「宣教70周年-2020
明日に向かって「将来と希望 パート11」
~主よ、祈りを教えてください~」

2020年8月30日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカによる福音書11章1節

『さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」』

 ハレルヤ!おはようございます。ヘブンリー・キングダムの映像賛美、すごかったですね。いつの間に制作したのか知りませんが、臨在の溢れるすばらしい賛美でした。コロナでいろいろ不自由もあるのですが、こうして新しい領域が開かれていることを期待します。

 世界中が生活様式を変えなければならず、新しく対応しなければならない時代なわけですが、私たちはこれをバネにしたいと願います。そしてこんな時、最も大切なことは何か。それは、今朝のタイトルにさせていただきましたが、「主よ、祈りを教えてください!」の一言に尽きるのではないかと思われます。
 誰にでも、祈りの気持ちはあります。現在、世界中の人たちの中に祈りの気持ちが溢れていると思います。「これから世界はどこに向かっていくのだろうか、出口はどこなんだろう・・・」と、悩みの中にあります。

 先週もあるモーニングショーのコメンテーターとゲストの対話でしたが、コロナで亡くなった方の数は千名くらい、インフルエンザでは毎年、四千名くらいが亡くなられるらしいです。しかし、餅を喉に詰まらせて亡くなられる方は、年間八千名から九千名おられるというのです。「なぜ、餅の販売を中止しないんだ?」というわけです。すると司会者が、「餅は感染しませんから」と話していました。
 現在、私たちは見えない敵との戦いのただ中にあるわけです。新型コロナは放っておけば、死者千人どころでは済みません。何せ相手は見えませんから、どのように戦ったら良いのか、実際ははっきり分かりません。普段の衛生意識で十分なのか、不十分なのか分からないです。
 しかしながら、私たちには「祈り」という武器があります。祈りを中心とするとき、人知を越えた領域において、神の守りを得ることができると信じます。
 特に、「教会全体」が心を合わせて祈る時、大きな主のみわざを体験できます。

 今年は「宣教七十周年」ということで、私も、昨年ぐらいから大変期待していました。しかし私たちの予測や期待とは全く違う状況と共に、二〇二〇年は始まりました。特に、私個人に関しましては、去年十月から青天の霹靂とでも申しましょうか、家内に重篤な病が発見され、今でも戦いのさ中にあります。去年の十月、体調が少し悪くて病院に行ったら、その日のうちに診断がつきました。それは膵臓癌、「余命三ヶ月から四ヶ月」と言われました。そういう現場をテレビドラマなどで見たことはありましたが、まさか自分の家内に宣告されるとは、夢にも思っていませんでした。その瞬間に立ち会った時に、一瞬、持って行き場のない絶望感を感じました。「えっ、家内と過ごせる期間があと三ヶ月、四ヶ月…」
 しかし一方ではその言葉を聞いた瞬間、「クリスチャンで良かった!」と思いました。なぜなら、三・四ヶ月の期間、真剣に祈るチャンスがあるからです。
 祈りとは、「自分の力ではどうすることもできないことを、絶対者に助けてもらう」という意味があります。私たちは祈りによって神の前に出ることが出来るからです。これは素晴らしい特権です。
 その日以来、祈りの戦い、すなわち生き抜くための戦いが始まりました。教会あげて祈り、戦ってくださっていることを、心から感謝しています。教会全体の祈りは、大きなわざを引き起こします。

 使徒の働き十二章で、初代教会において、使徒ヤコブが殺され、次に、教会の指導者であったペテロに手が伸びました。彼が捕らえられて、牢の中に入れられて、まさに処刑の危機一髪の時でした。それを聞いた教会は何をしたのかというと、使徒の働き十二章五節、

『こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。』

一般的にいえばヤコブと同じ道を辿るであろうただ中で、教会が心をひとつにして、真剣に祈ったのです。その時に何が起こったのでしょうか。使徒の働き十二章七節、

『すると突然、主の御使いが現れ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。』

とレポートしています。
 教会の祈りによって、天の軍勢が派遣されて、まさに処刑される寸前であったペテロが助け出されたのです。これはまさしく、教会の祈りの勝利でした。
 今、このようなコロナ危機のただ中で、私の家内のためにも教会あげて祈って下さっています。また教会の兄弟姉妹のさまざまな問題についても、教会が心を合わせて祈っています。それは、「鎖が手から落ちる」大チャンスになるということです。このような大ピンチに教会の祈りが加わるならば、大チャンスに変化するのです。教会の祈りはその鍵を持っています。

