「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」

2020年4月26日(日)
新城教会スタッフ 鈴木陽介
黙示録22章1節〜6節

『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。』

 ハレルヤ!皆さんの前で今日こうしてお話をさせていただける、その恵みを心から感謝します。今日初めて主日礼拝でお話しさせていただくわけですけども、この事は今年の二月の辺りから決められておりました。その後、ご存じのように世界中で思いも寄らない自体になって我々の生活が一変しています。新城教会でもインターネットを通して主に礼拝がささげられている、そのような中で私がこうして語らせていただくということも、正直、どういう意味合いがあるのだろうという部分も大きいですし、はっきりと言えば、非常にやりにくいという部分があるのも事実です。でも神さまの使命として、立たされたその特権を感謝して、今日のみことばを取り次がせていただきたいと思います。

 早速ですが、今日お読みしていただいた黙示録の箇所は二十二章ということで、黙示録の最後の章になります。もう一度お読みします。黙示録二十二章一節〜六節、

『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。』

 六節が途中までですが、ここまでにしたいと思います。お読みいただければ分かる通り、この描写というのは、今私たちが生きている世、今のこの地の描写ではありません。ではどこの描写かと言えば、これも皆さんお分かりのように新しい地ですね。完全な神の支配が訪れる、今の世が過ぎ去った後の世、その描写になります。
 今日はこの黙示録の箇所から、特に私たちの今生きている、この世、そして後に来ると約束されている後の世について、はっきりとしっかりともう一度私たちが神のみことばに立って、受け取るべき真実を受け取る、そのようなみことばの時を皆さんと共に分かち合いたいと思います。

 ご存じの方も多いと思いますが、私は、二〇一九年十二月三十一日のカウントダウンワーシップの時に、同じように、みことばを取り次ぐという役目で、この場所に立たせていただきました。牧師先生方と同じ並びの中の七名に入れていただいてみことばを語らせていただきました。その時に引用させていただいた箇所も、黙示録二十二章、同じ黙示録の最後の場面でした。黙示録二十二章十六節、今日お読みしていただいた箇所の少し先になります。

『「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」』

 そしてもう一箇所、引用させていただきました。マラキ書四章二節、こちらは旧約聖書の最後の書物の最後の章です。

『しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。』

 この二つの聖書の箇所から、「明けの明星」と「義の太陽」というような視点でお話をさせていただきました。このみことばから何を分かち合いたかったかというと、それは私たちの立ち位置、今私たちが生かされている世、そして私たちクリスチャンの目的は何なのか、言い換えるならば、神さまからの使命は何なのかということです。それをはっきりと知り、しっかり受け取るべきである、そういう視点で、このみことばからお話させていただきました。
 今日も、このみことばの延長として、特にその中でも、私たちが生かされているこの世、教会の時代、クリスチャンとは何か、教会とは何か、そのようなテーマでお話をさせていただきたいと思います。
 そして結論は同じです。約束されている新天新地、神の完全な支配、そこが私たちのゴールだということをはっきりとみことばからもう一度、受け取りたいと思います。

 まずカウントダウンのみことばの内容からもう一度見ていきたいと思います。黙示録の中でイエスさまご自身がご自分のことを「わたしが輝く明けの明星である」と語られています。
 このイエスさまが輝く明けの明星であるということがどういう意味かということですが、まず「明けの明星」というものが何かということを前回もお話しさせていただきました。これは抽象的な、詩的な表現というふうに思われる方も多いかもしれませんが、実はこの「明けの明星」というのは、すごく具体的なものの比喩として使われています。結論を言いますと、「金星」のことです。太陽系にある金星のことです。
 その金星においても、特に「明けの明星」と呼ばれている金星は、明け方に見える金星のことです。金星というのは地球よりも太陽側にある星ですので、真夜中の時間帯には見えない位置にあるわけです。この図は前回もお出ししましたものです。

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 昼間は見える位置にあっても太陽の光で見えない。ではいつ見えるのかというと、太陽が陰り始める日没とその後のしばらくの時間、または明け方、夜が明ける前後の一部の時間ということになります。
 今年は理論上、六月四日まではこの日本においては「宵の明星」と呼ばれる日没前後に見える金星の時期です。それが六月四日を過ぎると次第に、明けの明星、今ご説明しているところです、明けの明星が見える時期になります。
 こういうように地球と太陽の位置関係の中で、金星というのはこの地球から見える時間帯が非常に限られている星です。また、地球に近い星でもあるので、非常に明るい星です。

