今週の礼拝メッセージ
安心して帰りなさい   1999.11.21(SUN)

新城教会牧師 滝元 順

新約聖書 マルコの福音書5章34節
そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

 ハレルヤ!一年は早いものです。来年は二千年ですが、東京で四十日間、大阪で四日間のスーパーミッションがあります。そのために先週月曜日、東京で教職者説明会がありましたが、感謝なことにスーパーミッションが大分広がって来ました。そこに本田弘慈先生が来て下さいました。今週のリバイバル新聞にも報道されていますが、スーパーミッションに参加されるという意志表明をしてくださいました。色々な面で壁が崩されてリバイバルが進んでいることを感謝します。更に日本のリバイバルのために心を一つにして祈っていきたいと思います。
 今日はマルコの福音書五章三十四節の御言葉から学びます。

『そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』

 このストーリーは、十二年間長血を煩っていた女が、イエス様の衣に触れたら癒されるという信仰を持ちました。彼女は大群衆をかき分けてイエス様の後ろから衣に触れました。その時、イエス様の体から力が流れていき、十二年間どうしても止まらなかった血の源が枯れました。
 今年は新城教会に聖霊様が豊かに働かれています。多くの方が癒され、解放され、救われて主の力が私たちの目の前に現されていることを心から感謝します。
 先週も色々な出来事がありましたが、毎日のように主の御力、御手を見せていただいています。すべてをお話しできず残念ですが、主が癒しのみ業を現してくださっています。毎日のように癒しと解放の証を聞いています。
 イエス様は長血の女を癒しただけではなく、「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と語られたのです。今日のメッセージを忘れてしまっても構いませんが、この御言葉だけはぜひ、あなたに主が語ってくださっている言葉として信じ覚えてください。
 口語訳聖書では、

『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい。」』

となっています。イエス様が一人ひとりに語っておられます。
 皆さんは、日曜礼拝のメッセージに期待されていると思います。私も精一杯主の前に出て語っています。礼拝メッセージで「素晴らしい話を聞く」という意味もありますが、それ以上に、「教会に主が宣言されている言葉」として受け取るべきです。主が新城教会に今日、この御言葉を宣言してくださっています。

『安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」』

 教会に与えられた権威と共に受け取るべきです。やがて、「新城教会に通っている人は達者だ。元気だ。病気にならない。皆長生きだ。不思議だ。」という噂が世間に広まるようになったら素晴らしいです。今日この御言葉をイエス様が新城教会に語っておられると、イエス様の御名によって宣言します!アーメン!イエス様をほめたたえます。
 時々、試練の中で苦しみながら絶えていく信仰が美徳のように語られることがありますが、神は、決して人を試練や苦しみに会わせて人生を終えさせようと願われてはいないはずです。なぜ、神は人生を与えたのでしょうか。それは人生を楽しむために与えられたはずです。そうでなくてはおかしいです。しかし、現実的に人生は楽しいことよりも苦しみが多いのも否定できない事実です。
 イエス様が語られた言葉はいつも希望の言葉でした。十二年間長血を患っていた女は癒されただけでも感謝なはずですが、それ以上に、「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と語られたのです。こんな素晴らしい言葉はありません。ヨハネ第三の手紙二節には、

『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』

と語られています。「すべての領域で健康であるように祈ります」とヨハネは祈っています。神様は私たちに祝福を与え、「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と語っておられます。今日この言葉をしっかりと捕らえましょう。
 聖書は試練の中でも力を得て立ち上がる道を用意しています。すべての状況に対処する秘訣も提供しています。しかし、イエス様がこの地上で語られた言葉の中心は「慰め」でした。この「安心」という言葉は、原文を調べてみると、「戦いや迫害が止んだときの平穏」となっていました。すべての戦いに勝利し、「平安で帰りなさい」ということです。今日主が、私たちに、「すべての戦い、迫害が止んだときの安堵感で帰りなさい。」と語ってくださっていると信じます。今日、御業がひとりひとりに現されるように祈ります。この礼拝がただの礼拝ではなく、この御言葉が個人的にも主から語られる時となるよう祈っています。
 今年二月、私はイスラエルに行きました。この教会からも何名かの方がイスラエルに共に行かれました。イスラエルに行くと聖書の世界がよくわかるし、イスラエルで聖書を読むとワクワクします。「エルサレムよ。」と書かれていると、「この場所だ。」と現実的だからです。イエス様が新城で生まれたら、もっと聖書がわかりやすいと思います。例えば、「今日イエス様が富沢でお生まれになった。」と、もっと身近だと思います。
 イスラエル旅行の最終日、薄暗いうちにエルサレム市外が全て見渡せる場所で祈りました。「イエス様、今年一年間、私に対して、また、新城教会に対しての御言葉を与えてください。」と祈っていました。その時、イザヤ書三十三章二十三節から二十四節が与えられました。
 聖書の言葉はイスラエルに語られていたり、ある特定の人物に語られていますが、主を信じる者にとって、自分自身に語られた言葉として受け取らなければ何の価値もありません。だから聖書を読むときは、その話題に入り込んで読むべきです。「イスラエルよ」と語られていたら、自分自身に置き換えます。又、十二年間長血を煩った女になりきってイエス様に触れるとき、イエス様は奇跡を成してくださいます。
 さて、イザヤ書の三十三章二十三節二十四節に、

『あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足なえさえも獲物をかすめ奪う。そこに住む者は、だれも「私は病気だ。」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。』

 これはバビロンから解放されるイスラエルに対して語られた言葉です。しかし、今の時代は霊的な法則として当てはめることができます。バビロンの支配とは、悪霊の支配です。そこからの解放としてイザヤ書三十三章を捕らえることができます。
 「あなたの帆柱の綱は解け」と語られています。ヨットは帆柱に帆を掛け、風を受けて進んでいきます。この帆を支えているのが綱です。その綱が解かれてしまうならば、帆柱に風を受けることができず、ヨットは進むことができなくなります。綱が結ばれているか結ばれていないかによって風を受けるか、受けないかが変わります。人生も悪い帆柱に悪い風を受け、悪い方向に引っ張られるときがあります。「何か解らないけれど、人生の中に悪いことばかりが起こっている」と言われる方に出会うことがあります。その帆柱の綱は解かなくてはなりません。
 主が私に、この事を語って下さいました。霊的な戦いで特に、「個人的な霊的解放のために働きなさい」と語ってくださいました。そして悪魔とのつながりが断ち切られていく時、「そこに多くの分捕りものが与えられ、そこに住む者はだれも私は病気だとは言わず、そこに住む民の罪は赦される。」と語っていただきました。私はそれを受け取って帰ってきました。そして今年はそれを実行したのです。そして、「悪魔の力からの解放の働きをたくさんください」と祈って来ました。本当にその祈りに答えてくださいました。
 霊的解放の祈りとは、きよめの領域です。特に罪からのきよめです。罪を悔い改め、悪魔の力から解放されるのです。それがどんなに力強いものかを今年は体験させていただいています。箴言の中に、

『逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。』

とあります。聖書の提示している概念の中に、「すべてに原因がある」というものがあります。時々私たちは、「これは偶然だ」という言葉を使います。しかし、神様にとって「偶然」は何一つないのです。今日教会に来たことも、決して偶然ではなく神様の計画の中にあります。皆さんの人生の中にも決して偶然はないのです。箴言にあるように、雀は人が近づいたとか、犬が近づいたなど、必ず逃げる原因があります。同様に、「いわれのないのろいはない」というのです。
 イエス様を信じてわかってくることは、目に見えない世界においてどんなに敗北していたかということです。又、その中で勝利するとき、人生に大いなる祝福が注がれるのか解ります。
 「いわれのないのろいはやって来ない」とありますが、この「いわれ」とは、「罪」です。罪の指摘を聞き、ある人は、「キリスト教が罪について言わなければもっと楽なのに・・・」と言われます。また、あるクリスチャンは律法的な中に閉じ込められて、悩んでいる人がいます。しかし、聖書が教えている律法とは、私たちを守るものです。そして霊的な戦いがはっきりすると、律法も私たちの人生の中で重要だということがわかって来ます。箴言三章三十三節に、

『悪者の家には、主ののろいがある。正しい人の住まいは、主が祝福される。』

とあります。「悪者」とは「罪」と訳すことができます。「罪の家には主ののろいがある。」また、「家」は「場所、または家族」とも訳すことができます。「罪の家、罪の場所、罪の家族には、主ののろいがあり、正しい人の住まいは主が祝福される」と訳すことが出来ます。罪から離れると個人、家族・家系に祝福がもたらされます。聖書には、世の中にない視点が存在します。それは、「先祖の犯した罪が現代にまで影響を及ぼす」という視点です。普通、罪が自分に影響をもたらすことはわかりますが、先祖が犯した罪が、家族、家系に影響を現すと聖書は教えています。
 哀歌五章七節に、

