今週の礼拝メッセージ
1999.12.19(SUN)
ベネディクトス...ほめたたえよ
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
新約聖書 ルカの福音書1章67節〜75節
  さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。
 ハレルヤ!クリスマスおめでとうございます。今日は夜、河川敷でのクリスマス集会が計画されています。そのために既に、多くの兄弟が準備に行っています。今朝は七時半から早朝礼拝があり、皆出かけていきました。ぜひ、今晩のフェスティバルにお出かけください。又、今週はクリスマスの催しがたくさんあります。土曜日までびっしりクリスマス集会があります。イエス様が生まれた良き日を心から楽しみたいと思います。
 そのようなわけで、今週の土曜日は遅くまで集会がありますので、次の日曜日は、午後二時から礼拝が持たれます。ですから、二十五日、土曜日のクリスマスフェスティバルは盛大に祝福された時にしたいと思います。
 先日、ラジオで、「イエス・キリストは運の良い男だ」とやっていたそうです。「イエス・キリストは十二月二十五日に生まれて、クリスマスと一緒に誕生日が祝われて運の良い男だ」と言っていたそうです。全くわかっていないところがあります。イエス様は十二月二十五日に運よく生まれたわけではありません。イエス様の誕生日がクリスマスです。イエス様のお生まれを世界中が喜び楽しんでいます。一人の人物のために、こんなに多くの人々が祝っています。世界中がクリスマスに沸き立っています。しかし、イエス様誕生の意味については案外知らない人が多いと思います。特に日本人はわからない人が多くいます。
 日本人は一年間に三回ほど宗教が変わると言います。今週は国民すべてがクリスチャンのようになります。先日もある方に、「お宅でもクリスマスやりますか」と聞くと、「家は仏教だけど、ケーキを買ってきて仏壇にケーキを供えて、それを下ろして食べる」と言いました。でも、二十六日からは神道のようになり、神社に初詣へ出かけます。そして、八月には盆が来て墓に行きます。
 しかし、イエス様誕生の意味をしっかり知るべきです。クリスチャンでも案外、「イエス様誕生の根本的な意味を説明してください」と言われると、知らない人もいるかも知れません。今日読んだ御言葉は、バプテスマのヨハネの父親、ザカリヤが預言した有名な、「ザカリヤ賛歌」です。この賛歌は「ほめたたえよ」という言葉から始まっています。ラテン語では「ベネディクトス」という言葉です。「ほめたたえよ」とは、イエス様のお生まれをほめたたえましょう、ということです。
 ザカリヤ讃歌は新約聖書に出ていますが、これは、ある意味で旧約時代最後の言葉です。なぜならば、イエス様が生まれる直前に語られた言葉だからです。ですから、新約聖書でも旧約聖書パートと言えると思います。同時に、新約聖書最初の預言でもあります。これは旧約最後の預言であり、新約最初の預言です。その第一声が、「ほめたたえよ、ベネディクトス」です。さて、何についてほめたたえるかということです。
 ザカリヤ賛歌には深い意味が込められています。ここには、旧約聖書時代に起こった事柄から、新しい時代に向けての事柄が示されています。ここで「救い」について述べています。
 旧約時代、イスラエルにとって一番大きな救いは、出エジプトでした。イスラエルは四百三十年間、エジプトに捕らえられ、奴隷にされていました。しかし、神はモーセを起こし、紅海が真二つに割れてエジプトから脱出しました。それが彼らにとって、民族的な最も大きな救いでした。ザカリヤ讃歌の念頭には出エジプトの出来事が流れています。「神様は私たちを敵の手から救い出してくださった」という、感謝の思いが根底に流れています。
 今年、話題になった映画に「プリンス・オブ・エジプト」というアニメがありました。もうビデオ屋さんに並んでいると思います。モーセによってエジプトからイスラエルが救い出されたことがテーマです。それは敵の手からの救いでした。そして、この敵の手からの救いがクリスマスの一番大きなテーマです。一章七十一節に、

