「宣教70周年-2020-
 明日に向かって、将来と希望 パート2」

  • 2020年2月16日(日)

新城教会主任牧師 滝元順
エレミヤ書29章10〜11節

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

創世記 12章1~3節

『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』

 ハレルヤ!皆さん、おはようございます。ひさしぶりにメッセージを語らせていただけますことを感謝します。ヘブンリー・キングダムの賛美、力強く、たいへん恵まれました。今日のメッセージのテーマを知ってか、聖霊の導きで歌ってくれました。歌詞の中に出ていた「将来と希望」は、今、読んでいただいたエレミヤ書二十九章に出てくる言葉です。

 イスラエルは初め一つの王国でした。しかし、途中で北イスラエルと南ユダに別れてしまいました。その後、北イスラエルは、アッシリア帝国に滅ぼされ、残された南ユダ王国も、やがてバビロニア帝国に滅ぼされたわけです。そして主要な人たちは、バビロンに捕囚にされました。
 しかし捕囚にされた人たちに対して、エレミヤは手紙を送りました。「あなたがたはバビロンで希望を失わず、祈り続けなさい!バビロンに同化してはいけません。七十年経ったら、主はあなたがたを解放し、エルサレムに戻します!」と主のことばを語りました。
 普通、七十年も経ったら、いくら捕虜の身分であってもその国になじみます。奴隷の子孫として、定着してしまいます。しかしユダの人たちは、敵の国に同化することをせずに、主を求め、叫び続けたのです。
 すると七十年が経ったある日、神は約束の計画を実行され、ユダの人たちはエルサレムに戻ったのです。クロス王が解放のおふれを出し、それが実現したわけです。

 神がユダの人たちに語った「七十年」という単位は、同時に主を信じる者達にも適用される単位ではないかと思われます。聖書のストーリーは、私たちにも対応するものです。

 今年は新城教会におきましては「宣教七十周年」の記念の年です。神さまの働きは創世の始めから、やがて訪れる主イエスさまの再臨と新天新地まで、脈々と続いています。教会はその中の、一瞬を担わしていただくに過ぎないのですが、同時に、教会の歴史は、聖書の大きなストーリーの縮小として対応するものです。私たちの人生も同様です。
 ゆえに聖書のみことばを学ぶ時、歴史的側面から学ぶのと共に、自分の人生に、教会の歴史に、どのように適応したら良いのか、祈り求める事が出来るはずです。

 イエスさまは、クリスチャンがすべての問題から守られ、花園にピクニックに来ているかような状態で人生を過ごすとは語られませんでした。
 「この世においては患難がある」と語られました。しかし、「わたしはすでに世に勝った」とも語られました。イエス・キリストを信じ、人生を歩んでいく中にも、多くの患難が出現します。そんな中、「すでに世に打ち勝ってくださったイエスさま」に頼りながら、毎日を歩むのです。

 聖書中、信仰者の原点として描かれている人物は、「アブラハム」です。先ほども読んでくださいましたが、当時の名前は「アブラム」。彼に神が語りかけたわけです。

『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』

 アブラハムの人生は、私たち自身にも対応するものです。今日、ここにおられますお一人一人、どこかで神の声を聞いて、教会に来られたはずです。それぞれ背景や場所は違うかもしれませんが、神の声を聞いてここにおられるのです。ということは、アブラハムと同じです。

 そうすると、「あなたの名は祝福となる」のです。私は「滝元順」という名前ですが、もう一つの名前があります。それは「滝元祝福」です。

 ここで『地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』と述べられています。案外、私たちは祝福を小さなレベルで捉えがちです。自分さえ祝福されればいいと考えるのですが、主を信じるならば、自分自身が祝福されるだけでなく、「地上のすべての民族はあなたによって祝福される」というのです。なんと、果てしない広がりがクリスチャン人生にはあるのです。
 「民族」という言葉は、「家族」とも訳せます。イエス・キリストを信じる時に、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」とあります。日本において、家族の中で一人がクリスチャンになるのは、たいへん厳しいものがあります。しかし信仰を持って、困難に立ち向かい、踏みとどまる時に、家族全員が救われるのです。
 それはやがて、地上のすべての家族が祝福を受けるという、大きな発展が秘められているのです。
 エレミヤ書二十九章と創世記十二章のみことばを組合わせると、同じテーマで語られていることに気づかされます。
 神が私たちを選んでくださると、その結果は個人にとどまらずに、一つの家族にとどまらずに、世界中の家族に、民族に及ぶのです。