 家内も、余命三ヶ月・四ヶ月と言われたのですが、先週で生存十一ヶ月目に入りました。人の予想を大きく超えて、十一ヶ月も生かしていただいています。先週も病院に行ったのですが、血液検査の結果もたいへん良くて、医者が「次回の血液検査が楽しみですね。」と言うほどでした。腫瘍マーカーも正常値になって四ヶ月くらい経過しました。CTなどで見る限り、癌が消えてしまいました。今後どうなるのかは、主のみ手にありますが、今の時点では、「神の奇跡」としか説明のしようがありません。
 しかし今後も神の奇跡であり続けるためには、続けて「祈りが必要」です。
 「なんとか十一ヶ月間生き延びました…。」ではなくて、元気に過ごしている家内を見る度に、本当に励まされます。
 家内は、「神に従い、悪魔に立ち向かえ!」というみことばを主からいただいて、毎朝、早く起きて、豊川の河川敷に行って一人で真剣に戦い、祈っています。そんな中で、私も真剣に祈りで支え、すばらしい結果が現れていると信じています。
 このような危機の中にあって、必要なのは、弟子たちが「私たちにも祈りを教えてください!」と言いましたけれど、主から祈りを教えていただくことです。それが重要であることに気づかされています。

 危機に遭遇した時、どんな祈りを、誰にしますか?「誰に祈るのか」はもっとも、大切なことです。現在、世界には、七十数億人の人たちがいますが、皆、祈り心を持っています。しかし、誰に祈るのかについては様々です。祈る対象がはっきりしていません。私たちは誰に祈るのでしょうか。イエスさまに祈ることができます。危機のただ中で「イエスさま!」と助けを叫び求めることができます。いろんな問題が起きた時、「イエスさま!」と叫び声をあげて祈ることが出来ます。
 しかしながら、「祈りはどのようにして神の元に届くのか」という原則を、しっかり押さえた上で叫んでいるのかというと、そうでもない気がします。

 私の最近のメッセージは、すべて家内のための叫びから、主に教えられたものお分かちしていますが、前回は聖餐式の神秘についてお話しさせていただきました。それも家内のために「主よ、祈りを教えてください。」という中から導びかれたテーマでした。

 弟子たちが、「主よ、祈りを教えてください。」とイエスさまに聞くと、先ほど皆さんと一緒に祈った「主の祈り」を教えられました。
 『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』という、この祈りを教えられました。
 私だけか知りませんが、主の祈りの時間、最後の結びの言葉まで邪念なくというか、途中で雑念が入らないで祈り切った試しがないというか、途中でいろてろ考えてしまうのです。あれ?何を祈ったっけ?あ、終わった。みたいな感じです。案外しっかりとは、祈りきれないものです。皆さんはいかがでしょうか。もしかしたら、本気で祈りきれないかもしれません。
 「祈りって、どう祈ったらいいのですか?」という問いかけに対してイエスさまが教えられた祈りですから、重要な祈りだと思います。ですから、今日は、時間をとって、主の祈りを一点の陰りなく祈り切っていただきたいと思います。

 弟子たちが、「イエスさま、祈りを教えてください。」と言った時にどのように答えられたのでしょうか。
 イエスさまは神が人となられたお方で、神ご自身です。しかし「わたしは神だよ。だから、わたしに直接祈りなさい。」とは言われませんでした。「イエスさま!」と呼びかけるようにとは教えないで、「天の父なる神さまに呼びかける」ように教えられたのです。

 聖書を見ますと、イエスさまに直接祈っている例もあります。しかし、祈りのほとんどは、「父なる神さま」に対する呼びかけです。
 イエスさまに直接祈っている例は、ステパノが石打ちの刑で、まさに死ぬ直前、「主イエスよ。私の霊をお受けください。」と叫んだところと、黙示録でヨハネが、「アーメン。主イエスよ、来てください。」と祈っているくらいです。
 また聖霊さまに対しての呼びかけも少ないです。それらから、祈りとは、父なる神に対して祈り、父の元に届くものだということがわかります。

 聖書の中で、最も重要な真理とは何かと言いますと、以前にもここで語られましたが、「三位一体」です。キリスト教の奥義は、我々が信じる神は、三位一体なる神であるということです。
 子なるイエスさま、救い主です。聖霊さまは、助け主なる神です。そして父なる神さまがおられます。しかし三つにして「一つの神さま」です。