 明けの明星が何を意味しているか。それは明けの明星が見えだしたら、やがてまもなく夜が明ける、「夜明けが来る」ということです。
 ではイエスさまが明けの明星であるということはどういうことでしょうか。この暗闇の支配の中にあるこの地に、明けの明星であるイエスさまが来られたということです。これだけで素晴らしい知らせですよね。だけどもそれはまだ夜明けではないのです。イエスさまの到来というのは夜明けの前ぶれ、夜明けのしるしです。ではやがて来る夜明け、朝、昼間というのは何なのかと言ったら、マラキ書に出てきた、義の太陽なる父なる神が完全に暗闇の世界を勝ち取り、支配されるときです。何の光もいらない、主ご自身が光となって永遠に照らされるそのときが来る。それが「義の太陽」という表現で表されているわけです。
 ですから私たちの時代は、明けの明星なるイエスさまが来られて、夜明けが近いけれども、まだ完全な夜明け、朝、昼、神の完全な太陽が輝いている時ではない、そういう時代であるということです。しかし、やがて神の完全な支配がこの地上に現される。これが二〇一九年十二月三十一日のメッセージの内容です。

 今日もそのことも踏まえながら、私たちがこの地に生かされている意味合い、私たちのポジション、立ち位置、目的、そしてゴールはどこかということをもう一度聖書から受け取っていきたいと思います。

 我々が生きているこの世というものが、どういう世であるかということが聖書において私たちに示されています。
 ところで、聖書というのは、なかなか正しく読むことが簡単ではない書物であります。知らない方も多いと思うのですが、私は、もう十一年前になると思うのですが、リバイバル聖書神学校で三年間学びを受けました。それは私が洗礼を受けて比較的すぐ後の事でした。信仰生活の比較的早くから聖書を体系的に学ぶことができた、聖書の「読み方」というものをしっかりと受け取ることができたということが、今の私の信仰生活の中においてはものすごく大事な財産となっています。
 神学というと何か小難しくてそういうのが好きな人だけやっていればいいと思われる方もいるかもしれません。しかし、神学を学ぶというのは、神さまをほめたたえる、神さまを信じて一生懸命祈る、その様な原則と何ら変わりはありません。それらを精一杯することができる様に、我々が知性においても神さまのことを全力で知る、さらに言うと知るのが目的ではありません、知ることでより神さまの素晴らしさ、恵み、特権というものを深く理解できる、そのためのものなのです。ですから、私が今日語るようなメッセージもそうですし、私の信仰生活の中では、その様な部分が土台としてはっきりと据えられております。

 そのような中で、今日、皆さんと神学的な表現も交えてお分かちしたい内容は、特に「救済史」と「終末論」というようなところに関わるところになります。「救済史」というのは簡単に言うと、神さまの救いの歴史、この天地の歴史を神さまの「救いのみわざ」という視点で見ていく歴史観になります。
 そして、その中においる「世の終わり」に関しての正しい理解、それが「終末論」ということになります。
 この二つを前提に今日のみことばを語らせていただきたいと思います。

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 この図は聖書の中の歴史観のエッセンス、本当に大きい所だけを抽出したものです。左から順番に右へ見ていきます。上下の位置関係に意味はありません。下にイメージ画像があります。
 まずはじめに天地創造において神さまがこの地を造られた。地のみならず万物を、すべての被造物、人間を含めた被造物を造られた。そこにははっきりと神の目的があって、神の栄光のために造られたわけですが、それを裏切って、その目的から外れたのが人類の罪ですね。アダムとエバがヘビにそそのかされました。
 そしてその後、大きく一箇所だけ抜き出しますが、そのアダムとエバの子孫から、やがてアブラハムという一人の人物が選び出されました。その子孫、イスラエルが神の選びの民とされました。アブラハムに対して、この地上のすべての民族が「あなたを通して祝福される」という約束が神さまからなされました。残りの旧約聖書の部分は、端的に言えば、このイスラエルの歴史が書かれています。それは罪と悔い改めの繰り返しのような歴史です。
 人類の罪によりこの地上がサタンの手に渡ってしまった。この地上の権利がすべてサタンに渡って、この地が神さまの本来の目的から離れてしまいました。神の栄光が奪われてしまった。神さまはそれを取り戻さなければならない、奪還しなければならない。そのような中で、人類に与えられた律法という方法ではそれがなされなかった。そこで、どういった手段がこの地上に現されたか、イエスさまがこの地上に来られました。神のみ子、イエスさまがこの地上に来られて、そして地上で働かれて、やがて十字架にかかられ、よみがえり、天に帰られた。
 その後、この地上は、イエスさまが帰ってしまって空っぽではなく、聖霊さまが注がれる時代になりました。
 やがてイエスさまが再び来られる、再臨の時ですね。聖霊さまは「炎のような分かれた舌」という表現がありますので炎のマークで、再臨は「雲にのって来られる」ということで雲のマークです。
 その再臨の後に新天新地です。再臨を境に、この世が、がらっと変えられ、神の手に完全に勝ち取られるということです。まずは大きな聖書の歴史を皆さんもざっと捉えていただきたいと思います。

