今週の礼拝メッセージ
1999.12.12(SUN)
クリスマスの三つの奇跡
有賀喜一師特別講演記録

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ガラテヤ人への手紙 4章4節〜5節
しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
 ハレルヤ!主の御名を賛美します。神様の御心ははっきりしています。それは皆さんの救いと完成です。それはやがて皆さんが新しい天に迎えられるためです。教会は急いでしなければならないことが三つあります。イエス・キリストの喜びの知らせは少しでも早く多くの人に救いを伝えること、人を救うことです。第二に、救われた人が生きた教会、キリストが花婿で教会が花嫁として教会が麗しく整えられることです。そこに愛、いのち、力があります。また第三に、私たちはそのキリストの愛、いのち、力を世の中の人々に愛のわざとして浸透させるものです。そして神様の御心が成されていくことです。そのためにキリストが来られました。このキリストを心から迎えるために四つの日曜日にわたって心を備えるのがアドベントです。アドベントとは「待ち望む」という意味があります。私たちは三つの心で待ち望みます。第一に、キリストが明確に二千年前に確かに見えない神が見える姿になって来られたという変わらない事実を認めることです。このお方が来てくださったことを覚えることです。今イエス・キリスとを信じている私たちの現実に神様が生きておられると覚えるべきです。私たちの生活・仕事・人生にイエス・キリストが生きておられます。第三にやがて約束通りに、新天新地を用意し私たちを迎えてくださいます。その時私たちは、目からも涙が解放され、憎しみ、妬み、いかなる争いからも完全に解放され、悪魔の誘惑から解放され、そこには死も叫びも嘆きもない完全な神の国に私たちを迎えてくださるという栄光の明日を待ち望むのです。過去・現在・未来についてキリストを覚えることがアドベントです。そのようなイエス様をお迎えすることは素晴らしいことです。ガラテヤ人への手紙四章四節から五節に三つの奇跡が書かれています。第一は、「神はご自分の御子を遣わされた」ことです。ここに愛の奇蹟を見ます。ヨハネの三章十六節に、

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』

神様がご自分の一人子を与えられたということに神様の愛の奥義があります。ルカの十九章十節には「人の子が来たのは・・・」と書かれています。神様が与えると言われた愛の心とともにイエス様も喜んで来られたと書かれています。詩篇四十篇八節にイエス様がこの世に来られる前に、

『わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。』

と言われたことが書かれています。天国は未来に私たちが待ち望むところです。そこは完璧な世界で神様の素晴らしい栄光が輝いています。死も、叫びも、嘆きも、涙も、争いもないのです。ところがこの世は神様が造られた完全な世界であったにも関わらず、人が反逆して勝手に神から離れて罪の生活を選びました。その結果、死が世の中に入り、人々の争い、国と国との争い、アダムに与えていた地上の支配が悪魔の手に渡されました。そして悪魔の思い通りに人間が生きるようになりました。そこから救い出すためにこの地上にイエス様が来られました。イエス様が、「天が地と遠いように」と言われているように、その差は恐るべきものです。それを知った上で神様がひとり子をこの世に送るイエス様がその世の中に行くというのです。これはそこに燃えたぎるほどの愛が無くては誰でも躊躇すると思います。しかし、神様はそこに心の底から救うためにはひとり子をこの世に送らなくてはなりませんでした。
 私は第三世界の指導者訓練会に依頼されてハワイのマウイ島によく行きます。昨年も二回行きました。ホノルルで乗り換えていくつかの島の上を飛びます。いつでも左手にモロカイ島という島を見ます。その時にいつもひとりの人物を思い出します。
 モロカイ島の北にカワラオという所があります。そこにはきれいな砂浜があります。しかしその裏側は断崖で絶壁です。一度そこに行くならば海にしか行くことが出来ません。陸地を通って出ることはできません。そのようなところに、長らくハンセン病の施設がありました。きれいな自然界のあるところに送り込まれたハンセン病の人はもう二度と世界に戻ることができません。隔離されて、自分の家、社会から、すべての所から見放され、朽ちていく自分の病気のために死んでいくという悲惨なところでした。ある時、フランスからダミアンという宣教師が送られました。彼が三十二才の時にそこに行きました。患者はダミアンを見て、敵心で来たに違いないと思いました。人々は彼を受け入れませんでした。単なるお涙ちょうだいのような哀れみなどもらいたくない、あなたはこの悲惨さを知らない。しかしダミアンが何年もそこで続けて世話をしているときに、人々を世話している間にやがて自分にも紫色の斑点ができました。彼もハンセン病にかかりました。それを見て施設の人が彼の気持ちが分かりました。そこで彼は十七年間働き千七百人をキリストに導き、天国に送りました。息を引き取るときには天の栄光を待ち望みながら、「イエス様来て下さい」と、「ダミアン先生のゆえに救われて天国にいくことができます」と言って千七百人を天国に送ったと言われています。今でもそこに記念碑が立てられ、「私たちのために命を捨てて下さったと、これによって愛を知りました。また私たちは兄弟たちのために命を捨てるべきです。」という聖書の言葉が記されて残されています。
 クリスマスは第一に、神が私たちのこの恐るべき地上にまで犠牲を覚悟した上で死のためにイエス・キリストが私たちのために与えられました。そこに愛の奇跡があります。クリスマスにキリストを通して神様が私たちを愛しておられることを知って下さい。
 第二には、

