「今、すべきこと」

2020年5月31日(日)
新城教会牧師 四元雅也
歴代誌第Ⅱ7章13節〜14節【新改訳2017】

『わたしが天を閉ざして雨が降らなくなったり、あるいはわたしがバッタに命じてこの地を食い尽くさせたりして、わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには、わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。』

 ハレルヤ!今日はこうして礼拝のメッセージに当たらせていただけますことを心から感謝いたします。素晴らしいザワメキの演奏の中で僕も本当に感動しました。

皆さま、いかがお過ごしでしょうか。丸二ヶ月、皆さんの顔を見ずに過ごしている、そういう方が大勢いらっしゃると思うのですが、来週からは皆さんにこの礼拝にお越しいただけることになりました。

今日はペンテコステの日と先ほどから言われておりますが、キリスト教会が世界に生まれた教会の誕生日であります。
聖書を見ますと、ペンテコステの日になって皆が一つ所に集まっていたところに、突然聖霊さまが激しい風のように、炎の分かれた舌のようになって訪れて一人一人の上に留まった、すると一人一人が聖霊に満たされて、そして御霊が話させてくださる通りに、他国の言葉で話し出した、という出来事が描かれております。
これからもネットでの礼拝配信は続きますが、来週からは皆さんにお越しいただくことになりました。これまでの期間、私たちはそれぞれが神の宮として様々な地域(領域)に遣わされている、そしてそれぞれの場所で神のみこころをこの地上にもたらす被造物の管理人としての働きがある、ということを学んできました。
それぞれがそれぞれの場所で主を礼拝し、また聖餐式を持つことが非常に大事なことである。聖餐式を通して、皆さんがいらっしゃる、皆さんが任された、その領域に神の国が現される、ということを、信仰を持って受け取りましょう、とこの礼拝で何度となく語られてきましたが、来週からはまた一つ所に集まることが始まるわけです。
ペンテコステの日に一つ所に集まっていた所に聖霊が激しく注がれたと書いてありますが、ヘブル人への手紙の十章二十五節【新改訳2017】にはこんなみことばがあります。

『ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。』

終わりの日に際して、私たちは集まることをやめたりせずに、ますます励まし合いましょうと、みことばによって書かれておりますので、来週からはどうぞ礼拝にお越しいただき、集まって神さまを求め、また聖霊さまを求めて、そしてこの歩みをしていきたいと思います。
私も皆さんに再会できますことを心から楽しみにしております。皆さん是非、来週は礼拝にお越しいただきたいと思います。

新型コロナウイルスによって、世界のルールが新しくされ、様々な構造も新しくされました。大きな不安が社会にもたらされ、それゆえに社会の構造をも転換させるような大きなインパクトとなったわけであります。
このウイルスに感染して、大きな苦しみを味わわれた方、命を落とされた方も数多くいらっしゃいます。そんなことを考えると無念だろうな、辛いだろうな、本当に追悼の意を表する他にないわけであります。
また医療従事者の方たちの苦労を考えても、本当に大変だろうなぁと思います。命がけの覚悟で職務に当たられていることに心から感謝を申し上げたいと思うわけです。
私たちはこの機に際して、毎週のように、いや毎日のように変化していく様々な社会の変化に伴って、また私たちの意識も変えなければならないし、実際の生活様式も変化してきているわけです。医療を始め、行政も、教育も、産業も、芸術とか芸能もそうですし、スポーツも、社会のあらゆる機関がコロナの問題に取り組んでいる、今後も取り組み続けていくわけであります。
教会も社会の一員として、どのようなことをしていくべきであるのか、ということを日々考え祈りながら、今日までさまざまなことが実践されてきました。
そして、この問題を通して、私たちが自らを見直し、反省して、また神さまの前に取り組んでいく機会を与えられた、そして被造物世界を正しい心で管理していく、その新たな一歩をこれから踏みだそうとしているわけであります。

