「私たちは、神の中に生き、動き、存在しています。」

  • 2020年2月9日(日)

新城教会牧師 四元雅也
使徒の働き17章24~28節【新改訳2017】

『この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。・・』

 ハレルヤ!主のみ名をほめたたえます。今日は皆さんの前でこうしてお話ができますことを心から感謝します。
 先週は、この地にようやく冬が来たようでした。皆さんはいかがお過ごしだったでしょうか。先日の新聞では愛知県で唯一のスキー場が来週オープンすると書かれていました。例年は一月上旬にはオープンしていると思うのですが、ここ数年暖かい冬が続いていますね。天気予報を見ますと、今週はまた暖かくなるようです。予報では十九度くらい上がる日もありますので、一週間もしないうちに滑ることができなくなってしまうのではないかと思って心配しています。

 また、本日は心温まる話題があります。AさんとMさんとの婚約結婚祝福式です。そのために、Aさんのお母さんとお兄さんがはるばる愛媛県からお越しくださいました。心から感謝します。みなさんも歓迎とお祝いのご挨拶をしてあげてください。

 聖書の中では新しい夫婦が誕生することをとても重要な出来事として位置づけています。そこには神さまと人間の関係を表す「奥義」があると聖書に書かれています。伝道者の書四章十二節【新改訳2017】には、こんな有名なことばがあります。

『一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。』

 これは人間関係において助けあうことのできる仲間がいることの素晴らしさについて書かれています。三つの力が合わさるところに困難に打ち勝つ秘訣があると。

 話が脱線しますが、木曜日は、新城教会にとって大変重要な日、二月十三日です。一九九二年に教会に聖霊なる神さまが激しく訪れてくださって、新城教会がその時から変えられて、神さまの力強いわざが現されるようになった、その記念日ですね。私たちは、毎年その記念日を覚えてにお祈りして過ごしているわけですが、今週の木曜日の夜八時に出かけて、「主が立ち上がられた日県民の森祈祷会」が開催されることになっていますので、ぜひご参加いただければと思います。

 話を戻したいと思いますが、この「三つ撚りの糸は簡単に切れない」という聖書箇所は、人間関係についても述べていますが、特に夫婦の関係について語っているみことばです。
 伝道者の書四章十一節を見ると、「二人が一緒に寝ると暖かい」と書かれています。これは夫婦についてのことばだと伺えます。
 そして「三つ撚りの糸が、切れない」と書かれていますが、「切れない」という意味には、夫婦が一生寄り添って生きていく、そういうイメージもあるわけです。夫婦のあるべき姿が、このみことばの中から連想できます。
 この「三つ目の糸」が合わさるということが大事だと書かれているわけです。
 どんなに愛し合って結ばれた二人であっても、二本で撚られているだけではまだ心持とないのです。途切れない関係を持つために、もう一本の糸、それは聖書の神さま、イエス・キリストが二人の間に合わさって、ともに撚られることで、切れない糸になっていくとここで教えられているわけです。

 聖書が書かれた元々の言語は、イスラエルの古代の言葉、ヘブライ語ですが、ヘブライ語で男は「イーシュ」(אִישׁ)、女は「イッシャー」(אִשּׁה)です。
 そして、この「イーシュ」と「イッシャー」を見ると、ヘブライ語のアルファベットで互いに持ち合わせていない文字、記号があります。
 男の場合は、「ヨッド」(י)と呼ばれる、この記号です。そして女は「へー」(ה)という文字になります。この「ヨッド」(י)と「へー」(ה)という、お互いにない文字を二つ合わせると、「ヤー」(יָה)という言葉になります。「ヤー」(יָה)とは、聖書の中で「主」の名として、「ヤーハ」(יָהּ)、詩篇等に出てきますが、それに繋がる言葉になります。
 ですから、お互いに持ち合わせていないものを合わせると、「主」の名になる。三本目の糸に通じる言葉のあやのようで興味深いです。
 この「ヤーハ」(יָהּ)が抜け落ちると、男と女には「エーシュ」(אֵשׁ)が残ります。「エーシュ」(אֵשׁ)は「炎」を意味する言葉です。これはお互いの間に主がいないと火が燃えてしまうともとれます。本当に興味深いです。
 このように、神さまが二人の関係の間にいることで、夫婦関係は強化され、三つ撚りの糸のようになるということです。

