今週の礼拝メッセージ
1999.12.26(SUN)
ミレニアムへの道
新城教会牧師 滝元 順

<今週のメッセージの御言葉>
旧約聖書 イザヤ書41章1節〜4節 島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。
  ハレルヤ!昨日までクリスマスで大変忙しい中にありましたが、今日は今年最後の礼拝を皆さんと共に持つことができ感謝します。昨日のクリスマスのゴスペル・コンサートも良かったです。ぜひこれからも続けて賛美していただきたいと思います。来年は二千年という記念すべき年でもあり、新しい神様からの導きを頂きたいと願っています。
 今朝、共に学ぶ御言葉は、二千年を迎えるに当たり、「教会に、また、一人一人に与えてください。」と祈った時に与えられたものです。神が与えてくださった預言的な御言葉として受け取って頂ければ幸いです。
 使徒の働きの十七章二十六節には、

『神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。』

と書かれています。紀元二千年という年を通過しようとしていますが、この時、偶然に生きているのではありません。神の計画があります。「それぞれに決められた時代とその住まいの境界とをお定めになりました」とあります。この時代に生きているとは、神の定めです。そして、日本に生まれたのも全て神の計画の中にあるのです。
 さて、紀元二千年において、人類に必ずしも明るい未来はありません。考えれば考えるほど暗い要素の方が多いと思います。差し迫って懸念されているのは、コンピューター二千年問題です。コンピューターは年号を表すのに、頭の二桁を省いています。一九九九年は九九と現します。すると、来年二〇〇〇年は二桁が〇〇になり、コンピューターは一九〇〇年と判断するか、ゼロと判断してしまいます。簡単な例で言うと電気釜は何時何分とセットするとその時間に御飯ができます。しかし、来年米を炊く人はいませんので月日までのデータを扱っていませんが、銀行に一九九九年に入金しても、二千年になると〇〇年になってしまう可能性があるというのです。だから銀行の残高がなくなってしまったり、色々な障害が起こる可能性があるというのです。水道水が出なくなったり、ガスが来なくなったり、また、貿易も全部コンピューターでやっているので流通がストップする懸念があります。私の予測では、ライフラインは大丈夫だろうと思います。しかし細かい問題は起こるかも知れません。しかしながら、二千年に向けて国際関係、社会情勢、経済、環境、教育、健康・・・と色々な問題が山積みです。これから私たちはどのように生活したら良いのだろうかと考えます。新しい時代に対して私たちがどのような確信をもって歩むべきか問題です。しかし、今日お読みした御言葉の中に、

『彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。』

と書かれています。まだ見ぬ二千年は歩いたことのない道ですが、そんな道を安全に通るというのです。そして、ここに歩いたことのない道を安全に通る秘訣が書かれています。このことについて学びたいと思います。四十一章一節の書き出しは、

『島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。』

 この中には三つの命令が書かれています。この三つの命令をしっかりと捕らえ、留意して行くならば、まだ歩いたことのない道を安全に通ることができるのです。  まず第一に、「島々よ。わたしの前に静まれ。」と書かれています。まず私たちは新しい年に向かって、「静まる」ことが必要です。静まるとは、教会における集団的な主との交わりと共に、毎日の生活の中で静まる必要性を教えています。詩篇の一四三篇八節に、

『朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。』

とあります。皆さんは毎日の生活で、静まって神様と交わる時間をお持ちでしょうか。新しい年を迎えるに当たり必要なことは、神の前に静まることです。私も毎日忙しいスケジュールですが、特に、御言葉を語る前は主の前に静まります。静まって神の声を聞きます。直接イエス様と取引ができることが大切です。直接神様の声を聞くことができないと信仰生活はうまく進みません。まず、静まることが大切です。今年、どれくらい神の前に静まってこられましたか。忙しいと言えども、テレビを見る時間や、食事に行く時間はあります。しかし、神の前に静まって御言葉を聞くという個人的な交わりが少ないのです。まず私たちが新しい道を歩む前に静まって神の声を聞くことです。「朝にあなたの恵みを聞かせてください」とあります。まず、朝起きたら神様の恵みを聞かせていただくことです。
 私には毎朝、祈る祈りがあります。それは、「今日一日の為に用意されている計画書を受け取らせてください」という祈りです。神様が一日一日計画書をお持ちです。だから、まず最初に、神の計画書を受け取らなくてはならないのです。神の計画書を受け取って生きるならば、無駄な生活はありません。毎日の生活の中で静まって神の計画を聞くことが大切です。
 同時に、「静まる」とは、「緊張感」という意味があります。運動会で「用意。スタート!」というとき、「用意!」の次の瞬間、静けさがあります。それは神経を集中し、緊張を持ってスタートに備えます。「静まる」とはそのようなイメージです。静まりなさいというのは、「さあ、今あなたは緊張して神の御前に静まりなさい」という意味があります。何のために静まるのでしょうか。これは「リバイバル到来」のためです。来年は必ず、神が大きなリバイバルを教会に、日本に起こしてくださると信じます。リバイバルのスタートが切られる、だから、あなたは静まりなさいと神が語られていると思います。緊張して神様の前に仕切り直さなくてはならないと思います。
 新城教会の中には、ある意味でリバイバルが起こっていると思います。一九九二年二月十三日、愛知県民の森で祈っているときに聖霊様が訪れてくださいました。それから教会の中に新しい神のみ業が次から次へと起こるようになりました。不思議なことが毎年起こされています。それがとどまるどころか、年を重ねるほど強くなっているような気がします。来年は、さらなるリバイバルが教会の中に起こされると信じます。「静まりなさい」とは、リバイバルスタート緊張の一瞬です。
 もう一つ、「静まれ」はゼカリヤ書二章十三節に、

『すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。』

と書かれています。「主の前に静まれ」とは、主が御住まいから来られるということです。これは、先週のメッセージの中でも語らせていただきましたが、次のミレニアムは主が再臨される可能性が最も高い千年ではないかというのです。いつ主が帰って来られても、お迎えできるように静まるべきです。また、準備しているべきです。新しい年に向けて、神の前に静まって仕切り直すときが必要です。
 ある意味で、今日の礼拝は重要な礼拝です。一年を締めくくる礼拝であり、主の前に静まってリバイバルに備え、主の再臨に備える意味を持っていると信じます。
 次の命令は、

『島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。』

と書かれています。何でも、新しい挑戦をするときには新しい力が必要です。入学試験のために準備している方がおられると思います。家の娘も来年入試で、懸命に備えています。これは新しい力を蓄えているのです。テストの時に瞬発力が出るように、新しい知的な力を蓄えているのです。私たちも、新しい時代に向けて、新しい力を蓄えなくてはならないのです。力とは「権威・能力」という意味もあります。新しい力、権威、能力はどこから与えられるのでしょうか。使徒の働き一章八節に、

『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』

と書かれています。新しい力は聖霊に満たされることと共にあります。聖霊に満たされなければ、新しい力を受けることができません。またイエス様はヨハネの福音書十四章二十六節では、

『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』

と書かれています。聖霊様はすべてのことを「教えて」くださる方です。新しい時代に対して、私たちは何も知りません。新しいミレニアムに何が起こるかわからない。しかし、聖霊様はすべてのことをご存じであられ、すべてのことを教えてくださるというのです。これからはビジネスにおいてもなかなか先が読めません。どのように投資すべきか、決断をすべきか、なかなか先が読めません。しかしビジネスで成功する秘訣は、聖霊様から教えていただくことです。これは教会も同じことです。教会も先が読めません。神の霊に教会が満たされていないと、教会も行き場を失います。聖霊様によってすべてを教えていただくべきです。次の年に、教会がどこに向かえば良いのでしょうか。また、「家庭、個人がどこに向かうべきでしょうか」と聖霊ご自身に教えてもらうべきです。聖霊に満たされていると、すべてのことを教えてくださるのです。ですから、聖霊ご自身に、瞬間瞬間ご支配していただけるように祈っていかなくてはならないのです。また、聖霊様は導き手ですので、道を外したときも修正してくださる方です。
 最近の車にはカーナビが付いています。カーナビは目的地を設定しておくと、そこに自動的に導いてくれ、しかも、最適な道を提示してくれるのです。例えば、ここから東京に目的地を設定すると、そこに行くための一番近い道を提示してくれます。私たちは全国を廻っているので、よくカーナビを使います。目的地を設定していると、そこに導いてくれます。しかしそれでも、時々道から外れます。外れると、リルートを開始して新しい道を提示します。いくら外れても、正しい道に導くための道を何度も用意してくれます。聖霊様の導きはそのようなものだと思います。聖霊様の油注ぎがあると、道を外したときでも、道を修正して導いてくださいます。今日、礼拝において新しい力を聖霊様ご自身から受け取ってください。そうすれば、二千年に向けて、あなたは心配する
ことはありません。聖霊様が歩むべきルートを設定してくださいますし、少しくらい外れてもリルートしてくださいます。新しい力が必要です。今日新しい力を求めましょう。そして第三には、