今、冒頭にお読みいただいたみことばのように、クリスチャンが社会の、世界の、また被造物全体の代表として神さまの前にあって祈りながら歩んでいくことが大事であるわけです。

私たちはこのような状況に際し管理者として立ち振る舞っていくべきであるかということを今日は学んでいきたいと思います。

リバイバルミッションで以前、大野キリスト教会の中澤啓介先生が来られ、特別セミナーの中で、世界の歴史の中で時々見られる、コロナウイルス問題や東日本大震災のように、人間の力を超える大きな自然災害と呼ばれる出来事について、私たちはどのようにそれらを受け止めていくべきなのかとお話しされました。先生は人間が被造物の管理者として創造されたことをその中で述べられて、大変恵まれたのですが、その先生の講議文がインターネットで出ておりました。その文章を皆さんにご紹介したいと思います。抜粋です。

“神はこの世界を創造されたとき、すべての被造物にそれぞれにふさわしい法則性を備えられました。神は、その法則性の自律性を最大限に尊重され、「自然法則には特別な事情がない限り侵害しない」と、ご自身の意志をもって定められた。神は、自然的な被造物の法則性に対しても、自律性と自由性を尊ばれ、それに仕える形で統治されます。”

神さまは、ご自分が造られた被造物、その自立性、その被造物の法則性をむやみには侵害しないことに決めた、というのです。そして、それに仕えるという形を持って統治される。独裁的な絶対権力者として自然を牛耳るような力を行使されることを自重されるのです。被造物の法則性を尊重されているのです。続いて、

“人間は、神との共働管理の責任を託されました。従って、それぞれの被造物の法則性を学び、それに基づいて神と共に被造物を管理せねばなりません。”

ここで人間の役割は、被造物に対して無関心であったり無知であったりしてはいけませんよと。それらについて関心を持ち、被造物がどのように営みがなされているのかを理解し、その上で神と共に管理する者としてこれに向かわねばならないということです。そして、

“もし神が法則性を尊重し、いかなる場合にもそれを侵害しないというのであれば、神に祈ることは無駄になります。でもそれは違います。キリスト者は、この託された責任を全うするため、神の御心を伺い、神の助けを仰ぎます。そのような中で、神に状況を変えていただきたいと願わざるを得なくなることがしばしば起こります。そこに、キリスト者の祈りが生まれます。そうです。祈りの醍醐味は、神と被造物を共同管理しているときに起こるものなのです。”

私たちは神さまの前に祈ります。私たちが神様に祈るのは、何を祈ってもいいのですが、神様が聞いて下さりまた答えて下さる祈りとは、神さまと共にあってこの被造物を共同管理している時にあります。
私たちの中にしばしば、「あぁ、こうあってほしいな。」例えば、新型コロナの問題が出てきて人々が多く苦しんでいる。苦しみをなんとか取り除いていただきたい、また私たちの家族や友人や親しい人たちが守られてほしい、そんな願いが私たちの中に沸き上がってくる、私たちがそのような願いを、神さまにある管理人としての自覚とそれに沿った歩みをしている中で、神に祈る。その時、その祈りが答えられるということを、中澤先生はおっしゃりたいのではないかと受け取ることができます。とても大事なことを語っておられると感じます。

先週も礼拝で順先生がお話しされた中で、主から譲渡された管理の権限を十分に理解して、人に任された分がしっかりと果たされ、そして神さまとの被造物共同管理が実現している状態にある時に、私たちがささげる祈りは神さまのみこころにかなったものとなる。その祈りは答えられていくとお話しされていました。
神さまは全知全能の神さまで、すべてのことをご存じであります。そうだとしたら、祈る必要などないのではないかと考えるかもしれない。でもそうではない。聖書もそういうふうには告げていないのです。神さまは人に祈りを要請されます。
人も祈らなければ生きていけない動物であります。世界を揺るがした疫病の中で、世界中でどれだけの祈りがささげられたことかと思います。問題とか不安というものは、人を神さまに向かわせて、人の心に祈りを沸き立たせます。

