「普通」
岡本 司

 私がイエス・キリストを信じたのはいつかはっきり覚えていません。なぜなら、まだ母のお腹の中にいるときから私は教会に行き、生まれて気がついたら家族の全員がクリスチャンで、友達もクリスチャン、遊び場が教会だったからです。そして、小さい頃からイエス様が神様だとしか考えたことがなかったのです。神様は一人、イエス様しかいないと自然に信じていたし、日曜日には教会、土曜日には子ども集会に行くことが当たり前でした。
 人は「普通」という考え方がそれぞれ違うと思いますが、自分の中での「普通」は「神様はイエス様、日曜日には教会に行く」ということでした。そして私は、ごく自然に聖書を読み、聖書を土台とした生活が送ってきました。私は学校の授業で道徳を学ぶ前に、聖書で道徳を学んでいたのです。もちろん、すべてを実行できているわけではありません。すべての人は罪を持っており、私も罪人です。しかし、聖書を人生の土台に置いていたおかげで、いろいろな場面で聖書の言葉がストッパーになってくれました。悪いことをしようとするとき、聖書の言葉が頭をよぎり、手が止まるのです。これは、私にとって本当に大きな助けとなりました。聖書が私の人生を導いてくれているのです。
 そしてもう一つ、「死ぬこと」と「死後」のことについて、小さい頃から教えてもらってきたことも、大きな支えとなっています。私は「死ぬ」ということについて今までに悩んだことがありません。よく思春期の若者たちが「死んだらどこに行ってしまうのか」と考え、悩み、答えがみつからないまま苦しんでいます。しかし聖書は、はっきりと死後の世界があり、天国と地獄があると教えています。そして、イエス様を信じれば天国に行くことができるという、すばらしい誰でも分かる簡単な答えが書いてあるからです。
 もし、子どもの頃から教会へ行っていなかったならば、私は最悪な人生を送っていると思うし、悩み苦しんだときに何の解決も見いだせなかったと思います。あたりまえのように神様を信じ、聖書を読んでいたからこそ、今の私があると思います。私にとっての「普通」が神様からの最高のプレゼントです。

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