今週の礼拝メッセージ
1999.11.28(SUN)
全ての人を右側に
新城教会牧師 上條実

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ルカの福音書12章16節〜21節
それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
 ハレルヤ!早いもので今週水曜日にはもう十二月になります。少し気の早い質問かも知れませんが、皆さんにとって今年はどのような年だったでしょうか。新城教会の事を考えてみても、感謝の連続であったと思います。一番の感謝はやはり多くの方々が洗礼を受けられたということです。残る一ヶ月の間にも洗礼を受ける方が多く与えられるように更に祈っていきましょう。また多くの結婚式があり、新家庭が誕生したことは素晴らしい祝福でした。また他にも多くの祝福を頂きました。しかしこの日本の状況を見る時、考えられない事件や災害が今年ありました。先週も驚くようなニュースがありました。お受験の事で、他人の子を絞め殺してしまうという痛ましい事件がありました。このような事件を見る時、日本はどうなってしまったのだろうかと思います。日本は病んでしまっています。私たちは日本の救いのために更にとりなしの祈りをささげなくてはと痛感します。色々なことがあった今年、といっても十一ヶ月間ですが、あなたにとって今年はどうでしたでしょうか?どんな一年だったでしょうか?あなたも色々な事があった一年ではないかと思います。ではあなたは今年、何に燃えて頑張って来られたでしょうか。何を神に求め続け、何に生きがいを感じて生きてきたでしょうか。何に一番労力を費やしてきたでしょうか。ホセア書六章三節には、

『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。』

と書かれています。ある人はこのみことばのように「私はイエス様に熱く燃えて仕えてきました」と言われる方があるかも知れません。そのように言える方は大変素晴らしいことです。しかし、仕事をされている関係上、時間のある時に奉仕させて頂きましたと言われる方が、ほとんどではないかと思います。またある方は「結婚」を控え、結婚の準備等で一年が過ぎてしまったという人もいるかもわかりません。また学生ならば勉強に一年間頑張っていたと言われるかも知れません。また仕事に熱中してきたと言われる方、趣味に時間を費やしたと言われる方もいるかも知れません。しかしある人は平凡で、単調な毎日を過ごしてされたかも知れません。これといって何をしたんだろうと考えてしまう方もいるかも知れません。そんな中この頃、私の心に先ほどお読みしましたルカによる福音書十二章二十節の御言葉が響いています。

『しかし神は彼に言われた。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」』

これは強烈な言葉です。一年間色々な形で過ごしてきた皆さんですが、今あるのはただ神様の恵みしかありません。自分でいのちを管理しているかのように思いがちですが、私たちは神様によって生かされています。私たちのいのちを握っているのは神様です。一生懸命、時間と労力をかけ、目的を持って備えて来たとしても、今日神様から「愚か者。おまえのたましいは今夜取り去られる。そうしたら、おまえが用意したものはいったいだれのものになるのか。」という御言葉をあなたに言われてしまったらどうでしょうか。私は先週ずっとこの御言葉が心から離れませんでした。今自分がいのちを失ったら何を残す事ができるだろうか。小さな家、車などの神様が与えて下さった少しの財産があります。しかしそれも全部置いていかなければならない。今生きがいを感じて行っている事も、ストップしてしまう。死をむかえてしまったら、今まで一生懸命やってきたこと、汗水を流し、苦労して貯めてきた物も全部この地上に置いて行かなくてはならない。このようなことを思うとき、今私は何を求めて生きているのだろうか。神様に喜ばれる日々を過ごしているだろうか?知らず知らずの中で、私たちは一番大事な物を今見失ってしまっているような気がします。一番大切な事に目を留める事を忘れてしまっている事に気がつきます。
マタイの福音書二十五章三十一節から三十三節に、