『近寄って、今、語れ。』

と書かれています。「語る」とは、宣言しなさいとか、命じなさい、という同時に「お互い励まし合いなさい」という意味があります。「お互いに」という言葉がこの間に挟まれます。「近寄って今お互いに励まし合いなさい」と置き換えるとわかりやすいです。

『われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。』

 「さばきの座」と聞くと、神様はさばかれる方というイメージが強くあります。神様は何か罰をあてる方ではないか、害を加える方ではないかと思いますが、「さばきの座」とは、「判断」という意味があります。それは「判断の座」です。
 時々、判断がつかないときがあります。しかし、判断してくださる神様がおられます。神の座に近づくならば「判断してくださる」のです。
 「こぞってさばきの座に近づこう」とは、一致を神様が要求されています。私たちが一つになり、一つの目的のために主のみ座を求めていくときに、主は揺るがない新しい道を用意してくださるのです。詩篇一三三編一節から二節に

『見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。』

と書かれています。一致の中に流れる油は、アロンの髭に流れると書かれています。アロンは最初の大祭司でした。大祭司に注がれる油は、普通の油とは違いました。祭司はイスラエルに大勢いましたが、大祭司は一人だけでした。一番重要な任務、一番大きな権威が彼に授けられました。一致したときに、祭司アロンに注がれる油注ぎがあなたの上にあるというのです。私たちが教会に集められたのは偶然ではありません。神様の御心の中で集められました。ということは、一つの目的で一致して主のみ座を求めるときに、教会には大祭司に注がれる油注ぎがあります。それが髭に流れて広がっていくということです。来年に向けて、私たちは神のみ座を求めて一つになるべきです。そして祭司アロンに与えられた油の注ぎを求めるべきです。そうすれば、紀元二千年が闇雲の中を進むとは違うのです。神様がしっかりと導いてくださいます。
 イザヤ書四十一章三節、『彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。』を新共同訳では、

『彼は敵を追い、安全に道を進み/彼の足をとどめるものはない。』

となっています。
 クリスチャン人生の中にも、二つのタイプがあるように思います。それはいつも敵に追われている人と、もう一つは、常に敵を追う人があるようにと思います。今年、敵から追われる生活だったのか、それとも、敵を追う生活のどちらか?ということです。敵は目に見える敵ではありません。敵は霊的な存在、悪魔とその一味悪霊のことを言っています。今年、悪霊から追われるような生活でしたか。それとも、彼らを追うような生活でしたか。これから二千年に向けて、悪魔と一味に追われるのではなく、悪魔とその一味を追うようになりたいです。『彼は敵を追い、安全に道を進み/彼の足をとどめるものはない。』と書かれています。彼のところに「私」という言葉が適応されます。「私は敵を追い、安全に道を進み、私の足をとどめるものはない。」となります。今日この御言葉を宣言しましょう。
 「静まりなさい」「新しい力を得なさい。」「近寄って今語れ。こぞって主のみ座に近づこう」です。これを実行するときに、あなたは敵を追い、安全に新しいミレニアムを進み、あなたの足をとどめるものはないのです。信じますか。「アーメン」今日この御言葉をあなたのものとしてください。そうすれば、必ず、あなたに将来と希望が与えられると信じます。このイザヤ書四十一章の御言葉は、二千年に向けてこの教会に与えられた御言葉の一つであると信じていますので、よく静まって主から聞いていただきたいと思います。新しい力を得ることができるようにお祈りします。

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