 今日はこの大きな歴史の流れの中で、特に我々が生かされている時代、イエスさまの到来の後の時代、そしてさらに言うと聖霊さまが注がれた後の時代に関して、フォーカスを当てて見ていきたいと思います。
 この図の直線的な歴史の流れが、聖書が示している歴史観なわけです。初めがあって終わりがある。繰り返してループしたりすることもなく、はっきりと目的を持って、初めがあって終わりがある。それが私たちの生かされている世です。
 そしてこの直線的な歴史の流れの中で、いくつかの重要な転換点というものがある。そういった視点も踏まえて、私たちの時代について見ていきたいと思います。

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 これはリバイバル聖書神学校を私と同じような時期に学ばれた方は何度も目にした図だと思います。山崎ランサム和彦先生が折々に書かれた簡易的な図です。
 イエスさまがこの地上に来られたということはどういう意味合いを持っているでしょうか。先ほども少し触れましたが、これは救済史においては非常に大きな転換点で、神の国がこの地に到来したということです。
 図の十字架、イエスさまの到来を境に神の国がこの地に訪れ、それがどんどん拡大している。やがて再臨を境に新天新地が現される。完全な神の支配が完成するのだというのが聖書の示している歴史観・世界観です。
 我々は、この模式的な図において、神の国が拡大していっている時代に生かされているということです。
 「神の国」というのはどういう意味でしょうか。それは言い換えれば、「神の支配」ということです。人類の罪によってこの地上はサタンの支配に渡ってしまいましたが、それを勝ち取る、サタンの支配を打ち破る神の支配がイエスさまの到来を機に、この地上にもたらされたのだということです。これは本当に大事な歴史観・世界観です。

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 けれどもそこには、「既に」と「未だ」があります。これも山崎ランサム先生を通して繰り返し学んだ概念です。「既に」と「未だ」ということも忘れてはいけない世界観です。神の国はもう既に来た、だからこそ癒やしが起こされ、奇跡が起こされ、さまざまな神のわざが実際にこの地上に起こされるわけです。でもそれは未だ完成には至っていない、だからこそ我々がどんなに地上で望んでもこの地上においては我々が望むような形で祈りが聞かれない領域もありますし、まだまだ神の支配が及ばない領域もあるわけです。
 我々は、この「既に」と「未だ」の狭間の中で、約束されている、もう既に決まっている神さまの完全な支配、完全な勝利の時まで、この地上の使命を持って生きる。そういう時代が我々の時代だということです。
 ですから我々はある意味で、この歴史区分の中でも最も戦いの激しい、エキサイティングな時代に生かされているということが、この救済史的な観点からも示されているわけです。なぜならば、神の国と悪魔の国が絶えず戦っているのが今のこの世だからです。
 我々はその中で、イエス・キリストの復活、またそこでもたらされた神の国の支配ということを信じるものとして神の国の拡大、神の栄光の回復、その完成を使命として歩んでいます。

 何度も繰り返しますが、ゴールは新天新地です。私たちの教会が大きくなったり、私たちの身のまわりが神の支配に満たされて、我々のいろんなところが祝福される、そういうことがゴールではありません。神の国の完全な支配がこの地に及ぶ、新天新地が現される、それがすべてのクリスチャンにおけるゴールです。ここを忘れてはいけないということです。

 では次に、イエスさまの到来以降を具体的に、みことばから見ていきたいと思います。ここで先程の図の中で転換点として、ある意味で線が引かれているということになります。

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 これは聖書の区分の中でも旧約と新約という分かりやすい部分になります。神の国の到来という大きな転換点です。

