「主が、突然、その神殿に来る!」

  • 2020年2月2日(日)

新城教会牧師 滝元開
マラキ書3章1節

『「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。」と万軍の主は仰せられる。』

  二週続きの賛美礼拝となりましたが、この中にも神さまの大きなご計画があると信じて感謝します。本当にこの賛美の中に住んでくださる主を心から崇め称え賛美して礼拝する、この大きな恵みを本当に心から感謝します。

 今日のメッセージのタイトル、随分大胆に「主が、突然、その神殿に来る!」というマラキ書のみことばからタイトルを付けさせていただきました。最初に読んでいただいたみことばを、もう一度お読みしたいと思います。マラキ書三章一節、

『「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。」と万軍の主は仰せられる。』

 「主が、突然、その神殿に来る!」私たち心から、この七十周年の記念のこの年に、イエスさまの訪れを心から待ち望んでいます。
 どうしてこのタイトルを付けたかというと、実は今年に入って、一月の前半に朝起きた時にふとこれが私の心に響きました。「主が、突然、その神殿に来る!」と語られました。本当にイエスさまご自身は突然来てくださるお方なのです。
 そんな話を家でしたら、家内が昨年の暮れに、ザワメキの集会が終わってこの会堂に入って来た途端に聞こえた声がどういった声だったかというと、「主が、突然、その神殿に来る!」という声だったと、そんな声を聞いたことが二度あったと聞きましたが、本当にイエスさまの訪れ、私たちは心から期待して、待ち望み、そして慕い求める、そのような時が来ているのかなと、本当に心から信じています。イエスさまが来てくださる、その瞬間を心から待ち望みつつ進んでいきたいと思っています。

 使徒の働き二章二節、

『すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。』

と書かれています。これは五旬節の日に聖霊さまが弟子たちに臨まれた時のことですが、やはりその時にも、「すると突然」でした。いつかいつかで、じわじわと聖霊さまの臨在が増えてくるというよりも、突然来られるというのが神さまご自身の来られ方のようです。

 一九九二年二月十三日、いよいよ今月は二月になりましたけれども、この新城教会にとっても大きな主の訪れがありました。その日も県民の森で祈っていた時に、「すると突然」でした。本当に神さまご自身が、すると突然来てくださったので、もう一度、心から、心を一つにして、イエスさまに目を向けて、「すると突然」いつどこで来られるか分からないですが、日々の生活のただ中でも、車を運転していても、勉強をしていても、すると突然、主の来られるその瞬間があることを期待して進んでいただければと思います。

 今年は七十周年ということで、七十時間のリバイバル大会から始まりました。本当に祝福された幕開けで、七十時間、心から主を賛美して、みことばをいただいて、リバイバルを求めるという、そんな恵みの時でした。
 そんな中で、山の上に上がって歌ったことが一度ありました。本当に祝福されました。この新城を一望する所なのですが、まだ行かれたことのない方は是非ご一緒に行っていただいて、そこで賛美をしていただければと思います。
 そこに立てば分かりますが、本当にとても良い場所です。実は今日の午後からはそこの場所での集会がありますので、お時間のある方は是非、また都合の付きそうな方は調整して、是非ご参加いただければと思います。その時の映像があるので、その映像を少しご覧いただければと思います。これが山の上での一月二日の賛美です。
<動画>
 はい!という映像でしたが、とても恵まれたひとときでした。今日午後からありますので、是非ご参加いただければと思います。
 今の映像の中で、前で二人のスタッフが一生懸命作業してくださっていましたが、あれ何をしていたかというと、終わった後の飲み物を用意してくださっていました。何が出たかというとホットココアなんです。本当に美味しかったです。一杯のホットココアで生き返ったというか、家庭のリビングで飲むのとは訳が違うというか、何百倍も美味しいホットココア。実は今日もそれを用意してくださっているそうなので、ホットココアを飲みに来るだけでも価値あるなぁと思いますので、是非お越し頂ければと思います。
 新城教会、本当に不思議な教会で、あの山の上に音響システムを持って行って、エレキギター、エレキベース、そしてドラムまで持って行って、発電機、しかも大きな発電機です。一人で下がらない発電機を中腹まで持って行って電源を延ばして、そしてそこで歌う。本当に素晴らしい恵みの時でしたが、心から主を求めて賛美していきたいと思います。

