「三位一体」

2020年7月5日(日)
SIR代表 瀧元望師
ローマ人への手紙8章14〜16節

『神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。』

 お祈りします。

 愛する天のお父さま。今日私たちは主イエス・キリストにあって罪赦され、神の子とされて、そしてあなたに向かって親しく「アバ、父」と叫ぶことが許されていることを覚えてありがとうございます。
 そして私たちと共に、聖霊ご自身が共にあって、あなたが私たちを守り、はぐくみ、支え、私たちをあなたにあって生かしてくださるように導いてくださることを感謝します。
 今日どうぞこのひとときが聖霊ご自身によって持ち運ばれる時になりますように。聖霊によって私たちを正しく導いてください。語るこの僕(しもべ)の内にも、聞かれる一人一人にも同じ聖霊ご自身が語り、同じ聖霊が私たちに理解を与え、同じ聖霊が励まし、聖霊によって私たちが悟り、聖霊によって感じ、聖霊によって私たちが導かれる時となることができるように。今日、聖霊さま、あなたを歓迎し、この真ん中にあなたをお迎えします。
 また今日、主イエス・キリストの十字架によって勝ち取られた圧倒的な勝利にあって、この場所を、またインターネットを通して見てらっしゃる一人一人の、その場所を主が支配し、主の主権と支配がその場所にしっかりとありますように。そしてあなたの語られることがまっすぐに届きますように。
 このひとときを主に委ねます。今日のこの時を感謝し、またこの所に来ることができなく、また多くの苦しみの中にある人々にも聖霊ご自身が届いてくださいますように。主イエス・キリストのみ名によって、この祈りと願いをみ前におささげします。アーメン。

 おはようございます。私がここに立つのは異例の事というか、実は最近で言うと、五年くらい前でしょうか。パラオの方が来られた時に、十五分くらいのおすすめをさせていただいたのですが、普段私は二階のあの辺りで短パンを履いて、普段着で座っています。みなさんに、「どちらから来られましたか?」「ちょっとその辺から。」とか言って、スタッフの方から怒られました。でも、だいたいハゲを見れば、頭を見ればだいたい、「これちょっと似てるぞ?」みたいなことが分かると思うのですが。こうやって機会が与えられたことを本当に感謝します。

 私たち、新城教会は、七十年という一つの歴史を刻んできました。今日はその中において、まず最初に、この教会のルーツになるY先生について、Y先生が書いた自叙伝の情報から、少しお話を進めていきたいと思います。

 Y先生とお会いしたことのある方はどのくらいおられますか?やっぱり少ないですよね。非常に力強いカリスマ的な方でした。父たちはこの先生に導かれましたので、僕らは小さい時から、「この先生、キレてるなぁ〜」という感じを持っていました。

 この方の生い立ちをちょっと知る必要があると思います。実は私たちの教会は、ある教団から遣わされた、あるグループの中からスタートした教会ではなくて、ある意味ではこの方一人の中からスタートしている、そんな教会です。
 ですから七十年を語る時に、この方にフォーカスを当てなければ、その七十年ということを振り返ることができないと思います。
 この方は、一九〇四年、明治三十七年に生まれました。一九〇四年というのはご存じですよね。日露戦争の時です。一九〇五年はポーツマス条約が結ばれた時ですから、その戦時の中で生まれて、二〇〇〇年の七月十七日に天国に帰られました。
 お兄さんとお姉さんがいた。そして一九〇七年にお父さんが農業移民としてアメリカに一人行きます。「お金を貯めて帰って来るからな!」と言ったのですが、そううまくいかなくて、一九一〇年になるとお母さんと他の兄弟、上の二人はアメリカに行くのですが、妹と二人だけ残されて、おじいちゃん、おじちゃんの所に預けられました。
六歳です。すごく寂しい幼年期を過ごしたんだなぁということを思います。私も先生のメッセージを聞きながら、「父親像というところに非常に影を持っていらっしゃるなぁ」ということをよく感じました。