 実は「神の国」ということばは、絶えず、イエスさまご自身も、弟子たちも、使っていることばです。新約聖書を見ていくと、「福音を宣べ伝える」という表現がたくさん使われています。同じ文脈、同じ意味を表す内容で、「神の国を宣べ伝えた」という表現が同様にたくさんあることに気づきます。それは取りも直さず「福音」ということの究極的な意味合いが、「神の国」、「神の支配」がこの地に及ぶというメッセージだからです。
 これは、今この教会でも数年来語られている、人のたましいの救いだけが福音ではないということと同様です。福音とは全被造物に及ぶ神のみわざ、神の支配、それがやがて新天新地において完成するのだということです。
神の国、神の支配ということが新約聖書の中でも大事なメッセージとして常に書かれています。

 マルコの福音書一章十五節には、イエスさまがバプテスマのヨハネに洗礼を受けて後、すぐ語られたことばが、

『「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」』

ということばです。また、マタイの福音書十二章二十八節には、

『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

ということばがあります。ここでも「神の国」ですね。マルコの福音書では「近くなった。」そしてマタイの福音書のこの箇所では、「もうあなたがたのところに来ている。」そしてルカの福音書九章二節では、

『それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。』

 病の癒やしという領域の中にも、やはり神の国の支配ということが、前提にあるんだということですね。そしてさらにイエスさまの時代の後の使徒の時代においても、使徒の働き二十八章三十一節、

『大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。』

 使徒パウロが最後、軟禁されている状況において、その働きを続けるという描写の中で、ここでも「神の国を宣べ伝える」という表現が使われています。
 先ほども言いましたように、神の国というのは神の支配であって、我々が聖書から受け取るべき「福音」というメッセージの、最も端的な表現だということです。この教会でもずっと語られているように、人間のみならず全被造物の回復、そして完全なるこの地における神の支配、そういったことが我々が受け取るべき福音、聖書のメッセージだということです。
 イエスさまの到来においてこの事がなされて、我々もその十字架の救いの完成によって、信じるだけでそれを受け取ることができているということです。

 そしてもう一つ、大きな区分として、この後、イエスさまが天に帰られるわけです。その後のことが、使徒の働き以降に書かれています。その時代が、我々が今いかされている時代区分そのものということになります。
続いてそこの部分を見ていきたいと思います。先程はイエスさまの到来、十字架というところまで見ました。

 ヨハネの福音書十六章七節、

『しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。』

 この「助け主」というのは、お分かりのように、聖霊さまのことです。イエスさまが復活の後、もう一度天に帰ってしまうということはどういうことを意味しているか。実はその後、聖霊さまがこの地に来られるということなのです。これも大きな転換点になります。
 去って行くことが益と書かれています。当時の弟子たちの立場で考えれば到底考えられないことなのですが、イエスさまが去って行くことのほうが、救済史の中では益なのです。それは、神さまが用意しておられる次の段階に進むから、聖霊さまが注がれる時代になるからです。

 もう少しこの意味合いを見ていくと、ヨハネの福音書十四章十二節に、

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。』

というふうに書かれている箇所があります。これも同じようにイエスさまが、十字架、復活後、父の元に帰ってしまうその後、どの様な状況がこの地上にもたらされるかということが伝えられている場面です。先ほどの箇所では益になる。そしてここでは、イエスさまが去った後、イエスさまを信じる当時の弟子たち、信じる者がイエスさまの行うわざを行い、またさらにそれよりも大きなわざを行うと語られています。そして、その様になるためには、イエスさまが去って行くことが条件であるわけです。
 イエスさまはこの地上に、実際に人として来られました。地上にいる限りは時間的、空間的、この地上の様々な原理に制限を受けるわけです。いわゆる偏在もできないわけです。エルサレムにいる時はエルサレムにいる。ガリラヤに帰ってきたらガリラヤにいるという、そういうこの地上の法則に縛られるわけです。
 しかし聖霊さまは、今私たちもこの時代、信じていてよく分かっているように、この地上のあらゆる制約を受けない方です。神の霊であり神ご自身ですが、霊的な存在であるので、この地上の法則の制限を受けません。世界中同時に、あらゆる所で働くことができます。そして、その様なことが私たち信じる者を通してなされます。
 そういう意味合いにおいて、現在の聖霊さまが注がれた時代というのは、イエスさまよりも大きなわざを行うことができる時代だということです。我々もその対象ですし、我々が生かされているこの時代がそういう時代なのです。これも私たちに直接関わることとして受け取っていなければならない概念です。今は誰も分け隔てなく、信じる者すべてに聖霊さまが注がれる時代になっているわけです。
 旧約聖書を見ると、当時は王、祭司、預言者などの特定の人物にのみ、神の霊が注がれる時代であったことがわかります。主によって選ばれた人が民の代表として大きな役割を果たしたという事実があります。
 第一サムエル記に、ダビデが油注がれる記事がありますが、その時に神の霊がダビデに激しく下ったという表現があります。代わりに、ダビデの前に王様をしていたサウルからは主の霊が離れ、代わりに災いの霊が彼をおびえさせたという描写があります。
 このように、旧約時代においては、ごく限られた人にしか神の霊である聖霊さまの働きは現されなかったと受け取ることができます。
 けれども、今の時代はそうではありません。信じるすべての者に聖霊さまが注がれていて、それゆえに、我々一人一人が、イエスさまと同じわざを行い、またそれよりも大きなわざを行うことができる時代です。それが私たちクリスチャンなのだということを、みことばからしっかりと受け取るべきです。