 一箇所聖書をさらにお読みしたいと思います。ヘブル人への手紙十二章一節〜三節、

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。』

 今、本当にこの七十周年に向けて、既に天に帰った多くの聖徒らも、この聖書の中に登場するアブラハムとかイサクとかヤコブとかパウロとかヨハネとかペテロとか、そういう人たちと一緒に、この世界を見て、雲のように取り囲んで私たちの働きに対して一生懸命声援を送っていると思います。天国に行って木陰で寝そべって、「地上は大変だった。ここはいいな。」と、まったり美味しいものを飲んでいるのではなくて、「がんばれー!」と今言っていると思いますので、声援に応えて、頑張っていければと心から思っています。

 少し、以前もしましたが、CMを入れたいと思います。北インドのリバイバルツアーがこの三月にありますので、是非覚えてお祈りください。この日本のリバイバルを目指した戦いの中から、神さまがネパールへと導いてくださり、そして一昨年からこの北インドに導かれました。全被造物が歌うようにと、ヒマラヤが賛美するように、ヒマラヤの山の麓で賛美します。二千メートルの所から三千メートル級の所までトレッキングをして、そこで賛美をします。是非覚えて祈っていただければと思います。主の偉大なみわざがなされることを心から願っています。

 そしてもう一つは、五月にザワメキの「賛美でめぐるハワイツアー」というのがありますので、こちらも覚えてお祈りいただいて、是非ご参加できる方は参加いただければと思っています。よろしくお願いいたします。

 リバイバルのための主の戦いが日々進んでいます。しかも私たちのこの町のみならず、全世界を勝ち取るという、そういった働きがなされていますが、多くの証人たち、雲のように私たちを取り囲んでいる信仰の先輩たちも、この終わりの時代、「さぁ、いよいよ私たちもこの地に帰ることができる!この地に神の国が現される!」という、その瞬間を待ち望んで、きっと興奮状態にあるのではないかと思いますが、そんな中、私たちも今がどのような時かということを知って歩んでいきたいと思います。