 彼はまた非常に忠実で、優秀で、そしてまた勤勉な少年で、ここに彼の書いた本があるのですが、この本の中で自分の模範とする人物というのは、二宮金次郎。薪を背負いながら勉強したという人物ですね。
 もう一人は楠木正成(くすのきまさしげ)だと言います。楠木正成を知っている方はあまりいないですよね。私はある程度そういうことに対してとりなしをしていますので。
楠木正成というのは天皇に最も忠義を誓った歴史的な人物、あの南北朝の時に後醍醐天皇に仕えた人物ですね。そして最終的に自分は死ぬことを分かっていて、大阪の桜井という所で息子と別れて、彼は湊川に行きます。「七生報国」と言って、「七度生まれ変わってもこの国のために私は戦うぞ!」という言葉を残して死んだとされます。実は、彼が言ったんではないですね。その弟が言ったと言われています。
 そしてこの先生というのは、ご自身の人生の中でも、後にまた詳しくお話ししますが、この楠木正成に境遇が重なるような部分があったようです。

約十年間、彼は父親、母親と別れて、そして妹をずっと世話をしながら、おじいさんとおじさんの所にいました。一九一九年十五歳の時に彼はアメリカのワシントン州に妹と呼び寄せられます。
 彼はアメリカに行ってイエス・キリストを信じたようです。もうお父さんたちがクリスチャンになっていて、そして彼も長老教会に通うようになります。そしてそこではD・Lムーディの姪が日曜学校の教師だったと書いてありますが、彼はとても優秀だったそうです。
 十七歳になった時に、滴礼によって洗礼を受けます。滴礼というのは、私たちの教会はバプテスマと言って、浸礼でザブンと水の中に入りますが、そうではなくて水を「父、子、聖霊の名によって」ということで、頭に注ぐ形で行う、そういうスタイルです。でも彼はこの時に明確にイエスさまとお出会いはしていなかったと言っています。

 一九二七年、二十三歳の時に結婚します。
 そして彼は人生の中で、長男を五日目に天国に送っています。そしてまた三男も太平洋戦争時なのですが、生まれて直ぐに天国に送っています。敵性国家でアメリカ人の看護師が、「もうこの赤ちゃんは駄目なんだ。ミルクを口に突っ込んでも飲まないんだ。」と言った時に、それでもう駄目になったと彼は書いていますが、非常に悲しい人生も体験しています。

 一九三六年、三十二歳の時に、エイブラハム・ブレイディーという方に導かれてイエスさまとお出会いします。個人的なイエスさまとの出会いをして、そして八月にM・Rディハーンという、これはとても有名な放送伝道者だったようですが、その方から今度は湖でバプテスマ、浸礼を受けるわけです。これ二回やったわけです。皆さんの中で、二回、三回やった方いますか?この方はまず二回やりました。

 さぁそして太平洋戦争時。彼は他の日系人たちのほとんどが強制収容所に収容されたのですが、彼はクリスチャンとして、そして伝道者として、そしてその時も、アメリカ人の町の中で生活しました。それも彼がいたのはワシントン州とかアイダホとか、あの辺りなので、いわゆるほとんどが白人の社会です。その中で命の危険を感じながら彼はそこで伝道をしていきます。