 “キリスト教信仰において、その中心にある重要な教理は、三位一体の教理である。三位一体という言葉自体は聖書にはないが、聖書が明らかに伝えている信仰内容である。三位一体とは、聖書に啓示されている神は、父なる神、子なるキリスト、聖霊という三つの位格を持つ唯一の神である。”

 このように、あるところで説明されていました。
 「位格」とは、人ならば人格のことです。人でたとえるならば、神さまは三つの人格を持っておられるというのです。父なる神さまとして、子なるイエスさま、聖霊さま、三人おられるかのように見えるのですが、一つとなって唯一の神を構成しているのです。
 聖書は「三位一体」という言葉自体は使っていませんが、至る所で、それを示唆しています。有名な箇所は、マタイの福音書二十八章十九節〜二十節です。これはイエスさまご自身が語られたのですが、宣教に出て行って、バプテスマを授ける時、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい!」と語られました。
 祝祷に引用される箇所で、第二コリント十三章十三節、

『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。』

と祈ります。これはパウロが神が三つの位格を持っておられると理解していた箇所であると共に、三位一体を示唆しているわけです。

 しかしキリスト教の歴史を見ますと、三位一体という概念が、教会全体の教理として組み込まれ、土台に据えられたのは、四世紀のことです。イエスさまを目前にしていた人たちはそのことを理解していたのですが、だんだんと時代が変わり、イエスさまの神性を疑う人たちが多く出てきたのです。

 それでAD三二五年、ニカイアという所に教会の指導者たちが集まって、イエスという人物はどういう人物であろうかで討論がありました。それが大激論になりました。特にアリウス派という人たちは、イエス・キリストが神であることを「否定」しました。「イエスは、奇跡を行ったり、さまざまなことをしたけれど、あれは人間の中で最も優れた神の作品だ」と捉えたわけです。
 しかし、アタナシオス派は、イエス・キリストは子ではあるものの、父と同じ「神であることを肯定」しました。
 しかしこの討論、結論が出るに至らず持ち越されて、AD三八一年、コンスタンティノポリスという所にもう一度集まって、再度、公会議が開かれました。そこでアタナシオス派が主張する、難しい言葉ですが、「三位格同一本質」という、三位一体が教会全体が共有する教理として受け入れられ、土台に据えられたのです。そして現在に至っています。
 それは本当に大きな戦いでした。もしもアリウス派の主張が通っていたら、キリスト教が現在あるかどうかは疑わしいです。もしも三位一体を受け入れることができなかったら、「聖書に則したキリスト教ではありえなかった」と言われます。
 そもそもイエスさまは、力はあったけれどただの人。聖霊は、ガソリンみたいな、エネルギーみたいな考え方ってありますよね。その代表格が「エホバの証人」です。
 ほかにも、三位一体を否定する教派が現在でもあります。ユニテリアン、モルモン教、統一教会、キリストの幕屋など、異端と呼ばれる人たちのほとんどは、三位一体を認めません。
 そうなればイエスさまはただの聖人です。「確かに宇宙に主幹者なる神はいるだろう。けれども、その下には、いろんな聖人たちがぶら下がっている。」みたいな話になるわけです。

 世界を牛耳っている宗教と言うか、イデオロギーと言ってもいいのか分かりませんが、「フリー・メイソン」という団体があります。今でも世界的な勢力を持っているのですが、結構、都市伝説のように考えるのですが、この人たちは今でも大きなパワーを持っています。彼らはキリスト教を推薦し主張します。しかし彼らの考えは、「宇宙には至高の存在がいる。その下に、様々な偉人たちがぶら下がっている。その一人がイエスだ。」と考えています。モハメッドもいれば、仏陀もいれば、ヒンズーの神々もいれば、イエス・キリストもぶら下がっていることになります。
 もしも公会議において、アリウス派が勝ったら、現代のキリスト教会ってありえないのです。
 ということは、三位一体は、不可解に思われますが、実際は、重要な真理の底支えをしているのです。「キリスト教の神さまって、どういう神さまですか?」と聞かれたら、案外単純に、『イエスさまです!』と答えるのですが、これは正しい答えではありますが、間違いも含んでいます。父なる神さま、子なるイエスさま、聖霊さまから構成される、「三位一体なる唯一の神です」というのが正しい答えです。我々がこのことを、理解し、受け取る時に、偉大な神のわざが現れると信じます。