昨日、ザワメキライブがインターネットで配信されましたが、ゲストとしてハワイの冬木先生がご挨拶とおすすめの言葉をおっしゃってくださいました。先生は、コロナ禍の中でアメリカに起きていることをお話しされました。
トランプ大統領が「礼拝をささげる場所は、アメリカにとって、なくてはならぬものである。」と言ったというのです。「(閉鎖されている)教会が速やかに開かれ、祈りをささげられるように関係各所に要請する。」と。ホワイトハウスから公式の声明として出されました。
これは五月二十二日に起きた出来事ですが、トランプ大統領はまた、「教会は私たちの社会をまとめ、私たちの人々を団結させる場所です。」とも述べています。私は話を聞きながら、国家が公式に教会に祈りを求めるのは良いことだと感心したわけです。

このように、祈りというものは歴史を通して、私たちの社会の中で、人々の心の中にあり続けているわけです。これは人間の本能であり使命であります。
どうしてかというと、神さまは全知全能の方でありますが、ご自分の意思で持っておられる万物に対する権威を、ご自分の意思で一部を人間に譲渡し、「管理せよ。」と渡されたということであります。それゆえに私たちはその管理の中で祈る。
この祈りは、神がその全知全能の性質をご自分で制限されて、そして欠けた部分を地上において人からその祈りを通して満たされていくということに他ならない。そして神が制限された部分を人が祈りで満たす時に、祈りの答えが地上にもたらされるということであります。
神さまは、地上の管理人を通して働くと決められている。だから信じる者たち、私たちクリスチャン、被造物の管理人たちが、神の前に祈る必要があるということです。第一ヨハネの手紙五章十四節〜十五節、

『何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。』

みこころにかなった願いというものは、先ほどから申し上げているように、私たちが神から委ねられた被造物の管理者としての立場を、自分自身が理解して、聖霊によって、その使命を果たそうとする時に、心に沸き上がってくる願いそのものである。そのような願いを神さまは直ちに聞いてくださる。そして超自然的な答えをもそこに与えてくださる。それが私たちの確信であります。

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これはノーベル医学賞を受賞した山中伸弥教授です。最近、この方が言っている、「ファクターXを探せ!」という言葉が社会において話題となっています。
日本で新型コロナウイルスがある程度抑えられて、緊急事態も解除されたのですが、その事実が世界的に見ると不可解だと言われるわけです。
イギリスの有名なメディアからは、「日本の国がとってきたコロナに対する対策は、誰の目にも的外れに見えた。こんなことをやっていたら大変なことになるのではないか。アメリカのようになるのではないかと思われていたけれども、不思議な程抑えられている」というわけです。その事実を世界各国が取り上げて、「どうしてだろう。」と言っているというのです。
山中伸弥教授も、その原因を究明できたら、これが世界のコロナ終息のために一つの指針になるのではないかと考えて、「研究しよう」と言っているわけです。

幾つかの項目が挙げられていました。東アジアの人たちが遺伝的にコロナに対する強さを持っているのではないかとか。コロナに似たウイルスによって、すでに集団免疫が日本人にもたらされているのではないかとか。日本人が挨拶でハグしたり握手したりということをあまりせず、お辞儀だけしているからとか。毎日風呂に入り、玄関で靴を脱ぐなど、身体も清潔で、文化的にウイルス感染しにくいとか、マスク文化があらかじめ根付いている状況の中で感染が広範囲に及ばなかったのではないかとか。BCG予防接種が良かったのではないかとか。いろいろ言われているわけです。