 七十周年ということで、この新城教会の辿ってきた歩みが毎週のように語られていますが、父が七十年前、一九五〇年に郷里に入って伝道をするわけですが、そのためにまずは自分たちの住む場所と職を探して一度入りました。その時のことが、「我土方なれど」の中に書いてありますが、田口の町をめぐって職を探したと。一つの職のあてがあって、ここに行くことができるという約束がなされていたので、意気揚々と行ったというのです。「ここで私の仕事が与えられて、しかもその町で最も大きな家に住むことができるんだ!」と、公民館の管理人という仕事だったらしいのですが、それをこれから結婚する母に、「電報を送ろう!」という気持ちで行ったそうです。そして行って、「さぁ、貸してください。」と言ったら、なんとそこの公民館の館長さんが断ったというのです。
 どうして断ったかと言ったら、父の両親がキリスト教に大反対して、「せっかくこの山の中から東京に自分の息子を送り出して、農業を勉強させるためにも行ったのにもかかわらず、なんてことだ!耶蘇教に染まって帰って来た。本当に村の恥だ!」と思ったらしいのです。だからその館長さんに裏から手を回して、「うちの息子に貸さないでくれ。」と言ったと、それは何度もここで父が話していたことです。
 そして父はがっかりして、その後どうするかというと、すぐに新城に来たそうです。そして新城でも職探しをするけれども、結局、職がなくて、本当に落胆して、実家のほうに帰ろうと思ったわけですけれども、津具まで帰ることができなくて、結局その日は田口で一泊したそうです。キキョウ屋という木賃宿に泊まったらしいです。
 二〇一九年の年末に新城教会のスタッフでとりなしの祈りがありました。特に七十周年を迎える前にそのための祈りをしましょうということで、父が宿を取った、その木賃宿、キキョウ屋にとりなしに行ったということなのですが、今はその場所はないらしいのですが、地元のクリスチャンの方にどの辺にあったのか聞いて行きました。私自身のイメージの中では、田口の真ん中のどこかの寂しい宿に泊まったのかなと思ったら、田口の結構外れだったんですって。だからスタッフの方が言っていたのですが、「明先生、さぞがっかりして、その外れまでとぼとぼ歩いて行ったんだろうな。」と、そのように言っていましたが、その外れで一泊するわけですが、そのまま眠れなかったというのです。
 布団で眠れなくて、ずっと泣いていて、「イエスさま、私はあなたのためにすべてをささげてきました。父から母から反対されるのはいいけども、イエスさま、あなたまで私を見捨てたのですか!」と泣いて祈っていたというのです。
 そんな時に、朝の四時頃だったそうです。父が起きて布団の上で祈っていた時に、主が語ったことばがあるのですが、それは皆さんご存じのことばだと思いますが、文語体で、「われ更に汝を去らず 汝を捨てじ」という、そういったことばが語られたというのです。これが主から父に語られたことばで、「われ更に汝を去らず 汝を捨てじ。」
 文語体のことばで、まだ父はイエスさまを信じてたった一年だったので、聖書知識がそんなにあったわけではなかったので、イエスさまに聞いたというのです。「これは主よ、あなたからのことばですか?もしあなたからのことばでしたら、聖書のどこに書いてありますか?」と聞いたら、主が答えてくださったのが、「ヘブル書十三章五節」と言われたそうです。今の訳ですと、ヘブル書十三章五節の後半に書かれていますが、

『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』

 このようにイエスさまが語ってくださったということが、書かれていますが、ある意味、この新城教会に対して、主が最初に語ってくださった、宣教に出て最初に語られたことばはこのことばかなと、今回ちょっと我土方なれどをもう一度読み返す中で、そんなことを感じました。
 イエスさまご自身が七十年前に、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と、イエスさまはおっしゃってくださっている。そのみことばを、もう一度しっかりと握りしめて、そして主を待ち望んで進んでいきたいと心から願います。

 イザヤ書五十一章一節〜二節、

『義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。』

 アブラハムとサラが信仰の父と母となったわけでありますけれども、私たち義を求める、主を慕い求める者たちは、「あなたがたの切り出された岩と、掘り出された穴を見よ!」と、ここで言っていますが、もう一度私たちの切り出された岩、掘り出された穴というのは、本当に小さな、新城教会にとって、父と母が郷里に入ったという、その中から始まったことだなと思うのですが、そんな中でイエスさまが、「われ更に汝を去らず 汝を捨てじ」というふうに語ってくださったので、そのことをもう一度、心から感謝をしたいと思います。イザヤ書四十一章八節〜十節、

『しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』

 このように書かれています。「アブラハムのすえよ。」と私たち一人ひとりに語ってくださっていますので、信仰の父、アブラハムの末である我ら一同が、恐れることなく、おののくことなく、進んでいくことができればと心から本当に願います。