 イエスさまは神でありながら、自ら「父なる神に祈られた」のです。マルコの十四章は、イエスさまが十字架につく前に、ゲッセマネの園で祈られた祈りです。どんな祈りをされたのかというと、マルコの福音書十四章三十六節、

『またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」』

と祈られました。この祈りは、弟子たちに教えた「主の祈り」を踏襲しています。

 イエスは、父なる神さまに祈られたことが分かります。イエスさまは、父なる神さまをどのように理解しておられたのかと言うと、『あなたにおできにならないことはありません。』と祈られました。
 私たちの神さまに、「おできにならないことはない」のです。どんな大きな問題に対しても、私たちの神さまに不可能はなく、「何でもできる」のです。
 三位一体なる神さまは、各位それぞれの役割をお持ちです。その中で、祈りを受け取り、答えてくださる役割は、「父なる神さま」にあります。

 イエスさまは、父なる神を「アバ」という言葉を使って呼ばれました。「アバ」とは、どのような意味があるのかというと、古代イスラエルで子どもが父を呼ぶ時に使った、親しみを込めた呼称です。
 現代のイスラエルでも、子どもたちは父親を「アバ」と呼びます。日本語でも父親を呼ぶ言葉って、いくつもありますよね。堅い言葉だったら「父上様」もありますし、「お父さま」みたいのもあるし、「親父!」もあるし、「おっとー」もあります。私たちはさまざまなレベルで呼称を使い分けています。
 へブル語も同じで「アバ!」とは、「おとうちゃん!」というような、子どもが父親を呼ぶ親しみを込めた呼称だというのです。
 イエスと父なる神さまとの関係は、「おとうちゃーん!」と呼ぶことができる「親密な関係」であったわけです。

 私くらいまでの世代は、父親に対するイメージがあまり良くありません。「地震、雷、火事、親父」と言いまして、親父は怖いもの一つという考え方があって、私が幼かった頃は、太平洋戦争が終わってしばらくした時代で、戦争で生き残った兵隊上がりの荒くれ親父たちが社会に満ちていました。だから親父との関係は軍隊調で、あまり良い関係ではなかったわけです。私も正直申し上げて、滝元明との関係は、あまり親密ではありませんでした。開くらいまで行きますと、かわいがられて育ててもらったのですが、我々にとっては、怖いイメージが父親にありました。そのためか「アバ、父」みたいな呼び方って、なんとなく違和感があります。
 第一部の礼拝に来られていた岡本正広さんも、お母ちゃんのことはよく話しますが、お父さんのことは全く話しません。父なし子か・・・というと、そうでもないです。ちゃんとお父さんはおられました。お父さんは日本軍玉砕地ラバウルで生き残った方でした。それもあって父親との関係はあまり良くなかったと思われます。
 悪魔は父と子との関係を壊しています。その結果、父なる神さまとの関係にも壁を作ることが出来るからです。

 実は古代イスラエルにおいて、子どもたちが「アバ」と親しみを込めて呼びかけていたのには理由があります。それはユダヤ人の父親は、子どもたちと大変良い関係を構築する文化を持っていたからです。
 子どもたちは、アバから律法を学び、商売も学んだのです。また、アバからユダヤの英雄たちのストーリーも繰り返し聞いて、一緒に祈り、シナゴーグに行き、安息日やユダヤ教の祭日が来ると、アバが家族を導く姿を常に目にしていたのです。だから父親と良い関係があったと言われます。
 「アバ!」という言葉の中にユダヤの父子関係の概念が込められているわけです。今でもイスラエルに行きますと、そんな姿を見ることができます。
 イエスさまは、イスラエルの文化に則した、父なる神さまと「アバ父」という良い関係の中で過ごしておられたのです。

 では、聖霊さまはどのような役割でしょうか。ローマ人への手紙八章十五節に、

『あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。』

 我々が父なる神さまを親しく、「アバ、父よ!」と呼ぶ助けをされるのが、「聖霊さま」です。もしも私たちが祈る時に、父なる神さまに怖いイメージを持っていたら、聖霊さまによって、変えていただかなければならないですね。
 ガラテヤ人への手紙の四章六節に、

『そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。』

 我々が、「イエスさま!」と親しく呼びかけ、聖霊さまを知っているならば次に、父なる神さまのことを「アバ、父」と呼べなければいけないのです。その時、本当の意味で、祈りが神の元に届き、答えがやってくるのです。
 ある神学者がこのように語っていました。

