「本当の自由を与える神さま」

2020年6月14日(日)
新城教会牧師 岡本信弘
ヨハネの福音書8章31〜34節

『イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者みな、罪の奴隷です。」』

 ハレルヤ! 主のみ名を心から感謝します。こうして礼拝に集まることができるようになり、二部制ではありますが、二ヵ月ぶりに皆さんにお会いできてとてもうれしく思います。この間も、いつも皆さんのお祈りに支えられて、健康が守られたことを心から感謝します。
 二部礼拝で二回メッセージをするということが先週から始まって、プレッシャーですが、今この場所に立ち、こうしてみことばを取り次ぐことができることも感謝します。また、新城教会、リバイバルミッション、プレイズの働きも守られていることを本当に心から感謝します。
 リバイバルミッションは、集会が開催できない中において、今はネットで、無料の伝道メッセージ動画や日々のみことばの動画が配信されていますので、ぜひ皆さんご覧になってください。
 また順先生の霊的戦いセミナーや、私の教会連携型ビジネスセミナーなど有料セミナーもありますので、ご覧いただければと思います。

 さて今日は先ほど読んでいただいたみことばから、『本当の自由を与える神さま』というテーマで学んでいきたいと思います。
 最初にお読みしたみことばに、

『イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」』(ヨハネ八章三十一〜三十二節)

とあります。イエスさまは群衆に向かって「あなたがたを自由にしてあげます」と語っていますが、「自由にしてあげます!」という中には、「皆さんが今不自由なので、自由にしてあげますよ。変えてあげますよ」ということを含んでいると思います。これに対し群衆は、次のようにイエスに尋ねています。

『彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」』(同三十三節)

イエスさま答えはこうでした。

『イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者みな、罪の奴隷です」。』(同三十四節)

 『真理はあなたがたを自由にします』と言われた中にある「自由」という言葉は、すごく響きのよい言葉ですよね。しかし、「何でも自由に食べてください」「どこにでも自由に行ってください」などと言われても、「そんなことを言われても・・・」と思っている方がおられるかかもしれません。
 ここに出てくる「自由」ということを考える時、人種差別問題が思い起こされます。アメリカでは、先月末に起こったジョージ・フロイドさんの事件をきっかけに、黒人たちの抗議デモが起こったり、他の事件も発生したりしており、その根深さに驚かされ、祈りの必要を感じています。
 人種差別が奴隷制度と大きくかかわっているということを、皆さんもご存じだと思います。「奴隷」とは何か、辞書で調べてみました。

“奴隷(どれい)とは。
 人間でありながら所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた。奴隷を許可する社会制度を奴隷制度という。”

ここにあるように、人間でありながら人間として扱われず、物として扱われるのが奴隷制度であるわけです。主に、黒人が奴隷として白人に仕えていたわけですが、人間として扱われない苦しさから、その叫び声が大きくなり、「これではいけない!」と、今から七十年ほど前の一九四八年に、国連で「世界人権宣言」が採択されました。

 “何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。”

 現代においては「奴隷制度」そのものはないものの、いつの時代にあっても、権力によって人々を支配する側の人と、支配される側があり、二分されていますし、「○○の奴隷」というように、何かの支配から抜け出すことのできない時、奴隷という言葉が使われたりしますね。
 日本は自由だと言われていますが、江戸時代などの歴史を見ると、武士の家系に生まれた人と、平民の家系に生まれた人には明らかな身分制度があり、その差は歴然でした。平民は、どんなに優秀な人であったとしても、どんなに能力があったとしても、人の上に立つことはできませんでした。
 皆さんに「今、何の奴隷になっていますか?」と聞いても、多くの方が先ほどお読みした箇所に出てきたユダヤ人たちと同じように「私たちは誰の奴隷にもなっていないですよ。誰にも束縛されていないですよ」と答えるでしょう。
 旧約聖書の時代を見ると、「奴隷」という言葉が随所に出てきます。特に、出エジプト記にイスラエル人がエジプトで四百三十年の間、奴隷生活をしたことが記されており、その窮状を知ることができます。