 先週は、韓国から二十四名の方々が新城教会を訪れてくださいました。そしてある「朝鮮学校」を訪問しました。
 朝鮮学校には、どういう方々が来られているのかというと、在日韓国人ではなくて、朝鮮籍を有する方々を中心とした、北朝鮮のイデオロギーを受け入れている人たちです。そこを訪問し、奉仕できる事は普通のことではありません。
 実はこの働き、誰から始まったのかというと、私の家内から始まったのです。家内は種屋の娘です。やはり種を持ってくるのです。韓国でリバイバルミッションがあった時、「在日朝鮮人の方々への宣教」というテーマのセミナーに出ました。それでたいへん感動したらしいのです。「日本にそのような民族の方々がおられるなんて、知らなかった!あんた知ってる?」と私に言うのです。私は知っているような、知らないような、関心は全くありませんでした。セミナーの録音を聞いて、本当にびっくりしました。しかしその種が成長して、今があるのです。
 新城教会に様々な奇跡が起きましたが、種を持って来たのはほとんど家内でした。けれどもその種を育て、料理する係が私なのです。二人三脚です。

 最初に救われた人物とか、家族が、敵からの攻撃対象になると思われます。日本の教会は現在、たいへん苦戦しています。何十年かしたら、教会はなくなるのではないかという悪い勢いがあります。二〇三〇年になったら、教会数は半分くらいになると予測されています。
 どうしてかというと、最初に選ばれたアブラハムのような存在が、打ち倒されているからです。また、最初に選ばれた家族の中に、多くの問題が起こり、結果として、家族が倒れているからです。最初の家族さえ倒せば、後に続かないわけです。
 悪魔が真剣にターゲットとしているのは、「地上のすべての民族はあなたによって祝福される。」というカギを持った人物とか家族です。悪魔は家族を倒すために、必死になっていると思われます。
 「七十年経ったら解放してあげます!」という、エレミヤ書二十九章に述べられている霊的側面が、エレミヤ書三十一章にあります。

『見よ。その日が来る。--主の御告げ--その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。』

 ここで、「七十年たったら、あなたがたと新しい契約を結んであげますよ!」と約束されています。エレミヤ書三十一章三十三節、

『彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。--主の御告げ--わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』

 今までの契約とは違う、「新しい契約」を主は結んで下さるのです。この預言は、やがて、イエスさまの十字架と復活によって実現しました。しかし同時に、聖書のみことばは、私たちの人生にも対応するものです。特に宣教七十周年においては、すでにイエスさまの十字架で確立している新しい契約が、より強いフォーカスで、実行される年であると期待しています。

 七十年も経つと、どんな働きも尻つぼみになります。しかし七十年目くらいが、将来と希望を決定づける、大きな戦いの年ではないかと思われます。
 さて新しい契約とは、具体的にはエレミヤ書三十一章二十七~二十九節に述べられています。

『見よ。その日が来る。--主の御告げ--その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。--主の御告げ--その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない。』

 ここに『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という言葉があります。これは聖書のみことばのように見えますが、エレミヤの時代、今からざっくり三千年くらい前、一般の人たちが使っていた「ことわざ」だと言われます。一般の人たちがこのことわざを使っていたのです。普通ではありえない事です。
 「歯が痛い。親父が酸いぶどう食べたな!」なんて言わないです。しかしそのような現象が、多くの家族の中に起こっていたのです。
 父親が蒔いた種の結果として、子どもらに何かが起こるのです。科学にも、学問にもならなくても、そのようなことを人々は経験していたのでしょう。ゆえに、このことわざが、社会で頻繁に使われていたわけです。

