「これから後の栄光は、先のものに勝る」

  • 2020年1月6日(日)

新城教会牧師 四元雅也
ハガイ書2章9節【新改訳2017】

『この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。──万軍の主は言われる──この場所にわたしは平和を与える。──万軍の主のことば。』

 ハレルヤ!感謝します。皆さんの前でこうして礼拝のメッセージをさせていただけますことを心から感謝いたします。皆さん、あけましておめでとうございます。

 この年末年始、いかがおすごしでしょうか。新城教会では二〇二〇年、宣教七十周年を迎える記念の年であるということで、七十時間リバイバル大会を、先週の日曜から金曜に渡って持たせていただきました。
 先週日曜日は、その一環として七十周年感謝集会を持ち、皆で食事をしたり、その後で新城教会の古参の兄弟姉妹が何人か証しされたりして、楽しい時を過ごすことができました。また、新城教会七十周年の歩みのスライドを皆さんに見ていただきました。今からもう一度、そのスライドを見たいと思います。年末年始から三回目の再放送になりますので、ご覧になった方もおられると思うのですが、ご覧になっていない方も何割かおられるかと思いますし、何回見ても恵まれますし良いのではないかと思います。主の前に感謝の時を持たせていただきたいと思います。

<スライド>

 七十年というと人の一生にも近い年数になるわけですが、十分間くらいの駆け足で見てきました。様々なことが教会の働きの中で、神さまにあってなされました。皆さん、どの辺りからご存じでしょうか。甲子園ミッションを知らない方もいらっしゃるでしょうし、この会堂が建つ前を知らない方もいらっしゃるでしょう。この七十年間に、多くの方々が私たちの群れに加えられ、信仰を共にする者となっていることを心から感謝し、主に栄光をお返ししたいと思います。

 新城教会は宣教七十周年、リバイバル・ミッションは五十周年、そして、プレイズは三十年経っています。スライドに載っていませんでしたが、私も今年で結婚二十五周年、牧師就任五周年の節目です。

 先週はそんなわけで、六日間にわたる宣教七十周年記念リバイバル大会が持たれました。先週の礼拝メッセージで開先生が、70時間大会が始まることを紹介されて、なんか僕がこの集会を考え出したかのような話をしてくださったのですが本当は違います。僕は七十時間を六日間くらいに分けてやったらどうですか?と言っただけで、ほとんど開先生が頭を悩ませ祈りながらプログラムを考えてくださいました。忙しい十二月の間によく考えてくださったと思います。本当に素晴らしい集会でした。
 三十分区切りで百四十マスと言うのでしょうか。百四十の集会が先週の日曜日から金曜日までの六日間にわたって行われました。スタンプラリーという企画もありました。集会に一個出るとスタンプを押していって、百四十個押すとスタンプのマスがうまるというものです。プレゼントも用意させていただいたのですが、百二十マス以上押した人が五人くらいおられたみたいです。六十時間以上出たということです。すごいですね。雲の柱のチケット千円分をゲットされたと思います。
 先週日曜日から始まった集会の模様です。

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 県民の森に行って賛美と祈りの時を持ちました。

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 雁峰山の頂で新城市を見下ろしながら、「新城の街よ、歌え!」と賛美しました。

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 アイスクリーム屋の中で賛美する企画もあったり、

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 会堂の中で運動会しながら賛美をする時間もありました。

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 いろいろと楽しいプログラムで、一月二日は県民の森に行ったり、山に登ったり、外でずっと賛美と祈りの時を持ちましたが、私と家内も参加していました。家内はよっぽど気持ち良かったらしく、昨日も一人で県民の森に行って祈っていました。

