「宣教70周年-2020
明日に向かって『将来と希望』パート6
〜み使いらと共に戦い・管理する〜」

2020年6月7日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ヘブル人への手紙1章14節

『御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。』

 ハレルヤ!皆さん。こんにちは。しばらくぶりです。再会できて本当に嬉しいです。過ぐる二ヶ月、スティホームとネット礼拝中心でしたが、守られて本当に感謝します。

 新型コロナウイルスによって、様々な生活様式を変えなければならない今日この頃ですが、そんな中でも、主が新しい領域の扉を開いてくださっています。
 時々、人生には思わぬ試練や問題が起こります。しかしクリスチャンにとってそれらは、勝利への序曲となります。

 パウロは多くの試練に出会った人物です。彼がこんな言葉を語っています。このような心境になれたらすばらしいと思うのですが、ローマ人への手紙五章二節〜五節、

『またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』

 ここでパウロは「患難さえも喜ぶ」と語っています。このような心境になれたらすごいと思います。クリスチャンにとって、様々な患難や問題は、ただでは終わらないということです。ここで述べられているように、患難から忍耐が生じ、忍耐から練られた品性が生まれ、希望が生み出され、やがてその希望は、失望に終わることがない、完全な希望へと結びつくのです。この事を信じて、困難に対峙しなければいけないのです。
 私は現在、困難と試練のただ中にあるのですが、そのことを通して、少しは品性が変わってきたかな?と期待しています。「いや、まだあんた変わっていないよ。」と言われるかもしれませんが、少しは変わったかなぁと自分でも思います。

 世界も今、大きな試練にさらされていますが、そんな中、世界全体の品性も変わりつつあります。今まで配慮しなかった領域に配慮出来るようになったのではないかと思います。

 時々、潔癖症などで苦しんでいる方がおられます。不自由で大変だなぁ〜、と思います。先日私はそのような方と出会い、お話ししました。すると彼がこう言うのです。「新型コロナによって生じた状況は、全然、自分にとって不自由ではないし、困っていない」。彼は、このような時代が来ることを想定して、いつもあたりを清潔にし、消毒して生活していたそうです。ソーシャルディスタンスも、お手のものでした。だから全然、普段と同じ生活で困ってはいないと話していました。
 時に、祈りの答えは、考えてもみない角度から訪れるのではないかと思います。潔癖症のような症状を、「取り去って下さい。」と一般的には祈るのですが、神はその人の症状を取り去るのではなく、世界の基準そのものをその人に合わせる形で、祈りに答えて下さる事もあるのです。「今の社会の状況は、君の祈りが聞かれた結果だね。」と話すと、「そんなことを言ってくれるのは、あなただけだ。」と言われましたが、大きなうねりの中で、神さまは私たちが考えもしない大きな事をなさいます。

 ネット礼拝になって、会堂に誰も来れなくなり、本当に寂しく思ったのですが、その事を通して、さらに多くの方々が福音に接するようになっています。
 また、今までとは違ったチャレンジもあります。リバイバルミッションも、出て行って集会ができるわけではありませんから、ほとんどネット配信になっています。
 最近、三分間メッセージを毎日配信しています。リバイバルミッションのホームページなどから見ることができます。私を含めて、何人かの牧師たちがメッセージを語っています。
 しかし三分間のメッセージって、結構難しいです。私はメッセージが長いほうなので、「もっと短くしてくれ。」という声が聞こえるのですが、今回、二部制礼拝になってメッセージ時間が四十分に短縮されました。ある方にとっては喜ばしい福音かもしれません。しかし三分となると、なかなか難しくて、途中で舌を噛んだり、なかなかうまくいかないのです。
 先日、私は三分間メッセージを収録させていただきました。しかしたいへんうまくいったのです。こんなにうまくいくのか!と感動しながら語れたので、ちょっと聞いていただきたいです。しかし人生って、突然いろんなことが起きるものです。そんなことも意識しながら見ていただきたいと思います。しっかり見ないと分からないかもしれません。よろしくお願いします。



 分かりましたか?突然何かが現れて去って行きました。順調な人生ほど、こういうことが起こるのかもしれません。このことでこのメッセージは駄目になりましたが、「おもしろビデオ」で使うことができるようになりました。突然起こってくる患難、試練がやがて他の人を潤すのではないかと思います。