 日本語は、複数と単数があいまいだとよく話していますが、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、「父」もヘブル語では「fathers」と、「複数」です。そして「子どもの歯が浮く」も「children」で複数です。
 家系の中に、父親たちは多く出現します。一つの家系を遡ると、同じような、悪い流れがあるわけです。結果として新しい世代が苦境に立たされたりするのです。
 日本もどうでしょうか。『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』ということわざはないけれど、家系が呪われてるというような、考えがあります。日本人も経験的に知っています。

 しかし七十年後、神は新しい契約を実行してあげます!と語られています。どんな契約かというと、父親たちの食べた酸いぶどうによって、新しい世代の子どもたちの歯が痛くなるような事が無くなる、という契約です。その結果、将来と希望を与えて下さるわけです。
 家系の中に脈々と流れている悪しきテーマが取りのけられるところに、将来と希望が語られているのは、大変興味深いところです。

 また父には、「チーフ、族長」という意味もあります。族長が持っていた霊的束縛が家系に脈々と流れることによって、様々な問題が起こる。しかし、それを取り去って下さるのが、七十年が経ったその日であるというのです。
 先ほども話しましたが、イエスさまの十字架と復活によって、すでに、その権利は我々にありますが、七十年というメリハリのある中で、主はより強く、そのテーマを実行してくださると信じます。新城教会においては、宣教七十周年の今年であったらと期待しています。

 ある意味、新城教会の族長は私の両親です。

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 懐かしい、じいちゃんばあちゃんです。今年は彼らがこの地域に入り、宣教を開始して七十年目という年です。父と母は教会で出会って結婚しました。ですから、教会がなかったら、私は生まれませんでした。イエスさまがいなかったら、私はこの地上に生まれなかった存在です。
 七十年経って、滝元家は八十人くらいに増えました。どこかで出会いがあって結婚し、七十年もしますと、七十人も八十人にも広がるのです。人生って、ちょっとしたきっかけが、後に大きな影響をもたらしますから、祈りが必要です。

 今から五十年くらい前の、滝元家の写真を見せたいと思います。メッセージ中に証しが多いというか、昔話傾向が強くてすみません。しかし、みことばに沿った話をしたいと願っています。五十年前の滝元ファミリーです。

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 私は七人兄弟でした。当時、この近所は封建的で、クリスチャンになる人はほとんどいませんでした。それで、しょうがないから、両親は、生んで増やせ作戦で、七人も生んだわけです。
 しかし本来は、八人兄弟でした。一人は亡くなりました。ますみちゃんという女の子が、三ヶ月で亡くなりました。昔は医療もちゃんとしていなかったので、手遅れとなりました。私が朝、学校に行く時、ますみはにこにこしていました。しかし帰って来たら、「ますみが亡くなったよ!」というのです。「えっ!!!??」と、本当に大きな衝撃を受けました。悲しかったです。両親は本当に悲しんでいました。イエスさまに仕えていても、いろんな試練があるんだなぁと思いました。
 しかし感謝なことに、主は地域の方々を救ってくださいました。お隣にKさんという家があって、そこは十二人、子どもを生んでくれました。すごいです。人は一ダースと言います。その隣に住んでいたのがOさんです。五人子どもを生んで協力してくれました。教会の前はIさん。六人子どもを生んでくれました。たったの四軒で、四十人以上の日本の平均以上の教会ができました。生んで増やせも大事だなぁと思います。

 しかし悪魔も、この教会の最初の核となった家族さえ壊せば、後に続かないから、ある意味、初期の家族に攻撃が集中しているような気がします。しかし七十年が経ったこの年、主が、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』というテーマを破ってくださると期待します。「今年が戦うチャンスだ!」と理解し、主の前に出て、みことばを宣言することが重要だと思います。

 牧師はメッセージを語る時、華々しいことを語りたいものです。私なんかその傾向が強く、「順先生、話盛ってるよね。」と時々言われます。はい、少し盛ってます。しかしこの頃は、気を付けてはいます。
 やはり良いことだけを語りたいです。闇の部分は隠したいです。皆さん、どうでしょうか。自分の家庭にある、嫌なことってしゃべりたいですか。しゃべりたくないですよね。良いことを話したいです。