 そして新約聖書では、教会とイエス・キリストとの関係が、夫婦のお互いの関係を表していると、書かれています。すなわちイエスさまが頭であって、教会はその身体であり、二つのものが一体であると。
 そして、教会はイエスさまに仕える。そしてイエスさまは教会のためにいのちをささげて愛してくださる。ここにも夫婦の関係に通じる一つの法則があるわけです。
 互いに別々の人生を歩んで、他人同士でした。きっかけがなければ、そのまま別々に一生を過ごしますが、ある時、何かのきっかけで出会って、そして愛が育まれるとお互いの親よりも親密な関係になります。家族よりも深い関係、絶対に切り離すことのできない関係となります。そして新しい、今までになかった一つの家庭がクリエイト、創造される。これは本当に考えてみると神秘的な事だと思います。
 聖書を見ますと、結婚の制度そのものが神によって造られた制度であるとも書かれています。

 そして、聖書が教える夫婦関係の原則が記されています。それは、創世記二章やエペソ人への手紙の五章ですが、「父と母を離れて、二人のものが一心同体となる。もはや二人ではなくて一人である。」お互いの家庭から独立して、そして二人が一人になるという法則が聖書の中には記されています。
 どこの社会でも、時々夫婦関係に支障をきたすようなケースが見られますが、その原因に、親が新しい夫婦に干渉しすぎる場合があります。もちろん子どもが親を敬い孝行をすることは当たり前のことですが、それとは違う次元のこととして、この二人が新しい家庭を築いていく、独立した中で築いていくということが、聖書が教えている夫婦の姿であります。
 今日、この婚約結婚祝福式に臨まれるお二人には、ぜひそのことを深く理解して、お互いの関係を築いていっていただきたいと思います。そこにまた主なる神さまを迎えて三つ撚りの糸となることが、最も大切なことだと、これは聖書が教えていることであります。

 さて、今回婚約、結婚に臨まれるAさんは自衛官です。それもただの自衛官ではありません。彼はエリートというべきでしょうか。現在は福岡県にある「航空自衛隊築城基地内第八航空団第八飛行群」で任務に就いています。しかも彼が担っている任務は戦闘機のパイロットです。

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 これが彼が操縦している機体です。日本が開発した主力支援戦闘機です。
 嘘じゃないですよ。日本に何百人いるのでしょうか。確かF2は百機くらいしか日本にないと思いますので、F2を操縦できるというと世界でも百人くらいということになるのでしょうか。すごいですよね。
 そして彼の任務というのは、「日本国土の領空及び領海の防空行動及び領空侵犯に対する措置、並びに地上又は海上の行動に対する支援」だそうです。さすが自衛隊らしくお堅い文字で並べてありますが、平たく言うと、多国籍機が日本の領空及び領海に侵入しようと近づいて来た時にスクランブル発進して、それに対して警告を発信する。そして追尾して、領空に入らないように圧力をかける。領空及び領海を侵犯した場合には大変なことになります。最悪戦闘状態になることも想定しながら発進しなくてはいけない。他国籍機が近づいて来た時は五分以内に発進しなくてはいけないそうです。緊張の連続ですね。日によっては一日三回くらいスクランブル発進することもあるそうです。

 そして対するMさんは、どういったお方であるかというと、
 二〇一七年のミス浜松です。すばらしいですね。ということで、今回のこの婚約結婚祝福式は、自衛官とミス浜松のカップルということです。本当にお似合いだと思います。ぜひ祝福してあげてください。

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 ところでこれは二〇一九年の世界各国の国防費、その上位十ヶ国のランキングです。これを見ますと、一位がアメリカで、六千五百億ドルくらいです。日本は九位、四百六十六億ドルで、アメリカの十三分の一くらいです。
 アメリカは二〇〇一年の九・一一以降、国防費がぐっと伸びました。オバマさんの時にちょっと削減され、トランプさんになってまた増強しているという状況です。

