三つの理解

新城教会牧師 滝元 順

 キリスト教信仰には大きく分けて、三つの理解が必要です。第一に、「神は宇宙にただ一人」という理解です。日本の宗教は多神教で、自然や手で作った物を神とします。しかし本当の神は宇宙、地球、自然、人類を造った、「創造者」であるはずです。
 平安初期、禅僧の丹霞和尚は、例年にない長い冬で遂に燃やす物が尽き、探し回ったあげく、一体の仏像を割って囲炉裏の焚き付けにしました。丁度その時、信者がやってきてびっくり仰天。「これは罰あたりな!和尚、気でも狂ったのですか。」「やあ、見ておられたか。今、この仏像のお舎利(仏を火葬した骨・聖骨)を取っているところじゃ。」「和尚、冗談もいい加減にして下さい。仏像からお舎利がでる訳ないでしょう。」「おお、その通りじゃ。お舎利のでない仏様など、何がもったいないのじゃ。ただの薪と同じじゃよ。」という話が残っています。木や物体を拝んでみても、何も起こらないのです。天地宇宙を創造した方を拝むことです。
 第二に、「救い主はイエス・キリスト」という理解です。富士山に登る道は多く、どの道を通っても頂上に辿り着く、というような宗教観を持たれる方が多いですが、救われるという事は、「神の国」に入る事です。日本に入国するには、日本政府の許可が必要であるように、神の国に入国する道も一つしかありません。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われたイエス・キリストは、神が人類を救うために人となられた「救い主」なのです。
 第三に常に私たちと共にいて、助けて下さる神の霊、「聖霊」がおられるという理解です。
 山道を小型トラックで走っていたある青年が、大きな荷物を担い重そうに歩いているお婆さんを見かけ、トラックの荷台に乗せてあげました。しばらく走ってバックミラーを見ると、お婆さんが依然として背中に荷物を背負いながら座っているのが見えました。「お婆さん、どうぞ荷物を降ろして下さい。」と勧めると、お婆さんは、「車に乗せてもらい、その上、荷物まで降ろさせてもらっては申し訳ない」と言ったそうです。
 私たちは、救われる為に努力が必要だと考えます。そして、救いを保つためには、厳しい修行が常に必要かのように考えるのです。しかし、聖書は逆に、「人間の努力によっては救われない」と教えています。そればかりか、苦しいあなたを助け、励まし、導くために神の霊である、「聖霊」が常に共におられ、人生を助けて下さると約束しています。これは事実です。イエス・キリストを信じた者は必ず、何らかの「神からの助け」を体験します。
 この三つの理解はあなたを救います。あなたも教会に来て、ほんとうの神様と出会って下さい。


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