 みことばの確かさというものが私たちの信仰生活の土台にならなかったらいけないと思うのですが、私は牧師の息子の一人として生まれて、父が宣教を始めていく中で、気づいたら教会ということで、教会から離れようとは思いませんでした。
 幾つかの理由があったと思うのですが、父が毎週のように子ども会をして、「もし罪を犯したら地獄だ!」と言われて、「地獄は行きたくない。」というのと、私が物心ついた時には兄たちがもう立派に成長していまして、その父母の目と兄たちの目もあって、「ここで右に左に逸れるわけにはいかない。」という、なんかちょっと人間的ですが、あともう一つは、なんていうか、逸れる回路が私の中になかったというか、それ以外考える余地が私の脳の中になくて、「イエスさまが私の神さま。イエスさまに従って行こう。」というのをずっと思っていました。
 だから「将来、何になるんだ?」と聞かれると、「伝道者!」とずっと決めていました。なんか知らないですけど、そういうからそういうものが普通だと思って、でも口の告白ってすごく大切で、「大きくなったら何になるの?」「伝道者!」と、いつもそう言っていたので、今から「大きくなったら何になるの?」やっぱり主にあってのビジョンを語って行く時に、「そうなんだ!」と自分の中に植え付けられるので、是非そういう告白って大切じゃないかなって、特に若い方々、そう思いますので、イエスさまからのものをキャッチして、「将来、なんとしてでもユーチューバー!」とか、そういう方向に行かずに、まぁユーチューバーもイエスさまにあって開かれる道ならばいいのですが、その中でなんというか、今日はそこは止めておきますが、本当に主にあって進んでいただく一人ひとりであっていただければと心から願います。

 そんな中で私自身、イエスさまにしっかりと出会ったなというのは、高校二年生の冬だったなと思います。先日集会のあった県民の森で集会があって、最後に祈っている時に、よみがえりのイエスさまが、鮮やかにばーんっと現れてくださって、気づいたら涙と鼻でぐしゃぐしゃになっていて、若干十七歳の少年がイエスさまに出会った時のあの感動というのはやっぱり本当に熱かったですね。
 泣けて泣けて、「イエスさますごいな。」と思って、ふと気づいたことが一つあって、それは何かというと、「あ、俺、今死んでも怖くないな!」というのが一つ目でした。「死んだら天国行けるか?」とかよく聞かれていましたが、その時に気づいたのは、「死ぬことが怖くない。すごいな!」と思いました。

 もう一つは、私の中で大きく変わったことがあって、その時から主がみことばを語ってくださるということが起こりだしたなと思います。「私はみことば与えられました。」とよく証しの中でも、メッセージの中でも聞いたりしていて、みことばが与えられるってどういうことかなと思っていましたが、そこで私が与えられた時のみことばは今も変わらずに私の内にありますが、創世記十五章一節のみことばでした。

『これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」』

 これはイエスさまが、「開、」と語ってくださったみことばでしたけれども、アブラハムがまだアブラム時代に語ったみことばで、「恐れるな。わたしはあなたの盾だ。」と、イエスさまご自身が私たちの人生の盾となってくださるという、本当にすばらしい約束のみことばでしたが、私たち一人ひとり、それぞれ皆さんもみことばをいただいていると思いますが、そのみことばの中で歩んで生き続けていただければと思います。

 この新城教会に聖霊さまの訪れというのが何度かあったかと思うのですが、以前順先生がそういったことを年表のようにして語ってくださいましたが、最初に聖霊さまの激しい訪れがあったのは、その津具にいた時だと思います。父がよく言っていました。家に聖霊さまが注がれて、家がガーッと揺れているようだったと、主から語られて、本当に何もないところから、将来全世界をめぐるようにと語られて、そのことがなされて、今の祝福がここに注がれています。

 またその後、それが津具村で注がれた時には一九五〇年代だと思うのですが、その一九五〇年代の後半から六〇年代の前半かなぁと思いますが、特に製材所の職工さんたち、若者たちに聖霊が注がれて、また新城教会に注がれて、そして伝道に出て行くという、そういった出来事が起こりました。

 そしてその後、一九六〇年代の後半に、子どもたちに聖霊が注がれた。これも新城教会では有名な話ですが、岡本先生が六年生くらいだったかなと思うのですが、私は一年生か二年生か、その時のこと、はっきり覚えています。
 昔の会堂の母子室があって、そこで子どもたちだけで祈祷会をしていました。そうしたらそこに聖霊さまがどーんっと来られて、「すると突然」というところまでは覚えていないですが、ただ聖霊さまが注がれて、皆が普通ではなくなったかというか、みんないろんなことをしていました。
 ある先生は笑っているし、ある人は本当に一生懸命祈っているし、ある人は教師のように語っている人もいましたし、子どもたちに聖霊さまの訪れが、うわーっとあったというのは事実なのです。その時、私は何をしていたかというと、私はその中を走り回っていたという、なんか喜んで走り回っていた自分というのがいたというのを思い出しますが、本当に聖霊さまの訪れというのが、この新城教会に何度も何度もありました。

