今週の礼拝メッセージ
生まれ変わった人生   1999.11.14(SUN)

新城教会牧師 岡本信弘

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ヨハネの福音書3章16節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 ハレルヤ!先週はとても忙しい毎日でした。月曜日に東京に行って夜中に帰ってきて、火曜日にミーティングをしてからまた東京に行き、水曜日から三日間北海道に行き、また東京に行って仕事をして昨日帰ってきたという忙しいスケジュールでしたが、皆さんのお祈りに支えられ、守られて感謝します。こちらではまだ明るいのですが、北海道では午後四時頃には暗くなります。今から教会訪問しても良いのだろうかと考えてしまうような暗さでした。日本は広いなぁという感じがしました。北海道に行って二日目は、一日七〜八百キロ南へ北へと車で走り、色々な教会を訪問させていただきました。「北海道に行けていいですね」と言われましたが、観光地はどこにも寄りませんでした。でも、丁度紅葉も終わりつつあるときで、真っ黄色のイチョウ並木のきれいな風景を、運転しながら見ました。北海道は広いので、いつもレンタカーを使いますが、カーナビがついていてとても便利です。私の車についているものは高性能で、電話番号を入力するだけで目的地まで案内してくれます。しかし、レンタカーについているカーナビはあまり良くなかったので、時々行き過ぎてしまったり、方向を間違えてしまうことがあり、止まってセットし直しました。それでも何とか目的地に着き、いろいろな教会を回ってお話ができたことを感謝します。 今日は「生まれ変わった人生」というテーマで学びます。皆さんも人生やり直すことができたら「あれをしたい」、「これをしたい」ということがあると思います。また、失敗や問題にぶつかったときに、もう一度人生やり直せたらと思うことがあります。私は話すこと、やること、食べること、何でも早いです。たくさんのことができて、良いようにも感じますが、その一方、とてもせっかちで気が短いので失敗もたくさんあります。車の運転では、行き過ぎてしまったり、間違ってしまったら戻って、正しい道に簡単に戻ることができますが、人生も、そのように簡単に戻ることができたらなと思います。失敗したときに、一時間戻ったらもう一度やり戻すことができるのに・・・と思います。私はよく皆さんから、「先生は何も悩みがなくて良いですね」と言われます。私も悩みがないわけではありませんが、たいてい二〜三分でくよくよ考えることをやめてしまいます。それでもやはり、もう一時間戻れたら・・・と思うことがあります。しかし、やり直したいと思っても、過ぎ去ってしまったこと、やってしまったことはどうすることもできません。
 今日はヨハネの福音書三章十六節を読んでいただきましたが、この話は一節からつながっています。ニコデモというパリサイ人でユダヤ人の指導者が、夜、イエス様の所に来ました。これには理由がありました。パリサイ人はイエス様を毛嫌いしていましたから、イエス様の話を聞くことなどあり得ないことでした。しかし、彼はイエス様の素晴らしい噂を聞き、一度会いたい、そして同じ指導者としてどこが違うかを見出したいと思ったのでしょう。多くの人がイエス様を支持しているのを見たとき、彼はそのヒントを得ることを願ったと思います。そこで、人目を避けて夜にイエス様の所に行き、イエス様に、

『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません』

と言いました。それに対してイエス様がどのように答えるか彼は興味を持っていました。しかし、イエス様は三節で、

『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません』

と全く質問の答えになっていないようなことを言われました。ニコデモは、「あなたが神のもとから来られたのではなければ、このようなしるしを行うことはできません」と言いながらも思い悩み、自分が変わるためにはどのようにするべきかという質問を持っていたと思います。イエス様はそんなニコデモの心を読み、「新しく生まれ変わらなければ神の国を見ることはできない」と言われました。そう言われたニコデモは、

