本気で考えよう

新城教会牧師 滝元 順

 日本では、誰かに連絡を取りたいと思ったら、すぐに出来る環境が整っています。最近では携帯電話の普及により、誰とでも簡単にコミュニケーションが図れ、人と人との距離感の概念が全く変わりつつあります。私も、旅をする事が多いのですが、北海道の原野にいても、果ては南西諸島の誰も知らないような島々にいても、普段と同じように携帯電話のベルが鳴ります。また、毎日のように電子メールが私を追いかけてきます。ここ数年でコミュニケーションの手段と量は、数倍に増えたように感じます。
 近頃、深刻な問題として毎日のように報道されている事件に「少年犯罪」があります。その原因として、ある教育評論家が、家庭でのコミュニケーション不足を挙げていました。一昔前は、社会や学校でどんなに辛い事があっても、家庭が隠れ家となっていたために、家庭にさえ戻れば癒され励まされていました。そんな時代の問題の中心は、「不登校」と呼ばれるものでした。学校で何か問題があっても、登校さえしなければ何とか処理出来た訳です。しかし、徐々に家庭が癒しの場ではなくなり、少年少女達は家庭から締め出され、傷が癒されないまま登校して、逆に人を傷つける事によって自分の傷を癒すようになりました。始めはそんな問題児も少数で、「いじめ」自体を問題視し、親達は自分の子どもが被害者になる事を恐れました。しかし、近頃の風潮はどうでしょうか。「切れる」という言葉に代表されるように、何でもないように見える子ども達が、突然、凶暴化し、凶器まで使って人を傷つける事件へと発展しているのです。今や親達は、自分の子どもが逆に「加害者」にならないかを心配しています。機械的、システム的には完璧なほど整っているのにも関わらず、現実には真のコミュニケーションが不足しているのです。この根本的な原因について本気で考え、回復される必要を強く感じます。身体の病気は、症状が徐々に出始め、病状が進むほど重くなり、最終的にはその人の命を奪います。社会問題も同じ事がいえます。今、日本も、回復か死かの瀬戸際に来ているような気がします。今こそ、永遠に変わらない「真の神」について考え、絶対的価値を見つけなければならない時が来ています。

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