 この六日間多くの方々が参加してくださり、多くの祈りと賛美が主のみ前にささげられました。たくさん参加してくださった兄姉はもちろん素晴らしいですが、集会の最中、私の姉の岩井貴子が私に言いました。「毎日二回ずつ位、食事を作り続けて下さった夏目栄子スタッフ・伊藤あい子スタッフをねぎらってあげなきゃだめだよ。本当に大変だったんだからね。」と。六日間集会にほとんど出ずに、昼に夕に、二回ずつ、何十人かの食事を一生懸命、文句のひとつも言わずに作って提供してくださいました。本当にありがたいことだと思います。
 厨房奉仕者のみなさんや、ほとんどずっと音響にあたって下さった伊藤義也スタッフ、歌詞を出し続けて下さった映像係のみなさんにも感謝します。刺身と餃子を振る舞って下さった岡本先生も、いろんな人たちが関わってくださって、おかげさまですばらしい七十時間が楽しく持たれました。
 このような企画が教会にあることは、皆がひとつとなって主を仰ぎ、主に祈り、賛美し、恵みを共有するという意味でも、とても重要なことだと思います。

 七十時間の中で年末年始の聖会が持たれて、十二月三十一日の夜に七人の牧師やスタッフを通して二〇二〇年に向けてのみことばが語られました。その順番から、語るメッセージから、主が備えられたメッセージが語られたなぁと思わされました。主が私たちの教会に二〇二〇年にむけてみことばを語っておられることを信じます。
 来週の日曜日には各先生が語られたメッセージ、また新年礼拝で順先生が語られたメッセージが印刷物となってみなさんのお手元に届けられると思いますので、楽しみにしていて下さい。

 そのメッセージでは、岡本先生が最初に語られたのですが、ルカの福音書五章四~五節が与えられたとお話しされました。

『話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。』

 岡本先生は昨年には、Ⅰコリント二章九節が与えられたとお話されました。

『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』

先生は牧師をされる傍ら四十名以上のスタッフをまとめるプレイズの責任を持っておられます。そんな中、去年は思ってもみなかった祝福をいただくことができた。新社屋が建ち、稼働することができた。しかし神さまはこの二〇二〇年、さらに「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と自分に語ってくださった。自分に委ねられたものに対して、主の導きの元でさらに深みにおける働きをしなさいと、主から語られた。そのように語ってくださいました。

 主が弟子たちに声をかけられた時、ペテロや他の漁師たちは、一晩中の努力が報われることなく、一匹の魚も獲れず意気消沈しながら網を洗って片付けをし、次の日の準備をしていたわけです。そこにイエスさまが群衆を伴って来られて、「この舟を借りていいか。ちょっと岸から漕ぎ出した所で群衆に話がしたいんだ。」と頼まれて、ペテロの舟の上から教えられたわけです。その後にイエスさまがペテロに、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と言われました。
 ペテロにとっては何事かと、漁に関してはずぶの素人がなぜそんなことを言うのか。しかも自分たちは一日仕事を終えて、もう片付けも終わって、あとは帰って寝るだけだ。一晩中働いてへとへとだという時に。
 イエスという男のかけた言葉に彼らは戸惑ったに違いないのですが、しかし「でもおことばどおり下ろしてみましょうか。」と、半信半疑ではあったが網を打った時に、たくさんの魚がかかって、網がやぶれそうになったわけです。
 ある意味ではばかげた行為です。日も昇って魚なんて捕れるわけがない時に一度洗って、全部片付けまでしたものをもう一度湖に打つ。

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 「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」今年、この教会におられるお一人お一人、それぞれ様々な役割を担い、社会において人々の間でクリスチャンとして生きているわけですが、「あなたがこれまでしてきた仕事、あなたが得意としていることに主が新しい扉を開かれることを期待して、みことばを蓄え、いついかなる主の声がかかってもいいように準備をしていなさい。」というメッセージが語られていました。

 私も二〇二〇年に向けていくつかのみことばが与えられた中で、ヨハネの福音書の二十一章のみことばが教えられました。ヨハネの福音書二十一章一~六節【新改訳2017】、

『その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。』

 ここはイエスさまが十字架の贖いを成し遂げられ、三日後に復活を果たされた、その後、弟子たちにご自身を現された出来事であります。この箇所を読みますと、神さまはドラマチックな方、演出家だなあと思います。

