「宣教70周年-2020
明日に向かって「将来と希望」パート13 主よ。
~祈りを教えてください!3~」

2020年9月27日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
ルカの福音書 11章1節

『さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」』

 ハレルヤ!おはようございます。アルメニアからの遣人君の演奏、素晴らしかったですね。人類の原点に近づくと、音も大地のうめきというか、うなりというか、違ったものがあるのを感じました。あのような土地で「主の愛が今」が演奏されると、大地が癒やされ、被造物全体に影響を与えるような気がしました。新城教会から、世界に出ている方々がおられるのですが、その場所で主は目的を持って、戦略を持って、みこころを備えておられると強く感じます。

 今年は宣教七十周年ということで、新城教会の土台をもう一度点検し、新しい時代に向けて準備を整えたいと願っています。
 新城教会の良い伝統とは何かと言いますと、宣教の原点から、「祈りによりすべてを決定し進める」という習慣です。七十年間、祈りによって支えられてきたと思います。祈りがなかったら、きっと途中で沈没していたのではないかと思います。七十年間守られたのは、初代の兄弟姉妹が祈りによって教会を建て上げ、現代に至るまで、多くの兄弟姉妹の祈りと励ましにより、ここまでくることができました。
 毎週のように、教会にはいろいろな祈りの課題が寄せられます。教会に一報が入る時点では、良い情報はほとんどありません。様々な苦しみ、悲しみ、突然起の出来事の情報が寄せられる事が多いです。そんなとき、祈りによって対処するしか方法はありません。しかしそれが大きな勝利と祝福をもたらすのです。

 先ほども祈りの中にありましたが、スペインのホルヘ先生の息子、アロンくん、彼は筋ジストロフィーで長い間苦しんでいるのですが、同時にコロナが重なり、肺がやられて命はあと一週間くらいだろうと言われています。家族もコロナに感染していて、本当に大変だと思います。是非とも、彼らのために祈ってください。
 ホルヘ先生たちは、東栄町の東栄チキンに働いていてクリスチャンになり、今ではスペインで牧師になって働いています。私たちのキリストのからだです。ぜひ、祈っていただきたいと思います。

 しかしながらそんな中でも、良いニュースもありました。私は世界宣教ラインに祈りの課題を流させていただいているのですが、二ヶ月くらい前、韓国のしおんちゃんという女の子、お父さんはキム・ガンホ先生といって、この教会にも何度も来てくださった先生ですが、車にひかれて、内臓破裂で肝臓が八割くらいダメージを受け、命が危ない状態でICUに入りました。
 しかし皆さんが祈ってくださり、世界中で祈られたことにより、奇跡が起こりました。なんと昨日、しおんちゃんは退院することが出来ました。これは祈り以外にない奇跡です。祈りは奇跡を生み出します。
 弟子たちと同じように、私たちも「主よ、祈りを教えてください!」と願うべきです。どのようにしたら、神のみ前に祈りが届き、答えを受け取ることができるのか。その秘訣を主から受け取りたいですね。

 また先週は、台風十二号が来たのですが、それはほとんど日本直撃のコースでした。
 先週、ある方から祈りの要請がありました。この台風が関東にやってくると、今まで用意した仕事が全て崩れてしまうというのです。それでどうしても、台風が来ないように祈ってくれというのです。私は台風のコースを見で、「そんなの無理に決まっている・・」とすぐに思いました。しかしそう思いながらも、世界宣教ラインで、「祈りましょう!」と流しました。すると、どうなりましたか?皆さんで祈った途端、台風は南下しました。本当にびっくりしました。「いや〜、祈りってきかれるものだなぁ!」と感動しました。
 聖書には、「みことばを行う嵐」とありますが、管理人として、嵐に向かって、「みことばを行う嵐よ!主をほめたたえよ!賛美しろ!人に危害を与えてはならない!」と宣言したら、台風はコースを変えました。何でも、諦めないで祈ることは本当に重要だと思います。