 そして一九四二年、アイダホ州のキャスケード市で彼はある牧師と出会います。彼はこのスミス牧師のことを、「ブラザースミス」と書いています。Y先生は、自分を「ミスターと呼べ」と言っていました。だから私たちは「ミスター」と呼んでいました。普通、ミスターと言うと、全員男はミスターでしょう。しかし「ミスター」という、この一般呼称が特定呼称でした。この人にしか使ってはいけない。ちょっと実は偏ったスタイルです。彼は自分が先生と呼ばれることを拒絶していました。そのことはここで学んだんだと思います。
 そして彼はそこで「三回目のバプテスマ」を受けます。イエスの名によってバプテスマを受ける。これは使徒の働きの中に「イエスの名によってバプテスマを受けた。」という記述があるので、「これまで父子聖霊の名ではバプテスマを受けたけど、このバプテスマを受けていないから受けさせてくれ。」と、奧さんが最初に言い出して、そして彼も受けるようになります。
 この事に対する聖書的な見解というのは、ある意味でそれは偏った見解です。使徒の働きを見ていくと、聖霊によってバプテスマを受けたという言葉もあります。またそれ以上にイエスさまが「父、子、聖霊によってバプテスマを授ける」ようにと弟子達に命令をしました。そして、ルカは、使徒の働きにおいてそれを「イエスの名」も含まれていますから、「イエスの名」と表現したんだと思います。
 スミス牧師から何を学んだかということですが、このグループは、実は聖霊の働きを非常に豊かに体験している教会であり、また「ワンネス」という教義を持っていました。「イエスだけだ。」「イエスの中に父も聖霊も存在する。」
 歴史の中で、キリスト教会は三位一体を守るために戦ってきました。特に初代の教会、あの二世紀、三世紀、様態論と言って、三位一体に対する異端が出てきて、それに対して、「いや、三位一体だ。」と、その当時の教父たちは戦い守ってきたものです。
 ワンネスは聖霊運動と共にあったもので、後のユナイデットペンテコステというグループですが、この「イエスの名だけだ!」という主張は教義というよりもリーダーである方が集会の中で、預言的に、「イエスの名の中に父なる神も聖霊もある。」と言ったことから始まったとされています。私の友人がそう分析していました。
 彼はそれからNさんという方と共に山に登って、聖霊の力を受けました。どうもY先生は異言を積極的に語る方ではなくて、いやしとか奇跡ということにシフトしていた方だと思います。その山で聖霊の力を受けてから、いやしや奇跡を体験します。そしてこの激しい迫害の中で彼はイエスさまに守られ、ギャングたちが命を狙っているのに守られたとか、多くの人たちのために祈ったらいやされたという奇跡を体験することになります。

 そして一九四二年十一月に、ホームデルというキャスケードから二百キロくらい離れた場所に彼らは移ります。そこでホーリネス系の教会、ナザレン教会と出会って、そこで「聖め」を強調する教義を受け入れます。ですからかつての教団は「聖め」という教えが徹底していました。
 かつての私たち、一九九二年の前は、こうやって男女が混在して座ってはいけなかったのです。分かりますか?どっちが男でしたかね。忘れてしまいましたが、こっちが男かな。そこに初めて来た女性が迷い込むと、ざわざわざわとする。
 何しろ先生は「聖め」を非常に強調しました。もちろん、「聖め」ということは聖書的なことですが、純粋であるとか、そういうことを非常におっしゃいました。
 そして彼は髭を生やしていたのですが、この髭も、このナザレン教会と出会うことから、聖書にナジル人というのがあるのですが、「ナジル人のように私はカミソリを顔に当てない」というふうに決めて、終生、髭を伸ばしていました。そんな方でした。

 そして日本に彼は宣教師として、戦後直後にやってきます。一九四七年十月にサンフランシスコから出航して日本に上陸しました。しかし、宣教師として日本に来るためには、一つの条件がありました。それはその宣教団が出した条件の一つだったのですが、「子どもを連れて行ってはいけない。」というもの。その二人の子どもをアメリカに残して、娘をポートランドの神学校に入れて、そして息子はアイダホの奧さんの親戚の所に、グレイハウンドバスに乗せて送ったとあります。
 自叙伝では、「あの楠木正成が息子である正行(まさつら)と別れた、あの心情が私は分かる。」とあります。彼は楠木正成のことを非常に信奉していましたので、メッセージの中で歌も歌っていました。「青葉しげれる桜井の…・」、これ知っている方いますか?これを歌って涙を流して、「おまえたちは分かるか!子どもを置いていなかければいけないこの悲しみ。」それほどにまで彼は日本を愛して日本に宣教に来るのです。
 来るにあたっては、彼は極東十字軍という超教派の団体から来たのですが、しかし、なかなかその道が開かれなかった。でもその時に、エイブラハム・ブレイディーという恩師が、「マッカーサー元帥に手紙を書け。この文章で書きなさい。」と、その文章を教えてもらって彼は手紙を書きます。その文章を見ると、「これはフリーメイソンの書き方なんだな」ということが分かります。フリーメイソンには定文があるのです。
 このジェネラル・マッカーサーは、フィリピンでフリーメイソンに入会し、日本の東京にいる時には最高位のグランドマスターでした。彼の墓に私はとりなしに行きましたが、かつて彼が付けていたエプロンだとかが飾られており、彼が最高位のグランドマスターであったということが分かります。ですからある意味において、このブレイディーさんという方も、なんらかの関わりがあったんだろうなぁということが理解できます。「イン・ザ・ネーム・オブ・マッカーサー」によって、彼は日本に来るわけです。

