「恵み深く親切で、両腕いっぱいの祝福を
かかえておいでになるからです。」

  • 2020年3月29日(日)

新城教会牧師 上條実
ルカによる福音書10章38節~42節

『さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』

 ハレルヤ!今日こうして皆さんの前に立って、みことばを語ることができることを心から感謝します。いつも私と家内、家族のためにお祈り下さり感謝いたします。またリバイバルミッションのためにもお祈り下さり感謝致します。本日の週報に記載させていただきましたが、今週は中国地区においてリバイバルミッション2020が開催されますのでお祈り下さい。

 それではみことばを学んでいきたいと思います。先ほど読んでいただきましたルカによる福音書十章三十八節~四十二節の所を中心に学んで行きたいと思います。
 イエスキリストがマルタとマリヤの家に来てくださった時の出来事が書かれてあります。またもう一箇所、詩篇百三十篇をお読みしたいと思います。この個所はリビングバイブルでお読みいたします。

『ああ神様。 私は失意のどん底から、あなたの助けを叫び求めます。「お願いですから、私の訴えを聞いて、助けてください。」もし、神様がいつまでも私たちの罪を心に留められるのでしたら、とうてい、この祈りも聞いてはいただけないでしょう。しかし、恐れ多いことですが、神様は赦してくださるお方です。だからこそ、お助けを信じつつ、期待をこめて待っているのです。見張りの者が夜明けを待つよりも切実に、神様を待ち望んでいます。イスラエルよ、神様を信じて希望を持ちなさい。 神様は恵み深く親切で、両腕いっぱいの祝福をかかえておいでになるからです。神様は、罪の奴隷となったイスラエルを買い戻してくださいます。』

 この今の読んだ七節の所をもう一度読みます。『イスラエルよ、神様を信じて希望を持ちなさい。 神様は恵み深く親切で、両腕いっぱいの祝福をかかえておいでになるからです。』今日はこの個所からメッセージタイトルを取らせていただきました。

 司会者の方に読んでいただきましたルカ十章三十八節~四十二節の箇所にはマルタとマリヤが出てきます。このマルタ、マリヤは、エルサレムの近くにあるベタニアというところに住み、その他の兄弟として、死んでいたのによみがえったラザロがいました。マルタとマリヤはイエスさまが家に来てくださったということで、とても喜んで歓迎しました。 マルタはイエスさまをおもてなしたいと思い準備を始めました。しかしマリヤは、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていました。マルタは、お客に来たイエスさまに対してお願いすることではないと思いますが、「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」とイエスさまに訴えました。するとイエスさまはルカの十章四十一節、

『主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。』

とマルタに忠告したのです。今様々な報道機関が新型コロナウイルスの事を報道しています。小学校から高校まで休校。そして週末には不要不急の外出を自粛するようにという要請が出ており、政府も今の時期が非常に重要だとし、恐ろしい敵と不屈の覚悟で戦い抜かなければならないと会見で述べていました。そのため今日本国民はすごく気持ちが塞ぎ、心配しています。先ほどお読みした聖書のごとく、イエスさまがマルタに言ったのは、「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。」とありますが、まさしくそのように心配し気を使っています。また百三十篇一節のリビングバイブルでは

『ああ神様。 私は失意のどん底から、あなたの助けを叫び求めます。』

とありますが、今まさにこのみことば通りのようです。今世の中は一番どん底の中で、「神さま、助けてください!」と訴えています。五節には、

『だからこそ、お助けを信じつつ、期待をこめて待っているのです。見張りの者が夜明けを待つよりも切実に、神様を待ち望んでいます。』

とありますが、今世の中は一番暗い状況かもわかりません。日本だけでなく世界中が新型コロナウイルスに、目に見えない敵に支配されています。
 そんな中で私たちクリスチャンがどうあるべきかということをみことばから学んでいきたいと思います。

 マルタとマリヤの話に戻りますが、マルタはイエス様を給仕しようとしていたわけですが、マリヤはイエス様の足もとにすわって、みことばに聞き入っていました。そしてマルタに

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

と言いました。マルタよりもマリヤのほうが良い方を選んだと言われてしまいました。しかし給仕することが悪いわけではありません。
 皆さんにお祈りいただいて、私の家内も守られています。しかし家内の体調のために、今私が家事全般を代わりに行っています。だから少しマルタの気持ちがわかるような気がします。先週も三人の方が、家内の為に来てくださいました。お忙しい中、わざわざ家内の為に来てくださったのです。そのため私はお茶を出し、何か甘いものでも出そうと思いましたが、何もなくどうしようと思いました。しかし感謝なことに来てくださって方が、美味しい手作りのお菓子をもってきて下さり、みんなで食べて頂くことができました。

