いのちのパン
滝元順
新城教会主任牧師
滝元順
心の傷

神である主の霊が、わたしの上にある。
主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、
心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

イザヤ書61章1節

  近頃は人間では到底考えられない残忍な事件が多く発生しています。一体、日本はどうなってしまったのでしょうか。5年後、10年後の日本はどんなものなのか、考えるのも恐ろしい気がします。これらの社会問題の根底に、最もやっかいな問題である「心の傷」が存在することを忘れてはなりません。ある心理学者は、「人間は耐えられないような問題に直面すると、あたかもヒューズを飛ばすような機能を持っている」と語っています。数年前、アフリカ、ケニアのトルカナ地方という、以前干ばつで数千人が死亡した地域を訪れたことがあります。そこで干ばつで両親を失った、多くのストリートチルドレンに出会いました。彼らは集団で行動し、その有様は両親の死をものともしない、日本の子どもの世界では考えられないたくましさがありました。しかしながら、彼らは別に精神的に強いわけではなく、耐えられない出来事に直面して、心のヒューズが飛んで無感覚な状態にあるのがわかりました。飛んでしまったヒューズを誰が取り替えてくれるのでしょうか。心の傷をいやすために各国は専門の研究機関を設け取り組んでいます。しかし一向に、社会の傷は快復せず、その結果ともいえる事件があふれています。実際、人間の心に付いた傷をいやすことは不可能に近いのです。それは人間の手がとどかない、最も深い部分に存在していることが多いからです。
 冒頭の聖書の言葉は、イエスキリストがこの地上に来られた第一の目的を示しています。そして、それが「心の傷のいやし」です。心の傷を真にいやす事が出来るのは、創造者なる神以外にないのです。又神は、心の傷をいやすだけでなく、そこから、新しい人生を創造される方でもあります。私の知り合いに、トヨタ自動車の下請けでエンジンの「型」を製作している人がおられます。トヨタは型を受け取って、溶けた金属を中に流し込み、エンジンを製作するのです。「型」とは、エンジンの逆の「溝」であり、それだけでは何の意味もないものです。しかしながら、自動車会社が型を受け取るとき、それはエンジンを作り出す最も重要な原型となるのです。同様に、人生で受けた心の溝である傷はそのままでは、問題を引き起こす種にしか過ぎません。しかし、それを神の手に渡すとき、心の傷は人生を動かすエンジンとなり、同時に、心の傷を持った人々を解放する剣と変えられるのです。
 
 

バックナンバー

 

戻る
戻る