 この新城教会にも、聖霊さまが激しく臨んだということが歴史の中で大きなものとしてあります。それはこの教会に現された素晴らしい恵みです。しかし、そこに立ち会わなかった者には聖霊の注ぎがないかというと、もちろんそうではないです。主を信じるすべての者に聖霊さまは働いてくださいます。神の霊、神ご自身が常に私たちと共にいて、私たちを助けてくださっているのです。それが今の時代です。これも救済史の中においては非常に大きな転換点です。
 よくご存じの使徒の働きの初めの部分にはその聖霊の注ぎの記事があるわけです。使徒の働き一章六節〜8節

『そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」』

弟子たちはイエスさまが復活してくださって、いよいよ我々の時代が来るというような認識で、イスラエルという地上的な国が再興されるというふうに考えました。しかし神の国というのは、今日見てきたように、そういった地上的なものではなく神の支配です。無理もありませんが、当時の弟子たちは誰もそのような理解はなかったわけです。この場面でも、いつどのような時にこのイスラエルという地上の国が再興されるのかということを質問したわけです。それに対するイエスさまの回答が、特に八節ですね。

『聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。』

いつとか、どういう時とか、あるいは地上の価値観の中でどうということではなく、聖霊さまが来られる時に、この地上において大きな転換がもたらされるのだということです。「何よりもまず聖霊さまを受けなさい。その時を待ちなさい。」ということが語られています。今の時代の大前提として、聖霊の注ぎというものがあるわけです。
 これも現在のクリスチャンが、教会に集うなかにおいて受け取っているべき内容です。聖霊の注ぎというのが、教会の始まりとなり、現代の教会、すべての教会において大前提となっているということです。

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 図の中で聖霊の注ぎというのが、どの段階でなされたかは分かりませんけれども、今、このようにイエスさまの時代から聖霊さまの時代へということで簡単に見て来ました。我々のこの今生きている時代というのは、図の二本目の緑の線の後の時代ということですね。

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 こう見ると残されている「イベント」は「再臨」と「新天新地」だけです。こう考えればすごくシンプルですね。残りあと二つです。

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我々はそれを待ち望んで、今この地上の生活を主にあって送らせていただいているというわけです。
 教会の時代、聖霊の時代、使徒の時代と呼ばれる今の時代、私たちが生かされている時代はそのような時代だということで見てきました。

 ここで、私たちがこれまで、「教会」をどういうものと捉えていたか、どのような理解を持って集っていたのか。またあるいは、我々クリスチャン一人一人が、私たち自身についてどういう理解を持って歩んで来ていたのか。その様なことを考えたいと思います。
 この新城教会においてはこの二〇二〇年、宣教七十周年という年として始められました。しかし新しい年が始まり、そうこうしているうちに、二月辺りから段階的に、新型コロナウイルスが大変なことになって行き、あれよあれよと言う間に世界が変わってしまっているというのが、今の現実です。そのような現実の中で、私たちのこの教会の歩みというものも大きく変化をしているわけです。
 この時に、我々一人一人が、今日見てきたような聖書に基づく価値観、世界観の中で、教会、また我々自身、クリスチャンがどういうものであるかということをはっきりと受け取るということが非常に大事ではないかと思います。