 そしていよいよ一九九二年二月十三日、聖霊さまが激しく訪れて、そしてある意味次のステージに主は導かれたと思うのですが、もうそれからすでに二十八年ほど経ちましたが、もう一度、私たち、もう一度、主がその神殿に来る!という信仰に立って、「イエスさま、主よ、もう一度来てください!」という、その気持ちというか、その思いを主にあって与えていただかなかったらいけないかなと思います。ヘブル書十二章二十六節〜二十九節、

『あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。私たちの神は焼き尽くす火です。』

 このように書かれています。「あのとき」、この「あのとき」というのは、いつのことを指しているかというと、モーセがシナイ山で祈っていた時のことが書かれています。その時のことが出エジプト記十九章十八節に書かれています。

『シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。』

 シナイ山の全山が激しく震えていたというのが、それが先ほどのヘブル書が言う「あのとき」ですね。
 そのときに主の訪れがあったわけですが、でも次は、ヘブル書にもう一度戻りたいと思いますが、ヘブル書の「あのとき」の後は、「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」と主は語っておられます。
 一九九二年の主の訪れというのは、ある意味、天も揺り動かすほどの働きだったのかなと思います。「主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。」と、主が天に対して激しく叫んで、主の訪れを持って臨んでくださいましたが、今この天と地に対しての働きを主はさせてくださっていますので、是非この時に、天に対して、地に対して、もう一度、主の激しい訪れを待ち望んでいきたいと思います。

 ゼカリヤ書十章一節、

『後の雨のときに、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。』

と書かれています。後の雨のときに雨を求める。求めるのに時があります。今は求めるべき時だ!という、聖書の中にも、その瞬間、その瞬間というのがあると思うのですが、この七十周年、私たちはもう一度、主を求めて、主を慕い求めていきたいと心から願います。

 最近一つ与えられたみことばがあるのですが、マルコの福音書二章一節〜五節です。

『数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。』

 イエスさまがこの地上に来てなさったことというのは、癒やしであり、奇跡。本当に人々の問題を解決し、現実の癒やしということを、特にこのマルコの福音書を見ると、すごくテンポ良く書かれています。癒やしを行い、次に行くとまたそこで癒やしをなされて、そして次に行くとまた癒やしがなされるという、そうやってテンポ良くこのマルコの福音書に書かれている中の一つですけれども、一人の中風の人がいて、そして、「さぁイエスさまが来られたから癒やされる!それじゃぁ連れて行こう!」ということで、四人の友人がその人たちを連れて、イエスさまの所まで来ました。そして家に入ろうとし?たら、多くの群衆で入ることができなくて、「これはどうしようもないな。入ることができない。」そこでその四人は何をしたかといったら、なんとそれを日本でしたら大変なことになりますが、屋根に上って、屋根を剥がし出したというのです。
 このみことばがルカの福音書にもマタイにも書かれているのですが、ルカの福音書を見ると、ルカの福音書五章十九節、

『しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。』

とありますので、いや、すごいことをしたもんだなぁと、家主、相当怒るだろうなぁというのが人間的な思いですが、でもその当時のユダヤの造りがそんなに日本の瓦を剥がすのとはちょっと違うと思いますが、しかし癒やしに対して必要なことの一つに、今回私はすごく教えられたのが、イエスさまが「彼らの信仰を見て、」とあります。
 だから中風の人が、「なんとか俺を助けてください!癒やしてください!」と、「おー!おれは信仰を持つぞ!」と信仰を持ったのではなくて、四人の信仰を持った人がいて、それゆえにイエスさまは癒やされたのです。
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 その時の絵が描かれていましたが、こんな感じだったのかなと思うのですが、イエスさまの前に中風の人を四人の人が釣り下ろして、「さぁこれから主イエスさま癒やしてくださるかなぁ」と思ったら、イエスさまは何とおっしゃったかというと、「あなたの罪は赦された。」とおっしゃったのです。
 このことを通して、パリサイ人とか律法学者は、「そんな権威は神さま以外ない!」と言うのですが、でもイエスさまはそれに対して、「そう言うなら。」と、結局中風の人を癒やされるわけです。