ファクターXの中に祈りも加えてよいのではないでしょうか。
私たち、コロナが広がってきてから毎日毎日、山に登ったり、また世界宣教ライングループでも皆さんに祈りをお願いして、特にウイルスに対抗していく祈り、それも被造物を巻き込んだ祈りがささげられました。
ここまで来て思わされるのは、水でも木々でも海でも山でも火でも、すべて被造物、動物たちもすべてが神との和解の中に入って主をほめたたえるようにと祈る。そうすると被造物が私たちの側に味方に付いてくれて、私たちがささげる祈りも、神の前に、被造物も神さまの前に叫んでくれて、祈りが神の前に届けられるのではないか。
被造物たちは、私たち人間の罪によって神と隔絶されてしまってうめいていると、ローマ人への手紙の八章に書いてありますが、そのうめきから解き放たれたいと、被造物もうめきながら贖いを待ち望んでいると書いてあります。その被造物の願いを私たちが管理人として神さまの前に祈り、贖いを宣言していくことを通して、被造物たちも喜んで、神の前に叫び祈る、ということが起こるのです。
神さまが管理人としての私たちの祈りに答えて、結果日本において素晴らしいことが今起きていることを、私たちは信じていきたいと思います。

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我が家の人間以外の住人です。でもこの住人たちは、ホントはどこに住んでいるか分からないやつらです。毎日やってくるのです。この右下の虎毛の雄猫ですが、私は「トラ」と呼んでいます。他の家族は「シロ」と呼んだりしています。トラは我々に全くなつきません。そして偉そうに我が家の庭でひなたぼっこをしています。
左の黒毛の雌猫は、「クロ」と呼んでいます。こいつは甘えてくるので、家族がかわいがっています。首輪はうちの娘が付けました。
そして新しい住人、というより間借りした居候は、ツバメです。こいつは必ず毎年春にやってきて巣をかけます。
続けて同じツバメが来ることも多々あるみたいです。今年来たのが去年と同じかどうかは分からないです。
猫同士は仲が良いのですが、軒下の居候とはそりが合わないみたいで緊張状態が続いています。
私は長年、こいつらをかわいがらない、と決めていました。
我が家は周りが田んぼと畑に囲まれたど田舎に建っているので、家に虫とかカエルとか入ってきます。ゴキブリとかアリンコが居ることもよくあります。すると家内から「お願い」と言われるので退治します。男の役割です。ネズミが出たときは罠を仕掛けて捕獲しました。だからどちらかというと僕は動物に対して冷酷です。他の家族と違い「かわいい」と思いません。
ツバメの巣も毎年玄関先にかかるものですから、糞が落ちますので、「いやだなぁ、放水して巣を駆除してやろうか」と思ったりするのですが、うちの母が「いいの!取っちゃ駄目!」と言われるものだから我慢してきたわけです。
でも最近少し考え方が変わりました。こいつらは自由に界隈を動き回っています。ツバメなんか、マレーシアとか、インドネシアとか、そういった国々から春になると飛来して来るわけです。行ったり来たりしているものですから、「お前らも主をほめたたえて走り回れ!飛び回れ!」と祈るようにして、言いながら追いかけたりするわけですが、こういった動物たちも被造物ですので、祈りで送り出そうと最近は考えるようになったわけです。そうしたら地域が主を喜んでほめたたえるのではないかと。