 先週あるホームページの記事を読んで、おもしろいなぁと思った事があります。それは
主婦業を年収についてでした。洗っても洗っても、毎日出される家族の洗濯。お弁当やおやつも含めれば、何食必要になるかも分からない食事の用意、夜間や早朝勤務どころか、24時間仕事が絶えない主婦業。これらの主婦の仕事を給料に換算したらどのくらいの労働量になるのでしょうか?とある会社が調べました。当時の平均年収は約四百二十万円でした。しかし主婦はなんとサラリーマンの年収とほぼ同等、もしくはそれ以上になる四百七十万円だとありました。家事にかける時間帯や内容よっては八百万円から九百万円になるという人もいます。
 
 我が家では、今まで家内が家事全般をしていてくれました。仕事をして帰れば、ご飯ができていて当たり前。そしてご飯ができていなかったら、「なんでこの時間にできてないよ。今から家庭集会だよ。」と文句を言ったりしていました。しかしいざ自分が、家事全般をするようになって、当時の事を考えて悔い改めました。家内に対して大変申し訳ないことをしたと思います。食事ができているのが当然ではなく、陰には大変な労力と時間がかかっていることを覚えなくてはいけません。皆さん感謝しましょう。ルカ十章二十七節に、

『すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」』

隣人とは、夫婦であれば夫であり、妻であるわけですから、とにかく愛し合って、本当に感謝して、「ありがとう」と言うことが大切であるし、お互い助け合って愛し合って行くことが大事。自分自身のように隣人を愛していきましょう。

 マルタはマリヤに対して怒りをもって、イエスさまに、「マリヤに手伝うように言って下さい。」と言いました。しかしイエスさまはルカ十章四十一節〜四十二節、

『主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』

 ここに『いろいろなことを心配して、気を使っています。』とあります。そしてどうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけですとあります。今の時代、新型コロナウイルスによって心配が先に立ってしまって、辛く、我慢の時であると思います。本来クリスチャンは、どうしても必要なことであるイエスさまの声を聞く。イエスさまの声に従うことが大切であるのに世の心遣い、心配、日常生活のことで惑わされて、自分を見失なってしまい、イエスさまから離れてしまいます。私たちクリスチャンとして、今日いたずらに心配したり、この日常生活の中で心を痛めて囚われすぎてしまう時があります。しかし私たちは主に心配を委ねて、イエスさまに対して目を向け、イエスさまの声に聞きしたがって進んでいきたいと思います。

 聖書の中で「心配」について書かれた記事が多くあります。特別創世記十五章の所を見ると創世記十五章一節~六節(リビングバイブル)、

『そののち神様は、幻の中でアブラムに現われ、こう語りかけました。「アブラムよ、心配することはない。わたしがおまえを守り、大いに祝福してやろう。」「ああ神様、私に息子がないのはご存じでしょう。それでは、どんなに祝福していただいても、何の役にも立ちません。息子がいなければ、全財産は一族のだれかほかの者が相続するのです。」「いや、そんなことはない。ほかの者がおまえの跡継ぎになることは決してない。おまえの財産を相続する息子が必ず生まれるのだ。」それから神様はアブラムを外へ連れ出し、満天の星空の下に立たせました。「空を見なさい。 あの星をぜんぶ数えられるか?おまえの子孫はちょうどあの星のようになる。とても数えきれないほど大ぜいにな。」アブラムは神様を信じました。神様はその信仰を認め、アブラムを正しい者とみなしました。』

とあります。

 ローマ書四章十九節〜二十一節に、

『アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。』

とあります。神に選ばれたアブラムですが、世継ぎが生まれるという約束があるにもかかわらず、子どもが生まれない。そしてアブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めたとあります。もう人間的には不可能なことです。アブラハムは心配し、「どんなに祝福していただいても、何の役にも立ちません。息子がいなければ、全財産は一族のだれかほかの者が相続するのです。」

と神に嘆きました。しかしアブラハムのすごいことは、

『それから神様はアブラムを外へ連れ出し、満天の星空の下に立たせました。「空を見なさい。 あの星をぜんぶ数えられるか?おまえの子孫はちょうどあの星のようになる。とても数えきれないほど大ぜいにな。」アブラムは神様を信じました。神様はその信仰を認め、アブラムを正しい者とみなしました。』