“イエスがまず教えられたことは、神を父と呼ぶことであった。我々も「父よ。」とか、「天にいます父よ。」と声を出して語りかけることはできる。けれども、親しい関係を感じ、揺るぎない信頼関係を持って、「父よ。」と呼びかけているとは限らない。しかし我々が父に対して親しみを持ち、揺るぎない信頼の土台を持てるのなら、どんな人生の雨や嵐、洪水が押し寄せてきても、ぶれることなく、堅く立つことができる。”

 日本の多くの教会は、「父なる神さま」と祈ります。しかしながら、本心で親しみを込めて、「アバ、父よ」と祈っているとは限らないというのです。イエスさまには親しみを感じる、聖霊さまの助けは感じる。しかし父なる神さまに対しては、やたら心が狭い神さまで、ちゃんとしていないと、すぐに怒ってげんこつが飛んでくるようなイメージがあります。
 しかしイエスさまは、「アバ、父よ」と、ご自分が父なる神さまと良い関係を築かれていることを教えられたのです。
 私たちがイエスさまと同じように、父なる神さまに対して、「アバ!」と呼びかける良い関係を築くことができるなら、どんな人生の雨や嵐、洪水が押し寄せてきたとしても、ぶれることのなく、堅く立つことが出来、本当の意味での勝利者になることができるのです。
 ただ口癖として、「父なる神さま」「アバ、父よ」と呼ぶのではなくて、心から親しみをこめて、「アバ、父」と呼べるようになったら、人生、さまざまなことが起こっても、ぶれることがないのです。

 先ほども申しましたように、私が最近語らせていただいているメッセージは、家内が生き抜くための戦いの祈りの中で、主から教えられたものばかりです。
 前回語らせていただいた聖餐式の神秘についてもそうです。祈りの中で、「聖餐式と一緒に薬を飲みなさい。」と教えられ、薬を飲むようになりました。その抗がん剤、一般的にはあまり効果がないと言われる薬でしたが、新しい契約の中で、祈りつつ、朝・晩飲むようにしました。不思議なことが起きました。癌が消えてしまいました。これまでは、神の奇跡としか言いようがありません。これからも続けて神の奇跡を体験するためには、「主よ、祈りを教えてください!」という、さらなる叫び以外にないと思っています。
 しかしそんな中で、主は、祈りがどのように機能するのかについて、教えられたように思います。それが、「父なる神さまに親しみを持って祈る」ことでした。そうしたら、ぶれることがなくなりますよ!と教えられました。
 皆さんも是非とも、父なる神さまを意識して、「アバ、父よ!」と、祈り叫んでみて下さい。

 「祈り」とは、英語で「prayer」と言います、「er」が付くのは、人のことを意味します。祈りとは、概念ではなく、「祈る人」にならなければならないということです。実際に祈らなければ、意味がありません。
 祈りとは、「イエスさまの名前を通して、聖霊の助けにより、アバ父なる神に祈ること」です。祈りには、三位一体なる神さまの中で、父なる神さまに届き、答えがやってくるという法則があります。
 三つにして、一つの神、それぞれの位格において役割があるのです。それぞれが神ですが、父なる神さまは、「祈りを聞き、私たちに答えを授けてくださる」役割です。

 私たちの教会、七十年の歴史を振り返る時、三位一体という重要な真理を曖昧にしてきたところから始まったと、先日のメッセージで聞きました。これは批判とかではなく、自分たちのルーツを見つめ直すという意味で、足らないところは付け加え、多すぎるところは取り去って、純粋な真理の土台を構築することが重要ではないかと最近、強く教えられています。

 私の両親が救われ、新城教会がかって属していた教団の創始者は、「ワンネス」と言う間違った神学の信奉者でした。彼は最初、ある教会で父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けたのですが、アメリカのUPC教団の人たちと出会い、今までの信仰を捨てて、「イエスの名のみのバプテスマ」を受け直しました。その後、父もなく、聖霊もなく、「ただ一人だけの神、イエス」という神学を掲げて、日本宣教に来た人物でした。
 プロテスタント教会の中でも、アメリカのUPC教団、私たちが元属していた「イエス福音教団」は、三位一体を認めないグループです。ですから、そんな中で祈られた祈りは、「イエスさま!イエスさま!イエスさま!」と、イエスさまから始まり、イエスさまに帰結する祈りでした。そこには父なる神、聖霊なる神の概念はありません。三位一体の概念が欠けていれば、イエスの名をいくら叫んだとしても、結果的にその祈りは間違っていると言わざるを得ません。バックボーンになる神概念が間違っていれば、祈りが答えられたようでも、その後の結果がねじれてくるのではないかと思います。事実、そのような結果が数多くグループの中に起こった気がします。