 私たち、今日ここで学びたいのは、本当に「彼らの信仰を見て、」と書かれているので、私たち一人ひとり、本当にここで礼拝できるというのはある意味恵みで、健康で、主にあってここまで歩いてくることができたゆえに、そして賛美もすることができるし、大きな恵みの中にありますが、私たち一人ひとり、信仰を持って、本当にこの時、主ご自身の訪れを心から待ち望む!と、そのような者にさせていただきたいなと心から願っております。
 イエスさまは何をしてくださるのか分からないですが、ただ主の訪れ、その時、主が突然来てくださるというわざがなされる時に、主のご栄光が必ず現されますので、そのことを信じて進んでいきたいと思います。

 ちょうど一年ほど前に、ここで順先生がお話ししていた話が、「時を取り戻せ!」という話をしていました。時間そのものも神さまが造った被造物で、本当に時を取り戻して主のみわざがなされるように!という、そんなことが語られていました。その時に語られたみことばですが、第二列王記二十章十節〜十一節、

『ヒゼキヤは答えた。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ、影が十度あとに戻るようにしてください。」預言者イザヤが主に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。』

 神さまにとってできないことはないので、十度影を戻すということをしました。だから神さまが時に対して手を伸べてくださったのですが、第二列王記の他、もう一箇所あります。ヨシュア記十章十二節〜十三節、

『主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。』

と書かれていますが、この時には一日日がとどまったということが起こりました。ヨシュア記はだいたいBC一二〇〇年代、イザヤが祈った時には紀元前七百年代の出来事なのですが、以前こんな話を聞いたことがあります。
 アメリカのNASAの科学者たちがコンピューターで軌道の解析をしていたそうです。そして過去の軌道から今に至るまでの解析をしていて、そしてコンピューターがいろんな解析をしていた時に、コンピューターが正常に作動しなくなったそうです。そしてしかも「過去の日の中で消滅しているのが原因じゃないか」と言い始めて、そんな中でクリスチャンの人が一日と、その影が十度戻るというのは四十分らしいのですが、一日と四十分を戻して、そしてコンピューターに打ち込んだら、止まってしまったコンピューターが正常に動き出したということがあったそうですが、神さまにとってできないことはないので、私たちは本当に神さまの時の中での時を掴ませていただきたいなと心から願います。