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この十年ほど、国防費の伸びがすさまじいのが中国です。アメリカも伸びているのですが、なぜ増強しているのかというと中国の脅威があるからです。今まだアメリカの四分の一くらいですが、日本はもう遙かに凌駕されております。
このようにアメリカと中国だけが右肩上がりで伸びているということになります。中国は日本円にしてみると二十五兆円くらい、日本が五兆円くらいで、日本の約五倍ということになります。
 中国は潤沢な国防費を使って急速に軍備拡充、そして最新鋭兵器を大量に投入し、空軍でも海軍でも、陸軍でもそうですが、アジアの盟主となりつつあります。もはや、日本のアジアにおける国力の優位性は失われ、中国に取って代わられているのです。

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 皆さんご存じだと思いますが、これは南シナ海、フィリピン、ベトナムなどの周辺国がありますが、そこで中国は、次々と人口島を造っています。

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 この人口島を根拠に、周囲を領海だと主張しています。自分で島を造っておいて「我が国の領海である。」と言っているわけです。大変乱暴な発想です。
 この海域は周辺各国が主張する領海が互いにせめぎ合っている状態で、お互いに、「ここまでうちだ。」「いや、俺んちの海はここまでだ。」と言い争っています。その中で中国だけが国力に物言わせて島を造り、「ここは俺のものだ。」と主張しているので、当然フィリピン・ベトナムなど周りの国々は猛反発し、中国との間で軍事的な緊張が増大しています。
 しかし中国はどんどん人口島に港湾を造り軍艦を停泊させ、飛行場を造って戦闘機を配備しています。さらに、アメリカを始めとする西側諸国の非難や国際裁判所による違法判決が出てもシカトしてどんどん要塞化しています。もはや世界の中でそういう中国の行為を止められる存在はいなくなったと言われています。その中で中国は日本をも狙っていると言われます。

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 これは自衛隊のスクランブル発進の回数をグラフにした図でありますが、一九八〇年代に一時すごく多くなった時期がありました。その後、冷戦終了に伴って随分減っていたのですが、ここ数年、またすごい勢いで伸びています。
 同様に中国籍巡視船などが領海に近づいてくることも頻繁にあるようです。中国籍の巡視船や潜水艦、そして航空機が日本の領空領海を侵犯しようと機会を伺っています。ただ近づいて去って行くだけではなくて、そこで諜報活動をして、日本の海図を作成するために海洋調査したり、日本が使っている通信はどうかなど探っています。戦闘機のスクランブル回数が増えれば、じわじわ自衛隊の体力を奪うことにもなります。
 そうして東シナ海から太平洋に抜ける海洋進出をもくろみ、尖閣諸島問題など、今取りただされているわけです。警戒していないと制海権を中国に持って行かれてしまう危険性があるわけです。そうなったら貿易立国である日本はすぐに傾いてしまいます。
 そんな中で、Aさんは自衛官として働いています。スクランブル発進する回数もここ数年増え続けています。国防というテーマも私たちは真剣に考え、また祈っていかなくてはいけない問題であると思います。Aさんの任務もこれから大変になっていくと思いますが、彼の働きのためにもぜひ祈ってあげていただきたいと思います。

 話は大きく変わりますが、この三十年間で日本人の宗教人口が減少の一途をたどっていると言われます。

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 これは、毎年、文化庁が発表している「宗教年鑑」という、日本の宗教に関する調査をまとめた資料です。毎年発表されています。
 この資料で、各宗教団体が発表している「信者数」が分かります。平成二年当時から現在までの約三十年を見ると、ほとんどの宗教で減少しいています。それも、微減ではなく、数十パーセント単位。この三十年間に、ある宗教は半数に、別の宗教は三十パーセント、というレベルで右肩下がり、かなりの減少をしているというのです。

 日本にいて、現代人の宗教観を調べていくと、多くの方は「自分は無宗教だ」と言います。しかし、日本人が言う「無宗教」とは、実は無宗教ではありません。初詣には行く、盆とか彼岸の時には墓参りに行く。それなのに、自分は宗教をやっている、という自覚を持っていない人が、日本には大勢います
そんな無宗教を謳う方たちも減少しています。今や初詣や盆もしない人が増えています。そして真剣に巡礼したり、行を積んだり、日常的に神仏に頼って生きているという人はもっと減少しているのです。