 最近、祈りの中で主が一つのことを「教会レベルで祈れ!」と告げられている気がします。「勝ち取ったら、教会に来られているすべての方々の祝福につながる。」という印象をもらったので、今日はそのことを語らせていただきたいと思います。

 この教会の族長は、私の両親です。そこから滝元家が発生したゆえに、ここまで広がってきたわけです。我々が特別であるとか、そういう意味ではありません。ただ単に、新城教会、最初のファミリーになったのは確かです。
 ゆえに私の家族を究極的に苦しめるなら、祝福は流れません。のど元を握られているようなものです。悪魔は滝元ファミリーを真剣に攻撃しているのではないかと思います。
 他にも、初代ファミリーの中に、問題が見えます。同じことが言えると思います。

 今日は、滝元家の中にある闇についてお話ししたいと思います。そういう話し聞きたいですか?あんまり聞きたくないかもしれないけれど、私もあんまり話したくないです。しかしあえて、知っていただき、祈ってもらわなければいけないと思っています。
 私は七人兄弟ですが、実際は八人で、一人は亡くなりました。現在、七人中、問題がないのは、この写真で親父とおふくろに抱かれている二人だけです。

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 あとの五人には問題があり、試練があります。私も親父かおふくろのひざに乗りたかったなぁ、と思います。皆さんにシェアして、祈ってもらい、入口で詰まっているものが流れるのではないか?と思います。それを祈ってもらえ、と主から言われたような気がして、あえて話をさせていただきます。

 今週は特に祈ってほしいことがあります。私の弟を、望といいます。息子の寛太の手術があります。

 一年数ヶ月前に、脳出血で倒れ、一時は死んだと言われました。しかし奇跡的に助かりました。今回、背骨に電極を埋め込む手術をして、それで意識回復を試みます。その為の手術がありますので、是非とも祈って下さい。今週の水曜日にあります。本当に弟の家族も大変だなと思います。
 寛太には子どもが五人います。奥さんのかよちゃん、本当に大変だろうと思います。なんとか助かってもらいたいと思います。主が、今回、最新医学を通して勝利を与えてくださると期待しています。

 実は私には二人の妹がいます。私と望との間に、妹がいます。この問題はセンシティブな問題です。彼女は三十年くらい、家に戻っていません。ある意味、断絶です。父と母の葬式にも来ませんでした。父の闘病中、病室にも来ませんでした。父は病室から何度も電話して、「一度でもいいから、私が死ぬ前に会いに来てくれ。」と話しました。すると、「あんたたちとは、信仰が違うから、会えない」と言いました。死にかけた親の所にも行けないのは、本当に大きな問題です。心が痛いです。

 滝元家の三男は、実と言います。今は上條実と言います。彼も大変です。奥さんが病気になって介護しています。この間、彼も病気になりましたが、介護疲れです。私も分かる気がします。このまま行くと、ぽっくりいっちゃうんじゃないかみたいなところもあるわけです。いや〜大変だなぁと思います。
 滝元ファミリーの解放が、最終的には新城教会に来られている、すべての家族の祝福につながると信じています。首根っこを捕まえられているようなところがあると思います。

 四男を治と言います。今日も来ていると思いますが、知っていると思いますが、彼には障がいがあります。どうしてかと言ったら、日本で小児麻痺がものすごく流行った時期がありました。当時は小児麻痺のワクチンがありませんでした。ワクチンが配られる前の年でした。彼は感染して、後遺症が残り、足が悪くなりました。ずっと不自由な中で暮らしています。

 滝元ファミリー、両親が教会を作ったことによって、ぼこぼこにやられている感じです。本当に霊的戦いだと思います。
 しかし今年、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』というテーマから解放されるチャンスの年ならば嬉しいです。私たちだけの祈りでは力不足なので、教会に来られている兄弟姉妹が一緒に祈ってくれると、将来と希望が、全員に分け与えられるのではないかと期待しています。