 ヨハネの弟子たちが祈りを教えてもらったのを見て、イエスさまの弟子たちも、イエスさまに「祈りを教えてください」と頼みました。そしたら、イエスさまは何と答えられたのでしょう。イエスさまは神ですから、「わたしは神だよ。わたしに祈りなさい。」とは言われませんでした。イエスさまが言われたのは、「天にいます私たちの父よ」と父に呼びかけて祈りなさいと教えられたわけです。

 聖書の神さまは、本当に不思議な神さまです。それは三位一体なる神だからです。キリスト教信仰において、ある意味、最も重要な教理は何か、それは三位一体の教理です。言葉自体、聖書には出てきませんが、その概念は、旧約聖書から新約聖書に至るまで、かしこに散りばめられています。父なる神、子なるキリスト、聖霊、という、三つの位格を持つ唯一の神であるということです。
 そして祈りは、三つの位格の中で、父なる神さまが受け取ってくださるのです。それぞれが神であり、唯一のお方であるのですが、神としての性格を現す方は、「父なる神さま」です。イエスさまという道の行き着く先は「父なる神さま」です。

『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』

 私個人としましても、「祈りを教えてください!」という祈りに尽きる今日この頃です。なぜならば、昨年の十月、家内に病気が発見されて、命はあと四ヶ月くらいと言われました。本当に青天の霹靂でした。これからどうなってしまうのだろうか・・と、絶望的な思いでした。
 しかし主から祈りを教えていただき、何しろ真剣に祈ってみようと思いました。私の人生の残りをかけて、祈ってみよう!と決意して祈り始めました。すると不思議なことが起き始めました。
 まもなく家内は、病が発見されて一年を迎えます。一年間、よくぞ生きてきたと思います。それも、青息吐息で一年間生きたというのではなくて、良くなってしまいました。現在、CTとか血液検査では病気が確認されず、先々週も病院に行ったのですが、腫瘍マーカーがこの何ヶ月間か正常値なのですが、正常値内で、さらに下がりました。「こんなことってあるのかなぁ・・?でも事実だもんな・・。」と医者が独り言を言っていました。もちろん薬も使っていますが、よく効く薬へと主が変えて下さいましたが、同時に、祈りによって、ご自身が共に働いてくださっている証拠だと信じます。
 今、薬を飲み始めた期間なので、ちょっと食欲が下がったりもするのですが、薬を飲んでいない休薬期間は、本当に元気です。これからも奇跡の記録を延ばすためには、さらに祈りを教えていただくしかないと思っています。

 祈りは誰に届くのか。それは三位一体なる神さまの中で、父なる神さまが祈りを受け止め、答えられる係です。
 祈りとは、「イエスの名前を通して、聖霊の助けにより、アバ・父なる神に祈る」という構図です。
 三位一体なる神さまは、各位格において、それぞれ完璧に、ご自分の領域を守りながら一致して働いておられます。私たちはその働き全体を通して、み名があがめられるよう、祈る使命があります。
 家内が良くなったのも、皆さま方の祈りと、どのようにしたら効果ある祈りに変えられるのかを聖霊により示された結果であると信じます。それを実行した時、家内に大きな変化が起こった気がしています。

 ある方は、父なる神に祈るよりも、み子イエスさまに祈るほうが親しみやすくて、分かりやすいと言われるかもしれません。「父なる神さま」と言うと、なんとなく取っつきにくい感じがするかもしれません。しかし聖書は父なる神を「アバ」と呼ぶことができると告げています。「アバ」とは、「お父ちゃん!」という親しみを込めた呼び方です。

 イエスさまは今、何をしておられるのだろうか?と考えたことはありますか?案外、イエスさまが十字架にかかり、よみがえり、その後、天に帰られてしまったところで、イエスさまの働きに関して、あまり関心を持っていないのかもしれません。
 イエスさまは救い主としてこの地上での役割をすべて終了して、天国に帰り、「やれやれ。疲れたな・・。まだ十字架の傷が治ってない・・。」とか言っておられるのではありません。
 イエスさまは現時点において、何をされているのでしょうか。その役割を知ると、「イエスさま!」と呼びかける祈りも、どのように呼びかけたら良いのか分かるし、三位一体なる神さまの偉大な姿と愛を知ることができます。
 