 また今の状況は、大きな霊的戦いでもあります。悪魔も私たちの信仰を揺り動かそうと真剣です。
 毎週、ネット賛美集会に出ています。テーブルにコーヒーカップをおいて、寝っ転がっても参加できるわけです。「このほうが楽だなぁ・・・。これからの時代の礼拝は、やっぱネットだよなぁ。」みたいな感じになります。しかし聖書は、「互いに集まることをやめないでください。」と勧めています。このように集まって礼拝を持つことは、ネットとは違った主の臨在があります。

 先日、ある人が私の所に一つの動画を送ってくれました。関東の教会が作った動画で、なかなかうまく作ってありました。今、コロナウイルスと共に、悪魔や悪霊どもは、作戦会議を行っているというのです。この機会に教会を滅ぼしてしまおう!とする作戦会議だというのです。
 現在、日本の八千の教会、全て、ネット礼拝、もしくは礼拝中止となっています。日本教会は教勢がダウンしている中、悪魔はコロナを使って一気に崩してしまおう!と考えているみたいです。

悪魔の会議

 本当に、こんな会議がなされているのではないかと思われます。このような時にこそ、試されているのではないかと思います。
 しかし神さまは、弱い私たちのために、援軍を送ってくださるのです。今日はそのことを、皆さんと一緒に学んでいきたいと思います。先ほども読んでいただきました、ヘブル人への手紙一章十四節、

『御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。』

 私たちクリスチャンの所には、み使い、「天使」とも呼ばれ、「天の軍勢」とも呼ばれますが、神の国と地上を上り下りして働く存在が共にいます。この事実に気づくか否かが、信仰生活の勝敗を決めると言っても過言ではありません。
 旧約聖書は五十回近く、新約聖書になれば百五十回近く「み使い」という言葉が使用され、多くの出現があります。しかしプロテスタント教会では、そのことについてあまり語りません。それには歴史的背景があります。なぜならカトリック教会がみ使いを、あたかも神かのように礼拝するようになったからです。み使い礼拝は、サタン礼拝となります。なぜなら、礼拝とは神だけに献げるものだからです。神以外を礼拝すれば、そこに、悪魔・悪霊どもが来て、人からの礼拝を受けます。それは偶像礼拝の罪、サタン礼拝となるわけです。プロテスタント教会は、それを危惧しました。それは正しい態度ですが、反面、私たちを助けるためにせっかく神から派遣された重要なみ使いの存在を意識しなくなってしまったのです。
 その結果、み使いの助けを感じることも、共に働くこともできなくなってしまったのです。
 詩篇の中に有名なことばがあります。詩篇九十一篇十一節〜十三節、

『まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。』

 『まことに主は、あなたのために、御使いたちを遣わされる。』と言うのです。「あなたのため」です。単数です。「あなたがた」ではなくて、一人一人のためにみ使いが遣わされるのです。
 み使いたちは何をするのかというと、『すべて道であなたを守る。』と言うのです。私たちの全ての営みに対して、み使いが派遣され、我々を守るのです。すごいじゃないでしょうか。
 それに続く記述は、『その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。』と告げています。足は石に打ち当たるのが常かと思います。しかしこの「石に打ち当たる」という意味は、次に述べられています。
 『あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。』ここで述べられている、「獅子、コブラ、若獅子、蛇」とは、悪魔・悪霊どものことです。
 ここからも分かるように、霊的戦いは、み使いたちが共に戦う時に勝利するのです。
 詩篇九十一篇の約束は、私たちにとって重要な約束です。神が私のために、援軍を送って下さるというのですから。ある意味、最高の約束です。
 しかし一方では、悪魔と悪霊どもにとっては、最悪のことばです。なぜなら、主を信じる者たちがみ使いと共に働く時、彼らは踏みつぶされてしまうという約束だからです。悪魔はこのみことばを、なんとか曲解させ、このみことばが機能しないように働いているはずです。み使いたちという存在を意識させないようにしているはずです。
 実際サタンは、このことばをねじ曲げて引用しました。その箇所を聖書に見出すことができます。悪魔はそれを、イエスさまに対して使いました。

 イエスさまは四十日間、荒野でサタンの誘惑を受けたのですが、ある時、イエスさまは悪魔によって、都に連れて行かれて、神殿の頂に立たされました。エルサレムに行きますと、神殿があり周りには高い城壁があります。イエスさまはそこに立たされたのでしょう。
 そこで悪魔は何と言ったのかというと、『あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。』と言いました。自殺行為です。イエスさまに無謀なことをやらせようとけしかけたのです。ここで悪魔は詩篇九十一篇を引用しているのです。
 マタイの福音書四章六節、