 そして彼は一つの明確な意識を持っていました。「イエスのみ名を持ち運ぶために日本に私は行く。」ということです。これ、すばらしいことだと思います。イエスのみ名の中にその力がある。イエスのみ名の中に癒やしやその奇跡の力があるということを彼は持ち運んだのですが、しかし、それそのものが一つの教義によって裏打ちされていたという現実があったわけです。

 一九四七年十一月十五日に私たちの母、斉藤清子がイエスさまに出会います。最初の実のうちの一人ですね。彼らは十月の終わりくらいに日本に着いて、十一月十五日にうちの母がイエスさまに出会い、一九四九年二月二十日に私の父がイエスさまを信じます。Y先生の奧さんの導きで信じたみたいです。
 そして一九五〇年六月十七日に、私たちの父と母、瀧元明と清子は結婚します。この時、Y先生はアメリカに用があって行っていて、司式をしたのは他の宣教団の先生が司式しました。
 そしてなんとその後すぐに津具村に入っていきます。そして順先生が生まれ、その宣教がスタートしたのが七十年前なわけです。

 この一九五〇年十二月には、Y先生を終身監督として宗教法人が設立されます。一九五〇年ですから、まだ占領下です。占領下のどさくさの中で彼らは宗教法人格を取得しています。そしてこの宗教法人格は包括法人で、そこに属するすべての教会は、この教団の宗教法人格にあって存在するという、そういう宗教法人です。
一九五一年には、新城教会もその傘下に入り、当時は設楽郡でしたから「設楽教会」という名前で教団の中に属します。

 私たちは教団の中に存在し、そしてその一人の強いリーダーシップを持ったその人物にあって私たちはある意味で教義も受け入れていたという現実があると思います。

 一九七〇年に日本リバイバルクルセードが結成されます。結成式の時に私は中学生でしたが、グロリアシンガーズということで、当時はたぶんうちの兄だけがギターだったと思います。そこで讃美歌を歌いました。今から考えたら律儀な少年たち。でもその時にめちゃくちゃバッシングされました。「ギターで歌うとは!おまえたちは悪魔だ!」とか言われて、大変でした。
有名な大衆伝道者の本田弘慈先生、羽鳥明先生という先生が顧問となって、日本リバイバルクルセードはスタートしていきます。

 ちょっと考えていきたいのですが、私たちの教会のルーツの中に、「ワンネス」という教義が存在します。これはどういう教義かというと、三位一体を否定して、「イエスのみ名だけなんだ。イエスのみ名の中だけにすべてが存在する。そしてイエスのみ名によるバプテスマ、使徒の働きにあるバプテスマを施す。」という、そういうスタイルです。
 また女性は髪の毛を切らず化粧もせず、男性は髪の毛を短く刈るという、こういう決まりがなんとなくありました。
私の家内は京都の長岡福音自由教会出身です。外様なのです。家内が入って来た時に、家内に、「この教会は化粧だめだぞ。」と言ったら、彼女は化粧しませんでした。そしてこの頃、歳によってもあるのですが、いろんなところにシミがあると、「あなたが化粧させなかったから。」とよく言われます。
 母は髪の毛を切りませんでした。晩年になってその呪縛から解かれてショートカットにしましたが、「神さまとの契約だ」と言っていました。なんか体験があったんだと思います。
 私たち、この教団を通して、イエスさまご自身と出会っていますが、この教会のルーツの中にこのような神学的に一つ問題をはらむ部分を持っていました。