聖書にヨセフという人物が出てきます。ここに詳しく語ることはできませんが、ヨセフはカナンの地で生まれ、兄たちの妬みからイシュマエル人に売られてエジプトに連れていかれましたが、神様のご計画の中でエジプトの総理大臣になりました。ある時、エジプト全土に飢饉が起こりました。ここには様々ないきさつがありますが、ヨセフは父ヤコブをはじめ一族をカナンの地からエジプトに呼び寄せて、安定した生活を与えました。
時が流れ、ヨセフが亡くなり彼を重んじていた王が亡くなりました。イスラエル人はエジプトの地でどんどん増えていきました。それを脅威に思った新しいエジプトの王は、彼らを弾圧し、彼らに強制労働をさせ、奴隷として扱ったのです。
 そんな苦しみの中で、イスラエル人の「この奴隷生活から解放してください、助けてください」という切なる願いが神に届き、救出のために送られたのがモーセという人物です。
 モーセは、ヘブル人でしたがエジプトの王子として四十年間育てられました。その後、一つの事件を通してシナイ山のふもとにあるミデヤンの地に逃げて、そこで結婚し平穏な生活を送っていました。しかし、八十歳になった時に突然、エジプトからイスラエル人を救い出すために神さまに呼び出されました。
 その時モーセは、「私はいった何者なのでしょう」と言い、何故私が、私には無理だと反発しましたが、最終的には神さまの命令に従って、兄のアロンと一緒にエジプトに行き数々の奇跡をし、二百万、三百万と言われる民を連れ出したのでした。そして、イスラエルの民はエジプトから出て、約束の地「カナン」の地に向かって行ったのです。これこそ大規模な奴隷解放です。

 現代おいて日本は民主主義社会で、自由が保障されています。クリスチャンは自由に賛美し、自由に祈り、自由に伝道できます。ですから、多くの人が「自分たちは何にも束縛されていない。この日本は自由だ」と思っているでしょう。しかし、本当に自由なのでしょうか。束縛されているものがあると思います。
 その1つは、お金であり財産ではないでしょうか。
お金に左右された生活を描いた、こんなたとえ話が聖書にあります。

『ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。「どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。」そして言った。「こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。『わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。』」』(ルカの福音書十二章十六〜十九節)

 この金持ちはよほどお金があったと思われます。私はそんな生活をしたことがないのでその心境は分からないですが、この人は、「お金ですべてが買える!お金で幸せが買える!」と思っていたはずです。でもその後のところに、

『しかし、神は彼に言われた。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」』(同二十〜二十一節)