『人は、老年になっていて、どのようにして生まれ変わることができるのですか』

と、イエス様は自分が知らない世界観を持っておられるのではないかという期待感を持ってイエス様に質問しています。それに対してイエス様の答えは、

『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません』

というものでした。ニコデモは何かを求めていました。しかし、あえてイエス様は生まれ変わらなくては神の国を見ることはできない、いくらあなたが求めても、慈善をしても、素晴らしい事業をしても、神の国を見ることはできません、と言われました。
 多くの人は今思い悩んでいます。昨年三万人以上の人が自殺をしたという統計があります。統計では初めて三万人を越えたと言われています。なぜ、自分で自分のいのちを断つのでしょう。将来に希望や、喜びがない。誰にも相談できないし、誰からも愛されない。自分はいてもいなくても同じだ、生まれなければ良かったなど、一人一人には様々な思いがあってのことでしょうが、それを解決するためには自殺が近道とでも思って自分のいのちを断つのでしょうか。その人生の問題を解決するためには、新しく生まれ変わるなら天国に入ることができる、とイエス様はこの御言葉で言っているのです。この肉体はいつか滅びます。皆さんはそのとき、天国に行く確信がありますか?聖書には、「人は一度死ぬことと、死後さばきを受けることが決まっている」と書かれています。この御言葉が示すとおり、私たち人間は、神を信じても信じなくてもいつか死ぬのです。それと同時に、神様の前に出て、今までしてきたすべてのことをさばかれるときが来るというのです。しかし、ある人は無神論を唱え、「神なんているわけがない。人間は墓場で終わりだ」と言われる方もあります。またある人は、そんなことを考えても仕方がない、人間には死や苦しみがあるのは当たり前だから、これはあきらめるしかない、と釈迦の教えを信じている方もいると思います。釈迦は、解決はない、人間はそういうものだと、「あきらめ」を人々に説きました。私が人にキリスト教の話をすると、「キリスト教も良いけれど」と言いながらも、「キリスト教は排他的だ」「キリスト教でなければ救いはないと言うから、キリスト教は増えない」と言います。しかし私たちは、「イエス・キリスト以外に救いはない。天国に行く道はほかにはない」と知っています。
 それでは天国に行くためには、どうしたらいいのでしょうか。それは、イエス様がニコデモに言われたように、一度生まれ変わらなくてはならないのです。聖書の初め、創世記には、「はじめに神が天と地を創造した」と書かれています。この天地万物、生き物、木々、すべてのものを造られた神様がおられます。そして私たちは神様によって生かされていると聖書は教えています。この御言葉を信じることができたら、聖書のすべてを信じることができます。しかし、私たち人間には悲しい現実があります。初めの人間アダムとエバが神様の手によって造られ、神様の愛の対象として神様といつも交わり、楽しくエデンの園で生活していました。しかし、神と人間の間に一つの法則が置かれました。それは「すべての木の実を食べても良いけれど、園の中央にある善悪を知る木の実、これだけは食べてはいけない。食べたら必ず死ぬ」というものでした。しかし蛇が来て、「神様はこのエデンの園のどれからも食べてはいけないと言われたのですか」と質問しました。エバは否定し、「どれからも食べても良いけれども、真ん中にある善悪を知る木の実だけは食べてはいけない。食べたら死ぬといけないから」と言いました。神様は「絶対に死ぬ」と言われたのに、蛇は、「絶対に死なない。あなたがこれを食べたら神のようになれる」とエバを誘ったのです。エバはその誘惑に負け、その実を取って食べてしまいました。そして夫にも食べさせました。そのときから、彼らから神の霊が去り、彼らは自分が裸であることを知りました。それ以前には、神様と人間の中に楽しい交わりがあり、愛がありました。しかし、その中に罪が入ったことにより、神様との交流が断たれ、二人はエデンの園から追放されました。それはある意味では自由と思えることかもしれませんが、実はその後、アダムとエバから始まり増え広がったすべての人間は、私たちに至るまで、罪というおりの中に縛られてしまったのです。私たちは罪の性質を持ったまま生まれ、そして罪を持ったままで肉体は死に、魂は、永遠の地獄、滅びに行くというのが私たち人類に定まった道でした。しかし、人間を造った神様は、人間を生かし、もう一度人間との交わりを復活させたい、永遠のいのち天国に連れて行きたいと願いをもって、約二千年前、この世に来てくださったのです。その方がイエス・キリストです。