ヤコブの手紙五章十七節〜十八節、

『エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。』

エリヤという人物は神さまに選ばれた器、イスラエルの預言者でありましたが、ここでは私たちと同じ人間だったと書いてあります。
しかし彼の人生でなされたことを見ると、彼は被造物の法則を超えるような奇跡を何度も体験しています。
このみことばを見ても、彼は祈ったことで三年間、雨をとどめたとあります。そして三年半の後、もう一度祈ると彼の祈りによって雨が降ったと書いてあります。その飢饉の期間はカラスに養われ、また彼の人生の最後には竜巻にのって天に携えあげられました。まさに彼は被造物の管理者として、神さまの前で彼の働きをなしたわけです。
彼の時代のイスラエルの王は、アハブという王様でしたが、彼は歴代イスラエルの王の中でも最悪だったと言われています。
この時代、イスラエルは神の前で堕落の一途を辿っていきました。そしてそれに立ち向かって活躍したのが預言者エリヤでした。
エリヤの働きは、神を離れて、罪に突っ走って行くイスラエル、またアハブを神さまに立ち返らせること、それが、彼がしたことの最大の目的でした。
エリヤの働きのクライマックスは、皆さんもご存じかと思いますが、カルメル山の上でなされたバアルの預言者との戦いです。エリヤは主なる神さまと、バアル神との間で、どっちつかずのイスラエルの民を批判して、「どっちかはっきりしなさい!主が神だったら主に従え!バアルが神だったらバアルに従え!」と言って、たった一人で四百五十人のバアルの預言者たちに挑戦しました。まさに命がけでイスラエルの神、主を擁護したわけです。
何が起きたかというと、エリヤの願いに神さまが応えられて、天から火が下り、主がまことの神であるということを、イスラエルに示されたわけです。本当にすごい勝利です。先ほど歌いましたが、Oh! Jesus is Wonderful!という感じです。本当に「主こそ神である!」と、イスラエルの民は自分の目で、火が下ったのを見てはっきり知ることができたわけです。
このようの被造物を従えるような大きな働きをしたエリヤが、私たちと同じ人間だったとヤコブの手紙五章十七節には書いてあります。
ということは、私たちにもそのような権限、権威が与えられているということです。天と地の森羅万象を管理する権限が私たちに与えられているということです。

現在、疫病が自然災害として、世界中で多くの人々を苦しめていますが、このエリヤのストーリーを見ても分かることは、聖書に見る自然災害には、単に人間が苦しんで死んでいくということが目的ではなくて、人々がこれらの災害の中で、世界の統治者は人ではないということを知るため、人間たちがこの地を支配していると勘違いしないように、主こそが神であることをすべての人が知ることを目的として災害が起きる。そのことが何度も何度もいろんな箇所で出てきます。
そして、その知識を得て、人間の本来の役割を知ることは、世界に神の国を到来させ、また世界に将来と希望をもたらすものであります。
中澤先生が言われるように、管理者として被造物を知り、被造物の法則性を私たちが知って管理していくということが大事です。私たちは今回の問題についてもやはり神にあって知識を持って、知恵をいただいて対応していくことが必要です。

先日、私はそのために「被造物としてのウイルス」についてお話をさせていただきました。「ウイルス」と聞くと私たちはすぐ「病気」と考えます。「ウイルス=病気」と直感的にイメージしてしまうところがあるのではないかと思います。「ウイルス」という名前そのものも「毒」という意味がありますが、病原体、病気の元というイメージがありますよね。インフルエンザ、新型コロナ、ノロ、エイズ、エボラなど、ウイルス由来の病気は確かに地上に存在します。癌の原因となるウイルスも近年多く確認されるようになってきています。その名前のごとく私たち人類に害を及ぼす「毒」として存在するウイルスがあります。しかし、その一方で、人間には何の害も及ぼさないウイルスもあります。というより、そういったウイルスのほうがほとんどです。そればかりでなく、私たちにとって有益なウイルスもいます。
ウイルスは、生き物に寄生することで存在しています。細菌や人間、あるいは動物に寄生することで、ウイルスは存在することができます。そして寄生する代わりに、人間や動物たち、また細菌にとっても、寄生させてもらう代わりに、その宿主に益をもたらす、その宿主の繁栄のために有益な作用をもたらすようなウイルスもたくさんあるのです。
今日は詳しくは述べませんが、地球環境のためにもウイルスが一役買っていることもあるのです。この地球上のあらゆる生き物とウイルスというのは共生の関係にあるということです。そして生態系のバランスのためにウイルスはなくてはならない役割を果しています。

