「世界新城サミット」
に思う


新城教会牧師 滝元 順

 現在、私の愛する町、「新城」でグローバルなイベント、「世界新城サミット」が開催されている。これは「世界の中での新城市」という観点を市民に与えるもので、国際社会の一員としての立場確立が求められている今日、大変タイムリーな意義深いイベントであると思う。新城教会からも期間中、アメリカ人宣教師が通訳としてボランティア参加できることを嬉しく思っている。
 さて、新城とは英語で、「ニューキャッスル」即ち、「新しく築かれた城」という意味である。「城」とはかつて、「権力」との結びつきにより築かれたものであって、「支配」とも関連の深い場所でもある。よって、歴史的観点から「新城市」を見るとき、必ずしも、喜ばしい出来事ばかりではなかったことも事実である。新城市はかつて、期せずして歴史的大事件に巻き込まれた経緯がある。一五七五年、時の二大勢力、織田信長と武田勝頼の間で起こった「設楽が原の戦い」により、初めて鉄砲が実戦レベルで使われ、数時間で一万数千人が犠牲となるという、当時の戦争の形態からは考えられないような大惨事が起こったからだ。時の新城市民は、二大権力の激突におびえて隠れ、戦いが終わって戻ってみると、無数の死体が町を覆っていたのだ。人々は死体を片づけるために駆り出され、以後、死への恐怖と、怨念を恐れる生活が始まった。現在でもその傷は完全には癒えておらず、新城で開催される祭り事の中心は依然として「設楽が原の戦い」に関連した祭りであり、歴史的大事件は数百年たった今でも、新城市に大きな影響を与えているように思う。
 先月、教会から幾人かが、中南米ガテマラにある、「アロマロンガ」という町に視察に出かけた。なぜなら、この町は、「奇跡の町」と呼ばれているからだ。二十年ほど前、この町の住民は昼間から酒を飲み、占い事に明け暮れ、仕事をする人はあまりいなかった。結果として町は貧困、暴力、犯罪、アル中患者、そして、通りにはストリート・チルドレンがあふれていた。しかし、そんな場所に教会が建てられ、聖書の真理が人々に紹介されたのだ。結果、彼らは土着の死の霊に対する恐れの信仰から、永遠のいのちを与えるイエス・キリストへと目を向けたのだ。その時、不思議なことが起こり始めた。どんな政策によっても建て直し不可能だった町が回復し始めたのである。アル中患者は消え、子ども達は喜んで学校に通いだし、家庭は明るくなり、人々は労働意欲にあふれ、今や中南米の諸国に野菜を供給する拠点とまで変えられた。町からはいつしか犯罪が消え、今まで四カ所あった牢屋が全て閉鎖されたというのだ。まさしく、新しい支配、「新しい城」がその町に現されたのだ。
 聖書の中に、新しい城、即ち、「新城」という概念がある。それは「創造主なる神の支配」というものであり、「神の国」または、「新しいエルサレム」とも表現されている。古いエルサレムの町に、神の支配が伴うエルサレムが降りて来るというものだ。人は誰に支配されるのかによって、人生の方向性が変わる。究極的には、創造者なる神を認め、神の支配に委ねることが幸せの原点であると聖書は教えている。
 新城市も神の支配により、世界で一番素晴らしい町となり、そのうわさを聞いて世界中から人々が見学に来るほどの町となるよう、祈っている。
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