 ペテロとアンデレ、ヨハネとヤコブら、漁師であった彼らを弟子とされたとき、岡本先生が開かれたルカの福音書五章にあるように、イエスさまは彼らの生業である魚捕りを通して、ご自分が神の子であることを彼らに示されました。
 そして、マルコの福音書に書いてありますが、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう!」と、イエスさまはおっしゃったのです。

 そして、ここでは、その場面と折り重なるような状況設定があるわけです。
弟子たちはここに来る前、エルサレムでイエスさまの復活を見、再会しています。その後にガリラヤに来ました。
彼らはここに来た時に、「ハレルヤ!イエスさまはよみがえられた!ハレルヤ!」と意気揚々として来たかというと、そうでもないようであります。むしろどうも意気消沈していたのではないかと思います。

 マタイの福音書の二十八章を見ると、イエスさまがよみがえられた時、初めにマグダラのマリアにご自分を現されたのですが、その時彼女に、「弟子たちに『あなた方はガリラヤに行きなさい。そこで私と会えます』と伝えなさい」と言われました。それで弟子たちはガリラヤに行った。そこでイエスさまに会ったのです。しかし、ヨハネの福音書には、この経緯は記されていません。そして、ペテロたち七名がガリラヤに戻っていたのですが、死んだイスカリオテのユダ以外の、十一弟子のうち四名は、この場所にいませんでした。どこに居たのかは分かりません。
イエスさまを十字架につけた祭司長・パリサイ人・律法学者たちは、イエスが墓からいなくなったことで「どうなったんだ?弟子たちが盗んだんじゃないか?」と疑い、躍起になって彼らを探していた。弟子たちも祭司長、律法学者たちを恐れ、表立って外を歩くことができなかった、部屋の中でカギを閉めていたと書かれています。
 弟子たちは身の危険を感じて目立たないようにバラバラにガリラヤ湖に来たのかもしれません。よみがえった主と出会ってもなお、弟子たちは恐れていたわけです。
 それ以上に、主が捕えられたときに、自分たちが主を見捨てて逃げてしまったことを悔やんでいたのです。自分がイエスさまの前で再び弟子として立つなんてもうできない、と感じていたかもしれません。あんなに素晴らしい主であり先生であったイエスを裏切ってしまった。後悔のまっただ中にいたと思います。
 最後の晩餐の時でさえ、十字架に向かう主をよそに、十二弟子の中で誰が一番偉いかと、お互い自信満々に豪語しあっていた弟子たちの姿は、もはやありませんでした。

 その状況の中でペテロが「私は漁に行く」と言ったのです。これは事実上の還俗(げんぞく)宣言だったのかもしれないです。「主に仕える立場から自分は離れる。」そして、他の弟子たちもペテロに追従したというわけです。
 そして漁に出かけたのですが、一晩中漁をしたのに、一匹も魚を捕ることができませんでした。日が昇ろうとして明るくなる頃、イエスさまが岸辺に立たれて弟子たちに声をかけられた。弟子たちは初め、声をかけた主がイエスさまであるということには気づきませんでした。彼らの目は閉ざされていました。あんなに親しく身近にいたイエスさまに声をかけられたのに分からなかったというのです。
 そして、イエスさまの言葉通りに網を打って、重くて引き上げることのできない魚を目にし、その重みを手にしてはじめて、「イエスさまだ!」と分かったというのです。

 ペテロがよみがえりのイエスさまに一度出会ってなお、漁に出ようと考えた。彼らはもはや主の元に帰ることはできないと考えていたかもしれない。ペテロたちが「漁に行く」と言ったのは、もう限りなく後ろ向きで人間的な考えから出た、どうしようもない行動でした。
 しかし主は、その後ろ向きなどうしようもなく人間的な行動をも逆に用いて、彼らをもう一度立たせるために、あの思い出深い魚捕りの奇跡をもう一度行われたのです。聖書を読んでいると、イエスさまが行われるわざは痛快だなぁと、粋なことをなさるなぁと思うわけです。