『私たちの先祖は罪を犯しました。彼らはもういません。彼らの咎を私たちが背負いました。』

とあります。彼らはもういないけれど彼らの咎を私たちが背負ったと書かれています。また五章十七節から十八節に、

『私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです。シオンの山は荒れ果て、狐がそこを歩き回っているからです。』

と書かれています。この世の中には不条理な、理解できない問題が多くあります。個人的解放の祈りの中で、問題のために祈ります。そのような中で、家系にどのような偶像礼拝や罪があったのかを把握して祈ります。聖書に「偶像礼拝が三、四代に至るのろい」とありますので、わかる範囲で三、四代前から何が起こったのかをリストアップして、時々驚くことがあります。ある家系は、事故死ばかりが連続して起こっていたり、ある家系はガンによる死亡者が続出していたり、またある家系は離婚、等々が繰り返し起こっていることがあります。偶然にしては、あまりにも不思議であると思います。日本人は「何かのたたりがある」と言いますが、聖書ははっきりと回答を与えています。これは、「先祖が偶像礼拝の罪によって招いた呪い」ということです。また、その綱が断ち切られていくことが、家族に祝福をもたらす大きなポイントです。しかしながら、それがすべてだとは考えないでください。聖書の教えは幅広いものだからです。しかし、今日はこの点について考えてみたいのです。
 日本人で三、四代前から敬虔なクリスチャンの家系はほとんどいません。ほとんどが偶像礼拝にがんじがらめ中に生まれています。誰ひとりとして、そこから逃れることは出来ません。そんな中、先祖の呪いによって苦しんで人たちが多くいるのではと思います。
 今日本には多くの問題があります。今だかつてなかった問題が多くありますが、先祖の罪の償いをしているのが現代だと思います。なぜならば、日本国民が一番偶像に頼ったのが太平洋戦争の前と中です。その時、天皇陛下を現人神にし、国を上げて悪霊に対し、二十四時間連鎖祈祷のようなことをしていました。そして偶像に真剣に頼り、国家神道のもとで侵略行為を行い、他国に神社まで建てました。このような恐ろしい罪を犯した結果としてに、今の世代が影響を受けているのだと思います。今、国自体がさばきを受けています。
 イスラエルの歴史を、一つのスケールで見るとき、彼らが偶像礼拝の罪に陥ったとき、必ず国にさばきが来ました。そして後の世代がアッシリアに捕囚にされたり、バビロンに補囚されたり、色々な問題に巻き込まれました。イスラエルに起こったことは、私たちの国にも起こるのです。また、人生の中にも起こっています。
 家系の中にある全てののろいから解放されるために祈るべきです。家系の中につながっている悪魔の綱が断ち切られるときに、主が素晴らしい御業を私たちの中に起こしてくださいます。
 「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」という言葉には裏付けが必要です。家系の束縛の綱が断ち切られるとき、この御言葉が現実のものとして前進すると信じます。今週ぜひ、自分の家系に、どのような偶像礼拝の罪が入っているかについて、具体的に関心を払っていただきたいと思います。それを主の前に出して、「主よ。私の家系の中にこんな偶像礼拝の罪があります。こんな悲惨な歴史があります。どうか束縛のつながりを断ち切ってください。」と具体的に祈ってください。これは御業が現される大きなポイントだと信じます。
 先日もここで、大きな病から癒されたという証がありました。それも家系的なのろいからの解放を祈った時に起こりました。そのような綱が断ち切られると先祖からの悪しき力家系を覆わなくなります。次の世代にそのような悪しき束縛を運ばなくて済むのです。素晴らしいことです。
 聖書にはそのことが預言されています。エレミヤ書三十一章二十七節から三十節に、

『見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。・・主の御告げ。・・その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。』

 こんな話を聞いたことがありますか?お父さんが酸っぱいぶどうを食べたら、子どもの歯に痛みを感じるなどとは聞いたことはありません。しかしこれは家系的なのろいについて語っているのです。お父さんが、おじいさん、おばあさんが偶像礼拝をすると、子どもや孫の歯が浮くのです。
 私たちは色々な問題を見ます。そして問題をどのように解決すべきかと考えます。まず、問題自体について対処しようと考えます。それも重要なことです。しかし聖書は、「お父さん、おじいさん、曾おじいさんの代まで見てください」という、別の視点を提供しています。この視点でも問題を見るべきです。その時に、「父が酸いぶどうを食べたので子ども歯が浮くとは言わない」というのです。続いて御言葉は、

