今週の礼拝メッセージ
祝福の連続   1999.10.10(SUN)

新城教会牧師 上條 実

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 列王記第二 4章1節〜7節
預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

 ハレルヤ!今日皆さんとともに御言葉を学ぶことが出来ることを感謝します。今日は「祝福の連続」というタイトルで学びます。祝福と聞くとだれもいやな思いを持つ方はいないと思います。あなたは祝福を頂いているでしょうか。私たちは神様から多くの祝福を頂いています。しかし今日のタイトルのように「祝福の連続」と言うとあなたはどうでしょうか?神様から祝福を頂いてはいますが、連続とは言えないかも知れません。ある人は病いがあり、ある人は問題があり、悲しみがあるなど色々な大変なことがありますと言われる方もいるかも知れません。イエス様を信じており、祝福を下さるとわかっていますが、「祝福の連続」を頂いていると今は言うことができないと言われる方もあると思います。しかし、今朝私に神様から教えられていることは、クリスチャンは誰でも「祝福の連続」が与えられるという事です。滝元明牧師が伝道メッセージの中で昔このような事を引用していたことを思い出します。「私は小学生の子ども達が登校しているところを見ると、うれしくなります。特に一年生の子どもはいつもニコニコして、悩みなどなく元気に学校へ行く姿を見る事ができます。子どもたちは何も悩みがないようだ」と話していました。しかし、今の子どもたちは違います。皆が重荷を背負っていると思います。私たち大人には子どもは元気で、喜んで毎日を過ごしているというイメージがあります。しかし今の子どもたちには色々な悩みがあります。今日もこの礼拝で足の不自由な辻森兄がずっと松葉杖を使わずに立って賛美している姿を見て、ここまで癒して下さった主に感謝します。しかし子どもたちや中学生は立ち上がって賛美しましょうと言っているにも関わらず、ある子ども達は座って賛美しています。いつも私はいつも子ども達と一緒に座っていますので、「立ち上がって賛美したら・・・」と忠告する時があります。先日に子どもたちに、「あなた達に何かつらいことや重荷があるのか」と聞きました。すると、全員「ある。たくさんある。」と言いました。子どもたちは子どもたちなりに悩んでいます。私たちの子どもの頃は外で泥だらけになって、元気に真っ暗になるまで遊んでいたのを覚えています。しかし今は滅多にそんな子どもを見かけません。私たちの小さな頃と今の子どもと比べて見ると、今の子ども達は物質的に満たされています。しかし塾・習い事等があまりも多く、疲れています。朝ですから元気があって良いものなのですが、彼らは「疲れた」と言っています。「昨日、何時に寝たの」「八時に寝た。」と言います。たくさん寝てはいますが、彼らは疲れています。不思議です。ストレスがたまっているのでしょうか?また皆さんも疲れていませんか。疲れを引きづりつつ毎日を生活している中で、「あなたは幸せですか」と聞かれると、すべての人と言って良いほど、「私は祝福の連続で、しあわせ一杯です」と言うことは出来ないと思います。私にも聞かれたら正直言って、「神様から祝福を一杯頂いていますが、この腰痛が治ったら、このこと、あのこと・・・」と神様に対してまだまだ欲求があります。神様は祝福してくださるとわかっています。しかし、私たちの中にまだ祝福がとどめられています。神様が祝福して下さる約束なのにも関わらず、まだ手にしていないことが沢山あります。私たちはイエス・キリストが十字架にかかられ、葬られて三日目によみがえって下さったゆえに、御国に入る事ができ、永遠に生きることができるという、この上もない最高の幸せを頂いています。この世の中では、どんなに不幸であっても永遠の御国に入れれば、私はそれで良いと思います。しかし、イエス様から救いを頂き、永遠の命を頂くことは最高の祝福ですが、決してこの地上にいる間は不幸で良いと言っていません。「求めなさい。そうすれば、与えられます。」と書かれており、神様は私たちにいのちをかけるほど愛して下さる神様です。すべてに解決があり、私たちの生活に最高の満足。祝福を下さる神様です。第二列王記四章には、エリシャと一緒に働いていた人、今で言えば教会のスタッフや牧師という人かも知れません。神様に献身し、一生懸命神のために働いた方の奥さんが預言者エリシャの所に来て、