『この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。』

と書かれています。捕らわれていたイスラエルが敵の手から救われたというのが救いです。そして、ザカリヤ賛歌は第二の出エジプトが起こるという預言です。第二の出エジプト・・捕らわれ人が解放されるのです。そのためにイエス様は神の座を捨てて人類の中に来てくださったのです。
 一章七十四節に、「我らを敵の手から救い出し・・。」と書かれています。敵の手から救い出されるということが救いです。さて、今、私たちは奴隷でも何でもないし、なぜ、敵の手から救い出されなくてはならないのだろうか、と言われるかも知れません。しかしそれは、霊的な意味合いを持った救いということです。これは霊的な敵であるサタンの手からの解放です。それがクリスマスの一番大きな意味です。
 目に見える世界での救い、それは出エジプトでした。エジプトのパロ王からの救いでした。しかし、目に見えない世界での解放、それがサタンの手に捕らわれている人々がイエスキリストによって解放されるのです。
 来年は紀元二千年です。AD2000と言われます。A.Dはアノ・ドミニです。これもラテン語です。この意味は、「主の年にて」という意味です。「主の年にて二千年」ということです。イエス様が生まれて来年は二千年目になるということです。また、この頃よく聞く言葉に、ミレニアムという言葉があります。ミレニアムとは千年期、又は、黄金の年という意味があります。だから、今度イエス様がお生まれになって三千年目に突入するということです。正確に言うならば、二千一年からですが、何しろ来年は紀元二千年を迎えるのです。これは貴重な年です。私たちは紀元三千年を絶対に迎えることはできません。紀元二千年を通過できることを感謝すべきです。千年に一度しかないのです。今まで人類は千年前に、一度だけミレニアムを味わっています。そして今回は第二回目です。次は千年待たなくてはなりません。そして、イエス様と紀元二千年はある意味で大きなつながりがあると思います。
 聖書の年代には諸説があり、「これだ」と特定することができませんが、多くの人が信じているところによると、アダムとエバが造られてからイスラエルの父と言われるアブラハムまでが約二千年と言われます。神様が人間の歴史を始められたのは、アダムとエバの時からです。その前に何があったのかについては、聖書に記述されていません。何しろ聖書はアダムとエバから始まっています。そこからアブラハムまでは二千年です。そして、アブラハムからイエス様までも二千年です。そしてイエス様から来年は二千年目です。計六千年経ちます。そして、聖書のもう一つの法則と照らし合わせると、ペテロ第二の三章八節に「一日は千年のごとく、千年は一日のごとく」と書かれていますから、千年は神の前に一日とみなされています。そのような尺度の中で見てみると、天地創造も六日間で七日目は休まれました。また、十戒の中でも六日間働いて七日目は休めとあります。ということは、六千年間の人類の歴史があり、次の千年間はある意味で休みということかも知れません。
 聖書は預言の本であり、将来起こるであろうということが「黙示録」に多く見られます。それは聖書の中の一冊です。黙示録は難解な書です。ある人が、「黙示録は螺旋階段を真横から見ているようだ、私たちには一本の筋のように見えるけれど、その奥がある」と言いました。二十章には、千年の休みについて書いています。黙示録二十章一節からに、

『また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。』

と書かれています。最後の千年間は御使いがサタンと悪霊を完全に縛り、この地上に悪霊的な働きが全くなくなる時代が来るというのです。
 今の時代は悲しみと苦しみ、叫びが多い時代ですが、その背後に暗やみの支配者、悪魔とその一味の働きがあります。だから、苦しみがいっぱいあるのです。しかし、最後の千年は神様が支配し、悪魔の働きは全部縛り上げられ、彼らは働くことができない時代が来るのです。またそのことと関連して、黙示録の二十一章一節には、