 その一方で、霊感グッズと呼ばれるものや縁起物、またパワースポットなどに関心のある人が多くいます。神さまとは付き合いたくないが、「これを持っていることで運気がやってくる。」と、気軽でコンビニエントな願掛け・験担ぎができることに人々は惹きつけられている。人生が豊かになるための力、なんとかしてもっと豊かな人生が送りたいなと、そういう「運気」が欲しいと願う人は日本において多いのではないかと思います。私はそのような、気軽に引き寄せられる「運気」があったとしても、そんなものはすぐ消えてなくなってしまうのではないか。なぜそのようなものに頼ろうとするのだろうと思います。

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 このグラフ、以前にも一度お見せしたことがありますが、これは日本人の神の存在に対する見方考え方に関しての統計グラフです。インターネットから拾ったのですが、何を元にこのグラフが作られているかというと、「電通総研・日本リサーチセンター調べ」ですが、皆さんも買うことができます。二〇〇〇年のデータということで少し古いですが。
 いろんな国々が下の段に書かれています。グラフ上の黒い線は「私は“神は存在する”と思う」と答えた人の割合。下のほうにある赤線は「“神は存在しない”と思う」と答えた人の割合です。黄色は、「わからない」と答えた人の線です。
 そしてグラフ一番左は「エジプト」です。エジプトでは、「ほぼ百%の人が“神はいる”と信じている」ということがわかります。対して一番右のベトナムは、“信じない”という人が八割くらいにのぼります。エジプトはイスラムの国であり、ベトナムは共産主義国です。神はいると信じている人が大多数の、左側に書かれている国々の中には、キリスト教国といわれる国もあります。
 そして日本はどこかというと、右から三番目です。黒と赤と黄色がだいたい三割くらいで拮抗しているということは、全体として、神様は“いる”とも言えないし、“いない”とも言えない。そして、“わからない”という黄色のポイントが日本は他の国々と比較して一番高いです。

 そしてもう一つのデータを見てみます。

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 これは二〇〇八年にISSPという非営利調査団体が作ったデータで、「四十ヶ国に占める日本の構成比の順位」ということで、この四十ヶ国がどこかというのがよく分からないのでちょっと難ありですが、参考までに見てみたいと思います。
 日本が青い棒グラフ、そして黄色が世界四十ヶ国の平均です。一番左は、「神の存在を信じません」という問いで、世界四十ヶ国の中で、日本は二十位。ちょうど中間です。ここでも、信じないような信じるような、という曖昧な感覚がわかります。
 一番右側は、「私は実際に神が存在することを知っており、神の存在に何の疑いも持っていない」ということに対しては、最下位の四十位。日本人は、「神さまは絶対います!」と確信を持って宣言できない、最も神の存在について自信がない国ということになります。
 そして、真ん中あたりに、日本が一位のグラフがありますが、これは、「神の存在を信じる時もあるし、信じない時もある」という、とにかく神の存在について日本人は統計でいくと曖昧路線を突っ走っているということになるわけです。なかなか興味深いグラフだと思います。
 そうやって考えると、我々はこの国に住んでいますので、これが当然だと思っていますが、世界から見ると、案外、特殊な国だと思います。特異な存在というか、特別な宗教観を持っていることが分かると思います。

 私が個人的にこの社会を見ながら感じるのは、個々の人生において、社会的に大きな責任を持って、そして成果を出さなければいけない、そのような立場に置かれた人ほど、自分の力を超えたパワーを必要とし、神さまのような存在に頼りたいと思う人が多いと感じます。
 今、受験シーズンですが、私の次男も今大学受験に励んでおり、祈っております。ちょっと職権乱用ですが、皆さんもお祈りくだされば嬉しいです。
 学生であれば真剣に勉強し、少しでも上に上がれるように努力します。しかしそれでも不安がなくなることはありません。結果が出ないとさらに心配になる。そして何かに頼りたくなって、普段だったら全く考えないのですが、神様に頼ったり、お守りを買ってみたり、絵馬をかけてみたり、お祓いを受けてみたりとかするわけですよね。うちの息子も普段は言わないのですが、受験に行く時には祈ってくれと言ってきます。これは誰でもそうですね。験を担いでみたりして、自分以上のパワーを求めたくなるわけです。
 社会の中で、ある分野のトップランナーと呼ばれるような人たちは、結構信心深かったりするわけです。プロ野球でこの時期によく話題になるのは、「○○軍が○○神社に全員で参拝に行きました。」とか、話題になったりしますよね。また一国の総理大臣であっても、正月になれば伊勢神宮に必ず参拝に行き、神様に頼ろうとするのです。
 頼るんだけど、実際に神様がいるの?いないの?と言われると、「わからん・・」となるわけです。