『「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」』

と言いました。神様に熱心に仕え、神の前に喜ばれる働きをしたしもべが死んだというのです。しかし、祝福どころか、その奥さんには悲劇がおそいました。そのご主人には借金があり、借金取りが来て負債を返すようにと言われ、肩代わりに二人の息子を奴隷にして連れて行かれるというような状況でした。神に仕えている。神を愛しているというにも関わらず、祝福がないのです。祝福がないどころか大変な状況に陥ってしまっています。この場所を読むとき、私たちのクリスチャン生活でも同じような状態があるかも知れません。自分はイエス様を第一にしているにも関わらず、戦いが激しくなり、問題はどんどん大きくなっているような気がします。地域の付き合いなどでも、神社の祭りに参加しない、寄付金を出さない。とクリスチャンの立場をうちだす時、近所の人から悪口を言われ、孤立してしまう時があります。私は神様に従ったのだから祝福を頂けると思いながらも、周りの方から悪く言われ、つらい思いもします。神様に仕えてきたのに、なぜ・・・?心から神様を愛しているにも関わらず、どうして私にはこんなに大変なことばかり起こるのだろうか?祈りが答えられないのだろうか?と思うことがあります。一生懸命神様のために働いているのに、祝福がない。これでは適当に信仰生活しても、変わらないじゃないか。神様に対して何も奉仕せず、集会も出席せず、祈らず、聖書も読まないで自由に生活してもかわらないではないかと思う時があります。こんなに一生懸命奉仕しても何もならない。だから適当にイエス様を愛して、すれすれでも天国に入れれば良いのではないかと思う時があります。本当に神様は私を助けて下さるのだろうかと不安になることがあります。そんな時にエリシャは彼女に言っています。常識では考えられないことを言っています。

『「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」』

と助けてくれる。期待のもてる言葉ですが

『彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」』

なんと負債があったために、家財道具もすべてとられてしまい、油しかないという状況だったと思います。何もないことのわかったエリシャは、

『「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。』

と言っています。借金を抱え、何もなく、子どもまで奴隷にとられてしまう。また最愛の夫も死んでしまった彼女は、今までの夫の主人エリシャに「私を助けて下さい」と言っています。もしあなたが彼女と同じ状態でこのような答えが戻って来たら、あなたはどの様に思いますか?エリシャが「油壷一つしかないのか。大変だ。預言者のともがらを全員あつめてカンパしよう」と言ってお金を集めたり、物資を集めたら助かると思います。しかしエリシャは違いました。不思議なことをいいました。

『「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」』

と言いました。不思議なことを言いました。隣り近所から器を借りて来て、家の後ろの戸を閉じ、その器に油をつぐように言いました。どれくらい油壺に油があったわかりませんが、想像するには油も残り少なかったかも知れません。そんな状況下の中で、彼女に借りてあつめた器に油を注ぐように言いました。あるのは油壺とその中にある油です。エリシャの言ったことは、答えになっていないように思います。こんな状況の時何を言い出すのかと思ったのかも知れません。しかし彼女はエリシャの言った事に素直に従っています。七節に、