 新城教会にとって記念すべき宣教七十周年、リバイバル・ミッションが創立五十周年、加えて株式会社プレイズも三十周年を迎えるこれまでの歩みは、牧師たちが知恵を絞って、こうしたらいいだろうか、この年に新会堂を建てようか、この年にプレイズ出版を起業しようかと、青写真を描いて実行したものではありませんでした。その時その時に主が導かれ、委ねてくださる事をただ受け取り、「ここに網を下ろしなさい。」とイエスさまが言われる、そのことをただ実行してきたのです。
 人間の知恵や計画によるのではなく、神さまが与えてくださった知恵によって、先ほど皆さんにご覧いただいたスライドでわかるように、神さまのわざが現されたわけです。過去・現在・未来を貫いておられる神さまの計画がなければできないことであると思います。

 エレミヤ書二十九章十節〜十一節【新改訳第3版】にこのようなことが書いてあります。

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

 私たちが主のみこころを掴んで、主が「これを行け!」と言われる道をまっすぐに突き進むことができている時だけに限らず、たとえ主から離れる道を進んでしまっているようなときでも、やることなすことがうまくいかず、収穫がゼロ、骨折り損のくたびれもうけで疲れ果てた私たちがそこにあったとしても、主ご自身があわれみによって、そのような私たちの歩みでさえも、ご自分のみこころを成し遂げて、再び立たせるために最善にして下さることのできるお方なのです。主を仰ぐ者の歩みはそのように、全てが恵みの中にあるものだと、このエレミヤ書のみことばも教えています。主から離れて七十年も奴隷になった、苦しみの中にあった民、しかし神さまのご計画はそこから再び回復させてくださる、平安を与え、そして将来と希望を与える計画を持っておられるということであります。

 岡本先生の次にフェルナンド先生がお話されました。フェルナンド先生は、こんな印象深い言葉を言われました。あなたの目の前に、「あきらめのタオル」を投げるしかないような最悪の状況が見えていたとしても、あなたにはまだできることがありますよ!それは「祈り」だと語られました。

 そして上條先生は、マルコの福音書六章四十五~五十二節のみことばから、ガリラヤ湖を舟で渡ろうとしている弟子たちが、向かい風のため前進できず、漕ぎあぐねていた。そこにイエスさまが水の上を歩いて近づかれた。弟子たちはその姿を見て恐れたのですが、イエスさまは弟子たちに、「しっかりしなさい。わたしだ。」と声をかけられた、その箇所からお話をされました。

 十二月二十七日に行われた一日とりなしで、私は東京に行かせていただき、他のチームも、ある人は教会で、ある人は新城の別の場所で、SNSのグループ通話を使いながらお祈りの時を持ちました。
 その内容は、新城教会の宣教七十周年、またリバイバル・ミッション五十周年、プレイズ三十周年の節目を迎え、この新しい年が記念すべき新しい扉が開かれる年となる。そして過去に歩んできた年に主が現された様々なわざに、栄光を主にお返しするものとして、新たな年に踏み出す、そういったテーマでみんなでお祈りの時を持たせていただきました。
 七十年の歩みには、苦しい時、悲しい時、悪いと思われるような時もたくさんあったのですが、すべてひっくるめて、主に栄光をお返しし、また主の勝利を祈りを通して勝ち取らせていただいて前に進んでいこう!という祈りの時を持たせていただきました。
 その中で与えられたみことばが、カウントダウン集会でご紹介しましたハガイ書二章九節【新改訳2017】です。

『この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。──万軍の主は言われる──この場所にわたしは平和を与える。──万軍の主のことば。』