 日本人が、何故神様に対して曖昧な答えしか持っていないのかというと、そこには日本人の持つ、神様についての混乱した価値観や捉え方があると思います。
 日本には「神様」と呼ばれるものが溢れかえっています。プロ野球でも最終回を任され、勝利につなげるピッチャー、サッカーでもゴールキーパーを「守護神」と呼びます。でも守護神が出てきても得点されて負けることがあります。
 私たちの社会では、普通よりも優れたものがある人を「○○の神様」と呼んだりします。いとも簡単に神様が作り出されていきます。
 日本人は人間が神様と同等に扱われてもおかしいと思いません。だから「神様」という存在に対してのイメージも相当幅広く、神様の持つ力が弱いと感じてしまうのです。
 でもこの聖書が紹介する神さまは、多くの日本人が信じているそんな神様とは全く違います。唯一の神であり、創造主であり、絶対的な神さまだと聖書は言っています。日本人のいう「神様」という言葉の中には、聖書の神さまのような価値観はないのです。

 話はまた変わるのですが、先日ある方が教会を訪れ、私が応対させていただきました。その方は私と同年代の方で、初めて教会に来たとおっしゃっていました。個人事業主でお店を持っており、家族もいらっしゃる普通のお方です。でもその方は家族の中に問題が起きて苦しんでおられました。彼にはクリスチャンの友達がいて「一度、教会に行って祈ってもらうといいよ」と勧められて教会に来られました。
 悲しい顔をして、「家族がバラバラになってしまった」と深刻に悩んでおられました。お話しを聞いてみると、本当に気の毒だと感じました。ご本人も納得いかない様子で、理不尽であると感じていたようです。私はお話しを伺い、これは人間的な方法で解決できる問題ではなく、霊的な何かが関わって起きている問題ではないかと感じさせられました。
 聖書の中では、私たち人間をなんとか滅びの子にしてやろう、罪や様々な霊的な問題で苦しめてやろう、人生を破壊してやろうと、見えない敵なる存在があることを教えています。
 悪魔悪霊が働いている時には、例えば透明人間のように、その存在が隠れた状態で、分からないように働いてきます。そこに破壊とか崩壊とか、そういったテーマをもたらします。
 ですからその方に、「ところで、あなたにお尋ねしたいのですが、小さい時から今までの人生の中で、霊的な問題で苦しんだような経験はありませんか?」と聞きました。そうしたら、その方はまじめな顔をされて、こうおっしゃいました。「実は私は子どもの頃から霊体験満載のような人生を歩んでいます」。
 それは自分が小学三年生の頃に始まったと言われました。その時、彼は家族と居間でくつろいでいたそうです。その部屋の中に家族以外はいないはずなのに、窓にカーテンがかかっていて、そのカーテンの向こう側に人影がいたというのです。
 一緒にいた家族には何も見えません。その人だけにしか見えないというのです。本当に恐ろしかったそうです。そして、その日以来、夜に金縛りを体験するようになります。それも、毎晩のように。金縛りに遭われたことのある方が、皆さんの中にもおられるかもしれませんが、気持ちの良いものではありませんね。怖ろしく感じます。
 その方は一度起こると二時間以上動けないそうです。彼は恐ろしかったので、お祓いを受けました。そうしたら少しおさまったそうです。

 でもまた次の強烈な霊体験が起こります。それは彼が中学生の時でした。彼がひとりで家で勉強していました。家族はたまたま誰もいませんでした。ところが部屋の中で人の息づかいがしたそうです。それはもう夜のことで、家の隣は工場か何かで、夜になると白い水銀灯の灯りが見える部屋だったそうですが、その日に限って、その灯りが、赤い色でした。それでますます嫌な予感がして、思いきって窓を開けてみたら、“ひとだま”が見えたそうです。
 彼はとっさに窓を閉めて布団に潜り込みました。そうしたら誰かが上に乗ってきました。もう本当に恐怖で恐怖でたまらなくて、それ以来、勉強が手につかなくなり、学校にも行けず不登校引きこもり状態になって、成績もオール1まで落ちて、「もう進学できません」と先生に言われるようになってしまったそうです。

