何が最も大切なのか

新城教会牧師 滝元 順

 先日、東京ミッションが行われましたが、その一環で上野公園で集会が行われました。それは、上野公園に野宿しているホームレスの方々を対象に、聖書の話と共に、食事を提供する集会でした。近頃の不況で、上野公園に野宿している人達の数は急増しているそうです。その日の集会には成人男性ばかり800名近くが参加し、来会者の背景は、かつて会社社長であった人、猛烈サラリーマン、銀行マンなど様々でした。話によると、中には博士号を持っている人や、医者や弁護士まで、幅広い職種の方がおられるそうです。しかし、共通して言えることは、そこに集った殆どが、人生において何らかの挫折を経験して、野宿する状況にまで追いやられた人々と言うことです。露天の生活で何が一番辛いか尋ねると、昼間に降る雨だそうです。夜の雨は駅の構内やビルの陰でしのげても、昼間は人が多くて行く所がなく、雨の多い今年は生活が辛いと言われました。
 私はその集会で、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。(ヨハネの福音書6章27節)」という聖書の一節からお話しさせていただきました。どんなに美味しい食事に毎回与ったとしても、人はいずれ死んで行きます。人生を突き詰めて考えると、どんなに整った環境に生きていても死んでしまったら、最終的には空しいものです。また、全てが整っている時は、それが永遠に続くような錯覚に陥るものです。しかし、環境が崩れると、人は真に必要なものを求め始めるのです。
 週二回、キリスト教会のボランティアが上野のホームレスの方々の為に食事や衣類、そして、薬を提供しています。ホームレスの方々はそれらを目当てに来るのも事実ですが、その中の多くの人が、「私は食べ物よりも、聖書の話を聞く為に来ている」と語っていました。そして、神に対して心から助けを求め、真剣に祈っておられる姿は印象的でした。日本は益々暗くなり、「朽ちる食べ物」の儚さと現実の厳しさを日々知らされています。これから日本はどうなるのでしょうか。救いの道はあるのでしょうか。
 さて、聖書の教える救いとは、永遠に朽ちない、「永遠のいのち」です。「永遠のいのち」が本当に得られると知ったら、人は全てを犠牲にしてまでも駆け寄って来るはずです。キリスト教の歴史について考えてみて下さい。人々は命を懸けてイエス・キリストに従ってきました。なぜならば、そこに永遠のいのちがあるからです。今、日本にも、朽ちる食物ではなく、最も大切な「永遠のいのちに至る食物」を求める大切な「神の時」が来ています。
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