 最後に一つのお証しをして終わりにしたいと思います。教会では毎週木曜日に授産所に行って、授産所にいる兄弟姉妹との交わりがあります。先週の木曜日、私が行くことができました。今授産所には四人の兄弟姉妹がいらっしゃって、毎週、スタッフの誰かが行って交わって帰ってくるということをしています。その四人の兄弟姉妹に会うことはとても楽しいのです。
 本当に彼らはすごく喜んで教会に来ていますが、実はこの一月、二月は、インフルエンザが流行ってしまっているので外出できないということで、今礼拝に出られない状況の中にあります。彼らが是非みんなに伝えてくださいと言われています。一つの出来事があって、「このことをみんなに言ってくれ。」と言われました。
 何があったかというと、毎回、喫茶店でお茶を飲みながらお交わりをするのです。その中の一人のH君という子がいるのですが、彼がこう言いました。「なんとか享子さんが癒やされにゃいかん。」と彼が言い出しました。それで何と言ったかというと、「イエスさまに時を戻してもらって、そして病気じゃないところまで戻ればいいんだ!」と彼が、ここで語られていた聖書のことばを言い始めました。
 それで、「そうだね。時が戻るように祈ろうね。」と言っていたのですが、彼とNさんという方がいるのですが、彼らは毎回喫茶店で頼むものが決まっています。何を頼むかと言ったらだいたい紅茶かゆずティーかどちらかみたいな感じなんですが、先週は紅茶でした。結構その頻度が多いんですが、その紅茶が運ばれてきたら、紅茶が美味しく出るまでに、「ここまで待ってください。」という砂時計が二つ置かれました。それで「これ、砂時計が全部落ちきったら飲んでね。」という感じで運ばれてきて、そしてその間、先ほど言ったような、「時が止まればいい。時が止まればいい。」と言って、それで彼ら本当に一生懸命祈ってくれました。
 そして交わっていたら、ホリ君が、「あ!時が止まった!」と言い出したのです。何かと言うと、嘘みたいな本当の話なのですが、紅茶を飲むにあたり砂時計は正常に落ちて時を刻んでいました。やがて砂が落ち切って彼らは紅茶を飲んでいました。そしてまた時が戻るようにと、その砂時計を二つ反対にしました。そうしたら一つの白の砂時計はずっとすーっと落ちているのですが、ずーっと落ちていたピンクの砂時計がぱっと止まったのです。嘘みたいな本当の話で。それで、「あっ!時が止まったー!」と彼が言ったという出来事があったのですが、実はその映像がありますが、たった十六秒なので、よーく見ていただかないといけないですが。
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 ネタにしてますが、主の証しです。イエスさまが起こしてくださった奇跡であると私は信じています。本当にイエスさまに心からの感謝の拍手をささげましょう!

 イエスさまは本当にある意味、四人の友達が中風の人を釣り下ろしたようなことを授産所にいる四人を通してしてくださったのかなと、そんな印象を受けました。
 「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。」という今日のみことばですが、突然主のみわざがなされることを信じて、もう一度心から主を求めて祈り、そしてリバイバルを期待していきたいと思います。
 是非、今週の皆さんの歩みの中に、イエスさまが来られる!という瞬間があると信じて過ごしていただければと思います。それがどういった形かは分からないですけれども、「あ、イエスさま確かにおられた!聖霊さま、ここに働いておられる!」それが魂の救いかもしれないですし、癒やしかもしれないし、イエスさまは新たなる扉というのを開いておられると思うのですが、その中で、突然来る!
 来週来た時に、「イエスさま、突然来ました!」という証しで満ち溢れて、そして魂で満ち溢れるようなリバイバルの訪れを期待して、信じていきたいと思います。一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ、愛する天のお父さま、あなたのみ名をあがめて心から感謝します。「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。」今日、このみことばを学びました。イエスさま、本当にあなたは私たちのこの教会を愛してくださって、七十年前に新しい主の働きを始めてくださり、「われ更に汝を去らず 汝を捨てじ」という約束のことばを通して、この教会を始めてくださったことを心から感謝します。私たち一人ひとりから去ることなく、またお捨てになるお方ではないことを心から感謝します。
 もう一度、私たち、心から主よ、あなたを待ち望みます。どうぞ主よ、この時、もう一度あなたご自身が手を開いてきてください。過去の歴史の中で、さまざまな主の訪れがありました。
 今、主よ、私たちは心からあなたの訪れを待ち望んでいます。どうぞ来てください。私たちのただ中に来てください。聖霊さま、あなたご自身がいてくださらなければ私たちは何もできない者であることを覚えます。どうか主よ、あなたご自身の訪れがこの新城教会の中に現されますようにお願いいたします。
 そして新しい主のご栄光が現されて、イエスさま、あなたの帰られる道を備える、そのような働きをすることができるように助けてください。今日のこの恵みの時を心から感謝します。今、すべての栄光を主にお返しし、尊き主イエス・キリストのみ名によってこの祈りを父なる神さまのみ前におささげいたします。アーメン。