 皆さんは教会を、どういう場所としてとらえ、普段集まっておられたでしょうか。現在、感染予防の観点から、礼拝も集うことができなくなりました。この様な状況になって、初めて分かること、本当に多いですよね。私たち献身者は、今こうしてインターネットなどを利用して発信を続ける側として立たされていますので、そのことも本当に恵みですけれども、多くの方が、この日曜日に集まることさえできない状況に立たされています。非常に辛い状況です。
 しかし、繰り返しお話させていただいているように、この様な困難な時だからこそ教会とは何なのかをはっきりと考える、本当に良い機会ではないでしょうか。
 「教会」は、まず建物を指す言葉として使われます。「教会に行く」という意味の中で、まずはその場所に行くことが表されます。また同じ「教会に行く」という表現の中に、「礼拝に参加する」「教会のプログラムに参加する」という意味も含まれます。また、「教会の人」というような表現の中で、献身者を表したり、またあるいは兄弟姉妹たちを表します。
 このように私たちは、「教会」という言葉自体も、いろいろな概念の中で知らず知らず使い分けているのです。端的に言えば、そのすべてが教会です。しかし同時に、教会とはなにかと考えるとき、そのすべてを含んだ概念でも不十分です。
 「教会」は、今日みことばから見てきたような概念すべてを前提としています。私たちの集まりは聖書に根拠があるのです。普段意識していなかったとしても、旧約聖書から連なる神の壮大な計画の中で、選ばれた民として、神の国の拡大のために、聖霊様の注ぎとともに、その使命をはたすために、この場所に集っているのです。それが教会です。

 今私たちは、当たり前に集まれていたことが、いかに恵みだったかということを思い知らされています。またさらに、この新城教会において七十年という歳月を考える時に、より一層、私たちが当たり前に受けていたすべての事に感謝を感じるときになっています。
 私自身の話をさせていただくと、私がこの教会に導かれ、さらには献身させていただくようになったのは、七十年の歴史の中から言えばごくごく最近です。
そのような「いつおまえがこの教会に来て、なんでおまえが今日この場所で語っているんだ!」というような、どこの馬の骨かも分からないような私が、こうして今話をさせていただいているわけです。七十年来の方からすれば本当にそのような立場です。この新城教会が七十年、こうして主によって建て上げられてきたその恵み、大きな主の計画を、改めて見つめ直す良い機会です。この建物が与えられていること、またすべてのプログラムが遂行されるような人的、設備的なこと、すべてが整っていること、多くの牧師先生方、多くの兄弟姉妹がいること、それがいかに恵みであるかということをこの時に本当に考えたいと思います。
 これらすべてが、七十年の歴史の中で、この教会において犠牲を払ってくださった多くの先人たち、信仰の先輩方の尊い働き、犠牲、戦いの結果として今与えられています。このことを現在集わせていただいている私たちが、私自身がまさにそうですが、感謝して受け取らなければなりません。
 我々は誰かが積み上げたものの上に立っているに過ぎないのです。もちろんそれは神さまの計画、それぞれの役割があるので、後から加わった者が何か遠慮しなければならないということではありません。しかし同時に、先人たちの働きに対して敬意や感謝を感じなければなりません。そして次は誰がこの教会を建て上げていくのでしょうか。当然、現在この教会に集う我々一人一人です。先人たちと同じように、建て上げ続けていかなければならないわけです。少し強い表現になるかもしれないですが、我々は誰一人、教会に「お客さん」として来るわけではないのです。私たちはすべて等しく、主の計画によってこの新城教会という教会に集うように選び出されて、召し出された主の使命を帯びた者たちの集まりだということです。