 私はこの新城教会のスタッフには一度もなったことはなくて、グロリアシンガーズという働きで一緒に働いていて、でも私の働きはどちらかというと最初は、超教派、他の教会に対して音楽伝道というものを広めていくための働きをしていました。ミクタムレコードというレコード会社を小坂忠さんご夫妻とはじめさせていただいて、そしてコンサート伝道なんかをさせていただきました。
 そんな中で私はいろんな教会をめぐっていました。コンサートをするためにポスターやチラシや、そこでチケット委託をするためにいろんな教会に出かけていきました。うちの兄たちと私たちは、時々、グロリアシンガーズで招かれて、いろんな教会にも行くのですが、それは招かれているのでいいのですが、私のやった働きというのは「招かれざる客」というやつですね。
「ごめんください〜」と言うと、「誰だ、おまえ。」みたいなね。牧師先生はやっぱり素顔で来るわけです。素顔で来ると、なかなかぷんぷんと言うのでしょうか。陰険な方だと陰険な顔で出てきます。
 ある教会を尋ねて行くと、「おまえだれだ!」と言われるわけです。「瀧元です。」と言うと、「おっ!瀧元といえば、瀧元明先生の!」と、コロッと態度が変わるのです。「お茶をいっぱいどうぞ。」と、これで傷つくのです。いわゆる俺、私ではなくて、瀧元明で態度が変わる。
 また反対もあるのです。瀧元と聞いた途端にカッ!みたいなね。そういう人たちはよく言いました。「おまえたちの教会、おかしいだろ。イエスの名でバプテスマを施しているだろ。三位一体を否定しているんじゃないのか?」と言われました。私自身は聖書の中から三位一体は大切だと思っていましたから、「いや、そんなことないです。私の父も大衆伝道者で回っていて、三位一体を受け入れていますよ。」と答えるのですが、「でも・・」と言われました。

 そんな中で私はいろいろ考えるようになりました。私たちは音楽伝道で働き始めたので、神学校を出ていません。ですから私は複数の先生方から、「おまえたち、神学校を出るチャンスないから、私の所に来たら神学を教えてあげる。」と言われました。毎月毎月、そこに泊まりに行って講義を受けたりしました。大阪の教会でコンサートがあると泊めてもらう。そうすると、有田という先生でしたが、「はい望さん。今からここに来なさい。」とか言って、三時間くらい講義してくれるのです。「あなたたちの教会は神学校に行かない教会なので、今神学校をここでやりましょうね。」と言ってくれました。今、本当に感謝しています。うちの父の親友でもあった方ですね。
 そんな中で私は超教派で働きながら、新城教会が持っているある危うさというのも体験していました。そして何気なくそれを隠すようになっていました。

 そして一九九三年、甲子園ミッションがありました。この時に実はいろんなことがあって、教団から離れることになりますが、ある意味で、教理的にワンネスを捨てて、三位一体にある歩みを始めたと言って過言ではないと思います。私はこれが最も大きな神さまの導きだと信じています。
 そして全日本リバイバルミッションになった時に、有賀先生、下條先生、平岡先生が実行委員になってくださって、まさしく超教派の働きとしてスタートした。ある意味でこれが本当の大きな祝福だったなぁと思います。
 もちろん私はそれまで属していた教団を異端だとは排撃しません。しかし偏っていたことは確かです。一人の人物が語ることがすべてを支配してしまう。そして一人の人物が体験したことがすべてになってしまうということは非常に危険だったなぁということを今も感じます。

 今日、残る時間の中で皆さんと一緒に、三位一体についてご一緒に学んでみたいと思います。読んで頂いたこのローマの八章十四〜十六節の中に、実は三位一体なる主なる神さまご自身が描かれています。私たちはイエスさまを信じ受け入れることを通して、救われて、そして、イエスさまを信じた時に、聖霊ご自身が私たちの内側に住んでくださるようになり、聖霊によって私たちが生きるようになると聖霊は天の父なる神さまに対して、「アバ、父」と叫ばせると書いてあります。