 当時のイスラエルは、七十年のバビロンでの捕囚の期間を終えて、自分たちの国に帰還を果たすことができた時でありました。その時にこの民は何をしたかというと、神殿の再建をしました。捕囚から帰って来て、まずしたのは神さまを礼拝する場所である神殿を造り直したのです。
 ところが、神殿の基が据えられた時、それを見たある人たちは悲しくなった、惨めな思いになりました。それは捕囚前の、ソロモンが建てた偉大な、荘厳な、貴重な品々で飾られた立派な佇まいの神殿、見るからにすばらしい神殿を見たことのある人たちにとっては、新しく造られようとしている神殿は粗末に写ったからでした。「見るからに質素。あの時の威厳はどこへやら。」と悲しくなった。
 しかし、人々に対して主は、『この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。』と言われました。小さくて、粗末で、弱々しい神殿は、過去に勝る栄光を持って輝くんだ!と、神さまが約束をされたのであります。

 神さまのみわざを見ながら歩んできた七十周年でありましたが、これから後の主の宮の栄光は先のものに勝ると主によって語られている。私自身がその日ささげられている祈りを通して、「信じ受け入れます!」と主の前に祈ったものであります。

 カウントダウンでは、その後、鈴木陽介スタッフと滝川充彦スタッフがメッセージをされましたが、鈴木陽介スタッフから開先生までのメッセージは、それまでと違う視点で私たちの立ち位置を認識させるものでした。どのポジションに今いるのか、神の国を迎えることを待ち望み、明けの明星であるイエスさまと共に働く者として私たちは存在している。まだ暗闇の中にあるけれども、明けの明星であるイエスさまを見つめて、この世が明け初め、御父の訪れ、御国の訪れがこの地にもたらされるまで、私たちは働き続けなくてはいけない、戦い続けなくてはいけない、私たちにゆだねられたものを主の前にささげて歩み続けなくてはいけないと語られました。

 そして最後の滝元開先生のメッセージは、締めくくりにふさわしい、すばらしいメッセージでした。私たちは主の道を整える者として、黙り込まずに叫び続けなければならない。励ましを与えてくださるメッセージでした。主は「わたしがともにいるから、何処へ行ってもあなたは勝利する」と語られ、また「全てを新しくする」と語られました。その時に向かって前進し続けていきなさい!と語ってくださいました。

 カウントダウン集会の後に、この集会で語られたメッセージをつなげて、「新城教会に主が与えてくださった預言的メッセージ」と、タイトルをつけて、七人が語ったメッセージをひとつの文章にまとめました。
 その文章を順先生にお送りして、「どうでしょうか。これに順先生が最後付け加えて完成してください。」とお送りしたのですが、順先生は「本当に感動して涙が出た。」と新年礼拝の時におっしゃっていました。私もこのメッセージをつなげるために一文字一文字考えながら、祈りながら作業し、開先生もこの文章作成には関わってくださってアドバイスもしてくださったのですが、一つのものができあがった時に、本当にすばらしいメッセージが一繋がりになって主から教会に語られたなぁと、本当に感動して、私も涙が出るような思いでありました。

 最後に「二〇二〇年、主から新城教会への預言的メッセージ」、新年礼拝の中でも順先生が紹介してくださっていましたが、これをお読みして、私のメッセージとさせていただきたいと思います。

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二〇二〇年、主から新城教会への預言的メッセージ

 わたしは永遠に生き、歴史を作り出す神です。今年、新城教会は宣教七十周年を、リバイバル・ミッションは五十周年、プレイズ出版も三十周年を数えました。

 この年、全てのわたしに連なる人たち。深みにこぎ出して網を下ろしなさい。みことばの深みに、あなたの人生に主が委ねられた場に出て行き、網を下ろすことを躊躇してはなりません。

 夕・朝・真昼にあなたの声をわたしに聞かせなさい。あなたには、あなたの状況があきらめのタオルを投げる他はないように見えたとしても、まだすることがあります。それは祈りです。聖徒たちの祈りはわたしの前に立ち上る、香の香りとして金の鉢に蓄えられています。鉢を祈りで満たしなさい。

