神は愛なり

山崎 修・美保子ご夫妻

 よく歌われる有名な賛美歌『慈しみ深き』の中に「いつくしみ深き友なるイエスは、変わらぬ愛もて導きたもう・・」とあります。以前の私には、心から愛し、支え合う友など皆無でした。身近にいた大切な家族でさえ愛することができない者でした。
 私の父は5年生のとき亡くなりました。女手ひとつで6人の子どもを育てる母を助けるため、次男の私は早くに家を出ました。仕送りをしながらの奉公時代、休みをもらって帰郷した際、持って帰った手土産を差し出すと、母は言いました。「土産も良いけど、少しでもお金でくれや・・。」私はがっかりしました。しかし、考えてみれば母の言う通りでした。苦しい生活の中、母には一銭でもおしかったのです。親孝行しているつもりで、実は母の望みよりも、久しぶりに帰った自分を飾っていたのかも知れません。自分は真実の愛を持ち合わせていない、そう思いました。道徳について勉強していた私は、自分の愛の限界を知りながら、一生懸命理想に近づこうと頑張っていました。しかし、いつしか疲れ、仕事にも行き詰っていきました。
 そんな時、近所で私の家族の事を気にかけ、さいさん教会に誘って下さる方がありました。その方の勧めで教会へ行くようになると、不思議に良い新しい職場が決まりました。聖書も読み始めました。有名な『山上の垂訓』の中で特に「あなたの敵を愛し迫害する者のために祈りなさい」の言葉に目が止まりました。「そんなことできるはずがない。家族さえ愛することができない私に!」しかし、毎週礼拝に参加するうちに、それがなぜできないのかがわかってきました。それは欲望という自己中心の罪でした。そんな罪すべてをイエス様に明け渡しました。すると自分を取り繕う偽善も、苦々しい本音も取り去られ、平安が与えられたのです。
 真実の愛と、どんな困難の中にあってもゆるぐことのない平安は、イエス・キリストの中にあります。私の友となって下さったイエス様が導いて下さる限り乏しいことはありません。
 毎週、妻と2人で共に教会に行き、イエス・キリストを礼拝しています。永遠のみ国に入ることのできるこんな大きな御利益はどこにもありません。



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