『言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」』

詩篇九十一篇を引用しているのが分かりますか?
 その時にイエスさまは、四章七節、

『イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」』

と、みことばによって対応されました。
 これは主を信じる者達への警告です。悪魔はこのようにして、みことばをねじ曲げて引用するからです。
 「身を投げろ」という自殺行為と、「獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじる。」では、大違いです。悪魔は自分が踏みつけられないように、み言葉の意味を曲解し、人々に無謀な行為を強いてくることを、イエスさまの体験を通して、私たちに警告しているのではないでしょうか。

 み使いたちは、神が天と地を造られる以前に、すでに創造されていた存在です。ヨブ記三十八章七節、

『そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。』

この「神の子たち」とは、「み使いたち」のことです。み使いとは、神によって創造された最初の被造物と言っても過言ではないと思われます。そして我々人類に強く関わり、神の目的を地上にもたらす重要な存在です。悪魔は元み使いですから、そのことをよく知っています。

 人とは何のために造られたのかについて、何度もお話をさせていただいています。ここに同じ箇所が二つの訳で掲げられています。一方は新改訳2003です。もう一つは新改訳2017です。
 聖書は、原典においては完全な神のことばです。しかし翻訳されると、原文と意味が変わったりしますから、その点には注意が必要です。ここはある意味、その最たる箇所ではないかと思われます。詩篇八篇五節、

『あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。』

と2003では訳されています。しかし同じ箇所を2017では、

『あなたは、人を、み使いよりわずかに欠けがあるものとして、これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。』

となっています。
 どうでしょうか。人は神に次ぐ存在なのか。それとも、み使いより下位の存在なのかで、権威の序列は全く変わります。神で、人で、み使いなのか。もしくは新改訳2017のように、神で、み使いで、人なのかで、権威の序列が全く変わってしまうからです。
 もしも2017の訳が正しければ、ヘブル人への手紙のみことばは成り立たなくなります。なぜなら、み使いは人間より上位の存在ですから、人がみ使いに仕えなければなりません。
 ということは、どっちが正しいかと言ったら、人は神に次ぐ存在として創造されたのです。原文のヘブル語では、「神より」、または「み使いより」は、「エロヒーム」という言葉が使われています。これは本来、「神」としか訳すことのできない言葉です。
 ではどうして、こういうことが起こるのかと言えば、悪魔の策略だと思います。チャールズ・クラフトという有名な聖書学者が、「聖書翻訳の中で、最もなげかわしい箇所はこの箇所だ。」と指摘しています。世界の聖書の半数くらいが「神」を「み使い」と訳してしまっていると言われます。これは伝統的な翻訳の影響や、翻訳に使った写本の違いなどによります。正しくは、人は神よりいくらか劣る存在として造られた存在なのです。
 私たちはみ使いを配下において、敵を打ち破り、様々な被造物を管理するのです。

 最初に神はみ使いたちを創造し、その後、神は天と地を創造したのです。その時、み使いたちは創造のみわざを見て、心から喜んだわけです。
 天と地を創造した後、神はみ使いたちに被造物を割り当て、管理を任せたのがわかります。その証拠に、黙示録には、「水をつかさどるみ使いたち」とか、「火をつかさどるみ使いたち」、「風をつかさどるみ使いたち」というような存在が出てきます。
 ある神学者が、「神は天使たちに被造物世界に関連する仕事を分担させているように見える。天使たちは被造物世界を守り、その世話をし、神から命じられたことを実行する。水の天使は水脈の責任を担当すると思われる。」と、黙示録十六章の記述の注解として説明していました。
 初め、神が天と地を創造した時、神はみ使いたちに管理を委ねられたわけです。しかしながらその後、大事件が起きます。それは、み使いたちの三分の一が神に謀反を起こして、地にたたき落とされたからです。こうなると神はみ使いたちに、被造物を管理させることは出来ません。
 その結果、神は何をされたのかというと、み使いたちの上位に、人を創造されたのです。今までみ使いたちのボスは神さまだったのが、三分の一が反乱したがゆえに、み使いたちを管理する「人」を創造する必要に迫られたわけです。その結果、アダムとエバが造られて、すべての被造物を委ねられたのです。
 けれども人も悪魔の誘いに騙されて、神の怒りに触れて堕落してしまったのです。その結果、み使いたちはかなりのダメージを受けたはずです。
 み使いたちの三分の二は、創造の初めから現在まで神に仕えている存在です。にも関わらず、ボスである人が罪を犯したゆえに、み使いたちも巻き添えを食らって、み使いらに委ねられた権限が制限されてしまったのです。
 しかし、私たちがイエス・キリストを信じる時、人のポジションが回復されて、み使いたちの管理人として、み使いたちの上に君臨できるのです。
 今、管理人である私たちクリスチャンと、最初に管理を任されたみ使いたちがコラボしたら、悪しき力は打ち砕かれて、神の国が現れるのです。
 ということは、悪魔・悪霊どもは、クリスチャンが、み使いの存在に気づくことを最も嫌い、恐れているのです。