とあります。ただ主の声を聞き、信じました。「空を見なさい。 あの星をぜんぶ数えられるか?おまえの子孫はちょうどあの星のようになる。とても数えきれないほど大ぜいにな。」

と神に語ってもらいました。そしてアブラハムはそのことばを信じました。

『彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。』

神さまの言われたことをそのまま信じました。結果を見ていなくても、言葉だけで信じたのです。そして

『アブラムは神様を信じました。神様はその信仰を認め、アブラムを正しい者とみなしました。』

とあります。私たちも神さまのことば、聖書のことばを信じましょう。今新型コロナウイルスなど、日常の出来事で心配だらけであるのですが、私(上條実)は神様を信じました。神様はその信仰を認め、私(上條実)を正しい者とみなしました。と言っていただけるように、単純に見ずして信じる者としていただきたいと思います。

 しかし私たちは様々な心配が多いと、疲れてしまい、不満を持ってしまいます。「自分は一生懸命やっているけれども、あの人が変わらないと」と思い、人に対してうと、知らない間に他人に罪をなすりつけるところがあると思います。他人に対して不満を持つことがあるのです。
 それと同時に、他人だけでなく、今聖書を私たちクリスチャンが読んでいると、「これだけ祈ってきたのに、なんで主は応えてくれないんだ。」と不満を持つことがあります。
 私も家内の癒やしのために祈っていますし、また多くの方々の癒やしの必要があって今祈不満を持ち、また神さまにも「すべてに勝利がある」というが、なんで答えられないのだろうかと思ってしまう時があります。「今までこれだけ祈ってきたのに。奉仕してきたのにイエスさま、なんで応えてくれないの?」と主に対して不満を持つことがあります。
 答えられずに心配して、信仰が小さくなり、ある時は不信仰をいだき、あきらめてしまう時があります。

 以前の礼拝メッセージで昨年の十月におきた自分の病気の事を語りました。その時、本当に主に助けて頂きました。癒していただきました。賛美の力で癒されましたと、語らせていただきました。本当に不思議なことを主がして下さいました。しかしその後の検査に病院に行き、様々な検査をするとき、自分の信仰のなさを感じました。検査ではとても緊張し、「血圧を測ってください。」と言われたので測りましたら、ここでは言えないほどの数値が出て、とても心配し、その他の検査ではびくびくしながら、「イエスさま!イエスさま!助けてください!」と必死に祈りながら、検査を受けました。結果を聞いたら、「特に変わりませんね。このまま続けていきましょう」と言われ、帰って家族に報告するときは、「なんともなかった。やっぱ祈ったから・・・。」と偉そうなことを言ってしまうのです。小さなことで心配し、知らない間に心配や不満を持つようになってしまっています。

 そんな中で、私、教えられたみことばが、ルカの十五章二十八節〜三十二節のみことばです。

『すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』』

 この箇所は有名な放蕩息子の話が書かれています。家の財産を食い潰して帰ってきた放蕩息子を、まだ家までは遠かったのに、父親は見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけし、一番良い着物を持って来て着せ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせました。そして肥えた子牛をほふり、宴会を行ったのです。その兄は畑で働いていましたが、帰って来た時に、家でどんちゃん騒ぎの音が聞こえたのでこれは何か?と、家に入らずにしもべに聞きました。すると「弟さんが帰って来たんですよ!ご主人さまが喜んで宴会を開いたのです。」と言いました。すると兄は怒り家に入ろうともしなかったのです。それで、父が出て来て、いろいろなだめ、「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」といったと言うストーリーです。兄は

『長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありませんそれなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

と父に怒ったのです。その時に、父が言った言葉は三十一節、

『父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。』』

 今回私はこの「私のものは、全部おまえのものだ。」と言われた時に、はっと気がつきました。私たちは知らない間に、主が見えなくなっていると思いました。私の為に命をかけて、永遠の命を与えて下さった主。私を造ってくださった神、いつも寝ずの番をし、守り、祝福と幸せを与えてくださる主、すべてを備えてくださる神に対して、私はなんという不満を持っていたのだろうかと気づかされました。必死に祈り、癒しや問題解決を求めて祈っていますが、答えられないと、なぜ?と不満を持ってしまっている。

 この不満によって、イエスさまが見えなくなり、イエスキリストも、その不満によって栄光を表すことができないのです。主はいつも私といっしょにいる。「私のものは、全部おまえのものだ。」というこのみことばを信じなさい。そして主に対して不平、不満、不信を持っていたら悔い改めて、今日イエスキリストが私の救い主であると再度信じる必要があると教えられました。