『この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。』

 ここに謙遜の奇跡があります。私たちは誰でも父母を通して生まれます。雅子妃に懐妊の兆候があると言われています。これは素晴らしい日本に対する知らせです。一国の象徴となる方に命の世継ぎが与えられることは大きな喜びです。皇室の家に生まれることは、すごいことです。日本中、世界中のニュースになって喜ばれています。しかしイエス・キリストがこの世に来られた時には公の報道はありませんでした。生まれる家系はマタイの福音書一章に王家が書き連なれられています。しかしそれは昔のことで、そのときはマリヤの系図はうらぶれて、いつしか、「家系の中で昔は王様がいたけれど・・・」しかも自分の許嫁ヨセフ、彼は大工、今日、大工が良い収入を受けますが、当時の大工のランクはそれ程に尊ばれませんでした。しかもナザレの町でした。今は売れている人気の名前です。しかし、当時はユダヤの国では皆から無視され、さげすまれるような町の代名詞のようでした。そのような所に神の御子が生まれました。これは考えられないことです。しかし、それをあえてイエス様がなされました。そこに謙遜の奇跡があります。そればかりではなく、律法の下に生まれました。神様がモーセを通して十の戒めを与えられました。しかし、それを守り通すことができた人はひとりもいませんでした。

真の神はただひとりであり、わたしの他に神があってはならない。
神の形を偶像に刻んでもいけません。拝んでもいけません。
神の名をみだりに唱えてもいけません。
日曜日は聖別し、安息日を聖いものとしなさい。

これは、神の人間の関係です。
そして人間関係については、

あなたの父と母を敬いなさい。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
偽ってはならない。
むさぼってはならない。

誰ひとりとしてその律法を守れた人はいません。「私は嘘を言ってはいません」と言います。すると、嘘の始まりになります。しかし、イエス・キリストが来られた時にそのような厳しい状況の中に生まれられました。聖書の中に私たちがイエス・キリストとともにしっかりと生きていくためには、魂の中に大きな変化がなくてはならないとローマ書七章に書かれています。イエス様と私達の関係を夫婦関係に例えています。たとえば、奥さんが起きてみると台所にご主人が起きています。料理がもうできています。また、外に出ると掃除ができています。ご主人がしていました。部屋の中もきれいになっています。そして夫が、「妻は、夫より先に起きて料理、洗濯をして家を切り盛りすること。」と言います。奥さんは、今度は努力と思って起きてみると、いつもご主人が起きています。台所に行くともうできている、外もきれいになっている、奥さんは息が詰まりました。ついに奥さんは、こんな堅苦しい主人のことがたまらない。いっそう死んでもらった方が良い。ところがご主人が突然死んでしまいました。思うとおりになってしまった申し訳ない。しかし、年が若かったので縁があり、もう一人の方と再婚しました。今度は絶対にあのようにならないようにと思い、一生懸命努力し早く起き、料理し、家をきれいに・・・懸命に勤めました。そしてある時、前の主人が残していった妻に対する十箇条が出てきたので見てみました。ところが今全部やっていました。いつの間にか私はあれをやっていた・・・。そうだったら前の主人を殺さなくても良かった。しかし、この例えは、イエス・キリストが十字架に死んだように、私たちも自己中心にしっかり死んでイエス様を真心から主として迎えて生きることを教えています。私達はイエス・キリストを救い主としてだけではなく、すべての人生の主としてお迎えしたら、私たちは徹底してへりくだって謙遜になってこの方と共に神様の奇跡を受けて愛が一杯になったら、喜んで「ハイ」と従うことが出来ます。このような厳しい律法の元にイエス様が生まれてくださいました。第三にガラテヤ書四章五節に、

『これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。』

「贖う」という言葉は、聖書が書かれた当時は奴隷市場の言葉でした。ある主人が今まで使っていた奴隷を市場に連れて行きます。自分はもう少し別の奴隷が良いと思って市場に行きます。そしてその奴隷をまず壇上に上げて、自分が持っていた奴隷に買い手が付き、いくらで買うと値段が決められて奴隷が買われます。そしてその奴隷が新しい主人のものになります。ところがそのご主人が、あなたを自由にしたいのですと言います。その奴隷は驚きます。自分は買われてその主人にこき使われると思ったのが、さあ、あなたは自由になりますと言われるのです。何という奇遇でしょうか。
 そのように自分の前の主人に新しい主人が、自分の値段を払ってくれること、そしてその奴隷から解放してくれることが「贖う」ということです。イエス様が私たちを救い出して下さることは、私たちは悪魔の奴隷になり、死の奴隷となっていますが、その支配から完全に身代金を払い、いのちを捨てて全部の支配権を持ってすべてを解放してくださいました。そして、イエス様は私の奴隷になれとは言わず、自由を与えて、これからあなたは思い切って神様を愛して従って行きなさいと自由にするためでした。
 かつて、私たちは悪魔の支配にいました。そして悪魔の言うなりになっていました。どのように正しいと思っていてもできない、悪いと思っていても断ち切れない。これが悪魔の奴隷にあった証拠です。また私たちは自分の肉欲の奴隷になっていました。デパートに行き、衝動買いをする。またそれのみならず、自己中心の奴隷でした。私はかつて奉仕していた聖書学校に、高後正太郎先生がいました。彼は関東大震災の時に逃げ込んだ三万人の中のたった二人しかて生きて帰れなかった生き証人のうちの一人です。この先生があのような、どさくさ紛れの生きるか死ぬかという時にいかに人間が自己中心であるかがわかったそうです。ご両親から、弟と妹の手をしっかりと結んで逃げるようにと言われました。人混みの中である小さな川で橋が焼け落ちてしまっているところを、どうしても渡らなくてはなりませんでした。一二三で一緒に飛び込もうとしました。その瞬間、弟の握っていた手が放れてしまいました。弟がその川に落ちてしまいました。普通だったら大変だと思います。しかし、その時先生は、「しめた。これで片方の手が自由になって自分は動ける。」と思ったそうです。人間はいざとなると自己中心だと言われました。先生はこう告白していました。幸いにして、弟も妹も助けられたそうです。先生はあのときの自分の姿を考えるとき、救われていない人間の姿を見ると冷や冷やすると言うのです。いつ裏切るかわからない。どんなに顔をあわせてニコニコしていても、いざとなったら捨てる。しかし、私たちはそのような奴隷であった悪魔と肉欲にあった自己中心の奴隷からイエス様が解放して下さいます。救って下さるのです。それのみならず、神の国の身分を与えて下さいます。神の国の身分、私たちは滅んでいく者でありましたが、イエス様が引き上げてくださいました。今まで神様とは縁遠い者でしたが、今は父と呼べる関係にあり、また私たちはキリストとともに神の家族です。今までは人間関係の寂しい中で生きていたのが私たちは神の家族です。

私たちは神の家族 御子イエスとともに
私たちは神の家族 私たちはひとつ

私たちが一つになっていくのです。これは救いの奇跡です。私たちの恐るべき滅びから永遠の命に引き上げていただき、神様と私たちの関係を近づけて下さり、同じキリストの教会の中で神の家族として一つにしてくださる。寂しさも、嘆きも涙もない、完全に解放されて素晴らしい神の家族が作られるのです。ここに神様の奇跡があります。クリスマスを待ち望むことは神が御子を与えられたという愛の奇跡です。御子が女のすえとなり律法の下という厳しい境遇の中で、馬小屋でイエス様が生まれられ、三十年大工生活をし、三年間の公生涯を経て最後は十字架にかけられて死なれ、従順を全うされ神の力によってよみがえられました。そのためには謙遜の奇蹟が必要でした。その結果、私たちの罪が赦され、運命が悪魔からの権威の中で完全な奴隷となっていた中から私たちを解放して下さいました。これこそ救いです。素晴らしい救いです。このようにイエス・キリストが来て下さったことを心から覚え、今そのイエス様が私たちの内に住んでおられることを覚えましょう。だから、私たち今、教会が、急いでこの福音を宣べ伝えるべきです。教会がしっかりと教会らしい神の家族らしく、いのち、愛、力に満ちた教会として世の中に還元し、教会に行けばいのち、愛、力があると言われる所であるべきです。
 また今日、この日に順牧師ご夫妻がこの新城教会の滝元明牧師ご夫妻のリードしてきた教会を引き継いで主任牧師として就任され、更に充実されて前進しようとしています。心からイエス・キリストを迎えると同じ心で順牧師ご夫妻を主任牧師として迎えましょう。クリスマスというこの季節に麗しい神のタイミングでこの日が設定されたことを感謝します。イエス様とともに前進があることをお祈りします。

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