 今日一人一人に、神はみ使いを遣わしておられます。
 み使いたちにはそれぞれ役割があります。神はクリスチャンとみ使いがコラボして、働きを進めることを願っておられます。

 聖書を読むと、み使いには名前が付いていて、様々な役割があることが分かります。「ミカエル」とか「ガブリエル」という名前が出て来ます。
 聖書が成立するにあたり、様々な文書が影響を与えました。外典と呼ばれる聖書成立に貢献した書物があります。
 外典の扱いには注意が必要ですが、その中に「トビト記」という書物があります。それはユダヤ教では外典として、カトリック教会や正教会は続編と使い、プロテスタントでは、聖書からは外しています。その中には、「ラファエル」とか「ウリエル」という名のみ使が出て来ます。「ラファエル」とは「神の薬」という意味で、その名のごとく、疫病や災害をつかさどり、人間の魂を支配するという存在が出て来ます。これを百パーセント受け入れることは出来ませんが、私たちの健康に関わったり、自然災害に関わり、今回のコロナにも関わる天の軍勢がいるはずです。我々は彼らと一緒に戦う必要があるはずです。

 「水をつかさどるみ使い」とか、「風、火、光のみ使い」というのも出てきます。光は物質です。光のみ使いという、コリント人への手紙の記述は、変装するみ使いについて述べています。また、「薬をつかさどるみ使い」もあるはずです。

 私には現在、大きな試練があります。家内に去年の十月、膵臓癌が発見されたからです。「あなたの奧さんはそう長く持ちませんよ。」と宣告されて、「後三ヶ月、四ヶ月ですかね?」と言われました。この頃、医者ははっきり言います。治療法も少ないのです。本当に悩みました。どうしていいのか分からない・・・。
 最終的に導かれたのは、飲み薬の抗がん剤でした。そんなもので治るのか。座して死ぬわけにはいけないので、服用を始めました。
 それに追い打ちをかけたのが、コロナウイルスです。しかし私はコロナに助けられたみたいな領域もあります。なぜなら、聖餐式を家でやるようになったからです。家での聖餐式は大変重要です。「家でパンを裂き」という表現があります。
 聖餐式に合わせて、家内は薬を飲むようになりました。薬を飲む時には水が必要です。水をつかさどる天の軍勢も参加するように命じ、薬を支配するみ使がいるならば、副作用なく、良く効くように命じて、聖餐式でイエスさまのからだと一つになるのはどうだろうと考えました。イエスさまの肉が家内の膵臓になれば治るのではないか?イエスさまの血が家内の血になれば血液検査だって、結果が良くなるはずだと考えました。み使いたちが我々と一緒にこの戦いに参加して戦い、勝利するように、聖霊さまが働いてくださるようにと真剣に祈りました。また教会中の兄弟姉妹が祈り、支えてくださり、一丸となって戦ってくださっています。最近、ちょっとした光が見えてきました。
 以前にもお話ししましたように、家内の腫瘍マーカーは信じられないほど高い数字だったのですが、今はほとんど正常値手前にまでになりました。

 先日CTの結果を聞きに行ったのですが、娘が一緒に行って医者の言葉を正確に書き留めてくれました。そして彼女がお世話になっている方々に手紙を書いたのですが、その手紙をちょっと読ませていただきたいと思います。
 皆さんの祈りによって、ここまでこぎ着けて心から感謝します。そして、これからもお祈りをよろしくお願いしたいと思います。
 この戦いに勝利して、これをある意味で一般化して、病の苦しみの中にある方々が同じように勝利できたら素晴らしいなと思います。
文章が長かったので一部ですが。

