いのちのパン
滝元順

新城教会主任牧師
滝元順

社会の暗闇を砕くカギは何処に?

 先日、外国人の目から見た日本人の宗教観の不思議に関する論文を読みました。その中で、外国人から見ると、日本人が寺と神社を同じ真剣さで礼拝する姿は何とも奇妙に映るようです。神道は日本古来の宗教が体系化したものですが、仏教はもともとインドで起こった外国の宗教です。それらは全く異質のものですが、その異質さを全く気にせず、しかも、何が祀ってあるのかも知らずして同じ比重で礼拝するのは信じられないというのです。そこには江戸時代に行われた神仏習合政策の名残があることも確かですが、それはあたかも、イスラム教徒が同時にキリスト教徒であるかのような信じられない光景のようです。そのうえ日本人に、「あなたの宗教は何ですか?」と問えば、「宗教はこれと言ってありません」と答え、さらに追求すれば、「強いて言えば仏教でしょうか・・」と答えるのがおちだというのです。こうして考えると、日本人は一体何を信仰しているのでしょうか。そこには仏教、神道ではくくれない、さらに深い宗教観が潜んでいるのではないでしょうか。
 ある民俗学者が、日本人の神観を規定する三つの要素について述べていました。それは、山岳宗教と日本人の他界観、そして、強い遺骨信仰であるとしていました。とりわけ遺骨信仰は他の仏教国に比べると強いもので、戦後五十年以上経った今でも日本は遺骨収集団を南方のジャングルに送っています。なぜそれほどまで遺骨にこだわるのか分からないと言います。肉親や家族に対する愛情はどの国においても同じですから、日本人が遺骨にこだわるのは、亡き家族・親族への愛情という一言ではくくれないものがあるのです。その理由は、日本人の根底にあるものをよく表しています。たとえば日本人にとって肉親の遺骨とは、肉親の霊が最も強く宿っている、「肉親そのもの」と考えているからです。そして、この世界観は「アニミズム」と呼ばれる最もプリミティブな宗教観そのものであると論文は結んでいました。要するに、日本人の心の根底は、仏教でも神道でもなく、高度に発達したハイテク技術のただ中で、宗教だけは未発達な「精霊信仰」にあるというのです。
 さて、古代ギリシャ人は現代の日本人と同じアニミズムの中で生活し、「神々は物の中に宿る」と考えていました。紀元50年頃、その地を訪れたパウロというキリスト教伝道者は、「神々」ではなく、「唯一の神」について述べ、さらに霊が物の中に宿るという考えに反して、私たちの方こそ「神の中に生き、動き、存在している」という、宗教的世界観の転換を呼びかけました。現在、悲惨な社会問題の裏にある「心の未発達部分」が指摘されていますが、我々の持っている宗教観そのものの発達、即ち、発想の転換がまず第一に必要なのではないでしょうか。そこに現代の暗闇を突破するカギがある様に感じます。
今月の祈り
一緒に声を出して祈りましょう。
「天地に満ちておられる唯一の神様。あなたについてもっと知らせてください。そして、社会を明るくしてください。イエス様の名によって祈ります。アーメン」

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