『人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。』

と書かれています。これは個人のものは個人に帰する。父の行為が子どもに帰するようなことはないということです。イエス・キリストに対する信仰は、家系に流れている呪いからの解放を与えるものです。
 先週も多くの方々のために祈らせていただきました。多くの問題を目の前にして、人の問題でも聞くだけで心が暗くなってしまう状況がよくあります。
 最近、新城教会以外からもよく祈りを依頼されます。先週も幾つかの問題について祈りましたが、あるお母さんが涙ながらに女の子を連れて来られました。その子が最近、精神的に行き詰まっていて学校に全く行かず、家から出ることができないのです。聞いてみると家系の中には偶像礼拝が多くありました。その子が不登校になったのには学校での問題があったことも確かです。しかし、偶像礼拝が家系の中にあるならば、必ずその背後には悪魔の後押しがあります。だからそれを砕かなくてはならないと話し、一緒に祈りました。手応えを実感する祈りでした。
 又、先日、小学四年生の男の子が、お母さんに連れて来られ、「この子は今まで学校に元気良く通っていましたが、最近あまり学校が好きでなくなった。行ったり行かなかったりしているので祈ってください。」と言われました。それで祈りました。なぜ行くことができないのかと聞くと、「いじめられる」と言いました。上級生や同級生からいじめられ行きたくないと言いました。私は、「男なら、やられたらやりかえせ。」と聖書的でないことを教えました。昔、私はよく喧嘩をしていたので喧嘩の仕方を教えてあげました。「負けるな!」と言って細かく作戦を立てて上げました。
 しばらくすると報告を聞きました。「順先生。やった!」と言いました。何があったのかを聞くと、彼は四年生ですが、六年生の男の子をやっつけたというのです。六年生が泣いて家に帰ってしまったと言いました。素晴らしい勝利だと思いました。良かったと思いました。彼には自信がつきました。もういじめられない。
 しかし、また不安が来るらしいのです。夜になると「明日、学校に行きたくない」と力をなくしてしまうそうです。その子のために毎日祈りました。一回祈ると少し元気になって学校に行くけれど、またしばらくすると駄目だとなってしまうのです。
 その時お母さんが一緒に祈りに来ていましたが、祈っている時、毎回、瞬間的に幻を見せられていたそうです。それは、ヤマタノオロチのような蛇が見えたそうです。祈ると何度も出てきたそうです。気のせいかと思いましたが、毎回のように出たというのです。「もしかしたら、私の家系の中に何か悪魔の力が働いていて、子どもの中に問題が起こっているのかも知れないので祈ってください。」と言われました。少し家系を調べてみると、やはり偶像礼拝が入っていました。蛇を祀っているような神社を拝んでいた家族だったので、「偶像とのつながり、悪霊とのつながりを断ち切ります」と祈り、「イエス様の御名によって家系の中に働いている蛇のような悪魔よ聞け!おまえを打ち砕く!」と力強く祈りました。するとその時、瞬間的に幻が見えたそうです。何と、蛇がバラバラと崩れていくような幻が見えたそうです。
 翌日から、彼は喜んで学校に行くようになったのです。その日、先生から、「お宅の子供さんは大変なので来てください。」と電話がかかってきていたそうです。しかし、翌日先生から再度電話がかかりました。「今日は彼の目つきが違った。生き生きとしている。どうしたのですか。」と言われたそうです。次の日も朝六時から起きて学校に行く準備をしたそうです。信じられないようなことですが、お父さんが酸いぶどうを食べたときに、「子どもの歯が浮く」ということが起こり得るのです。悪魔はそのような場所に秘密の力を隠しています。そして私たちの中に病を与え、苦しみを与え、恐れを与え、色々と悪いものを家系に持ち込みます。そして、それがあたかも現実的な領域から出たかのように見せかけます。現実的な範囲で右往左往していてもなかなか問題は解決しません。隠れている策略を見い出すとき、主は偉大な事を成してくださいます。今日ここににおられるすべての方が、二度と父の食べた酸いぶどうによって歯が浮くようなことが起こりませんように。背後の力が完全に打ち砕かれますように。そして、イエス様が真に言葉をかけてくださいますように。

 「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
この御言葉を受け取ってください。御言葉の剣を受け取って家系の束縛が完全に砕かれまするように。綱が断ち切られるますように。「その時、そこには私は病気だと言う者はいない」とあります。今から、祈ります。

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