 “母のためにお祈りを感謝します。昨年十月に病が発覚し、すでに七ヶ月が経過しました。極めて早いスピードで進行する膵臓がんという診断、そして告げられた余命は僅か三ヶ月、長くても六ヶ月という宣告でした。振り返れば、この七ヶ月間は、まさに「死の陰の谷を歩いた」そんな時でした。幾度となく立ちはだかる壁…涙を流しながら、ひたすら天に向かって叫び声をあげました。時には、祈りが全く天に届いていないかのように感じられることもありました。祈る力さえ湧いてこないほど落胆する夜もありました。しかし、そんな中で、今はっきりと見えるのは、叫び求める「小羊」の祈りに聞き、抱き上げてくださった「羊飼い」の姿です。この七ヶ月間、様々な展開がありましたが、歩んできた一歩一歩の、過去の足跡に目を向ければ、そこには、確かに「二人分」の足跡が見えます。一人で歩いていたようで、そうではなかったこと。確実に、真隣で共に歩んでくださった方がおられたこと。今週は、そんな主の憐れみに感謝する週となりました。

 先月五月十九日に撮影したCT画像について、主治医から説明を受けました。その結果「病気がどこにあるのか分からなくなってきていること」そして「癌が瓦解(がかい)しており、すでに腫瘍の輪郭が追えなくなっていること」が確認されました。もちろん、現段階では「消えてなくなった」という診断でも、「完治しました」という診断でもありません。ただ少なくとも、医学の常識では図れない神の力によって「驚くべきこと」が起こっていることは確かです。主治医の用いた「瓦解」という言葉が何度も心に迫ってきます。「瓦解」とは、読んで字のごとく「瓦が崩れる」ことを意味します。瓦は、一枚一枚が互いに上手に組み合わさって一つの屋根を構成しています。そのため、一枚の瓦が崩れれば、結果的に全体の崩れにつながるのです。屋根いっぱいに敷き詰められた瓦の一部が崩壊し、次第に全てが無くなっていくように、癌に侵された多くの細胞も、完全勝利に向かって今動きはじめていると確信します。「今は一部の綻びかもしれない、でもいずれ、これが完全な“大崩壊(大勝利)”に繋がっていくんだよ」と、そんな約束の言葉を受け取ったような気持ちがしています。この約束を堅く保ち、一方では、未だプロセスの中にあることも覚え、忍耐し、引き続きこれまでにも増して「戦い続けるべき」ことも教えられます。引き続きお祈りくださり、共に戦い続けてくだされば誠に心強いです。

 この七ヶ月を振り返り、今、私の心から湧き上がってくる思いは、ただシンプルに「主は素晴らしい」ということです。こんな素晴らしい羊飼いに飼われている羊は本当に幸せだと、心からの感謝が溢れてきます。

『主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。』

 現在も、世界は新型ウイルスの驚異にさらされ、痛み苦しんでいます。世界中、数え切れないほどの「子羊たち」の泣き声が、「羊飼い」の元に届いていることと思います。その声に耳を澄ましている「羊飼い」の姿を思い描く時、その顔に映る憐れみの眼差しは、日を追うごとに強くなってきている、と、そんな風に感じます。主が世界を御腕に抱きかかえ「新しい地」へと優しく導いてくださいますように。”

 医者が結果を見て、「本当かな?本当かな?こんな数字、見たことないよ。」と何度も言っていました。本当に皆さんのお祈りに支えられています。この戦いが勝利に結びついて、苦しんでおられる方全員の勝利と共有されるように祈っています。
 特効薬も最初は試験管の中で少量できるのですが、それがやがて万人の救いとなります。霊的領域も同じではないかと思います。皆さんにお祈りいただいて、ここまでこぎ着けて本当に感謝しています。
 さらに祈りが必要です。天のみ使いが一緒に加わって戦う時、大勝利に結びつくことを覚えたいと思います。

 ヘブル人への手紙一章十四節、

『御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。』

 今日皆さんの所に、強い天の軍勢が来て、一緒に戦っていることを覚えて主のみ名をあがめたいと思います。最後に一言お祈りさせていただきます。


 ハレルヤ、天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。あなたの守りの中で、今まで生きることが許されて、心から感謝をいたします。
 今日はすべての兄弟姉妹の所に、強い天使たちを遣わしてください。その軍隊によって勝利を勝ち取ることができますように。我々管理人とコラボして戦うことができますように。
 今から私たちは家庭において聖餐式を行います。聖餐の祝福を与えてください。あなたの肉と血をいただきます。みことばと聖霊によって、宣言します。私たちの傷んだからだも、イエスさまの完璧な細胞となりますように。完璧な血液となりますように。
 あなたが共にいてくださいます。感謝をいたします。家でパンを裂くことによる大きな祝福を、心から感謝をいたします。教会全体の祈りとして、み前におささげいたします。アーメン。