 同時に、先ほども話しましたが、ヨハネの福音書十六章三十三節、

『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』

 いくらクリスチャンになっても、イエスさまが言われたように、「患難がある」のです。これも覚悟しておかなければいけないと私は思います。しかし勝利者イエスさまが共におられます。

 患難がある時に教えられるのが、「忍耐」です。親父が本にサインを頼まれると、必ず「忍耐」と書いていました。私は、その言葉が大嫌いでした。皆さん、忍耐、好きですか?現代人の忍耐リミットは三分だそうです。カップラーメンも四分にすると売れないそうです。ウルトラマンだって三分しか持ちません。しかし聖書は困難の中での忍耐は重要だというのです。
 パウロはこんなことを語っています。ローマ人への手紙五章三~五節、

『患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』

 人生の中には、試練や患難がある。しかしそこで忍耐を強いられることは、ただの我慢比べではないていうのです。その後、練られた品性が希望を生み出し、希望は失望に終わることがないというのです。
 私は本当に忍耐の足らないものです。「おまえ、もう少し忍耐を学べよ!」と神が語っておられるだろうと思います。

 ヘブル人への手紙とエレミヤ書二十九章がリンクしています。今日は詳しく話すことはできませんが、ヘブル書の記者は、ヘブル人への手紙十章三十六〜三十七節で、

『あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。』

 信仰の世界は、「忍耐」という二文字がないと前進しないみたいです。勘弁してくれよ!という気持ちにもなりますが、なかなか解決が来ない中、忍耐させられます。私も、多少、品性に磨きがかかったかもしれません。
 勝利した時には、皆さんの前に、神に鍛えてもらった滝元順をお見せしたいと思っています。
 でも忍耐って、結構、辛いです。私ももう疲れたな・・・と、この頃、よく思います。

 家内の得意料理はコロッケです。孫たちが、「ばあばのコロッケは世界一!」と言っています。「世界のコロッケを食ったことがあるのかよ」と思いますが、世界一だというのです。先週、家内がコロッケを作ってくれました。いや〜感動しました。
 それで、孫の所にコロッケを持って行ってくれと頼まれました。彼らは山の中に住んでいて、食物を家の中に入れないと、猿が来て全部持ち去ります。私は家内が作ったコロッケを持って、出かけました。
 「俺は、いつまで家内のコロッケを食えるのかな・・・。」と考えると、暗く、悲しい気持ちになりました。「主よ、勘弁してくださいよ・・・。」と涙ながらに祈りました。
 ちょうど雨が降っていて、次第に明るくなって、目の前に虹が出ました。「ちぇ!虹なんか出やがって!今、何時だと思うんだ。四時だぞ。」みたいな気持ちでした。虹を見たって、まったく感動はないというか、やけくそみたいなところがあって、「神さま、あなたはノアに虹出して、約束したって言いましたよね。俺にも約束してくれよ・・・。」みたいなところがあって、文句たらたらでした。
 しかしそんな中で、みことばが浮かんできたのです。それは七十周年に向けて神が新城教会に語っているのではないかと思うみ言葉でした。
 ヘブル人への手紙十二章一節〜三節、

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。』

 私も疲れ果てて、「もう駄目だ。」みたいなところがあったのですが、このみことばが心に浮かんできました。
 目の前に虹があって、虹なんかそのうち消えるだろうと思っていました。「この虹はあんたのために出してるんだ!」くらいのしるしが欲しいもんだ。と思いました。全然期待はしていなかったのですが、コロッケを届けた後、玄関から空を見たら、目の前に綺麗な虹がかかっていました。

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 こんな綺麗な虹、見たことがありませんでした。なんか慰められたというか、神さまは私たちの事を忘れていないぞ!みたいな気持ちになって、感謝しました。必ず祈りを聞いてくださり、将来と希望に結びつけてくださると信じます。絶対に泣かないで話そうと思っていたのですが、頑張ります!
 今、滝元家には多くの問題がありますが、皆さんの祈りによって、打ち破っていただき、将来と希望の約束に結びつけていただきたいと願っています。