 今日は、現在のイエスさまの役割は何かについて、学んでいきたいと願います。今から語ることも、家内ための祈りの中で、教えられた一つではないかと思っています。

 旧約聖書の時代、神が人と出会うためには特別な場所が必要でした。聖書の中に、「神殿」がよく出てきます。モーセは荒野で幕屋を造らされ、ダビデ、ソロモンの時代に、荘厳な神の宮が造られたのを見ることが出来ます。このような神の宮は、どのような機能を持った場所なのかについて、以前にも、お話しさせていただきました。神殿の機能とは、「天が地に下りて来て、人と出会う場所」でした。
 旧約時代は、特定の空間で、特定の時間になると、神が天から下りて来られました。そこでは天が地に接するのです。天と地が重なった場所が神殿でした。神殿、それは神が人と出会うための場所でした。
 そして特定の時とは、安息日でした。なぜユダヤ人たちは安息日を重要視したのかというと、安息日に神の宮に行けば、神が下りて来て、祈りを聞いて下さったからです。

 しかし天が重なる部分においては、一つの条件がありました。神が神殿に下りて来る時には、必ず仲介者、「大祭司」が必要でした。聖書を見ますと、大祭司とか祭司という存在が出て来ます。彼らは何をしていたのかというと、神との仲介者となって、神と人との間に立ち、お互いを結ぶ役割でした。祭司の存在により、人々は神と出会うことができたわけです。

 この法則は、そもそも、どこで作られた法則なのかというと、天にすでに法則があり、地に下りて来たものでした。ヘブル人への手紙九章二十四節、

『キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。』

 天に本物の神殿があって、そこは神の王座とも呼ばれます。地上の神殿はその模型に過ぎませんでした。それが、モーセが荒野で造った幕屋であり、ダビデ、ソロモンによって造られた神殿であったのです。それらは「天にあるものの写しと影」であったと述べています。

 イエスさまはこの地に来られて、弱さを体験してくださいました。ヘブル人への手紙四章十五〜十六節、

『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』

 ヘブル人への手紙を読んでいただきたいと思うのですが、八章とか九章を読みますと、イエスさまがこの時点で、何をなされているのかが分かります。それは、天にある本物の神殿に仕えておられる、大祭司です。現在のイエスさまの役割は、天の神殿で奉仕される「大祭司」なのです。
 「イエスさまって、今、何をされているんですか?」「イエスさまはここにおられますよ。私の心の中に住んでおられます。」それは正しい答えですが、ヘブル人への手紙から見るなら、イエスさまは十字架にかかってよみがえられた後、天に昇り、本物の神殿で仲介者、大祭司として仕えておられるのです。

 では天の大祭司、イエスさまの仕事とは何でしょうか?それは、地上の神殿で行われている儀式の中に、天での大祭司の役割の機能が現されています。
 かつて神殿でどのようなことが行われていたのかを見ると、天の神殿で現在、どのようなことが行われているのかを知ることができます。