 「アバ、父」、この言葉は、平たく言うと、「おとっつぁん」という言葉です。皆さんも小さい頃、お父さんってどうやって呼んでいましたか?東北出身の方だと、「おど」とか。「父さん」とか、今恥ずかしくて言えないけど「とうちゃん」とか呼んでいたと思います。
 何を隠そう、私は四歳まで父を「ダディー」と呼んでいました。順先生は八歳まで。両親は日系アメリカ人の方の教えの中で生きていたので、私たちは最初のころ生活の中で、色んな英語を使わされていました。でもうちの父と母は死ぬまでダディー、マミーで呼んでいました。「ダディー、これ取って。」とかやっていました。だから私の中に、このみことばでいうと、天のお父さまに対して叫ぶ時に、「ダディー」と叫ぶとなんか安心する感じが残っているような感じがします。うちの父が天国に帰る時に、その姿を見ながら、「ダディーって呼んだなぁ。」と思い出しました。
 ものすごく強い思い出としては、兄と私の間に一人の姉がいるのですが、姉がある時、ボットン便所に落ちました。その時に、「ダディー〜〜!!!!」と叫びました。まぁそれから私たちはボットン便所、怖かったですね。そして助け出されて、水を掛けられたらモウモウと湯気が出ていて、うんこって温かいのかなと思いましたが、それは二月のことでした。でもあの「ダディー〜〜!!!」という声は今も耳から離れません。
 私たちは聖霊によって本当の神さまを「ダディー」と呼べるのです。「お父ちゃん」とも。どんな言葉でも呼べます。

 ガラテヤ書の中で全く同じフレーズがパウロによって語られています。ガラテヤ書四章六節、八節、

『そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。』
『しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。』

と語っています。

 日本人がイエスさまに出会って、天の父なる神さまに行くことが非常に難しいその原因の中に、父親像があるように思います。国家的な父親、天皇という存在との関わりを考えてみてください。私たちは「愛する天皇様」とか呼ばないでしょう。そして帝王学で、彼らは「ここに来てくれてありがとう。」としか言いません。「ありがとうございます」なんて絶対に言ってはいけないのです。私たちとその国家の元首に近いものである天皇との関係は、愛の関係ではありません。服従の関係、忠誠の関係。
 私たちクリスチャンになっても、全く同じように、未だに奴隷的な霊性の中で縛られていて、イエスさまを通して罪赦されて聖霊によって「アバ父よ!」と叫ぶことが阻害されることがあることを皆さん知ってください。私たちはかつて奴隷でした。私たちはその奴隷の霊を受けたのではなくて、聖霊ご自身の霊を受けて、私たちははばかることなく、「アバ父」と叫ぶことができるのです。

 今日私たちは、この三位一体という、この中で生かされたいと思います。イエスさまに皆さんがお出会いする。何によってお出会いしたのでしょうか。いろんな方々が、奧さんがここに連れて来てくれた、お母さんが連れて来てくれた、友達が連れて来てくれた、ある時に福音を語ってくれた。
 でも聖書は言います。「聖霊によらなければイエスを主と告白することができない。」と書いてあります。私は思います。誰かが皆さんのために祈ったと思います。聖霊によって、名も知らぬ、遠く離れた国の人が、「日本の人々が救われるように。」と祈ったのかもしれません。その聖霊にある祈りが私たちの所に届いていると思います。そして聖霊による導きにあって私たちはイエスさまを主だと告白することができるのです。

 今日もし、まだイエスさまが主だということが体験的に理解できない方がいらっしゃったら、今日祈ってみてください。「聖霊さま、あなたが私の中でイエスさまを分からせてください。」と。
 私はこの聖霊の働きというものに、中学生の時に出会いました。教会に激しい聖霊の注ぎがあって、私も異言を語るようになりました。でもその後、全然語りませんでした。
きっかけは、教会の若者やうちの兄達とある集会に行きましたが、集会の中で最初にこの人(兄)が異言を語りだしました。それで安心して僕も心を許したら異言を語るようになりました。豊川の教会での集会でした。
 それでも聖霊の働きというのは、あまりこの教会では強調はあまりしませんでした。
でも私は一九八五年、六年の中で、私はさらに聖霊の働きに触れたと思います。
 新城教会で、ある出来事を通して大きな試練が来ました。そして多くの人々が教会から去るという出来事が起きて、その時に私の心の中で聖霊ご自身がうめいていることが分かりました。
 それまで私は超教派の働きでいろんな教会で奉仕をしたり、この新城教会の中でもいろんなものを見て、「教会は嫌いだ。」と思っていました。「古くさいから駄目なんだ!」とか、そう思っていました。でも教会はキリストのからだであり、聖霊はうめいているということを体験的に理解しました。