『「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」』

と書かれています。不思議なことに油が尽きることなく、器にいっぱい油を入れることができました。神の奇跡が起きたのです。集めた器全てに油が満ち、その油を売って負債を払い、子どもたちと暮らせるというのです。今日もう一度覚えて下さい。私たちはイエス様が十字架にかかられ、葬られ、三日目によみがえって下さったことを信じてはいます。しかし私たちは実際イエス様が十字架にかかって下さったことは、現実には見たこともありません。しかし信仰によってイエス様を信じています。実際に十字架にかかっているイエス様は見ていませんが、私たちは信じることが出来ました。見ずして信じています。あの十字架は私のためだと信仰を持った時、救われ、永遠の命が与えられました。見てはいないが信じる事ができたのです。ですから今日問題がある人は、イエス様の前に信仰を持ちましょう。信仰を持ち、神様が不思議なわざを成しくださることを確信したいと思います。現状を見る時私たちはあわててしまいます。このはしためも現状は死活問題です。全財産と息子をとられてしまうと危機的な時です。エリシャから「器を集めなさい、そして油を注ぎなさい」と悠長なことを言われています。私たちも大変な問題の中で、緊急を要する時に、静まって祈るしかないと言われても、わかってはいますが落ち着いて従えなくなってしまいます。問題があったら落ちついてひざをかがめて祈ることができなくなってしまっているのが今の忙しいクリスチャン生活の現状かと思います。しかし神は信仰を持ちなさいと言っています。
 ではここで言っている「油」「油壺」とは何でしょうか。今回神の前に出て祈ったとき、私に神様が教えて下さった事は、油は聖霊様だと教えられました。油は力ある何でもできる聖霊様です。そして壺は「私たちの心」だと教えられました。ですから私たちの心をもう一度神様に期待して、油を満たしていただきたいと思います。女性はエリシャに隣り近所から器をかりるようにと言われました。それも一つ二つではいけない。沢山集めなさいと言われたのです。そして彼女の家にあった壺の油で奇跡が起こりました。今日ここで教えられることは、私たちもとなり近所から器を集めなさいと言うことです。あなたも隣りから器を集めてみて下さい。では隣人の所から器を借りて来なさいとは何でしょうか。そして器に油を満たしたと書かれていますが、何のことでしょうか。器は信仰です。そして空の器を隣り人から集めよとは、神様は色々な方々に祝福を与えて下さっています。家族の救いを祈っていながら答えられないけれども、もうすでに祈りが答えられて家族が救われている方もおられます。そのような方々の証しを聞いて、私たちも信仰を持ってその器を自分の家に持って行くのです。そして神様に期待して祈ります。そうすればその空の器に油がいっぱいになる。そうです。あなたの願いである家族が救われるのです。ある意味で私たちは信仰に疲れ、聖霊様の油が目減りしているような状況かも知れません。しかしそのままで良いのです。エリシャが家に何があるのかと言われたときに「油壷一つしかありません。」と言いました。一つしかない壷から神様は奇蹟を行いました。今あなたがどのような信仰状態でも、イエスキリストはあなたを天国に入れて下さると信じて、もう一度心から確信持って祈るのです。信仰を持つとき神様は祝福を下さいます。私たちは色々な証しを聞くとき、信仰が与えられるのです。