 今、イスラエルは新型コロナで大変です。イスラエルはユダヤ教の国で、ユダヤ教徒でなければユダヤ人にはなれません。しかしユダヤ教徒と言っても、温度差があります。宗教的な人たちもいれば、リベラルな人たちもいます。結構、若い人たちは乱れていて、聖書が固く禁止している同性愛も増えています。
 しかし、そんな人たちでさえも、年に一度だけは宗教的になります。それがいつかというと、「ヨム・キプール」と呼ばれる「大贖罪の日」です。その日になると、国全体が断食して、神の前に出るのです。
 ヨム・キプールについては、レビ記十六章にその規定があります。何千年にも渡ってこの規定が守られています。それは年間一度、神殿が特別な機能を現す日です。ゆえにユダヤ人たちは、この日だけは普段、宗教的ではない人たちさえも、身を正して、断食して祈りをささげるわけです。
 ヨム・キプールは、毎年、暦によって日程が変わるのですが、二〇二〇年のヨム・キプールはいつかと言いますと、なんと「今日」です。九月二七日の日没から、二八日の日没までです。今日がヨム・キプール、「大贖罪の日」です。
 イエスさまの時代まで、正確には西暦七〇年、エルサレムの神殿が壊されるまで、ヨム・キプールの日、神殿でどのようなことが行われていたのかを調べると、神が人と出会う原理、原則を知ることができます。イエスさまの時代には、ヘロデ大王が修理した第二神殿が建っていました。イスラエルに行きますと、その跡地と模型を見ることができます。神殿に神が下りて来る、最も重要な日がヨム・キプールでした。

 ヘブル人への手紙九章二十二節で語っています。

『それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。』

 人間はそもそも罪ある存在で、汚れた者です。直接神の前に出ることは出来ません。完璧な聖さを持っておられる神の前に出るには、どうしても生け贄が必要でした。
 特にヨム・キプールの日には、特別な生け贄が用意されました。二頭の雄山羊が用意され、ほふられたわけです。

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 これが神殿の平面図ですが、外の屠殺台で一匹の山羊が首を切られて血が流されました。しかしそれで終わりではなくて、流れた血を、聖所の中の至聖所という神聖な場所に持ち込まないと、民の罪は赦されず、神は人と会ってくれませんでした。これが神が人と出会う原理、法則でした。旧約聖書の中では度々、その場面を見ることができます。生け贄は神殿の外庭で殺され、その血は至聖所に持ち込まれました。
 至聖所は、聖所の中でさらに幕で仕切られた特殊な空間で、普通の人は入れませんでした。そこに入れるのは特別な人物、ただ一人しか入ることができませんでした。それが誰かというと、「大祭司」でした。大祭司は、年に一度、ヨム・キプールの日に、山羊の血を至聖所に持ち込む重要な仲介人でした。
 もしも大祭司に罪があったりすると、至聖所で神さまに打たれて倒れて死んでしまいました。そのため大祭司はロープを付けて、鈴を付けて至聖所に入りました。鈴が鳴っている間は、大祭司が生きている証拠でした。鈴の音が止まると、死んだのかな?とロープを引っ張ってみて、もしも大祭司が神に裁かれ死んだら、人は入れませんから、ロープで引き出したそうです。人と神との出会いは、それほどたいへんなことでした。

 しかし現在、私たちは、簡単に神の前に出ます。食前の祈りは、「イエスさま、感謝します。アーメン。」と、半分食べながら祈ることもあります。しかし本来、祈りとは、そもそも原点においては「神のみ前に出る」行為そのものでした。神の前に汚れた人間が出る時には、必ず生け贄と仲介者が必要であり、厳重な儀式が必要であったわけです。
 毎回、こんなことをしなければ人の祈りを聞いてくれないような神さまでは困ります。しかしユダヤ人たちは、粘り強く、それを続けていました。

 けれどもこれらは、天ですでに行われている、天の神殿の影であり、ひな形でした。その本物は、イエスさまの十字架にありました。イエスさまは神の子でしたが、この地上に来られて、ただ一度だけ、ご自分を生け贄として、父なる神にささげてくださったのです。尊い神のみ子が、一度だけ、罪の身代わりとなって私たちのために、血を流してくださったのです。それは動物の血とは全く異なる、「尊い神のみ子の血」でした。イエスさまは地上、すなわち外で血を流してくださったのです。
 多くのクリスチャンは、イエスさまの十字架のみ業は、ゴルゴダの丘ですべて完成されたと考えます。しかしイエスさまの十字架は、地上だけでは完全ではないのです。神殿で行われていた儀式と照らし合わせると、よく分かります。血は、必ず至聖所に持っていかなければなりませんでした。
 ということは、イエスさまが昇天してくださったのは、ご自分の血を、天の至聖所、父なる神さまのみ前に携えてくださったことを意味します。外庭で血が流されて、至聖所に持ち込まれる法則は、神殿の庭で動物の血が流され、その後、至聖所に血が持ち込まれるパターンと同じです。しかも、血を持ち込む時には、大祭司の仲介が必要でした。天での大祭司は誰でしょうか。それは「イエスさま」です。
 今、イエスさまは天で何をされているのか、それは天の神殿で大祭司として仕えておられるのです。
 先ほども読みましたが、ヘブル人への手紙九章二十四節、

『キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。』

 イエスさまは父なる神さまのみ前に出る時の仲介役として、日々、働いてくださっているのです。

 私たちの祈りは時に、父なる神さまなのか、子なるイエスさまなのか、聖霊さまなのか、日によって違うみたいなところがあります。しかしイエスさまが今、何をされているのかが分かると、イエスさまにどう呼びかけたらいいのかが分かります。
 イエス・キリストを信じるならば、私たちも共によみがえらされ、天の所に座ることができるとあります。私たちは、天の神殿に入ることができるのです。しかし神殿に入る時には、必ず、犠牲の血が必要でした。現在、天の神殿で犠牲の血となってくださっているのが、イエスさまです。

 祈りとは、父なる神さまの前に出る行為です。その時には、み子イエスさまは大祭司として、私たちのための血を用意してくださるのです。ご自分の聖なる血を大祭司として、父なる神さまのみ前に届けてくださるのです。
 父なる神さまは、イエスさまの血を見る時に、「この血があるならば、わたしの王座に入って来ることができますよ!」と許可してくださいます。それどころか、この偉大な天地宇宙を造られた神さまを「アバ!お父ちゃん!」と呼ぶことができるというわけです。
 私たちはイエスさまの十字架の血のゆえに、父なる神さまの前に、祈りをささげることができるのです。そこには仲介者なる「み子イエスさま」がおられるからです。

 私たちの教会は、かつて「イエスさま!イエスさま!」と、イエスさまに祈り、イエスさまから直接答えをもらおうという、偏ったところがありました。こうなりますと、血潮を届ける先の父なる神さまは意識されません。もちろん、み子イエスさまも神さまですから、答えをくださいますが、三位一体なる神さまを意識して祈るのとは違った状況が、そこに起こるのかもしれません。
 み子イエスさまが大祭司として、今も天の神殿で働いておられるという事実をしっかり受け止めて、み子イエスさまが流してくださった尊い血潮と共に、父なる神さまの元に「アバ父」と呼んで入ることができ、聖霊さまは助け主として、私たちを励ましてくださいます。神の前に、イエスさまが用意してくださった血潮と共に入る時、神からの答えがやって来ます。
 この原則で祈ってみてください。「大祭司イエスさま、私のために流してくださった尊い血潮と共に、父なる神さまのみ座にご一緒に入り、とりなしてください!」と祈ってみて下さい。聖霊さまもとりなしてくだいます。すごいじゃないですか。父なる神さまのみ前に、子なるイエスさまと、聖霊さまと一緒に、入って行く事が出来るのですから。大胆に父なる神をアバ父と呼んで、お願いすることができるのです。この布陣で祈るなら、完璧な答えが来ないはずはありません。

 最後に、天の神殿の中に、もう一つの機能があることを、残された五分でお話したいと思います。
 天にはもう一つの機能があります。それはこの地上の神殿を見ると分かるのですが、地上の神殿は天にある神殿を模したものだと先ほど学びました。

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 ここに「サンヘドリン」という場所があります。サンヘドリンがイエス時代にどういう機能を果たしていたのかというと、サンヘドリンとは「裁判所」でした。そして最高裁判所の所長ととして働いていたのが「大祭司」でした。また裁判官として働いていたのが祭司たちでした。神殿では、裁判が毎日行われていました。