一例を挙げると、ウイルスは地上だけではなくて、海には天文学的な数が存在することが明らかになりました。海は地球の中でも最大のウイルス貯蔵庫であると言われています。またウイルスは、海洋の微生物の生息に呼応して存在し、赤潮などの発生を抑え、あるいは終息させる役割を果たしています。

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これは海の中の生態系の流れを模式図にした図です。可溶性有機物というものが真ん中にありますが、これは海の中に溶け出ている有機物です。有機物は、それを栄養にして細菌などが繁殖し、そしてまたそれがプランクトンに食べられたり、魚に食べられたりという、連鎖を生んでいきますが、左の魚、動物、プランクトン、そして微細藻類というものが矢印で結ばれていますが、簡単に言うとこの実線の矢印は食べられるということです。そして波線の矢印は死んで溶けたりして、それをまた他の物が食べていく。そういった直接食べるのではなくて、間接的に栄養源となって、この生態系のサイクルになっています。その中でウイルスもしっかり組み込まれて、その役割を果たしているということです。

赤潮が発生すると、微細藻類という植物プランクトンが異常発生し、害が発生するわけですが、微細藻類が爆発的に増えるとウイルスも増えて、藻類を餌にして増えていきます。
その結果、藻類が減っていくと、ウイルスも数が減っていきます。自然の調整弁の役割をウイルスがしています。そして、生態系の底辺を担っていると言うことができます。

黙示録六章八節、

『私は見た。すると見よ、青ざめた馬がいた。これに乗っている者の名は「死」で、よみがそれに従っていた。彼らに、地上の四分の一を支配して、剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた。』

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これはウイルスのイラストです。左上がコロナウイルスのモデルになっているグラフィックです。

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これはバクテリオ・ファージというウイルスと他の生物との割合を示しています。バクテリオ・ファージは青で、それ以外の生物、これは細菌も含めたこの地球上に存在する生き物の総和を表すピンクのグラフです。
これを見ると数においては、ウイルスは地球の他の全ての生き物よりも圧倒的に多く存在しているということが分かります。
そして先ほど申し上げたように、この生態系の底辺を彼らが担っている。バランスを調整する調整弁であります。
ウイルスは、私たち細胞を持つ生き物とは、ある意味で一線を画すような不思議なもので、科学者によっては「生物ではない」と考える人もいますし、「いや、生物だ」と言う人もいます。「いや、生物のようで生物でない、ちょうどその中間のような存在である」。
一見、命を持たない不活性なタンパク質の塊のような固体であるわけですが、大げさな言い方かもしれませんが、他の全ての生き物の生と死に関わる鍵を持つような存在です。青ざめた馬に乗ったみ使いが出てきて、『剣と飢饉と死病と地の獣によって殺す権威が与えられた。』とありますが、青ざめた馬に乗ったみ使いに死病が付き従っていたとあります。
今、世界でこのような現象が見られています。黙示録に書かれているみことばのテーマは、終わりの時に神さまがこの地上にもたらされる苦難についてです。

世界は、一九七〇年頃から、近代化に伴って今まで経験したことのないような、新たな病原体が次々と出現しているのです。
ウイルス性のものとしては、SARS、AIDS、エボラ出血熱、ジカ熱、高病原性鳥インフルエンザ、新型インフルエンザ、新型コロナ、その他細菌性の病気も次々と出てきています。