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。』

また四節に、 『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』

と書かれています。何と千年の神が支配される時代には、「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」というのです。そのような時代が来ると預言されています。これは、何時訪れるかというと、イエス様の再臨と共のに訪れるのです。
 次の三千年紀はイエス様の再臨が近づく時代です。皆さんはその為の準備はできていますか。イエス様が何時帰られても喜んで天に行くことができるように準備すべきです。
 私はクリスチャンホームに産まれて、なぜ、信仰を落とさずに今までやってくることができたかというと、それはよく両親が再臨の話をし、「イエス様が何時、帰ってくるかわからないから、しっかりとイエス様を信じていなくては駄目だ」と脅かされたからです。だから私はいつもビクビクして、学校から帰ってきて、「ただ今・・」と言っても何も物音がしないと、再臨ではないかと思ったほどです。私はそんな時のために、二つのチェックポイントを用意しておきました。隣の見城さんには十二人の子どもがいて皆クリスチャンでしたから、そこに行ってだれかいたら良いということでした。それでも駄目なら、岡本さんの家に行けば、当時、おじいさん以外は皆クリスチャンだったので、おじいさん以外の誰かがいたら私はまだ再臨に残されていないと思いました。
 ある時、私が家に帰ると音もなく、声もしませんでした。なんか変な感じがしました。これは第一のチェックポイント行きだと思ったので、隣に行って「おーい」と叫ぶと、何も反応がありませんでした。あの大家族にだれもいなかったので驚きました。背中に冷たいものが走り、急いで第二のチッェクポイントに行きました。「だれかいる?」と呼ぶと、その時、おじいさんが「何だ」と出てきました。私はもう駄目だと思いました。再臨において行かれてしまったと焦ったことがありました。イエス様が帰ってきたときにお会いできる準備をいつもしなくてはなりません。
 私たちは、もしかしたら、死なずしてイエス様の再臨に出会い、天に携え上げられるかも知れません。どうしたら、再臨に対応できるでしょうか。それはただ、イエス・キリストを神の子、救い主として信じているかどうかです。行いではありません。だから、恐怖感を覚えなくても良いのです。皆さんがイエス様を神の子と信じ、救い主であると信じ、イエス様が三日目によみがえられた、今も生きておられる神様だと信じていたら、再臨があっても天国に行くことができます。
 しかし、イエス様がいつ再臨されるかについて聖書にはハッキリと書いてありません。ある人は何年何月に帰ってきますと言います。期限を切るのは異端です。聖書は、はっきりと告げていません。しかし、「こういう時代になってきたら再臨は近い」と前兆については教えています。しかし、神様の前に一日は千年、千年は一日だから、一日延ばされれば千年延びてしまうかも知れませんから、何とも言えないのですが、次の三千目の時代は、ある意味でイエス様のお帰りの可能性が高い時代です。
 イエス様が帰ってくるならば、悪魔が全部縛り上げられ、次の千年間はすばらしい時代がやってくるのです。その時代に生きることを夢見たいですが、この「千年王国」の時代にどのようなことが起こるかについて、黙示録と共に旧約聖書にも預言が記されています。それが、イザヤ書に預言されています。イザヤ書はイエス様が生まれる七百年前の書です。イエス様が生まれる七百年前に再臨後の時代にまで預言が及んでいるのです。それは、イザヤ書六十五章十七節から二十五節に書かれています。注解書には、「まさに、その新天地の栄光に輝く、神の主権にもとにある祝福が美しく描写されている」と解説されています。

『見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。』

 そんな、素晴らしい時代を、主を信じる者に対して神様が準備してくださっているということです。イエス様が帰ってこられたあと、そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれないとあります。
 この社会は泣き声と叫び声ばかりです。新聞の三面記事には、泣き声と叫び声以外聞こえません。テレビの朝のワイドショーは暗くなります。泣き声、叫び声ばかりです。来年もその状態はもっと悪くなると思います。しかしやがて、泣き声も叫び声も聞こえない社会が来るのです。
 数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちないで死ぬ老人もないというのです。アフリカでは幼児死亡率が高いです。数日で死んでしまうことが多いそうです。日本は低下しましたが、それでもまだ若くしてなくなっていく子どももいます。日本人の平均寿命が延びていますが、それに満ちないで亡くなる人も多くいます。しかし、その時代になると、そのようなこともなくなります。百才にならないで死ぬものは若かったとされ、百才にならないで死ぬものは、呪われたものとされるというのです。寿命が百歳以上になるときが来るのです。
 また、二十三節には、「彼らは無駄に労することもなく、子を産んで突然その子が死ぬこともない。」とあります。人生には無駄に労してしまったということがよくあります。「あれは何だったのだろうか」ということがよくありますが、それが全くなくなるときが来るのです。そして、子を生んで突然その子が死ぬこともないというのです。今年も多くの赤ちゃんが新城教会に誕生しましたが、子どもが生まれる瞬間はいつも緊張します。上手く生まれるのだろうか・・・。
 私の息子が生まれたとき、家内は難産で死ぬか生きるかの寸前でした。生まれた子どもを見に行くと、頭が長細く、額には傷があり、天花粉で隠してありました。病室に入ると雰囲気がわるく、どういうことかと思いました。その日、私は韓国に行きました。「何かあったら教えてください」と言っておきました。韓国で宿舎に泊まっていると、私の留守に家から三回電話がありました。私は絶対に子どもが死んだと思いました。どうやって帰って葬式をしようかと考えていました。しかし、その知らせは、そうではなく「元気だ。」という電話でした。人間は弱いものです。しかし、千年王国の時代は子を産んでも突然死するようなことはない素晴らしい時代です。また、更に、二十四節に、

『彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。』

と書かれています。このような次元に早く入って欲しいと思いませんか。
 私はいま、色々な祈りの課題を持っています。ある方は、「神様、この祈りを聞いてください」と課題を二十年、三十年と祈っているかもしれません。でも、神様はなかなか答えてくれないかも知れません。しかし、何と、私たちが呼ばないうちに、祈らなくても答えてくださる時代が来るというのです。又、祈りの途中、すでに答えが来るというのです。そのような時代が来るというのです。すごい時代です。また二十五節には、

『狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。』

と書かれています。狼と子羊がともにいたら、狼はすぐに羊を食べてしまいます。しかし、そのようなことがなくなると言うのです。
 人間の世界にも、狼タイプの人と、羊タイプの人がいます。教会の中にもいると思います。そのような人達が、同じ囲いの中で過ごすと、喧嘩が始まります。人間関係は難しいものです。皆さんの家庭の中にも、狼と羊がおり、喧嘩するかも知れません。会社の中もあります。学校にもあるかも知れません。いろいろとあります。しかし、狼と羊とが決して争わない時代が来るというのです。そのような安息の時代を与えてください、と私たちは祈ります。しかし、これらは、イエス様が帰られた後の時代だというのです。この苦しい時代を、ずっと忍耐して、その日を待たなくてはならないのかと絶望します。「イエス様・・・、早く帰ってきてください」と叫ばざるを得ない心境に陥るかも知れません。
 しかし、クリスマスは、千年王国時代を待たずして、千年王国と同じ祝福がもたらされる日なのです!千年王国を待たずして、それが起こされるのです。それがイエス様が生まれてくださったクリスマスの深い意味なのです。それが、「敵からの救い」であるというのです。千年王国はいつになるかわかりませんが、イエス様のお生まれは、その先取りが始まった日です。神様の支配、神の国が現された日です。
 天のエルサレムが地上に降りて来た、というのが千年王国の時代でした。しかし、イエス様は、同時に、イエス様はマタイの福音書十二章二十八節で、

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

と語っておられます。聖霊様によって、悪霊が追い出されるということは、やがて千年の安息の時代に起こることが、今、起こるというのです。
 イエス様が来られて、聖霊様が来られました。イエス様が来られたことによって、悪霊が追い出されるようになりました。それは、千年王国に起こることが、時を待たずして始まったのです。その始まりがクリスマスです。そこには、泣き声も叫び声も聞かれない。数日しか生きないような乳飲み子もない。寿命に満ちないで死ぬ人もいない。・・・その祝福が、私たちのただ中に起こるというのです。私たちが祈る前に神が答え、祈っている途中に神様が答えを与える祝福がただ中に起こる、その始まりの日が、クリスマスです。聖霊によって悪霊どもが追い出され、敵の手から人々が解放されるときにそのことが起こるのです。
 悪霊が手を出せない場所が神の国です。神の国は悪魔が手を出すことができない領域です。教会は、神の国到来のために働かなくてはなりません。それは究極的には、主が帰られることですが、同時に、今も神の国がこの地上に現されることです。それは聖霊によってサタンの支配が打ち砕かれるときに、あなたがたのただ中に、教会のただ中に、千年王国と同じ事が起こされると教えています。
 先週、私は大役を任じられ、恐れおののく思いです。私は、「今度、教会の責任を持たせていただきますが、神様から約束の御言葉を頂かないと、やることができません。私を助けてください。これからの時代に起こしてくださることを教えてください。」と真剣に祈り求めました。
 その時、イザヤ書六十五章十七節から二十五節の御言葉が与えられました。私はこの御言葉を預言的な御言葉として信じました。
 これからの時代に神が成してくださることは、私たちのただ中に、千年王国に現される祝福が先に現される、あなたがたに見せてあげる、と語られているように思います。教会の中で泣いている人の涙がぬぐい去られ、教会には涙も叫び声も聞かれないのです。
 今日、皆さんの中で泣き声や叫び声がある方は、ただ中に神の国が現されることを信じてください。そして、教会のお年寄りは長生きだ。皆、百歳以上ではないか、と言われるような神の国が実現することを祈りましょう。
 お産の呪いが砕かれている、彼らの祈りはよく聞かれる、あたかも祈っていないのに答えを受けているかのようだ、祈っている途中に、主のみ業が現され、いやされる・・・。そのような業が現されるように。また、狼と羊、色々なタイプの人が全く争わずに過ごせる神の国が実現するように祈るべきです。
 そして、そのことを主がなそうとされていることを、イエス様のみ名によって宣言します。アーメン!
 それゆえに、ベネディクトス・・ほめたたえよ。敵の手から救い出してくださったゆえに、主をほめたたえよ・・・ということです。
 主のなさったことは素晴らしいことです。敵の手から救い出してくださったことを感謝し、来るべき時代に主が成してくださる祝福を祈りたいと思います。

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