日本を考える

新城教会牧師 滝元 順

 日本は、世界の中にあって、個人主義的な欧米と比べ明らかに違う点があります。特に、「個人」の社会での位置づけに、大きな違いがあるように感じます。日本における個人の位置づけは「家」と大きな関わりがあり、個人は「家」の代表者としての性格が強く現れています。例えば、結婚とはお互いの意志が最も尊重されるべきですが、いざとなると、個人より「家」との結びつきが強調され、個人の意志が犠牲にされてしまうことさえあります。また、家は「地域」と深い関わりがあり、同時に地域は「国」の代表でもあります。これは、個人的な自由であるはずの宗教の選択にも現れており、家族の一人が他宗教に改宗すると「家」からの迫害を受け、家族全体で改宗がなされたときは、特に田舎において顕著ですが、村や地域から迫害を受けます。この考えが極論に走ると、第二次大戦時に見られた、特定の宗教によって意思統一され、他宗教を弾圧するという「全体主義」の恐怖にもつながります。そして、現在も、このシステムが危機的状態にある日本の政治、経済、社会等の改革を妨げている一つの要因であるように感じます。そのために勇気ある決断が妨げられ、正しいと分かっていても行動できないのです。同時に近年、欧米の「個人主義」が若い世代に大きな影響を与えているのも事実です。しかし、個人主義の受け取り方も、「個人を尊重する」という、聖書の概念に基礎を置いたものではなく、人の意見を聞かずに自分勝手に生きて行くという歪められたものとなっています。日本の将来を考えると、どこかで大きな改革が起こらない限り、この状態はさらに悪化し、崩壊の道を辿るしかないような気がします。
 何が悪いのか?聖書から見るときに、日本における「神」そのものの概念に決定的な誤りがあることに気づかされます。「絶対的な創造者としての神」という概念に欠けるのです。日本人の神観に「上」というものがあります。自分より力強く、目上のものが即ち、「神」であるという考えです。ですから力関係の権威にはめっぽう弱いのです。神とは、人との間に、力関係で成り立つような存在ではないはずです。それは厳然たる「創造者」対「被造物」という関係であり、そこには神を利用するというような「自己実現」の法則は入り込む余地はありません。
 日本が「創造者なる神」に立ち返る時、土台が変えられ、今まで培われてきた文化、習慣が否定されるのではなく、その特徴を持って世界に奉仕する素晴らしい国になると信じます。
(新城教会牧師 滝元 順)
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