 そして私は一九八七年三月に三番目の子どもを生まれてすぐに死産で天国に帰るという出来事を体験しました。それまで私は子どもの顔を見てから名前を付けていましたが、でもその子どもだけは県民の森に祈りに行った時に神さまが名前をくださいました。「感謝」という名前。感謝・・。
 その時、性別も分かっていませんでした。性別なんか聞かない時代ですから、そして家内に言いました。「なんかイエスさまは名前くれたんだよ。感謝。」「えっ!?女の子だったらどうする?」とか言われて、「感謝子」かなぁとか思いました。でも私がハワイに伝道に行っている時に彼は生まれてすぐに、数分だと思いますが、生きて、そして彼は天国に帰って行きました。
 ハワイから帰って来て、その子どもはもう骨になっていましたが、それを見た時に分かりました。「主が働いたんだ。私が潰れないように。すべてのことを感謝しなさい。」と。
 聖霊は私たちのためにとりなしをしています。今日、聖霊ご自身が、深いうめきで私たちのためにとりなしをしている。今日、その声を私たちは聞きたいと思います。そして私たちのすべてをご存じである主は、「アバ、父」と叫ぶことを許してくださいます。

 今日もし、皆さんがかつて関わった神々、偶像礼拝、気まぐれの神々という、偽父によって真の神さまである真の父を受け入れることができなかったなら、その偽父から今日解き放たれていただきたいです。聖霊が私たちのうちに臨む時に、私たちは「アバ父」と叫ぶことができます。
 この新型コロナウイルスの戦いにおいても、私たちは聖霊のうめきを聞きながら、そして主が造られたこの地のうめきをも私たちは主と共に受け取りながら、私たちはとりなし祈る者になる必要があると思います。
 今日、主が皆さん一人一人に語ってらっしゃる。聖霊が皆さんの心のうちにあって、今、語りささやき、聖霊ご自身が皆さんに教えようとしてらっしゃることに、耳を傾けていただきたいです。

 聖霊の働きというのは、私が常日頃思うことですが、私たちの知性、理性、感情、霊性、すべてを支配するものだと思います。何か超自然的な働きだけに聖霊の働きを限定することは、ある意味ではすべてを造られた主なる神さまを否定することになると思います。私たちの知性にも、感情にも、理性にも、主の絶対的な支配を私たちは認めなければなりません。でなければ私たちは理神論者になってしまいます。今日、聖霊によって生きる者となりたいと思います。

 この教会が三位一体なる神と共に歩む教会として、かつて少し偏った中にあったけれども、今日私たちは、聖霊を通して、イエスさまに出会って、そして聖霊にあってアバ父と叫ぶという、この主の愛にあって生きる教会となりたいと思います。

 最後にお祈りします。

 愛する天のお父さま。あなたをアバ父と呼ぶことができることを感謝します。あなたは良い方です。私たちがかつて知っていた神々のような気まぐれの神々でもなく、私たち日本の人々が忠誠を誓った天皇という存在のようではなく、あなたは私たちを愛して、ひとり子なるイエスさまを私たちにくださった方であることを覚えます。
 今日、私たちの教会を聖霊によって生かしてください。聖霊によって、アバ父と叫ぶ者として、そして主イエス・キリストが勝ち取られた十字架の勝利にあって、イエスのみ名の勝利にあって生きる、ダイナミックに生きる教会として、また私たち一人一人として私たちを生かしてくださいますように。
 主よ、今日今一人一人にあなたが届いてください。あなたが、聖霊ご自身が、一人一人の心の内側をご存じです。今日あなたが一人一人の深みに届いてくださり、あなたがそれを知り、私たちの内に今日、「アバ父」と叫ぶ霊性をお与えくださることを覚えてありがとうございます。
 アバ父よ、日本をあわれんでください。アバ父よ、この教会をあわれみ祝福してください。七十年が経ちました。主よ、どうぞあなたのみ国がさらに前進しますように。そしてこの教会をあなたが持ち運んでくださったことを感謝し、この七十年があなたの解放の時となりますように。今日、聖霊ご自身にあって生かして、私たちを導いてくださいますように。尊いイエスさまのみ名にあって、この祈りと願いをみ前におささげいたします。アーメン。