詩篇の一篇三節にこういうみことばがあります。

『その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』

 ここに、『時が来ると実がなり、』とあります。主は生きています。そしてみことばは一点一画変わることがありません。主の時、タイミングがある、主の時があるということ信じましょう。今まで日常生活のことが気になり、イエスキリストに不満を持っていましたが、『時が来ると実がなり、』このみことばを信じましょう。『時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』というのです。

 また第一ペテロ五章六節~七節に、こういうみことばがあります。

『ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』

 このみことばは、主の前にへりくだれ。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためですとあります。思い煩わないで心配するな。と言っています。

 また、箴言十九章二十一節、

『人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。』

とあります。知らない間に、主のはかりごとが、自分の自己実現の思いになってしまっていることがあります。主のはかりごとだけがなるんだと聖書は言っています。今日も主の祈りをささげましたが、「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りました。主のみこころだけがなります。続いて、詩篇八十九篇三十四節、

『わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。』

 イエスさまが聖書にて語っていることは、絶対その通りになります。人間的には不可能な状況があります。しかし主が語ったことは絶対に変えないとあります。先ほどのアブラハムの箇所でも、人からみたら百パーセント無理なことです。百歳になるアブラハム。自他ともにアブラハムのからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めています。しかし主は人にとってはありえないことを成就しました。聖書の約束通りにされる方です。また伝道者の書三章十四節、

『私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。』

とあります。神のなさることはみな永遠に変わらない。何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできないとあります。

 また放蕩息子の兄と同じように、不満というところから創世記四章にあるカインとアベルを学んでいきたいと思います。創世記四章四節、五節を読みたいと思います。

『アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。』

とあります。カインは作物、野菜を作る者になりました。またアベルは家畜を飼う者になりました。創世記四章三節から四節

『 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。』

とあります。主を礼拝するために、二人は自分のものから、主にささげものをもってきてささげました。そこで最上のものを持って来たアベルとそのささげ物に目を留められたのです。人とささげものに目を止められました。そこで四章五節

『だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。』

とあります。カインとカインのささげたものには目を止められなかったので、怒り、主に不満をいだきました。そして四章八節に、

『しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。』

とあります。不満が殺人を犯してしまいました。私は主に不満や怒りを持つことはとても怖いことだなぁと思いました。聖書の中に姦淫のことが書いてあります。マタイ五章二十七節から三十節

『『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。』

とあります。実際姦淫しなくても、情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのだとあります。主は厳しいお方です。右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからですとあります。ゲヘナに行くより、肉体を傷つけてでも罪から守られる方が良いと言っています。実際今私たちが、目をえぐりだしたり、片手を切ったりすことはしませんが、憎しみや不満も同じではないかと、今回思わされました。私たちが主と人に対して不満を持ち、憎しみを持っていたならば、ローマ十章九節から十節

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

とあります。今日主に不満があったならばへりくだって、イエスキリストの十字架。福音を信じるならば救われるとあります。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。今日悔い改める時を持ちましょう。

創世記四章九節〜十二節(リビングバイブル)を読みます。

『そのことがあってから、神様はカインに尋ねました。「弟はどこにいる?アベルはどうしたのだ。」「そんなこと、なぜおれが知ってなきゃいけないんです?弟の行く先をいつも見張れとでもおっしゃるんですか。」「おまえの弟の血が大地からわたしを呼んでいる。全く大それたことをしでかしてくれたものだ。弟の血で大地を汚すとは、なんということだ。おまえはもう、ここには住めない。追放だ。これからは、いくら汗水流して働いても、大地はおまえのために作物を実らせない。この先おまえは放浪者となり、当てもなくさすらい歩くのだ。」』

カインは、おまえの弟の血が大地からわたしを呼んでいる。全く大それたことをしでかしてくれたものだ。弟の血で大地を汚すとは、なんということだ。おまえはもう、ここには住めない。追放だ。これからは、いくら汗水流して働いても、大地はおまえのために作物を実らせない。この先おまえは放浪者となり、当てもなくさすらい歩くのだ。と主に言われました。「弟の血で大地を汚した。」とあります。「弟の血がうめいている。」ともあります。
 私たちはとりなしの祈り中で、この地をいやされるように、この地が回復するように祈っています。しかし知らない間に、私たちが主に不満を持ち、人に対して不満と憎しみを持つ中で、この地を汚してしまっていると思います。今日イエスキリストの十字架と復活を心から信じ、悔い改めることはしっかり悔い改めようではありませんか。
 不平不満を持っていませんか?主に対して、夫婦、家庭、学校、職場でも、様々な中にある不平不満。怒り、憎しみを悔い改めましょう。