 そこで彼は豊川市にある、初詣には数十万人が訪れるという全国的に有名な神社にお祓いを受けに行きました。そこは「狐」が神として祀られている場所です。

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 するとそこにいた霊能者がその方を見て、「あっ!あなたには狐が憑いている」と言ったというのです。狐を神様に祀っているところなのに、「あなたが行き詰まっているのは狐が憑いているからだ」と言われたのです。「おかしな話だと思いませんか?」と言うと、その方も変だなとは思いましたが、拝んでもらっているから、そんなことを突っ込むのも失礼だと思って、そのまま拝んでもらったそうです。
 するとまた少し治まって、学校にも行けるようになりました。成績もオール三くらいになり、高校にも無事進むことができ、お祓いが効いたと思いました。
 でも、金縛りは今に至るまでずっと続いているというのです。本当に日常的になって「慣れて」しまったそうです。解ける瞬間も自分で分かるそうです。

 大人になって結婚もされて、家族ができて、子どももできて、幸せだと思っていたのに、今は家族の問題で、本人もどうしたらいいか分からないと苦しんでおられました。
 私は彼に対して「イエスさまに頼りましょう。イエスさまを信じて悪魔に立ち向かっていきましょう」と話しました。
 聖書に紹介されている神さまは、人に憑いて人生を行き詰まらせたり、また先祖のふりをして拝み方が悪いと祟ったりする方ではありませんよ、と話しました。
 神さまというお方は良い方でありますね。新約聖書のローマ人への手紙八章十五節、

『あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。』

 神さまとは、よい方だけなのです。あなたを奴隷にするような、またご機嫌を取らないといけない、神様を喜ばせ、何かを捧げなければ報いがない。神様を喜ばせなければ罰が下る、祟りが来る。そんな神様は神さまではありません!神さまとは、あなたにとって「天のお父さん」と呼ぶことのできる存在であると聖書ははっきり言っています。
 この聖書の神さまがいるとしたら、私たちは神さまと交流できるでしょうか?できます。
 なぜなら、私たちは神さまにあっていのちを与えられ、生かされている。神さまにあって私たち一人ひとりは存在していると、聖書は教えています。先ほども「探せば神を見つける」と最初のみことばにも書いてありました。では、どのようにして神さまを見つけ、神さまと交わるのでしょうか?それは、祈りによってです。

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 私が初めて教会に来た時の印象は、教会の人たちはよく祈るなぁと感じました。礼拝が始まる前に、「礼拝に備えてお祈りしましょう。」と始まりますし、礼拝の途中にも司会者の方が導いて、「みんなで祈りましょう」と祈り、またお話をした後に祈り、また礼拝の最後にも、祈りの時が持たれます。とにかくこの一回の礼拝の中に五回も六回もクリスチャンはお祈りします。あまり祈ったことのない身としては、なんなんだろうと思ったわけですが、でも考えてみると、「祈る」ということは、人間の本能的な欲求なのです。
 食べたい!とか、眠たい!とか、結婚相手が欲しい!とか、私たちが生きる上でみんなが持っている正常な願望でありますが、それと同じですね。先ほども言ったように、不安なことがあると人間はやむにやまれず祈りたくなるわけです。
 「祈り」とは、混乱した頭の中や、いろいろな不安な状況から、整理整頓された、美しい秩序ある状態へ、前に進んで行こう!という、人の願いの現れかもしれません。祈りの中で、「私を病気にしてください。」とか、「私を殺してください。」とかは言いませんね。もっと前に進むために、私たちは自分の力以上の何かに頼りたいと願うのです。

 私たちが生きる上で大切なことは、良い目標を見つける。今日結婚されるお二人だったら、幸せな結婚生活が目標ですよね。大切なことであります。その目標に向かって進んでいく。受験もそうですし、なんでも私たちは今よりももっと前に進もうと考えるわけですが、あなたが目標を作り、成し遂げようとする時に、それが自分にとって大きければ大きいほど、「神さま!」と祈るわけです。
 そして聖書は私たちに、「本当の神さまに祈りなさい!」と伝えています。ピリピ人への手紙四章六~七節、