 イエス様は、罪の要素を全く持っていない人として、処女マリヤを通して罪というおりの外に生まれてくださいました。三十三年の生涯のうち、罪を全く犯さず、私たちすべての罪を背負い、十字架にかかって死んでくださいました。この十字架が、罪の牢獄を開ける鍵でした。このとき、初めて罪の扉が開けられました。もし、イエス・キリストが死んだだけなら、「あの人は素晴らしい聖人だった」で終わってしまいます。しかし、イエス様は誰もが打ち破ることができなかった死の力を打ち破ってよみがえってくださいました。そんな昔のこと・・・と言われるかも知れませんが、イエス様は復活され、今も生きておられます。ですからそのとき以来二千年間、その罪のおりの扉は開けられています。
 もし、あなたが罪というおりから一歩踏み出すなら、私たちが救われる道、もう一度生まれ変わり、滅びの生活から一変した新しい人生に変えられることができるのです。このことは、多くのクリスチャンの方が体験してきたことと思います。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と御言葉にあるように、小・中学生の頃にイエス様を信じられた人は幸いです。年老いてイエス様を信じた方は、もっと早く罪の牢獄から出れば良かったと思われているかもしれません。あなたが神様を知らないときにも、罪の牢獄はずっと開けられていました。しかし、たとえ年老いて七十歳、八十歳、九十歳になっても、イエス様を信じるなら、人生をやり直すことができます。生まれ変わった人生が、二年か五年か十年かわかりませんが、それまでとは全く違う、生まれ変わった人生を味わうことができます。私たちの肉体を持った人生があと十年か、二十年かわかりませんが、私たちの肉体はいつか滅びます。しかし、イエス様を信じて天国行きの電車に乗り変えたときから、今までの罪の生活ではなく、むなしい生活ではなく、永遠の喜びの人生に変えられます。ぜひ、この生まれ変わった人生を味わってください。永遠のいのち、天国への道がこれからずっと続いていくのです。
 すでに、ここにおられる多くの方たちが、イエス様を信じ、永遠のいのちをいただいています。しかし、中には罪の牢獄から一歩足を踏み出して、どうしようか、こうしようかと迷っている方もいるかも知れません。私たちは弱さを持っています。ときには罪の誘惑に負けてしまうことがあるかもしれません。しかし、世の終わりがあります。イエス様が再びこの地上に来られるときがきます。それはいつかわかりませんが・・・。ですから、私たちは今までの生活と決別し、その牢獄から完全に離れ、そしてイエス様にすべてを委ねて、私たちのすべてを導いていただきましょう。イエス様が喜びの人生を私たちに与えてくださるのです。年老いてからでも遅くはありません。
 ニコデモは、「老年になってどうして生まれ変わることができるのですか」と質問しましたが、それは私たちの肉体のことです。しかし、私たちの内側は今からでも決して遅くはありません。生まれ変わることができ、喜びの人生を味わうことができます。そしてそれが永遠に続くものであることを覚えてください。
 先日、私は富士に住んでいるおじさんの見舞いに行きました。そのおじさんは、学校の先生をしていたとても厳格な人で、数年前私が親族の集まりでメッセージをしたとき、「あんたの話は早すぎてわからない。もっとゆっくり言わないと年寄りはそんなものにはついていけない」と言いました。私はそのときに言われたその言葉を、いつも心にとめていました。今でも早口ですが、そのことは私にとって良い教訓となっています。その方がガンになり、入院していることを聞き、早速見舞いに行ったのです。あの頃の、勢いのあったおじさんとは違い、ずいぶん弱気になっていました。私は単刀直入にイエス様のことをお話しました。おじさんは私の話をうなずきながら、とてもよく聞いてくださり、「イエス様を信じていく」と言っていました。私たちが帰るときにはぎゅっと手を握りしめ、「本当によく来てくれたね」と言ってくれました。昨日も東京から帰るときに少し時間があったので、途中下車して行ってみました。二週間前に行ったときにはまだ元気そうでしたが、昨日はさらに弱って、もう話すこともできないという状況でした。おじさんが、あとどれくらい生きるかはわかりません。しかし、イエス様を信じ生まれ変わるなら、永遠のいのちを持つことができるのです。
 クリスチャンの方にも覚えていただきたいことがあります。人は罪を持ったままでは天国に行くことができません。もし、まだ主の前に責められる罪があるならば、まだ罪の牢獄に踏み込んでいるような部分があるならば、もう一度悔い改め、完全に罪の牢獄から出て、私たちの目の前にある素晴らしいゴールに向かって前進していきたいと思います。一言お祈りします。

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