とあるように、どんなにお金を貯めても、死んだら終わり。神の前に富まない者は、哀れな結末だと聖書は教えています。 しかし、お金がなかったら生活できませんね。お金はすごく重要です。
 少しプレイズの証しをしたいと思います。新型コロナ禍で皆さんが心配してくださって、ある人からは、「プレイズは、大丈夫ですか?」と電話を頂きましたが、お祈りによって守られています。
現在、プレイズには、五つの部門があります。
新城市はほとんど感染者が出なかったこともあり、高齢者住宅のアークホーム、デイサービスしおん、就労継続支援B型シャロームの福祉部門は通常営業ができ、経済的にも守られました。
 しかし印刷・出版は、二割ほど売上が減少しました。東京の知り合いのクリスチャンでデザイン会社をやっている方に、「どうですか?」と聞いたら、「もう大変ですよ」と返事が返ってきました。そこは新宿に事務所があったのですが、飲食店のメニューのデザイン・修正、また、イベントのパンフレットのデザインなどが主な仕事ですが、イベント自粛、飲食店の休業などでそのほとんどの仕事がなくなり、売上が八割減ったというのです。そのことで事務所を自宅に移し、従業員はテレワークにして、休業補償をもらってなんとかしのいでいる、と言っておられました。
 また豊橋辺りの印刷会社に聞いてみると、この三~五月はほとんどの印刷会社で四割、五割減が当たり前で、印刷も少ないので、現場の人は半分ずつ交代で来ていると言っていました。それに比べると、プレイズは本当に守られているなぁと感謝しました。
 そしてもう一つの飲食部門。テレビなどでも報道されているように、飲食業は大変です。私も「大丈夫だろうか、どうしたらいいのか」と考えていました。
 実は、プレイズは、昨年の十月頃からデリのテイクアウトを始めていて、今年の二月からは、新商品として色々なテイクアウト商品を販売しようとプランを練っていたところでした。そんな時に緊急事態宣言が出されたので、雲の柱店内での飲食を自粛し、五月の一ヵ月間、テイクアウトのみの営業でした。五年前にレストランを始めた時から餃子をドライブスルーで販売しており、今回のテイクアウトのためにそのドライブスルーが功を奏し、安全にスムーズに受け取れると、多くの方がステイホーム中のお子さんを連れて車で買いに来てくださり、昨年同時期と比較して八割をテイクアウトのみで売り上げることができました。もちろん、コロナウイルスを予見したわけでもなく、ドライブスルーにしても、こんな時に役立つとは思ってもみませんでしたが、神さまがあらかじめ準備させてくださり、その時々に知恵を与えてくださって、乗り越えさせてくださったことを感謝しています。
プレイズはいくつかの部門があるために、一方が悪くても一方で補え、「リスク分散」できたことも感謝します。そして、何よりも皆さんにも祈っていただいていることを、心から感謝いたします。

新型コロナは、皆さんの家計にも大きな影響を及ぼしていると思います。皆さんのところに十万円は届きましたか? 韓国では四万円くらいだそうですが同じような制度があり、日本ではまだ人口の四割くらいだと言われていますが、韓国ではそれが発令されて二日後には、九十七パーセントの人に配られたというのです。すごいですよね。そのシステムはどうなっているのかなぁと思います。
確かにお金は大事です。生活していかなくてはなりませんから。しかし、新型コロナウイルスの出現で、お金よりいのちを優先するべきだと考える人が多くなったと思います。確かにお金で命は買えないし、地位や名誉があるからといっていのちが助かるわけではありません。私たちは、お金よりももっと大事なことがあるということに目を留めなければならないと思います。金に振り回されるのではなく、金の奴隷になるのではなく、金をうまく使う者となり、お金があるかないかで一喜一憂するのではなく、本当の意味でお金を管理する側に立たなければいけないと思っています。
私がビジネスでいつも考えていることは、今、何を優先すべきか、ということです。色々必要なものがある時、何を先に買うべきかということもそうですし、「あれも、これもしなくちゃいけない」という時にも、何を最優先にするかが大事です。信仰生活でも同じです。第一にすべきことを選び取らなければなりません。

 そしてもう一つは、偶像礼拝です。かつては皆さんも知らずして、そのような神ではないものの奴隷になっていましたし、今なお日本人の多くの人がとらわれ、奴隷となっているのです。
第一コリント人への手紙 十章十三〜十四節にはこんなことが書かれています。

『あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。』

 人は、様々な問題にぶつかり試練に遭うことがあります。その時、多くの人が真実の神を知らず、間違った神々に手を合わせ偶像礼拝をしているのです。しかし、まことの神様を信じ、偶像礼拝を避けることが試練から逃れる方法の一つであると言っています。