 四十年くらい前ですが、私はめずらしく詩を書きました。最近、その詩を読んで、やばい詩を書いたものだな、と思いました。どんな詩を書いたのかというと、「僕の人生」というタイトルの詩です。中身を見てください。
 「人生は移りゆく季節のように変わる。ある時は真冬の寒さの中、北風に立ち向かい先に立って歩く。イエスさまの後ろには風は来ない。」・・・もう少し明るい詩を作ったら良かったのになと思います。
 詩を書くだけでやめておけばよかったのに、曲もつけちゃいました。二番なんか、「焼け付く夏の日射し、喉を枯らし歩く、辺りには水もなく木陰もない。」これって、今の俺にそっくりじゃん!みたいな感じで、最悪な詩を作り、歌にまでしちゃったからこんな目に遭っているのか・・・みたいな、いろんなことを考えちゃうのです。
 しかし、詩の中で強調したのは、「イエスさまのあとに付いて行くなら、僕の人生に恐れはない。イエスさまに導かれ歩む道は楽しい。心には喜びとやすらぎがある。」という事です。ここにゴールを設定して、七十年目の戦いに勝利させていただきたいと願っています。
 曲、聴きたいですか?グロリアシンガーズの四十年くらい前の曲で、懐メロです。ちょっと聞いていただき、皆さんの人生にも重ね合わせて見て下さい。皆さんもアブラハムです。家族が勝ち取られることが、後に続くのです。この戦いに勝利させていただこうじゃありませんか。

♪僕の人生

1.人生は移りゆく 季節のように変わる
ある時は真冬の寒さの中
北風に立ち向かい 先に立って歩く
イエスさまの後ろには風は来ない

ある時は雨の中 傘も持たず濡れながら
行くあてもないままに ひとり迷う
気がつけばイエスさまは そっと傘を差し出す
中には雲もなく 青空広がる

イエスさまのあと 付いて行くなら
僕の人生に 恐れはない
イエスさまに導かれ 歩む道は楽しい
心には喜びと 安らぎがある

2.焼け付く夏の日射し 喉を枯らし歩く
辺りには水もなく 木陰もない
日射しに手をかざし 先に立って歩く
イエスさまの後ろには 木陰が広がる

どんな季節が来ても 年月が流れても
イエスさまの後ろなら 怖くはない
君にも知ってほしい こんな人生がある
この道は続くよ 明日に向かって

イエスさまのあと 付いて行くなら
君の人生に 恐れはない
イエスさまに導かれ 歩む道は楽しい
心には喜びと 安らぎがある ♪

 作詞・作曲、ボーカルも滝元順です。こんなものを作ったもんだから・・というのではなくて、一番大事なのはイエスさまと一緒に歩むことです。
 「わたしは世に勝った」とありますから、新しい契約を握って、戦い続けていきたいと思います。

 今日は、職権乱用みたいで申し訳ないのですが、というよりも、新城教会のボトルネック、滝元家の解放を是非とも共に祈っていただきたいのです。そうでないと、なかなか祝福が流れないのではと感じています。詰まっているトイレが流れるような勝利に結びつく日になればいいなと思っています。
 お一人お一人、アブラハムです。同じ現象が起こっているのかもしれません。日本のクリスチャンはほとんどが初代、その家族が多いです。そこで勝ち取っていただきたいと願っています。

 最後に一緒に聖餐式を持って、そのことを意識して祈りの時を持ちたいと思います。一言祈ります。

 ハレルヤ。父なる神さま、み名をあがめて心から感謝をいたします。私たちを愛してくださっているイエスさま、心から感謝します。あなたはすでに世に勝ったと言われます。私たちにも勝利を与えてください。
 ただ一人のクリスチャンであったり、最初の家族であったりしますが、多くの問題があるかもしれません。今日は七十年目に、父が酸いぶどうを食べたために子どもの歯が浮くという暗闇が打ち砕かれ、勝利を得ることができるように、みことばを実現してください。
 今からの聖餐式を祝福してください。イエスさまのみ名によって祈ります。アーメン。