおられ、男性に神のイメージが与えられているので、そのように感じるのです。
 神はただ一度だけ、人類の中にご自身を現わされました。それがイエス様です。イエス様は男性でした。なぜ男性だったのでしょう。
 イエス様がもし、女性だったら歴史は変わっていたと思います。相当、イエス様の働きは違っていたと思います。もっときめ細やかな働きだったかも知れないと思います。しかし、イエス様は男性でなくてはなりませんでした。なぜならば、神は男をご自分のイメージとして造られたからです。神が人となられ、男性として生まれたのは、神ご自身の現れの一つの証明です。と言うことは、男性の完全なるモデルは、イエス様の中にあるのです。
 今日、ここにおられる男性が見習うべき、完璧な男性像がイエス様の中にあります。私たちは、完全な人を地上に見出すことは出来ませんが、神の子であるイエス様について学び、近づくならば、完全なる男性を知ることが出来ます。
 イエス様はこの地上で、どのような働きをされたのでしょうか。イエス様は地上でまず、十二人の弟子達を選ばれました。それは全員、男性でした。女性を少しくらい入れても良かったのではないでしょうか。しかし、男性ばかりでした。それにも、意味がありました。ルカの福音書九章一節から二節に、

『イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。』

と書かれています。イエス様は、ご自分の使命を十二弟子に分け与えられました。イエス様の地上での使命は、神の国の「力と権威を地上に現す」ことでした。
 私はいつも、イエス様がゲラサに行かれた時の素晴らしい力と権威に感動します。私も時々、霊的な戦いに参加し勝利します。しかしそこでの勝利は、霊的戦いをボクシングに例えるならば、「判定勝ち」のようなものです。「勝利!」という手は上がりますが、自分の姿を見るとボコボコにやられて、目の周りはあざになり、体中が腫れ上がっている状況だと思います。しかし、イエス様の勝利は、戦ってやっとの勝利ではなく、ほとんど不戦勝状態でした。イエス様の勝利は、相手を完全に服従させるほどのものです。霊的存在を完全に服従させる力と権威です。
 イエス様がゲラサに行った時、悪霊につれた男は墓場に住んでいました。イエス様が近づかれたとき、その男は石を拾って投げつけるのではなく、遠くからイエス様を見つけ、「イエス様、私たちを苦しめないで下さい。」と叫びました。何と素晴らしい力と権威がイエス様には授けられていた事でしょう。イエス様の基本的な賜物は、「力と権威」でした。ということは、男性の中にある基本的な賜物も力と権威に属するものであると言えます。
 現代の社会問題は、男性が女性を支配する事により起こっている問題が多いです。主人の支配があまりに強く、暴力を振るうので、奥さんが苦しんでいる家庭はたくさんあります。歴史を見ても、男性が女性を支配しています。これは、男性の中に、基本的な「力と権威の賜物」が備わっているからです。
 イエス様が弟子たちと共にエルサレムに向かって行かれたとき、途中、サマリヤという町に立ち寄られました。ルカの福音書九章に書かれています。すると、サマリヤ人はイエス様を追放しました。それを見て一緒に行った弟子たちは憤慨しました。特に、ヤコブとヨハネは、「イエス様を追放するとは何事だ」と、「このサマリヤを天からの火で焼き滅ぼしましょうか」と言いました。しかし、イエス様は、「そんなことをしてはいけない」と戒められました。
 ということは、弟子たちもすごい権威を持っていたと言うことです。サマリヤを天からの火で滅ぼすほどの権威を、イエス様からもらっていたのです。しかし、イエス様と弟子たちには相違点がありました。それは、イエス様は力や権威を感情により、むやみやたらには使われなかったと言うことです。イエス様は、いつも父なる神様の御心以外には行動されませんでした。しかし、弟子たちは、力と権威を目先の感情で使おうとしていました。私たちが力や権威を感情的に使うと、相手を服従させることもできますが、破壊される領域も多くあります。男性は注意すべきです。基本的に男性は力や権威を用いるために造られました。しかし、それがコントロールされないときに、家庭、会社、地域に問題が起こってきます。男性に与えられている力や権威は、悪魔・悪霊に向けられるべきです。そして、力と権威が神によってコントロールされる時、男性としてのあるべき姿となります。
 今日、ここにおられる男性が、神様から与えられている「力と権威」を、コントロール出来るように祈るべきです。