 私たちは、そんな中から始まりましたが、一九九二年、聖霊さまが激しく訪れて下さいました。以来、私たちは、聖霊さまに寄り頼み、助けを求める祈りが加えられました。それはほんとうに大きなことでした。
 けれども七十年が経った今、父なる神さまとの関係をしっかりと回復し、三位一体なる神さまに心から祈りをささげることが出来るならば、祈りの結果がねじれることなくストレートにやってくるのではないでしょうか。

 さまざまな歴史の中で、悪魔は真理から反らせようと真剣に働きます。しかしその度に主は私たちを矯正してくださり、土台を確かなものにしてくださいました。そのことを心から感謝をするものです。
 イエスさまは次のように語られました。ヨハネ十四章十三節〜十四節、

『またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。』

 『わたしの名によって』とは、「わたしの名前を使いなさい。」という意味です。

 安倍政権が終焉を迎えています。安倍さんは忖度で有名になりました。安倍さんだけでなく、政治家は皆そうだと思いますが、自分の名前をうまく周りの人たちに使わせるわけです。森友さんとか、加計さんとかは、もりかけで何かそばみたいですが、彼との名前と関係をうまく利用して、利益を受けたわけです。そこには安倍の名前があったのです。名前を使い、普通では動かない領域が動いたのです。
 人間世界だってそうなっているわけです(もちろん、それは不正の領域ですが)。霊的世界は、イエスさまの名前を使わないと、本物の神、父なる神さまの元に行き着くことは出来ないのです。仏陀の名前を使っても駄目です。マホメッドの名前を使っても駄目です。八百万の神々の名前を使って祈りは聞かれません。イエスさまの名前を通して祈るならば、天地宇宙を造られた神さまの元に祈りは届き、聖霊の助けによって、祈りの答えがやってくるのです。今週は、「アバ、父よ。」と呼びかけて祈っていただきたいと思います。

祈りは誰が受け取り答えてくださるのでしょうか。整理してみると、

「み子イエスさま、聖霊さま、そして父なる神さまは、私たちの祈りに積極的に関わってくださいます。しかし三位一体の神さまの各役割を整理すると、み子イエスさまの名前により、聖霊さまの助けによって、父なる神さまに祈るという流れが見えてきます。祈りとは、み子イエスの名を通して、聖霊の助けによって、父なる神に祈るということです。」

「イエスさま!」とは気軽に叫ぶことができるけれど、「アバ父なる神さま!」とは、なかなか親しくは呼ぶことができないかもしれません。しかしその壁を越えなさいと、七十周年を迎えて、新城教会の兄弟姉妹に、私を含めて、主は語っておられるのではないかと思います。

 「イエスさま!」「聖霊さま!」と親しく、呼びかけるのと同じように、「アバ父よ!」と親密に語りかけ、祈ることができるようになったら、新しい扉が開かれると信じます。
 この真理を知り、日々、祈り続ける者になりたいと思います。このような大ピンチは一方では大チャンスになります。神さまがこの時を用いようとされていると信じています。今日は婚約式があります。いいですね。星野祥君と川口沙樹さんの婚約式です。イエスさまの名前を通して、二人がやがて結婚するという契約を父なる神さまの前に結ぶ時です。お祈りをさせていただきます。

 ハレルヤ、天の父なる神さま、今イエスさまの名前を通して、あなたを「アバ、父」と呼ぶことができますことを心から感謝をいたします。それを手助けしてくださる聖霊さま、ありがとうございます。今週は、心の底から、「アバ、父」と呼ぶことが出来ますように。父なる神さまと私たちの間にある壁を取り去ってください。
 聖餐式も祝福してください。イエスさまとの新しい契約と共に、父なる神さまに祈りが届きますように。
 経済的にも守ってください。今週、誕生日を迎えられる兄弟姉妹の上にも、豊かな祝福がありますように。
 今からの婚約式、心から感謝します。尊いイエスさまのみ名を通して、祈りを、アバ父におささげいたします。アーメン。

 アバ父に、大きな拍手をいたしましょう!