 先ほど私が紹介した出エジプトしたイスラエルの民も同じです。彼らは神さまに選ばれたモーセに導かれ、「これから約束の地カナンに行ける!」とエジプトから出ていきました。本当は、エジプトからカナンの地までは、直線距離で二~三週間で行けるのですが、彼らは四十年間さまよい続けたのです。それは、何度も「食べるものがない、飲む水がない」と不平不満を言ってモーセを困らせたり、モーセが神に会うためにシナイ山に登っている間に、「金の子牛」を作って偶像礼拝をしたりして、神に反逆したためでした。
結果として何百万人もいたイスラエルの民の中で、約束の地に入った人はたった二人でした。それ以外の人は皆、四十年の間に滅びてしまったのです。これが、偶像礼拝をして神に従わなかった結果です。
 日本人の多くが偶像礼拝をしています。今、全国には、七千以上の教会があると言われています。そして日本のクリスチャンは、人口の約一パーセントほどです。日本人はある程度豊かなので、神など頼らなくても楽しくやっていけると思っているということもあるかもしれませんが、昔から植え付けられてきた祖先崇拝というものに多くの人が縛られていると思います。
 皆さんが伝道した時に、多くの人が「クリスチャンは素晴らしい。私もクリスチャンになりたい。でも、仏壇は捨てられない。ご先祖様に申し訳が立たない」と言います。また、「祖先崇拝をしないとたたりがあるかもしれない」と恐怖におびえているところもあります。それは、神ならぬ神々の奴隷となり、その背後で操っているサタンの支配下に置かれているからだと思います。
 また、「私は無神論者です。神などいないですよ」と言うかもしれません。しかし、若い人でも墓参りに行き、初詣に出向いています。それは、手を合わせて拝めば御利益があるのではないか、祟りから解放されるのではないか、というように、根拠のないものに振り回され、そしておびえているからではないでしょうか。また、みんながやっているからというように、何も考えずに偶像礼拝をしている人もいるでしょう。はっきりとした解決を持っていないのです。

 そしてもう一つは、死の恐怖です。今回の新型コロナウイルスもそうです。今まで気にも留めなかった小さなウイルスに世界中の人がおびえていますよね。なんでおびえているのでしょうか。インフルエンザと同じように、薬で簡単に抑えられたり、ワクチンが開発されたりして予防ができるとわかっているなら、こんな大騒ぎにならないですよね。でも、まだワクチンも完成していないので、感染したら死ぬかもしれないという恐怖。現に世界で四十万人以上の方が亡くなっています。「死ぬかもしれない」ということが心から離れないのです。それによって、世界中の人が自由を奪われています。
 しかし私たちクリスチャンは、日々流れてくる情報に振り回されるのではなく、私たちが信じているまことの神さま、本当の意味で私たちに自由を与えてくださる神さま、永遠のいのちを与えてくださる神さまに信頼して祈ることができます。

 先週、順先生が礼拝メッセージで、詩篇八篇五~六節を引用して語っておられましたが、「あぁ〜確かに!」と、私はすごく納得しました。

『あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。』

ここには、神が私たち人間を、神さまより少し劣る被造物として創造してくださり、私たち人間に万物を治めさせ足の下に置かれたとあります。すなわち、私たち人間を被造物の管理人として造ってくださったということです。しかし人は、創世記の初めにサタンの誘惑によって神さまの命令に背き罪を犯したために、罪の奴隷となり、死ぬ者となったのです。

『あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。』(ローマ人への手紙六章十六〜十七節)

この地上はサタンの支配下に置かれてしまい、永遠の滅びに向かっていましたが、まことの神を知り服従することによって罪から解放され、今私たちは義の奴隷となったとあります。ここにいる皆さん全員がそうです。また、

『しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。』(同二十二〜二十三節)

とあるように、罪から解放され、サタンの支配から神の支配に移されて、賜物として主キリスト・イエスにある永遠のいのちが与えられているということです。

 最後に、神さまは、本当の自由を手にした私たちクリスチャンに、何を求めておられるのかということを少し学びたいと思います。

この教会に、皆さんお一人おひとりに託されていることを三つ挙げてみます。
 その一つがリバイバルのために祈り続けることです。
「リバイバルのために祈るなんて、教会だったら当たり前でしょ」と思うかもしれません。でも違うのです。自分のため、自分の教会が祝福されるために祈っている教会が多いのです。しかし新城教会は、宣教の当初から、日本のリバイバル、世界のリバイバルを叫んできました。いつの頃か、明先生が「まず日本のリバイバルのために祈りましょう。そして同時に新城のリバイバルのために祈っていきましょう」とおっしゃっていたのを記憶しています。その祈りは今もささげられています。そして日本だけでなく世界の国々とともに祈り、とりなしが拡大しています。これからもリバイバルのために祈り続けることが、私たちの使命の一つだと思います。