 私は全国の教会を回って、女性が多い事に驚きます。この教会も少し女性が多いのではないかと思います。しかし、ある教会に行くと、九割が女性で男性が小さくなっているような所もありました。なぜ、女性が多いのだろうかと考えてしまうことがあります。
 かつて、この教会も未婚の女性が多い時代がありました。ある時、「順先生、あと、五年経つと大変なことになる。女性達が結婚適齢期になっても、相手がいないではないか・・。」と言われたことがありまし。しかし、その問題のために、皆で祈りました。すると次から次へと、男性が導かれ加えられました。そして、今は、青年会の中に男性が多いのです。今では、男性の方が苦労しなくてはならない状況です。私の息子の世代は、ほとんど男性です。今は逆転しています。しかし、一般的には女性が多いのです。日本では男性が救われにくい社会的構造があります。
 しかし現在、教会に女性が多いことについて、否定的に考える必要もないと思います。なぜならば、女性が造られた目的について考えると、女性は「助け手」として造られました。教会はキリトの花嫁なのです。そして、多くの苦しんでいる人や、悲しんでいる人を「助ける」ために造られました。女性が多いのは、ある意味で教会としての象徴的なことです。また、女性がいなくては子どもは産まれません。ということで、やがて日本の教会に、霊的な子どもが多く与えられるという、預言的な意味合いがあると思います。
 男性と女性を比較すると、色々な面で違います。大きく違うことは、一般論として、男性はクールで、女性は感情的です。女性は嬉しければ笑い、悲しければ泣き、怒るときには怒る・・・とはっきりしています。それを見て、男性は、「女性は感情的だから困る」と解釈してはいけません。男性と女性では創造過程に違いがあるのです。この事実を知るべきです。
 よく聖書を読むと、男性は土から造られました。その時には命はありませんでした。そこに、神が鼻から命の息を吹き入れました。そして男性ができあがりました。しかし、女性は、アダムとは違って造られました。それは、アダムを寝かし、アダムのあばら骨一本から造られました。ある本には、「これは今話題の遺伝子操作だ。」とありました。人間のあばら骨付近が一番細胞分裂が激しいそうです。神様はそれを取り出し、XYのY遺伝子を取り去りXXにして女性を創ったとありました。
 女性ができあがりました。しかし、女性には、息を吹き入れる必要はありませんでした。アダムは生きており、命、感情も継続しており、細胞も生きていました。その中から女性ができました。男性は、無機質な土から造られて、続いて命の息を入れられました。しかし、女性は、最初から生き物として造られました。ということは、そこには感情の継続がありました。途中から命入ったのではなく、すでに継続していました。そんな理由から、感情的、性格的違いがあります。ですから、男性は女性を判断するときに、ただ、感情的だと思わないで下さい。創造過程の違いを知るときに、お互いに認め合うことが出来ます。
 私は色々なところで奉仕させていただきますが、男性より女性の方が聖霊様に対する反応が敏感です。それが感情的だからと言いますが、そうではありません。男性は父なる神様に似せられました。しかし女性の基本的目的は「助ける」という目的です。「助ける」という目的は、聖霊様のご性質です。ということは、女性は「助け主、聖霊様」に似せて創られたのだと信じます。だから、女性の方が男性より、より、聖霊様の性質を担い、聖霊様の働きに敏感なのだと思います。しかし、女性の役割は「助ける役割」です。
 世界中の牧師を調べると、ほとんどが男性です。しかし、とりなし手と呼ばれる、聖霊様の声を聞き、それに反応するのはほとんどが女性です。牧師はある意味で、「力・権威」の領域に属します。しかし、とりなしの賜物は「助ける」為のものです。女性には、霊的世界で「助ける」賜物があります。特にとりなしの祈りによって、人々を助ける賜物が女性の中に備わっています。とりなしの祈りほど、すばらしく力ある働きはありません。
 先日、湾岸戦争時に、アメリカ軍が開発した攻撃システムについてレポートしていました。それにはとても驚きました。衛星から、敵がどこに存在するのかを瞬時に見つけて、ディスプレイ上に表示されます。どこに敵がいるのか、何の目的で来ているのかがわかります。そして、敵を、赤外線暗視スコープを使ってねらい打ちしていました。イラク兵たちは、どこから弾が飛んで来るのかもわからず、全部やられました。あれでは戦争になりません。ゲーム感覚で敵が倒されるので、その兵器を使っていた人達が恐ろしいと言っていました。
 ある意味で、とりなしの祈りはそのようなものです。ハイテク兵器のようなものです。敵の動きを空から察知し、それを攻撃します。その賜物は、男性よりも女性にあります。その賜物が用いられるときに、敵は大きなダメージを受けます。さらに、男性が持っている「力・権威」と協力し合って働いていくと素晴らしいことがなされます。
 聖書には、女性が悪霊を追い出したという記事は見あたりません。これは、最終的な悪霊との決別の権威は、男性に与えられているという意味かも知れません。もちろん、クリスチャン全てに与えられている賜物ですが、権威という枠組みの中では、そのように言えるのかも知れません。
 しかし、男性だけでも追い出す事はできません。女性に与えられている助ける賜物と一緒になって働くときに、素晴らしいことが成されます。これは、教会でも、家族の中でも、同様です。男性と女性の基本的な賜物を認め合うべきです。男性は、女性に助ける賜物があることを認め、女性は男性に、力と権威の賜物があることを認めるべきです。お互いがお互いを必要としているのです。
 悪魔はそれを裏返して使おうとしますが、神に用いていただけるように祈りたいと思います。私たちの賜物の上に、聖霊が注がれて、正しく使われる時に素晴らしい結果となります。ぜひ、男性であること、女性であることを心から感謝し、主の与えた目的のために用いられ事を願いましょう。一言お祈りします。

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