 もう一度みことばを読んで励ましを受けたいと思います。申命記二十八章十二節。

『主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。』

主は私たちに恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福されると言ってくださっています。信じましょう。

 また伝道者の書三章十一節、

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。』

 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とあります。私たちの人生に、主は責任をもって美しいことをして下さる。私たちの人生には汚い、汚れたところは一切ないと語ってくださっています。そしてもう一度詩篇百三十篇をリビングバイブルで読んでみます。

『ああ神様。 私は失意のどん底から、あなたの助けを叫び求めます。「お願いですから、私の訴えを聞いて、助けてください。」もし、神様がいつまでも私たちの罪を心に留められるのでしたら、とうてい、この祈りも聞いてはいただけないでしょう。しかし、恐れ多いことですが、神様は赦してくださるお方です。だからこそ、お助けを信じつつ、期待をこめて待っているのです。見張りの者が夜明けを待つよりも切実に、神様を待ち望んでいます。イスラエルよ、神様を信じて希望を持ちなさい。神様は恵み深く親切で、両腕いっぱいの祝福をかかえておいでになるからです。神様は、罪の奴隷となったイスラエルを買い戻してくださいます。』

 私は失意のどん底から、あなたの助けを叫び求めますとあります。「お願いですから、私の訴えを聞いて、助けてください。」とあります。今私たちは新型コロナウイルスによって苦しんでいます。私たちは本当に切実に求めています。今この状況から早く、主にあって解決するように祈っています。見張りの者が夜明けを待つよりも切実に、神様を待ち望んでいますとあります。暁のころ、一番暗い時であるかもしれません。主は私たちに宣言してくださっています。

『イスラエルよ、神様を信じて希望を持ちなさい。神様は恵み深く親切で、両腕いっぱいの祝福をかかえておいでになるからです。神様は、罪の奴隷となったイスラエルを買い戻してくださいます。』

と語ってくださっています。神様は恵み深く親切で、両腕いっぱいの祝福をかかえておいでになるからです。信じましょう。最後に、新城教会は今年で七十周年を迎えます。そのなかで新城教会に与えられたみことばが、エレミヤ書二十九章十節〜十一節です。

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』

とあります。奴隷生活の中で苦しんでいた民が、七十年経って解き放たれ「あなたには将来と希望を与える!」と、みことばで語ってくださっています。そしてイザヤ書六十一章一節〜三節、

『神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。』

このみことばを信じましょう。さらに宣言しましょう。私たち新城教会に約束してくださったみことばです。そして最後に、第一コリント二章九節、これを皆さんで声を出して読んでみましょうか。主に対して告白の意味で読んでみましょう。

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 信じますか?アーメン。私たちは今どんな状況の中にあっても、主に目を向けようではありませんか?日常生活に囚われないで、心配しないで、主に委ねましょう。また罪があったらその罪を悔い改めて、主に期待しようではありませんか。

『イスラエルよ、神様を信じて希望を持ちなさい。神様は恵み深く親切で、両腕いっぱいの祝福をかかえておいでになるからです。神様は、罪の奴隷となったイスラエルを買い戻してくださいます。』

主は、私たちの為に両腕いっぱいの祝福をかかえておいでになるからです。お祈りして、終わりにさせていただきます。

 愛する天のお父さま、今日イエスキリストが私の神であることを信じます。私の心の中に受け入れます。今まで持っていた不満や憎しみなどを悔い改めます。あなたはみことばを一点一画変えないかたであることを信じます。今日本だけでなく世界中が苦しんでいます。助けてください。
 私たちは日常生活の中で新型コロナウイルスによって心配だらけです。今日心配を委ねます。あなたに対する不満を赦してください。解き放してください。あなただけに目を向けます。今日、イエスさま、あなたがなさりたいことだけを、みこころのままに行ってください。みこころのままに私たち一人一人に、この教会に、日本に行ってください。
 あなたのみことばだけがなりますように。将来と希望を与えてくださる事を信じます。また目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうであるというみことばを信じます。あなたのみことばは一点一画変わりません。世界と日本を祝福してください。またこの教会を祝福し、お一人お一人を祝福してください。主イエスさま、あなたのみ名だけがあがめられますように。主イエスキリストのみ名によって、お祈りをおささげいたします。
アーメン。