『神はえこひいきされる方ではありません。』

エリシャの神は私の神です。また、色々な恵みを受けた方の神様と私の信じている神様は同じです。ですから、この人は特別に恵んであげる、この人は恵んであげないということはない神様です。ですから、必ず同じようにあなたを祝福する神様です。今日覚えてください。神様の恵みは無限です。しかし、神の働きを限定するのは私たち自身です。神様を私たちの頭で小さく限定してしまいます。現状を見て、「これは駄目だ」とあきらめて、その器にふたをしてしまいます。ふたをしてしまうので油を注ぎたくても注ぐことができません。今日色々な所から器を借りてきてもう一度、その信仰の器にあなたの信じている救い主であるイエス様から油注ぎを頂きたいと思います。
ではどんな器を集めたらよいのでしょう。人さまざまですが、私たちが一番願うことは、やはり家族・親族の救いです。二十年、三十年前から祈り続けている方もいます。また、祈り初めてすぐ家族が救われた方もいます。答えられるには神様の時がありますが、今日ぜひ家族が救われるという信仰の器をあなたの心の中に持ってきていただきたいと思います。
 先週リバイバルミッションニュースの発送作業をしていただきましたが、全日本リバイバルミッションニュースの中に、つい最近まで「熱い声」というテーマで牧師先生の期待の声を記載していました。しかし最近は甲子園ミッションや東京ミッションで救われた方の証や献身して牧師先生・スタッフになったという証を掲載するようになりました。そのためニュースの記事を集めています。先週もある方にインタビューしました。一人は函館の姉で、佐々木という方ですが、弟さんが石川県で牧師先生をしており、たまに帰ってきて教会の話をされるそうですが、お姉さんはほとんど御言葉を聞いたことのない方だったそうです。そのお姉さんは体が弱くて荷物すら下げることのできない方で、旅行にも行くことができなかったそうです。しかし、弟さんが甲子園球場で素晴らしい集会があると必死に誘ってくれたので、飛行機と電車に乗り継いで甲子園ミッションに来られたそうです。甲子園ミッションでどのように救われたか、どのメッセージを聞いて救われたかと聞きました。すると「私はメッセージで救われていません。」と言われました。どの様にして救われたのかと聞くと、甲子園球場にはいるとグラウンドに大きな十字架が組まれていましたが、その十字架を見た時に不思議なことが起こったそうです。彼女が言うには、十字架が立ち上がって、自分の目の前まで飛び跳ねて迫って来たそうです。そして気が付いたら自分は罪人だとわかり悔い改めていたそうです。そして立ち上がったときに今まであった病いも全部直り、全く元気になりました。その後函館に帰って一つの教会で訓練を受け、今は教会の責任者として奉仕していると言われました。あの甲子園ミッションがなかったら私は今の祝福がありませんと言われていました。
 またもう一人は東京の町田市の田後という姉です。甲子園ミッションの時は広島県にいて全く甲子園でそんな大きな集会があったことは知らなかったそうです。しかし、町田の教会に仕事の関係で移り、教会生活をする中でそこの先生は運営委員会の先生でしたので、今度日本武道館で東京リバイバルミッションがありますと言われ、そのための決起大会が姉が通っている町田純福音教会で行われたそうです。それは九七年四月二十四日だったそうです。講師は順牧師がメッセンジャーでした。その時は特に激しいメッセージでもなく、「私たちは製品ではなく、神の作品である」という御言葉を聞いて普通に決起大会が終了したそうです。その時が初めてその姉妹はミッションの関わりのある集会に参加されたそうです。その時に自分の神様が生きているとわかったそうです。そして自分にはお姉さんが石川県の金沢市にいる、伝道しなくてはという思いになり、一ヶ月後にお姉さん夫婦に会って伝道したそうです。そのお姉さん夫婦は三十年間の熱心な立正佼正会の信者だったそうです。彼女は一生懸命伝道したときに今まで全く腰を上げなかったお姉さん夫婦が教会に行ってくれたそうです。そして神様の話を聞いたときに、姉夫婦に触れて下さり、お姉さんは求道を始めたそうです。そして東京ミッションの始まる前までにバプテスマを受けたそうです。そしてそのお姉さんには三人の息子があり、三男が当時二十三才だったそうですが、その子とお母さんと一緒に東京ミッションに二日間来たそうです。その中でその子どもがイエス様を信じる決心をしたそうです。またご主人も素晴らしい集会だからと言って呼んだときに、ご主人はたった一日来ただけだったそうですが、その時に明確に救われたそうです。また九十才代のお母さんも救われ、ご主人のお父さんもイエス様を信じ、つい九月二十六日の日曜日には次男がバプテスマを受けられたと言われました。そして長男は今求道中だと言われていました。この二年間に六人身内、家族が救われたそうです。不思議なことが起こり、祝福の連続だと言われました。今日あなたがこの証しを聞いたとき、それは特別な証しで、自分とは関係ないと思わないでください。えこひいきのない神様です。その人の器を今日借りましょう。家族の救いのために信仰持って祈りましょう。