新たな感染症が発生し流行する背景として挙げられているのが、やはり人間が行っているわざです。人間がしっかりと被造物の管理人としての使命を自覚し、この被造物と向き合っていないことが原因であるということが分かります。
人口増加、都市化に起因する森林伐採や土地開発などによる自然破壊と生態系の崩壊。この二十世紀になって、文明が爆発的に世界中に広がっていく中で、様々な巨大都市が世界中に出現して、それに伴って森林が伐採されたり、インフラが整備されることによってジャングルの中に道路を通したり、今までジャングルだった所が広い農園になったりだとか、そういったことを通して、今まではこの森の中に、被造物の中で人間と接することなく生きていた動物たち、その動物たちに宿っていたウイルスたち、それは元々人間に移ることはないものだったわけですが、人間側から近づいて行って、彼らの生活圏と重なるようになったことを通して、ウイルスは変異しました。人間に移るようになったのです。元々は人間に移らないものでしたが、ウイルスにとっては自分が存在して繁栄していくためには、自分を変異させて、移りやすくして他の動物たちや人間に移ったほうが有利です。そんな中でウイルスは人に感染するようなことが起きたのです。
新型コロナウイルスもそのような理由で地上に現れたわけです。事故で漏れたのではないか、人為的に社会に流されたのではないかという問題もささやかれていますが、真相がどうであっても人間と被造物との関わりの中で、人間が神さまによって与えられた本分を逸れたことに根本的な問題があります。ウイルスの存在を人間が認識するようになって百年も経っていませんが、黙示録に描かれているように終末に現される一つの現象として、今のような状況があるのではないかと考えさせられます。

新型コロナの出現によって、社会は混乱に陥り、そして経済も失速する中、私たちは大変な思いをしているわけです。ヤコブの手紙五章一節〜三節、

『金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐り、あなたがたの衣は虫に食われ、あなたがたの金銀はさびています。そのさびがあなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財を蓄えたのです。』

今回、コロナの問題ではっきり突きつけられたのは、現代社会を形成する土台となっている市場経済主義は、まるであぶくのようなものだということです。
メディアを見ても、緊急事態宣言が出されていた四月、五月、この二ヶ月だけで、この日本の経済の中では二十五兆円が吹っ飛んだ、消えてしまったと言われています。これが一年続くと百兆円吹っ飛ぶのではないかと言われていますが、新聞でも安倍首相がアベノミクスと銘打ち、在任期間の間、何年もかけてこつこつ積み上げてきたものが一瞬で消し飛んでしまったとメディアでは報じています。
この世の富私たちにとって大切なものであり必要なものではありますが、命がかかったこの時に、より頼むべきものではないということが、コロナウイルスを通して明らかになったと思います。
その一方で、被造物がうめきを増すどころか、むしろあるべき姿を取り戻していると言います。

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これは世界宣教とりなしライングループの中で送られてきた写真です。多くの写真が送られてきて、綺麗な写真がたくさん載っています。僕も週に一回は必ず山の上に行って祈らせていただくようになりましたが、以前よりも車の移動が少なかったり、工場が稼働していなくてガスが出なかったりで、空が高くなったなぁ、澄んだ空になったなぁと思わされています。

右下は、遠州灘の写真でありますが、水平線と空の境目が今までにないほどはっきりと見えます。これはよっぽど空気が澄んでいないとあんなに遠くまではっきりと見えることはないと思います。私が撮った写真なのですが、今までの人生でも経験したことがないくらい綺麗な空気になっているなぁと思います。
水も綺麗になり、木々も喜んでいる、山に行くと鳥がいつもさえずっています。右上の写真も、山の向こうに海があって、その水平線さえ見えます。新城の山の上から遠く離れた海の水平線が写真で分かるというのはすごいなぁと思うわけです。
そのように、祈りのネットワークでは、世界中で被造物世界に対して、神のみこころを共に担い共に管理して、この問題に関わってくださっている人々が大勢いらっしゃるわけです。
人間にとっては自由を制限されて苦しんでいるわけですが、人間が汚した空気が浄化されて、経済活動の中でこれまで抑圧されていた被造物が回復する余地が被造物社会にもたらされている。裏返してみると、人間がいかに自分勝手に被造物を汚してきたか。今の状態がこれからも続いて欲しいなぁと願わされます。