 今その集まりが現実にはストップし、それぞれの家庭において、インターネットを通して、礼拝が捧げられています。しかし、教会の原則は同じです。それぞれの家が教会となって、一人一人が使命を持って、教会が建て上げられていくように、神の国が拡大していくように祈らなければなりません。
このように我々が使命を受け取れば、今の状況は逆に、神の国が拡大しているという状況に変えることができるわけです。インターネット礼拝をご覧になっているその場所が、そのご家庭一つ一つが主の宮となって、それが神の国の支配をこの地に拡大していく神の基地として、前線として、機能していく。今こそそのような時だと思います。
 弟子たちの上にも、聖霊が注がれて何が起こったかというと、国が再興されるどころか、逆にエルサレムの神殿は壊され、ローマの支配が強くなり、世界中にちりちりばらばらにされていきました。実は、集まる方向ではなく散らされていく、これが宣教の原則です。
 「エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、および地の果てにまでわたしの証人となる。」と書かれているように、聖霊を受けた我々がするべきは、この地に散って行くことなのです。どこか一箇所に集まる働きではなくて、世界に散っていく、この世に神の国をもたらすために散っていく、それが神の計画、みこころです。
 ですから、現在の状況というのは、教会が集まれなくなった、コロナウイルスを恐れて、保守的になって、何かを奪われて、妥協して、そういうことではありません。私たちが受け取るべきことは、この事を通しても神の国が拡大しているのだという確信です。一人一人がその使命を帯びて、本当にどんな小さな祈りでも結構です。しっかりと信じて祈りましょう。我々はそのことをするだけです。
 「集まれなくなった。悲しい。辛い。信仰も弱ってしまう。」それも差し迫った現実だと思います。けれども、神のみこころは何であるのかを求めましょう。この困難な状況の中において、恐れや惑わしにより、神から与えられている使命、聖霊さまの注ぎ、その偉大さを奪われてはいけません。勇気を奪われてはいけません。希望を奪われてはいけません。「こんな生活になってしまって。」と嘆くのではなくて、こういう時だからこそみことばを受け取り、宣言しましょう。それが我々の使命です。

 逆に考えるならば、我々の今までの日常があまりにも守られすぎていたという側面もあるのではないでしょうか。使徒の時代、あるいは今の時代においても、迫害がはっきりとある国もある。この国においても五十年、百年前はそうでした。そのような状況の中でこそ我々は信仰を保つ戦いをしていく。それがある意味、クリスチャンの前提なわけです。

 そして繰り返しになりますが、ゴールは最初から約束されている神の国の完全な支配です。この地上でどれだけ苦しくてもそれが約束されているわけですので、それを待ち望んでこの戦いを主により頼んで戦っていきたいと思います。

 終わりに入っていきますが、今日見てきたように、我々はそもそも神の国、神の支配と、悪魔の国、悪魔の支配の間に戦いのある時代に召し出された、存在です。聖書においてもはっきりとそのことが示されています。
第一ヨハネ五章十九節では、

『私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。』

と、はっきりと書かれておりますし、第一ペテロ五章八節では、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』

 クリスチャンだからこそ戦いがあるのは当然だということです。クリスチャンになったのに、なんでこんなに苦しい思いをするのか、経済的にも大変だし、病気もあって、という現実があります。地上の歩みにおいてそれぞれが直面している問題は、それぞれ当事者においては、本当に大きな苦しみ痛みだと思います。当事者でない者が簡単に、分かりうることもできないようなものです。しかし、クリスチャンはその様な事にも、神の国の価値観で向き合うことができます。神の支配がこの地に未だ完全には及んでいないので、病もあるし、究極的に言えば死もある。けれどもその戦いの最中にあっても我々は、主を信じる者として、神の国の拡大のために歩んでいくのです。それが私たちのこの地上での歩みです。

 第二テモテ三章十二節には、

『確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。』

ここでもはっきり書かれています。この箇所は、滝元明先生がよく文語体で「およそキリスト・イエスに在りて敬虔をもて一生を過さんと欲する者は迫害を受くべし。」と引用しておられました。「迫害を受くべし」なのです。
 「べし」というのは、「義務」、「命令」、「責任」、「当然」とか、そういった意味を持つ助動詞です。「迫害を受くべし」、これを仮に命令形で取るならば、「迫害を受けなさい」というのがクリスチャンに示されていること。あるいは義務と取るならば、「迫害を受けなければならない。」そして、今読んだ新改訳の訳では、これはもちろん文語体があっての訳ではないですけども、文語体から見るなら「迫害を受けます。」これは「当然」の意味ですね。迫害を受けて当たり前であるということです。
 いずれにしても我々クリスチャンの歩みというのは「迫害を受くべし」なのです。戦いがあります。けれども、そこで留まってしまってはいけないのです。

 今日、長々とお話をさせていただいてきましたが、ではその痛み、苦しみは何のためなのか。そこが結論、我々が見失ってはいけないゴールなわけです。
第二テモテ四章八節においては、

『今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。』

というふうに書かれているように、我々も今この道を歩んでいます。いかに苦しいか、いかに辛いか、悲しいかに目を向けていては私たちの目的を見失ってしまいます。私たちのゴールは神の国の完全な支配、それが約束されて必ず起こるわけですので、それを信じて、見失うことがないように歩んでいかなければなりません。

