いのちのパン
滝元順

新城教会主任牧師
滝元順

善と悪
 善と悪について論じるのは、哲学的、宗教的な領域と重なり、それぞれが持っている価値観にも関わる難しい問題です。また、日頃、私たちの周りにある善と悪は相対的なもので、常にその基準が変わるために、善と悪を定義するのが非常に難しい時代である事も確かです。今日の社会は多くの問題をはらんでいますが、諸問題の根底に、「善悪の絶対的基準の欠如」があります。善とは、悪とは、根本的には何でしょうか。「悪」について辞書で調べると、「善の反対概念」となっています。それらは互いに相反する存在であることは確かです。しかし、善を突き詰めていけば、それが単なる概念ではなく、天地創造の神ご自身でなければならないはずです。もしも、天地を創造し、自己存在されている「神」がおられるならば、造られたものたちは創造者に何一つ主張できないはずです。したがって、「絶対善」と呼べるものは、神以外には存在しないのです。ということは、「善」とは、ただの概念ではなく、はっきりとした意志の伴う神格であるのです。そして、その方が語られた言葉が、即ち、善の基準となるべきです。聖書は、神の言葉が記されている書物です。それは、人類がどんな時代を迎えても、変わることのない、善の基準であるのです。善の基準として知られている神の命令が、「十戒」と呼ばれるものです。
 @わたしのほかに神があってはならない。Aあなたは偶像を造り、拝んではならない。B神の名を乱用してはならない。C六日間働いて七日目は神を礼拝するために休みなさい。D父と母とを敬いなさい。E殺してはなりません。F姦淫してはなりません。G盗んではなりません。H偽りを語ってはなりません。I隣人のものをほしがってはなりません。…以上が世界のスタンダードである、「善の基準」であり、神の言葉です。これらを守るときに人は幸せになれるのです。 さて、「神が善」ならば、「悪」も人格を持ったものでなければならないはずです。悪とは、ただ単に神の言葉を守らないというだけにとどまらず、はっきりとした意志を持った「悪しき存在」なのです。ですから、人類の力だけでは悪を止めることができないのです。いまこそ、日本に創造者なる神が必要です。

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