人間が自らの繁栄を求めて、分を超えた「開発」という名の暴虐を行ってきました。そして知恵を持って祈りを持ってこの地を管理する、ということから外れてしまって、限りなく膨らんでいく自己実現という欲望が生み出す、満たされることのない満足、それを追い求めて人間は突っ走ってきたわけであります。それが今回抑制される形でウイルスが用いられている。私たち人間はこのウイルスとつきあい始めてまだ百年足らずでありますが、ウイルスが持っている数々の役割を最近まで知ることがなかったわけです。
でもウイルスについて調べれば調べるほど、そこには神さまにある調和が見られるわけです。神さまが造られる被造物は「甚だ良かった」と書かれているように、すばらしいものだと理解してとりなし祈っていくことが重要であると思わされました。

さらに、現代科学は今やウイルスさえも人工的に合成する時代に入っていると言われます。二〇一六年にはアメリカのクレイグ·ヴェンターという人が中心となった研究チームが、遺伝子を人工的に化学合成して、一つの鎖にして、それを別の細菌の細胞の中に埋め込んで、元々あった遺伝情報を抜き出して、その人口合成したDNAを核とした「新たな細胞」を起動させ「生き物」として活動させることに成功しました。人工的に生き物を「造った」と発表しています。

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これが人工的に造られた細胞であると発表されたものです。この研究が資金サポートを得て、これから強力に推し進められていくようであります。なんでこんなことをするのか。この研究により近い将来、石油に代わる燃料ができるといわています。新しい、かつてない豊かな食糧が生産される。また病気が蔓延する前に終息するとか言っているわけです。この世界に増え広がって消費活動し続ける人間の「未来の希望」がここにある、というのです。
本当にそうなのでしょうか。本当に正しい純粋な心で研究がなされていくということがあり得るのでしょうか。これまでの歴史でもそうであったように、マモンの手招きに誘惑されて、お金の力によってとんでもない方向に行って、自分自身の首を絞めることになりはしないかと考えさせられるわけです。

私たちは、地上にあって善悪の狭間で揺れ動く者であります。神の権威を委ねられた管理人としてこの地上の使命を全うすることを、この時代、私たちは肝に据えて、また被造物への尊敬と慈愛、共栄していくという決意をもって生きていかなければならないと思います。歴代誌 第二 七章十三節〜十四節【新改訳2017】、

『わたしが天を閉ざして雨が降らなくなったり、あるいはわたしがバッタに命じてこの地を食い尽くさせたりして、わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには、わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。』

と書いてありますが、世界にこのような苦しみが襲っている中で、「わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだる」ことを神さまは求めておられると書かれております。他の誰でもない、この世の権力者でもない、そのような病を引き起こした犯人と呼ばれる人や組織でもない、他の誰でもない「クリスチャン」が、私たちがこの社会を、また人間を、被造物を代表する者として、自らへりくだる。そして『祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。』とあります。
これが今日このメッセージのタイトルとさせていただいた、「今、すべきこと」を私たちに問いかけているみことばであると思います。
人間社会を私たちは代表する者である。神さまのしもべとして、他の誰もなし得ることのできないそれぞれの使命をひとりひとりが負って、神さまと共に地上における歩みをし、また被造物を管理する者となっていきたいと思います。
そのような意思を持って、この教会が、お一人お一人が、神さまの前に歩んでいくものとなっていきたいと思います。

最後にお祈りをさせていただきます。

ハレルヤ、天のお父さま、こうしてすばらしい礼拝の時、ペンテコステの日を私たちは迎え、またあなたをお迎えして礼拝を守っております。どうかこの礼拝に参加しておられるお一人お一人の上に、イエスさま、あなたが聖霊を送ってください。あなたが遣わしてくださる聖霊によって私たちは目が開かれ、また正しい知恵と知識を持って、また正しい心を持って、この地上の被造物を治めていく者となることができますように。
その中で私たちが委ねられた管理権を理解し、またこの自然を、被造物をよく知ったうえで管理する者となることができますように。
尊きイエス・キリストのみ名によってこの祈りをみ前におささげいたします。アーメン。