 あなたが向かい風の中で前進しかねて、空しくオールを漕いでいるようなときにこそ、わたしはあなたに近づいて言います。「しっかりしなさい。わたしだ。」と。

 あなたの弱さはあなたに救いをもたらし、わたしがともにいてあなたを助けることを、あなたに体験させます。七十年の歴史の中に現された勝利をあなたは目にしました。しかし、これから後の栄光はそれに勝るものとなります。

 わたしは暗闇に輝く明けの明星です。わたしの後に義の太陽である御父が治められる栄光の御国が来ます。その時に向けて、あなたの立ち位置を確認し、あなたのゴールを見失わずにしっかり進みなさい。

 あなたの履き物を脱ぎ、あなたのものをわたしに捧げ、そして戦いなさい。ヨシュアの時代に、神の民が約束の地に自ら踏み出したように、今からは、クリスチャンひとりひとりがわたしに付き従い、戦わなければなりません。

 心配するには及びません。わたし自身があなたとともにいるから、あなたは何処に行っても勝利します。決して黙り込まず、あなたの荒野に出て行って、叫ぶ声となりなさい。わたしの通る道をまっすぐに整えなさい。

 まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 エレミヤ書二十九章十節〜十一節
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 これが先週、年末から年始にかけて、主が先生方を通して新城教会にメッセージとして与えてくださったものであります。こうやって一つの文章にすると、主が一つ一つのメッセージをつなげてくださって、その順番までも神さまの支配の中に置かれて素晴らしいメッセージとしてくださったなぁと、本当に感謝するものであります。ここにも私たちの考えを越えて働かれる神さまの素晴らしい計画があることを思わされるわけですけれども、そのように、この年、主は私たちの歩みの中に、主が持っておられる素晴らしい計画、平安を与え将来と希望を与える計画を成し遂げられることを、深く深く私たちは信じていきたいと思います。

 教会の働きも、プレイズの働きも、またミッションの働きも、さらに主が大いなる業を現してくださることを心から信じて、信頼して、皆で歩み続けていきたいと思わされております。これで私のメッセージを終わりにさせていただきたいと思います。最後にお祈りをして終わりにしましょう。

 今日は二〇二〇年の最初の日曜日であります。みことばによる励ましを通して、私たちに「進んでいきなさい!」と後押ししてくれるような時であるかと思います。
 私たちはこの時もう一度主をお迎えし、そして主に私たちの人生をお捧げして仕えていく告白をしていきたいと思います。
 弟子たちが意気消沈して漁に行くという、これまでの十二弟子としての働きではなくて、一歩後退したような、後ろ向きになるような、ある方はそういう状況に置かれてしまっていると感じている方がおられるかもしれません。しかし神さまは、そのような中にも来てくださる。むなしくオールを漕ぐしかないような所にも来てくださる。そして「しっかりしなさい!わたしだ。」と語ってくださることを、信仰によって是非受け止めていただきたいと思います。
 そして「神さま、もう一度、私を導いてください!あなたの助けを待ち望みます!」と、主の前に心からの祈りを持って進み出ていきたいと思います。そしてさらにさらに、これからも私たちの歩みが主の前でみこころにかなった歩みとなることができるように、皆でご一緒にお祈りをしていきたいと思います。
 一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ、愛する天のお父さま。この年末年始をあなたがすばらしい祝福の中で導いてくださり、聖書のみことばを通し、先生方のメッセージを通して私たちを励まし、立たせてくださろうとしていることを心から感謝します。イエスさま、この教会が七十周年を迎え、またさらに新しい扉を開き、あなたの新しいわざの中に進み行こうとしています。あなたがお立てくださった先生方を祝福し、また兄弟姉妹を祝福し、新しいヨシュアの世代に一人ひとりのクリスチャンが主からの力を受け、油そそぎを受け、それぞれの戦いの中で勝利を勝ち取っていく者となっていくことができるように、深みに漕ぎ出し、網を打って、魚を獲っていく者となっていくことができますように祝福してください。年の初めにあたってお一人お一人が恵まれ、祝福され、力をいただく時となることができますように。イエスさまのみ名により、心から感謝してお祈りいたします。アーメン。