『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』

 ここに神さまへの信頼をもち、そして「感謝を持って祈りなさい」「願い事を神に知っていただきなさい」と。神を信じる者と神さまであるイエス・キリストとの関係というのは、この日本で一般的に“神様”と呼ばれるような、神様の概念とは大きく違います。普段は頼らないけれど、困ったとき問題がある時だけ、ぱんぱん「神様あれしてください、こうなりますように」と唱える、そういう祈りとはあきらかに違うのです。神さまとの親密な関係の中で祈るわけです。
 その土台となっているのはイエス・キリストが私たちを愛してくださっている、良い神さまだということです。神さまが簡単に摂れるプラスアルファ、エナジードリンクのような存在ではなくて、今の自分が立たされている状況、自分の思いすべてを神さまに明け渡して、自分のいる所、立っている所に来ていただくようにお願いする。自分の意思で決めたその自由にしたがって神さまを利用したり、自己実現のためにお祈りするのではなく、そこで神さまが何とおっしゃっておられ、何を望んでおられるのかということを聞きながら、それに自分をアジャストしていく。神さまの意思によって建て上げられていく。そのような意思が祈りと共に、神さまと共にささげられたら、神さまは私たちの祈りに応えてくださり、神さまが思いの中心となり、私たちにとって一番素晴らしい人生へとシフトされていきます。
 そして、今自分が置かれている場所がお花畑のようであっても、嵐の中であっても、天国のようでも、地獄みたいでも、神さまにあっては無駄なことは一つとしてない、神さまがすべてを良くしてくださるということを信じ受け入れ、そしてその現在過去未来、すべてを持っておられる神さまに委ねることから、この祈りというのは始まっていきます。
 そして祈りをささげる時に、私たちは神さまのわざを体験して、神さまとつながって、新しい人生を歩んでいくことができます。これがこの聖書が教えている、私たちと神さまとの関係です。神さまが頭であって、教会がからだである。そのような関係を人生に現していきたいと思います。
 このような神さまを私たちは信じて、日々の歩みを歩んでいく時に、その歩みは決して、苦しみや失望や痛みや悲しみに終わることがない、本当に祝福された人生を持つことができることを今日私たちは信じ、受け入れて、そして前進していきたいと思っております。

 では今日の話を思い返しながら、神さまと自分との関係を省みて、神さまへの信仰を告白し、お祈りする時をもっていきたいと思います。
 イエスさまにある人生、祝福の中に歩んでいる方がいらっしゃいます。そしてその一方で、またさまざまな問題の中に置かれている方もいらっしゃると思います。どのような状況の中にあっても、神さまは皆さんと共におられて、そして祝福を用意してくださっていることを信じて、神さまに祈りましょう。「神さま、私の人生を祝福してください。私の人生にあなたがお入りください。そして助けをお与えください。」と祈っていきたいと思います。では短く、皆さんでお祈りする時を持ちたいと思います。祈りましょう。

 一言代表してお祈りさせていただきます。

 愛するイエスさま、心からあなたのみ名をあがめます。今日は私たちが、イエスさまが神さまとして信じるにふさわしいお方であることを聖書から学びました。信じるべき神さまとはどういうお方であるのかということについて聞きました。主よ、あなたは光であって、あなたには暗い所が一つもないと聖書の中には書かれています。光なるイエスさま、信頼に足るイエスさま、あなたを私たちは信じて生きてまいります。どうぞ主よ、ここにおられるお一人おひとりが今日豊かなる祝福、恵みにあずかり、日々の日常の中に、その人生において、あなたのご計画を受け取って、その歩みが祝福された歩みとなっていくことができるように、今日導いてください。今日、もしもこの中に、問題の中にある方がいらっしゃったら、また病の中にある方がいらっしゃったら、主よ、どうかあなたの解決を、癒やしを、回復をお与えくださいますように。心からお願いいたします。そして、主なる神さま、聖霊なる神さま、この場所に私たちと共にいらっしゃる神さま、どうかお一人おひとりのその心にタッチしてください。主よ、どうかその人生にあなたのみ手を持って触れてください。そして導いてください。そして主のみこころを受け取ることができるように、主の愛に触れられることができるように。平和が与えられますように。主に心から感謝します。
この恵みの時を心から感謝し、尊きイエス・キリストのみ名によって祈りをみ前におささげいたします。アーメン。