 そして、時代区分ということで最後にお話ししますが、第一コリント十五章二十四節〜二十八節、

『それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。』

 この箇所は今日私が語っているような内容、そのものですね。明けの明星なるイエスさま、その到来において神の国が拡大していっておりますが、やがてくるこの再臨の時にもう一度イエスさまがある意味で主役の座に出てくるわけです。イエスさまの役割というのは救済史の役割分担の中においては一度そこで終わりなのです。イエスさまが再臨されて何をするのか。この地上のすべての支配、悪魔の支配を打ち破って、それを父なる神にお渡しします。ここでもゴールは明けの明星であるイエスさまではなくて、義の太陽なる父なる神、新天新地、完全なる神の支配ということになります。

 最後に新天新地の描写をみことばから受け取りたいと思います。
マラキ書四章一節〜三節。

『見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。‐‐万軍の主は仰せられる‐‐しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。‐‐万軍の主は仰せられる‐‐』

 冒頭にお読みしたみことばを読んで終わりにします。もうここまで来れば、ご説明は必要ないと思います。このみことばをはっきりと、私たちのゴールとして受け取りましょう。黙示録二十二章一節〜六節、

『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。』

 今日語らせていただいたみことばは、私の言葉ではありません。黙示録の著者ヨハネに示された黙示のみならず、旧約聖書、新約聖書を通して、私たちに与えられている神のみことばです。これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。これを私たちの信仰生活の中心において、今このような困難な状況の中にあっても、何一つ奪われることなく、また困難な時だからこそ主のみことばが信ずべきものであり真実なのですということをはっきりと宣言して、乗り切っていきたいと思います。お祈りして終わりにさせていただきます。

 ハレルヤ、天の父なる神さま、心からあなたのみ名をあがめます。そしてみ子、イエスさま、あなたの尊い犠牲、そして十字架の救いの恵みを心から感謝します。そして死を打ち破られたあなたの復活、また、天に帰られた後の聖霊さまの油注ぎ、私たちに与えられているすべての事を心から感謝します。
 今、私たちが生かされているこの地上において、今特に我々のこの時代において、我々の目の前に大きな困難があります。今、この状況において、我々は何よりももう一度、イエスさま、あなたご自身に心を留めます。また父なる神さま、あなたご自身が初めから持っておられる永遠のご計画に心を留めます。そして聖霊さま、弱い私たちをどうか助けてくださいますように。
 今日、多くのみことばを学びました。我々に人類に何千年も前から与えられているこのみことば、我々がその神のみことばから何一つ目を逸らされることなく、特に困難な状況の中にあるこの時だからこそみことばを、今一度宣言します。あらゆる悪魔の支配において、あらゆる地上的な困難に対して、神のみことばを宣言します。どうか主よ、私たちにその油そそぎを与えてください。
 今、コロナウイルスを恐れ、弱さを覚えられる方、不安に駆られ生きる心地のしない方々の上に、主よ、あなたが手を伸べてください。聖霊さま、助け主であるあなたが寄り添ってくださいますように。お願いします。
 そして主の信仰において癒やしを受け取り、慰めを受け取ったその中で、そこに止まるのではなく、一人一人が主の民としてもう一度力を受けて、今この困難な状況に対して、この地に対して、悪魔の働きに対して、またあらゆるこの地上的な災いに対して、主のみ名によって、みことばを宣言する者として立ちあがることができるように、どうか油を注いでください。
 私たちにはあなたしかいません。私たちには本当に何もありません。あなたのみです。イエスさま、父なる神さま、聖霊さま、どうかあなたご自身の尊い油そそぎを私たち一人一人に与えてください。力を与えてください。今日お一人お一人に豊かな神の恵みが、神の支配が、それぞれの家庭に及ぶことを宣言します。特に今週一週間、これらのみことばが信ずべきものであり、真実であるということを、もう一度、私たちの心に、霊に、たましいに、肉体に刻んで歩むことができるように助けてください。
 栄光をあなたご自身にすべてお返しします。私たちに与えられているみことばの中にあなたの栄光が現されていることを、私たちはみことばから受け取ります。何をするにもあなたの栄光が現されますように。そして悪魔の支配が打ち破られ、あなたの支配がこの地上に及ぼされるように、どうかあなたご自身が働いてください。
 今日のこの時を感謝し、すべての栄光と感謝を持ってイエス・キリストのみ名によって、父なる神さまのみ前にこのお祈りをささげます。アーメン。