 そして、もう一つは伝道し続けることです。これも当たり前のことです。
今も多くの人がサタンの手の中にあり、奴隷生活を送っています。私たちはその人々に本当の自由を与えるために、そのことを告げ知らせていく必要があります。
明先生は、伝道者して一人でも多くの人を救いに導きたいと願い、全国各地、世界を駆け巡り六十年以上伝道し続けました。
その中で開催されることになった全日本リバイバル甲子園ミッション。決起大会は七百五十ヵ所にも及び、本大会においては延べ十二万四千人の人が集められ、多くの人が主を信じ、罪の奴隷から神の奴隷へと変えられていったことを私たちは目の当たりにしました。私たちも、このことを受け継いで、一人でも多くのたましいが救われるために伝道し続ける必要があります。

 そしてもう一つは、戦い続けることです。
新城教会は今年で宣教七十年になりますが、ここに至るまでには様々な戦いがありました。新城市は、かつて戦いがり多くの血が流され、その怨念、怒り、憎しみ、悲しみを鎮めるために多くの神社仏閣ができていったという歴史があります。そういう中で、偶像礼拝というのは、この新城においても切っても切れないのです。
そんな因習の深い田舎町において始まった伝道は、今のような「教会はいいですね〜」と言っているような悠長なものではなく、この地に初めて入った先代のクリスチャンたちには様々な迫害があり、教会に行ったら村八分にされるというようなところから、忍耐し、祈り、献げ、伝道してきたことによって、この教会が建て上げられてきました。
これも私たちに与えられた戦いの一つです。そしてさらに、一九九二年七月に霊的戦いが始まり、最前線に出て行っての戦いが今も繰り広げられています。これは神さまの摂理です。

 今語った三つのことすべて、新城教会に属しておられる、またすべてのクリスチャンに求められていることなのです。それは紛れもなく、奴隷解放のための大きな武器なのです。
 それに加えて、現在サタンの支配下に置かれている人々、動物、ウイルスを含むすべての神の造られたものが主の管理下に置かれ、すべての被造物に主をほめたたえさせる働きを継続していく必要があります。そのために、今私たちが選ばれていることを覚え、被造物の管理人としての役割を果たしてまいりましょう。

 最後にもう一度、ヨハネの福音書八章三十一〜三十二節をお読みします。

『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』

 このように、私たちは主のことばにとどまり、主の弟子となり、真理を知って自由にされた者として、神さまから与えられたそれぞれの役割をこれからも果たしていきたいと願います。
 今年は宣教七十年目ですが、十年たって振り返る時、「あの七十年目の時は大変だったよね。でもあのことがあったから、あのことを乗り越えたから、今があるよね」と言いたいと思います。これからも、神さまが大いなるみわざ、主の栄光、主の力を現してくださると信じて、私たちはリバイバルのために祈り続け、伝道し続け、戦い続け、被造物の管理人として働き続けていきましょう。

 皆さん一人ひとりに与えられた使命をもう一度確認し、主のみ前にへりくだって主を求め、主によって私たちは奴隷となっていた様々なことから解放されていることを感謝して、ご一緒にお祈りしましょう。

 お祈りします。
 愛する父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。今日こうして二部礼拝ですけれども、多くの人たちが教会堂に集まって、主を力一杯賛美できた恵みを心から感謝します。
 私たちはかつて罪の奴隷であったところから解放され、今こうして主のみ手の中にあることを心から感謝します。二〇二〇年の前半は、思いもかけないことが起こりましたが、後半には、神さまが大いなるみわざをなしてくださると信じます。そのために主が選ばれた一人ひとりを使ってください。主の力、主のみわざ、主の栄光が現されるために、用いてください。今日の恵みを心から感謝します。すべての栄光を主に返します。信仰を持って主のみ名によりお祈りします。アーメン。