 また、私たちは病いのことを祈っています。病いの中でも神様が不思議なわざでいやして下さいます。今日も私の妹の道子がここに来ていますが、岩井家に嫁ぎました。九十七年九月二十七日に私と明牧師と岩井寛兄と岐阜の教会に決起大会をしていました。私は集会中には携帯電話の電源を切っているのですが、その時だけ付けており、最後に私が報告していた時、携帯電話が鳴りました。誰のかと思ったら自分の携帯電話でした。そしてすべてが終わって電話をかけ直すと、道子が「寛君には直接言うことができないのだけど寛君の弟・進君が(当時二十六才)調子が悪くて病院に行ったら胆嚢ガンであと三ヶ月しか持たない。若いから回りが早くてあと三ヶ月しか持たないから・・・直接言えないからうまく言って欲しい。すぐに家に電話するように言って・・」と言われました。その時彼に伝えると驚いていましたが、それから皆で信仰を持って祈りました。新城教会でも祈りましたが、昨日全日本リバイバルミッションの朝礼で道子が証しをしていました。何と彼の癌が完全に癒されたそうです。病院に行ったら医者は奇跡だと言われました。「何も見つけることが出来ないから、これでガンの治療は終わりましょう」と言われたそうです。不思議なことです。私たちには考えられませんが現実に私たちの愛する兄弟姉妹の中に起こっているのです。またこの兄姉の中でも色々な病いのいやしを経験されている方もいます。今日その空の器を頂きましょう。信仰を持って受け取りましょう。そして後ろの扉を閉じなさいとあります。悪魔は「できないよ。おまえ、それは無理だ。」と私たちに呼びかけてきます。しかし、後ろの扉を閉めて下さい。「神にとって不可能なことは一つもありません。」だから、その扉を閉めて不信仰を全部断ち切りましょう。今日もう一度自分には何もない、目減りしているような油壷の中にある聖霊様からも知りませんが、あなたの今の状態で良いので今日色々な器を借りて来て下さい。経済的に困っている方は経済的な器、結婚の問題でも空の器を用意してみてください。人間関係で苦しんでいる方もその器を用意して下さい。あなたが今必要な器をありったけ集めた女性と同じように、あなたも集めて下さい。どん欲に空の器をたくさん集めて下さい。今日は午後から運動会があります。どうぞその時兄姉と証しをしあって下さい。自分がイエス様からこんな祝福をいただいたと証ししあって下さい。それを聞きつつ、自分も同じ祝福がほしいと思ったら、信仰によって空の器を集めて下さい。そうする時、器に神様は不思議な方法で満たして下さいます。「その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りであなたと子どもたちは暮らしていけます。」何も心配のいらないはしためになって幸せを彼女は頂いたのです。今日あなたの神様は死んだ神ではありません。今まで祈り続けた部分に今日解決を与えて下さいます。あなたが神様を計ってしまっていたら、不信仰を持ってしまったら、それを全部取り除き、何でもできると信じましょう。静まって今日は不信仰のふたを開け、ここに油を下さいと祈っていきましょう。その時に神は油を満たして下さいます。受けた恵みを他の人に証ししてあげて下さい。あなたの隣人に、家庭集会などの交わりの中でこういう祝福を頂いたと紹介して下さい。そうすればあなたの証しで、他の人が「その祝福が欲しい」と空の器をもらい、そこに油を注ぐことができます。今日空の器に神様の素晴らしい油注ぎを頂き、祝福を頂きましょう。あなたには祝福の連続の日々を与えて下さるという約束です。

『わたしの目には、あなたが高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

神様はあなたを高価で尊いと言っています。命をかけてあなたを愛して下さっている神様を信じて、器を集めて、祝福の連続の日々を送りましょう。お祈りします。

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