今週の礼拝メッセージ
1999.12.5(SUN)
教会に与えられた主の権威を使おう
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 使徒の働き19章11節〜17節
神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみた。そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と言った。そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。
  ハレルヤ!紀元二千年にむけ、新城教会にとっても区切りの時が来ました。計画したわけでもありませんが、新城教会は宣教五十周年になります。また、会堂が建って二十周年になります。そして、父も七十才になったということで来週は新旧交代がなされます。今神様が、目に見えない世界で変革を与えておられると思います。
 教会堂の外壁が塗装され、美しくなりました。教会の目で見えない姿の変革は外面にも現れると思います。ですから、今回外壁がきれいになったのは、新城教会が霊的な世界でも一新されたと信じます。ただ、汚れていた所を隠しただけだとは思わないで下さい。今回工事を見て感動しました。初めに高圧水で洗い、十七メートル上の十字架の色あせたところまでも削りとり、汚い部分を落としてから下塗りをし、上塗りされてこのように美しくなりました。
 同様に、すべての罪の汚れも十字架の血潮によって削り取って、新しい白い衣を着せて下さいます。迎える年が素晴らしいリバイバル年となるように祈っていきたいと思います。
 また、十字架にネオンが付きました。これは長谷川兄姉が献品してくださいました。夜十字架が遠くからもはっきり見えます。二、三日前、夜十時頃外に出ると、ピカッと光りました。何かと思うとフラッシュでした。田圃の方から光りました。すると、一人の少年が写真を撮っていました。「あまりに教会が、きれいだったから写真を撮りに来た。」と言っていました。私は彼に日曜日に来るように言いました。(礼拝に来られました!)神様が既に実を見せて下さっています。
 ぜひ、私のためにも祈って下さい。今度、主任牧師という立場になるので少し緊張しています。なぜならば、宗教法人に私の名前が登記されるからです。宗教法人はご存知のように色々と問題を起こしています。教会はすでに法人に属していますが、その中に私の名前が入れられるということは、ある意味で、霊的な権威の中に入るということです。私の名前が登記されたとしても、悪魔の権威下ではなく、神の権威の上に立ちたいと願っています。
 以前、礼拝メッセージは、教会に与えられた神の権威の宣言だと学びましたが、今日は神が与える権威の上に立つ、という宣言として語ります。
 今日お読みした箇所は、パウロがエペソに行ったときのことでした。そこで大きなリバイバルが起こりました。エペソは女神ダイアナが主神として拝まれていました。町は偶像で満ちていました。考古学的に調べてみても、その町は偶像で溢れていたことが分かっています。しかし、パウロがエペソに行ったことにより、町が変わりました。女神アルテミスの威光が落ちるほどの大混乱が町に起こり、町が変えられました。彼の働きは大きなものでした。聖霊がともに働いておられたからこそ、そのようなことが起こりました。一人一人が聖霊に満たされて、町や国に遣わされるときに、大きな御業を現して下さいます。当時の大都市エペソが変えられたのを見るとき、日本も大きな希望を持つことができます。十九章十一節から十二節に、

                                                     『神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。』

と書かれています。パウロが祈った為に悪霊が追い出されたのであれば話がわかりますが、多分、あまりにも多くの人が集まっていたので、彼はその場所に行くことができなかったのでしょう、彼の手ぬぐいや前掛けを持って行って病人の上に置いたら病人は癒され、悪霊が出て行ったというのです。
 イエス様は昔も今も決して変わらないお方です。聖霊様の働きは昔も今も同じです。ある人は、聖霊の働きは聖書の時代に限定されていたと言います。もしも、聖霊の働きが限定されていたとしたら、今を生きる私たちにとって、将来は何の望みもありません。なぜなら、二千年前よりも今の方が問題が多いからです。この時代に聖霊様の働きがないとしたら、私たちには何の希望もありません。私たちの神様は昔も今も同じように働いて下さるのです!信じて下さい。昔パウロとともに働かれた聖霊ご自身は、今もこの場所におられ、あなたと共に働いて下さいます。今日も主があなたと共におられます!
 なぜ、パウロの手ぬぐいや前掛けでさえも病が癒され、悪霊が出て行くというすごい奇蹟が起こったのでしょうか。
 聖書の中に霊的世界の法則を見ることが出来ます。教会に来て現実的な生き方を学んでもあまり価値はありません。それなりに良いこともあるかも知れませんが、目に見えない霊的な法則を知らなくては何もなりません。目に見える法則を教えてくれる所は社会に多くありますが、目に見えない法則は聖書からしか学ぶことはできません。
 しかし、私たちよりも悪魔の領域に属する人たちの方が霊的原則についてよく知っています。年の暮れになると札が回ってくることがあります。何々神社の札とか、お守りが回ってくるかも知れませんが、受け取らないで下さい。札やお守りはただの紙だと思うかも知れません。紙ペラで、何の力もないと思いますが、そこには霊的世界の原則が働いています。原則は神が造られた原則です。しかし、それを悪魔が横取りしています。その原則を自分に当てはめて働くのです。
 今日私たちは聖餐式を行います。これは霊的世界の原則です。この原則をしっかりと受け止めて聖餐式に与ると素晴らしい祝福がもたらされます。第一コリント十章十四節から、

『ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。私たちは賢い人たちに話すように話します。私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。』

と書かれています。私たちが受けるぶどうのジュースは、「イエス様の十字架の血」だと書かれています。パンは、「イエス様の裂かれた肉」です。なぜ、ジュースがイエス様の血ですか。なぜ、このパンがイエス様の肉ですか、と言われるかも知れません。これらはスーパーマルイチから仕入れたものです。これからぶどうジュースを買うときは少し緊張しなければなりません。又、これからパン屋さんに入るときにも緊張しなければなりません。しかし、すべてのジュースやパンがイエス様の血であり、肉であるということではありません。なぜ、聖餐式のパンとジュースがイエス様の血であり、肉でしょうか。第一コリントの十章を読んでみて下さい。その書き出しは、

『そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。』

と書かれています。それは、聖霊による祈りがそこに置かれるとき、それが御霊の飲み物、食べ物になるということです。だから今日は聖霊様により、御言葉と共に聖餐式を行うとき、ただのジュースが、イエス様の血潮と関連付けられるのです。また、パンもイエス様の肉と関連付けられのです。そのような中で十章十九節から、

『私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。』

と書かれています。日本人はよく偶像にささげた食物を食べます。それは、別にその食物が悪いのではありません。しかし、偶像にささげたということは、悪霊にささげられているという事なのです。結局、それが悪霊と関連付けられるのです。ということは、偶像にささげた物を食べることは悪霊と関連付けがされるということです。また、札やお守りを受け取ることは、悪霊との関連付けが出来て危険です。本来ならば、聖霊様との関連が付けられなくてはならないのを、悪魔はその法則を裏返して自分との関連付けを利用しているのです。それを知るとき、偶像を持ち続けることは出来ません。なぜなばら、それを持っていることは悪霊に対する「祈りを持っている」ことと同じだからです。
 パウロは自分の手ぬぐいを渡して奇跡が起こりました。しかし、パウロが偉大であったので、それらに神の霊が宿っていたとは考えないで下さい。それはアニミズム的な考え方です。日本人はアニミズム的な体質を持っているので、すぐに物体に霊が宿ると考えがちです。だから、ある人は聖書の「本」の中に神の霊が宿っているのではないかと思います。そうではなく、御言葉との関連性の中で神が働いて下さるのです。パウロが持っていた手ぬぐいについて、その中に神の霊が宿っていたと考えると日本特有のアニミズム的な体質に含まれます。パウロはその上に祈りを置きました。手ぬぐいを受ける人が神の祝福を受け取るように、と関連付けを祈ったのです。それらを受け取ることはパウロからの祈りを受け取ると同じことです。聖霊様との関連付けの祈りの中で癒しが起こり、悪霊が出て行くという奇蹟が起こったのです。私たちも聖霊ご自身との関連付けを祈ることが大切です。
 時々、伝道し難い状況があります。主人がクリスチャンではないけれど、どのようにして伝道したら良いかと考えます。また、直接祈ってあげられない時もあります。親がまだクリスチャンではなく、病気で入院しており、祈ってあげたいけれど、とどまってしまうことがあると思います。ご主人がまだクリスチャンではなかったら、ご主人の洗濯物に手を置いて祈ると良いと思います。「神様、主人が服を着ること自体が、祈りを受け取ることになりますように。神からの祝福が注がれ、悪霊がそこに近づくことがないように。」また病の場合は、「この手ぬぐいを受け取ることが、祈りを受け取ることとなり、病の癒しとなりますように。聖霊様の関連付けをここに置きます。」
 私たちはどこにも聖霊様との関連付けの中で祈りを置くことができるのです。悪魔の陣営はそのことを良く知っています。山に登ると、頂上には偶像があり、町に対する祈りがそこに置かれています。それは決して祝福ではなく、のろいです。この近くに本宮山がありますが、山頂に岩があり立て札があります。「この町を作ったのは○○の尊」と祈りが置かれているのです。関連付けがされているのです。私たちはそれを打ち破ってイエス様の名によって町の祝福を祈るべきです。
 学校で隣の友だちが消しゴム貸してと言ったら、祈りの関連付けを置いて貸して下さい。「神様。これを使う友だちが救われますように。」と祈ってから貸すべきです。私たちの回りには祈るべき領域がたくさんあります。私たちが霊的な法則をしっかりと捕らえ、悪魔の策略にかかることがなく、神様の法則の中に生き、その法則を使うならば、素晴らしいことが起こされると信じます。
 パウロの働きは力強いもので、人々が目を見張るようなものでした。それを見て感動した人達がいました。使徒の働き十九章に、  

『ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみた。』

それは、ユダヤ人の魔除け祈祷師たちでした。彼らは、悪霊が出ていくという権威に驚きました。「イエスの名前を使うと悪霊が出ていくから、私たちも使ってみよう」と、スケワという祭司長の七人の息子たちがまねをして使ってみました。そして、「イエスの名によって悪霊よで出て行け」と命じました。しかし、悪霊は出て行かず、「おまえは何者だ」と言って、ぼこぼこにやられてしまったのです。
 この箇所を読むと、魔除け祈祷師など、悪霊の領域に属しているのだから、イエス様の名前を使っても無理だと思います。しかし、よく読むと、この祈祷師たちが悪霊の領域に属していた祈祷師か否かはさだかでありません。チャールズ・クラフト師の本を読んだら、このことについて書かれておりましたので調べてみました。
 彼らはユダヤ人の魔除け祈祷師でした。彼らの父親は祭司長でした。ユダヤ教は偶像を認めない宗教です。そのような中で彼らは祈りながら全国を巡回していました。「魔除け祈祷師」とは名前が悪いですが、多分、家が祝福されるようにと、旧約聖書的な祈りをささげていた人たちであったのでしょう。それで彼らはイエス様の名前を使いました。
 パウロは昔パリサイ人でした。しかし、イエス様を信じ、イエス様の名前を使っていました。魔除け祈祷師は祭司長の息子たちでユダヤ教に属していました。そしてパウロの働きを見て感動していました。イエス様の名前を使うと奇跡が起きると、ある意味でイエス・キリストを信じました。それで、イエス様の名前を使いました。しかし、効果がありませんでした。良く考えてみたら、同じような立場の中でイエス様の名前が使われています。しかしながら、パウロの働きでは悪霊が出ていきましたが、スケワの七人の息子達はぼこぼこに殴られて大変な目に遭いました。彼らとパウロではどこが違うのでしょうか。パウロは聖霊に満たされていたと言われるかも知れません。しかし、バック・グラウンドはイエス様なので、何も殴られなくても良いはずです。何らかの効果が出ても良いはずです。
 さて、パウロは人生の晩年に神様からの啓示を頂きました。それは教会と霊的戦いについてでした。それがエペソ人への手紙に書かれています。教会と霊的戦いがどのようなものであるかが書かれています。
 「使徒の働き」を見ると、パウロは時に霊的戦いを強調し、ある時は強調していません。パウロはあまり霊的戦いを強調していないから、戦いはあまり重要ではないと言う人がいます。しかし、違います。エペソ人への手紙は、パウロの生涯の終盤、ローマにおいて書かれました。彼の人生の中で、起きたことについて考え、主の前に出ました。その時に、神がパウロに一つのことを鮮やかに教えました。特にエペソにおいての出来事でした。それが使徒の働き十九章に書かれています。
 スケワの息子がぼこぼこに殴られ大変な目にあったことがきっかけでリバイバルが起こりました。アルテミス神殿に行く人もいなくなったのです。その時に、アルテミス神殿の恩恵で生きていたデミテリオという人物が怒り始め、騒ぎを起こしました。そのことが十九章の後半に書かれています。「偉大なのはアルテミスだ」と叫んで人々が騒ぎだし、大混乱になったと記されています。そのことをパウロはローマで思い起こしました。その時神が、「あれはただの出来事ではなく、霊的戦いである」とパウロに教えたのです。それで急遽、パウロはエペソの教会に手紙を書きました。それがエペソ人への手紙です。六章十二節に、

『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

と書かれています。私たちの戦いは決して血肉ではなく、霊的なものだというのです。私たちが教会において経験する戦い、クリスチャン生活の中に起こってくる事件は、ほとんどが目に見えない霊的な世界が現実の世界に現されていることです。パウロは最初、エペソで起こった事件を、利害関係のトラブルにしか思っていませんでした。しかしそうではなく、騒動は霊的な世界での戦いが現されていたのに過ぎなかったと教えられたのです。
 今、色々な問題の中にある方がおられるかも知れませんが、決してそれは、目に見える現実だけではないのです。特に、信仰生活という関わりの中で、私たちに起こってくる現実は、必ず目に見えない霊的な世界との関わりがあるのです。ということは、目に見えない世界での戦いがないと、現実の世界は変えられないということです。そして霊的戦いが、どのように進むかについてパウロはエペソ人への手紙に書いています。三章十節から十一節に、

『これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。』

「天にある支配と権威」と書かれている「天」とは、エペソの六章十二節の「天にあるもろもろの悪霊」とある、「悪魔の支配、権威」に対して知恵が示されるということです。それは、個人の権威ではなく、「教会の権威の中で霊的な戦いが進んでいく」という意味です。パウロは教会に与えらている権威について気がつきました。
 パウロが命じると悪霊は出て行きました。しかし、七人の息子たちが命じたときには悪霊は出て行きませんでした。どこに違いがあったのでしょうか。パウロがエペソに行ったのは、「エペソ教会を建て上げるため」でした。そのために彼は行きました。しかし、スケワの息子たちは、「魔除け祈祷」ということで全国を巡回していたのです。彼らには、「教会」という概念がありませんでした。だから、イエス様の御名を使っても勝つことができなかったのです。パウロがなぜ、戦いに勝つことができたかというと、エペソ教会に根ざしていたからです。私たちが悪魔に勝利する、特に、悪魔が持っている支配や権威に勝利するために必要なのは、「教会に根ざす」ということです。それは教会に神が与えて下さっている権威を使うことです。今日、私たちは教会に集っていますが、この教会に根ざしていくことが重要なことです。教会に根ざすことは、「教会員」という意味とはちょっと違います。それは、「霊的な権威とのつながり」です。私たちが教会の権威に立って戦いを進めるならば、悪魔は決して教会の権威に逆らうことができません。教会はそのような意味において、世界で一番強い軍隊が戦っても勝てない悪魔に勝つことができる場所です。
 先週、ある方から電話がかかってきました。二人の婦人の方でした。互いに祈りあったそうです。ある人が憎しみから解放されるように祈ったそうです。憎しみは恐ろしいものです。「怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」と書かれていますので、憎しみの背後には必ず悪霊とのつながりがあります。だから、憎しみの霊とのつながりを断ち切りますと祈ったそうです。すると、途端に不思議なことが起こりました。女性の方なのに、男性の声で「ウー」とうなりだしたそうです。そして「おれは出ていかないぞ!」と暴れ出したそうです。大変なことになったそうです。「出て行け。」と言っても「嫌だ。おれは、絶対に出ていかない。」と言って大騒ぎになったそうです。その時に悪霊が出てきた人に幻が見せられたそうです。それは、「イエスの御名によって悪霊よ出て行け」と祈られると、五匹くらいの小さな蛇がぞろぞろと逃げて行くそうです。しかし、しばらくすると今度は竜になって戻ってくるそうです。祈る度にそれが繰り返されたそうです。そんなことがあったのでどうすれば良いかという電話でした。「祈って下さい」と言われましたので、私も祈りました。「神様。どうしたら良いですか。」と祈りました。これは先週の月曜日のことです。その時、教会に与えられている権威において祈るべきだとわかりました。その方が属している教会は霊的な戦いをあまりしていない教会でした。だから権威についてあまり強調されていなかったそうです。「それは、教会の権威に関係があるから、しっかりと教会の権威を受け取って祈るように言いなさい」と主が語って下さいました。それで、この御言葉が教えられ、私は教会の権威を通して悪魔の支配に勝利することが出来ると話して祈りました。すると、神が豊かに働いて下さいました。神が立てられた教会に属していくことはイエス様の権威の下に入ることです。
 私がこの教会を任される中において、祈っていただきたいことは、決して人間的な権威に進むことがないようにということです。神の権威の中で働いていきたいと願っています。決して世の中にある、宗教法人や人間的欲望の権威ではなく、神の権威の中で位置付けられて働いていきたいと願います。教会は一人一人が各器官です。ここに属している一人一人は、神が必要として送って下さっている方々です。牧師が偉いわけでも何でもありません。誰が偉いということもありません。皆が各器官なので、皆が有機的につながり、愛によって結ばれていく時にからだが形成されます。そして、命令系統はどこから来るのでしょうか。頭はイエス様です。イエス様が命令を下さり、肢体がその命令を受け取るのです。そして暗闇と戦い勝利を受けるのです。
 パウロが持っていた手ぬぐいや前掛けで悪霊が追い出され、病が追い出されたということは、彼らがエペソの教会の権威の中でそれを行使したからです。私たちも教会に与えられている権威を受け取って御言葉を実行したいと思います。「主よ。感謝します。今教会に与えられている権威を用いられるように。」祈っていきたいと思います。そして戦いが進むようにと祈るときに、決して暗闇は教会に対して手を出すことは出来ないのです。これがはっきりしないと悪魔は手を出します。しかし、はっきりと宣言するべきです。暗闇に対して、「教会に、おまえは手を出すことはできないことを宣言する。」と暗闇に対して宣言します。
 十二月は多くの人が暗闇に閉じ込められていますが、新しいいのち、将来と希望を受けることができるよう、働いていきたいと思います。お祈りしましょう。

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