『人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。』

とありますが、神様はまもなく帰ってこられます。またいつどの様になるか、明日のこと、いや一秒後の事すらわからないのです。今日は「全ての人を右側に」というテーマで学んでいますが、羊を右、山羊を左に置く事が来る。みことばはハッキリと語っています。神様を信じている人は右側の天国へ、信じていない人は左側の地獄に行かなければならないということです。聖書は一点一画変わらない御言葉ですので、厳粛に受けとめるべきです。このように右と左にわけられるときが来るのです。聖書は、熱いか冷たいか、白か黒です。二つに一つです。あなたは右、左どちらですかと言われたら、どう答えられるでしょうか。 先週十七日水曜日にユースプレイヤーという中高生の集会でメッセージをさせていただきました。その時、中高生が皆天国に行くことができるようにということで、今日開きましたルカの十二章の御言葉を学びました。その時中高生に質問しました。ほとんどの子がクリスチャンホームの子です。メッセージの中で彼らに質問しました。それは今までの中で自分が地獄に行ってしまったという夢を見たことがあるかと聞いてみました。すると、ある中学生がこんな事を語ってくれました。「自分が死んで神の前に立ったとき、名前を尋ねられました。○○ですと言うと、コンピューターで名前を入力して調べていた。どのような結果が出たかは覚えていないが、ものすごく恐かった」と言っていました。また昨日の子どもの集会であるホサナクラブでも同じ事を聞いてみました。するとひとりの女の子が夢の中で「お母さんの言うことを全然聞かなかった途端、目の前から皆が消えたそうです。それは再臨だったそうです。自分だけ残されてしまい、「やばい。おいて行かれてしまった。地獄だ。」と思って恐怖に脅えたそうです。その時お母さんが「起きなさい」と言われ、起きて夢だとわかってホッとした」と言うのです。私は子どもたちに質問しました。今自分が神様の前に立ち、堂々と右側、天国に行けれると思う人は手を挙げてくださいと聞いてみました。すると誰もいませんでした。全員左側に分けられてしまうと言っていました。そのためみんなで真剣に悔い改めの時を持ちました。あなたはどうでしょうか。正直に自分の生活を考えるとき、右側に分けられる幸いな人でしょうか。右か左かどちらかです。皆さんはイエス・キリストこそが救い主だと信じています。しかし今日もう一度自分を点検していただきたいと思います。今日もこの後聖餐式を行いますが第一コリントの十一章二十八節には、

『ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。』

と書かれています。どんなに成功していたとしても、地位や名誉を持ったとしても、また幸せな家庭を築いたとしても、最後は全て地上に置いて行かなくてはなりません。そして右か左かどちらかに行かなくてはなりません。ですから今日自分を吟味しましょう。悔い改める時を持ちましょう。私たちに神様が求めているのは、聖さです。イエス・キリストの十字架の血潮によって私たちは贖い出されました。罪を赦していただいたのです。その事の故に右側に行くことができます。ひとりひとりが自分を吟味してとあるように吟味して、悔い改めることがあったなら徹底的に悔い改め、十字架の血潮によって贖っていただきましょう。あなたは、人間的な標準で神様を知っていませんか。このくらいだったら大丈夫だと自分なりに御言葉をプラスαしたりマイナスしたりして基準を作っていませんか。一点一画変わらないみことばにも関わらず、あなたは自分なりに基準を持っていませんか。私も礼拝でメッセージするために一週間緊張しながら祈り備えておりました。聖くなければ皆さんの前で語ることができないからです。その中で罪に対して、このくらいだったら大丈夫、メッセージに響かない・・・などと判断している自分がありました。はっきりと聖書が語っているにも関わらず、自分の基準で考えていました。聖書は羊は右、山羊は左と言っています。神様が私たちを調べて右か左かを決められます。私たちはもう一度自分を吟味する時を持ちましょう。救われているのはただ恵み。イエスキリストが私たちの罪のために十字架にかかり、葬られ、三日目に甦って下さった。十字架の血潮によって私たちの罪は赦されたことを信じましょう。十字架の血潮を仰ぎ、みことばをそのまま受け入れる者とさせていただきましょう。今日もう一度十字架の意味を覚え、私たちが天国に行けることの素晴らしさに心を留めましょう。天の御国に入るという事、これほどの祝福はありません。どんなにお金を積んでも買うことができない高価な贈り物です。今色々な問題、また、病いや問題などで苦しんでおられる方もいるかも知れません。しかし、それらのものは全て地上の事です。永遠に目を留めて下さい。あなたを救うためにイエス様は十字架にかかって下さいました。あなたは最高に価値ある人間です。あなたのために王の王であるイエス様がいのちを捨ててくださいました。あなたのために御苦しみを受け、三日目によみがえってくださいました。それはあなたの身代わりとなって死んでくださったのです。私は永遠を天国で過ごすことができるのであれば、天国の端の一番惨めな場所でも結構だと思います。とにかくさばきの場所ではなく、祝福の場所である天の御国へ入れていただきましょう。ですから今日もう一度自分を吟味して聖餐をいただきましょう。儀式的にならないように注意しなくてはなりません。マンネリ化にならないで下さい。あなたのための十字架です。あなたのための血潮であり、あなたのための肉なのです。マルコの福音書二章五節には、

『イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」』

と書かれています。今日このみことばは悔い改める者に与えられる祝福のことばです。「子よ。あなたの罪は赦されました。」と語っています。私であれば「上條実の罪は赦されました。」ということです。何という祝福でしょうか。これが私たちの一番の願いです。永遠の命を与えて下さるのです。ですから、今日この御言葉を自分の御言葉として受けとめ、徹底的に悔い改めていきましょう。悔い改めることはある時は恥ずかしいと思います。私は牧師の家庭に生まれましたので、いつも集会に出ていました。しかしメッセージを聞いて聖霊によって罪が示された時、人を気にして涙を流して悔い改める事ができませんでした。今更悔い改めるという姿を見られるのは一番恥ずかしかったのです。イエス様を信じて、悔い改める人は前に出てきなさいと言われても、自分は出ていきたくないという見栄がありました。しかし、今日はあなたはそういうことをやめましょう。人がどの様に見ていようが、神が右左に分けられるのですから、永遠に目を向けて徹底的に悔い改めて祈ろうではありませんか。ある人に謝らなくてはならないと思ったら悔い改め、物を借りて返していないと思ったら返してください。この地上でどのようなことがあっても全てのものは地上に置いていくのです。私たちは、まず右側に分けられるの者にしていただきたいと思います。
 そして自分だけが右側に分けられる者であってはいけません。今日のタイトルのように「全ての人を右側に」入れなければいけません。十二月は一番伝道しやすい時です。クリスマスだからです。八月の盆の時に「教会に来ませんか。」と言ってもなかなか皆の目との足が教会に運ばれません。今私たちは日本の民のために祈っていますが、その人たちがどちら側に進んでいるのかご存知でしょうか。左側です。今日本人は左側に大行進しています。このことに聖霊様によってもう一度目を開いていただくべきです。マタイの福音書二十五章四十三節からに、

わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

と書かれています。「最も小さいもののひとりにしなかったのはわたしにしなかった」と書かれています。神様はそれで私たちを測っています。その基準で右か左に分けています。右側に行く人はもっとも小さなしもべたちに愛を注いで行くべきです。今日私たちはもう一度愛の足りなさを覚えるべきです。確かに私たちは家族や友だちを愛しています。しかし、今日は神様の目から見た愛をいただきたいと思います。もし皆さんの家が火事になったら、皆さんはすぐに消火作業をします。しかし、間に合わなかったらすぐに皆に注意を呼びかけて安全な所に避難させます。あなたの身内の一人が家の中に取り残されていたならあなたはどうしますか。我が家でそんな時があったとしたら「長男は金がかかるから良い・・」と言って置き去りにするようなことは絶対にありません。家族の愛があるからこそ、「危ない。火事だからすぐに起きて逃げよ・・」と避難を呼びかけます。また、時々事故を見ます。もしあなたとあなたの友達二人だけで周りに誰もいない時に友達が何かの病気で倒れたとします。そうしたら必死になって、誰かを見つけて救急車の手配をたのんだり、介抱するでしょう。その人を助けるために精一杯尽すと思います。これは人間の義務です。しかし、聖書に右と左とはっきり分かれられると教えているにも関わらず、私たちが人間社会ではする事を、霊的な部分で私たちは怠っています。霊的には全く愛のない者です。自分の家族のためには祈っていると思います。しかし隣り人には、近所の人には祈らないのです。こんなに今この世の中が狂ってしまい、どのような事件が起こっても不思議ではないような状況にあります。昨日生きていても、いや一秒前まで生きていた人が事件や事故で亡くなってもおかしくないような時です。「今夜おまえのいのちが取り去られる」この御言葉はまさに私たちの周りで何時起きてもおかしくない状態です。私たちは家族が救われてほしい、家族のために伝道しなくてはならないとわかっていますが、声を出して避難しなさいと叫ぶことができません。また、隣り人のために声を出すことができない。良きサマリヤ人の内の祭司やレビ人のように、見て見ない振りして通り過ぎてしまう。霊的にそのような状況です。あなたの隣に住んでいる人、会社で共に働いている人・・・いろいろな人たちを見たときに私たちは何とも思わないでいませんか。逆にその人に対して憎しみや敵対心をもち、人間関係で険悪となり、もうあの人は関わり合いたくないなどと許せなくなっています。もっとも小さな人に愛をかけられていない人。それは私たちではないでしょうか。左側、さばき側にすべての人が大行進している今。私たちは「隣人を自分自身のように愛しなさい。」自分自身のように愛して叫ばなくてはいけません。まず私たちは徹底的に自分を吟味し、悔い改め、次に大声で、「左側に行ってはいけない。そっちは地獄だ」と皆で叫んでいきたいと思います。このクリスマスの時に教会では多くの集会があります。私はどれに参加しようか。「私は壮年会だから、壮年のクリスマス」と考えないでください。これら全ての集会はまだ神様を信じていない、左側に向かっている方々のために、開催される集会ばかりです。それらの集会にあなただけが参加しても仕方がありません。クリスマスの伝道会は神様を知らない人が参加して欲しいです。あなたは犠牲を払うべきです。新しい方を中心に、あなたもスケジュールを立てて下さい。あなたがこの日が都合が良いからお誘いするのではなく、新しい方、お友達が都合の良い時に合わせてあなたが犠牲を払って参加しなければなりません。愛を持たなければいけません。あなたがその日都合が悪くても、あなたが犠牲を払って友達の都合にあわせて参加してみて下さい。今この礼拝中にも多くの人が会堂の前を行き来しています。私たちは道に出て行って「左は危ないから右側に行きなさい。」と叫ぶべきです。黙っていてはいけません。聖書は、私たちが黙っていたら石が叫ぶと書かれています。私たちは神様によって伝道のために唇が与えられています。今日その一歩踏み出してください。
「もっとも小さな者のひとりに」と書かれています。急に大胆になって路傍伝道に行きなさいとは言いません。まずあなたの一番身近な人から始めたらどうでしょうか。あなたの都合をその方に会わせてクリスマス集会に参加しませんかと誘いましょう。神様には不可能なことはありません。あなたがするのではありません。聖霊様がその方を捕らえてくださいます。あなたが神様のために自分の時間をささげた時、神様は決してその時間を無駄にはされません。聖書は種を蒔いたら三十倍、六十倍、百倍の恵みを与えてくださると約束しています。私たちはもう一度このことを覚え、神様の前に悔い改めると同時に、大きな声で左側に行っている「全ての人を右側」にと叫びましょう。神様の油注ぎと力によって伝道していきましょう。お祈りします。

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