 去年、「天に裁判所がある」という話をしました。なぜなら地上の法廷を見ると分かりますよね。神殿の一部に裁判所があって、そこで裁判が行われていたからです。これは天にある機能の模写ですから、天でも悪魔が私たちを訴える窓口があることを意味するわけです。

 実はヨム・キプールの時、二頭の山羊が用意されたわけですが、二頭のうちの一頭は主への生け贄であり、もう一頭は「アザゼル」という、霊的存在にささげられました。

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 アザゼルとは当時、悪魔の名として使われていたものでした。アザゼルへの山羊としてくじが当たった悲しい役割の山羊は、祭司によって崖の上に連れて行かれ、アザゼルへの生け贄として、谷底に突き落とされたのです。

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 このように、聖所に血が持ち込まれる一方では、悪魔と結ばれた契約に関しても、生け贄を差し出さないと、神の前に出ることが出来なかったのです。この事実は、教会においてほとんど見落とされています。
 ヨム・キプールの時には一頭は主への生け贄、もう一頭はアザゼルへの生け贄として、二頭の山羊が用意されたのです。そして、これらすべて決定付けていたのが、大祭司でした。

 しかし今の時代、イエスさまが完全な神殿で奉仕してくださっているがゆえに、天の法廷に訴えがあったとしても、私たちはイエスさまが初めで最後の血を流してくださったことによって、天のサンヘドリンがあったとしても、すべてキャンセルして、天の法廷で勝利することができるのです。

 以前にも学びましたが、「悪魔」とは、ギリシャ語で「ディアボロス」、「中傷者、告発者」と言う意味です。私たちの敵である悪魔、「敵」という言葉は、「アンチ・デコス」、「訴訟を起こす者」という意味です。天の法廷に訴訟を起こす、悪しき勢力があるのです。しかしそうであったとしても、十字架の血、それも天の至聖所に持ち込まれた血によって、悪魔の訴えに対しても、「ノー!」と宣言できるわけです。
 「異議あり!」と唱えることができ、天の法廷で勝訴できると以前にもお話ししました。天の法廷で、最高裁判所所長として仕えてくださっているイエスさまによって、勝利を得ることができるのです。

 今、イエスさまは天で何をしてくださっているのかを、しっかりと理解する時、大きな勝利を地上で体験することができるはずです。

 最後に、大祭司なるイエスさまはどのようなお方でしょうか。先ほどもお読みしましたが、ヘブル人への手紙四章十五〜十六節、

『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』

 イエスさまはこの地上に来て、罪は犯されませんでしたが、すべての体験をされました。悪魔の誘惑も体験されました。ですから、すべてのことをご存じです。私たちがイエスさまの前に行って、「イエスさま!この事に関して、とりなしてくれませんか?あなたが流してくれた血潮と共に父なる神さまの所に一緒に入ってくれませんか?」とお願いしたら、「そんなちっちゃな問題で悩んでいるんじゃないよ!自分で解決しなさい!明日来い!」とか言われません。本当に憐れみ深い方なので、どんな祈りでも、「大丈夫ですよ。あなたの願い、聞いてあげますよ。」と言って、父なる神さまの元に私たちを連れて行ってくださいます。さらに私たちは「アバ父」と呼ぶことを聖霊によって許していただき、大胆に恵みのみ座に近づくことができるのです。

 イエスさまが、天でどのような働きをされているのかをよく理解して、祈りをささげる時に、祈りの答えが届くと信じます。
 私はこのような祈りの流れを、あまり意識してはいませんでした。ただ、がむしゃらに真剣に祈ればいい、何がなんでも、父なる神さまでも、子なるイエスさまにでも、聖霊さまでも、日本人的な、「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」みたいな祈りをしていました。しかし、そうではなくて、「あなたが祈っている祈りを整理しなさい」と語られて、この祈りをするようになりました。そんな中で、私が今抱えている問題も徐々に解かれているような気がします。
 教会には、多くの問題がありますが、このような祈りをすべての兄弟姉妹がなさったら、きっと大きな勝利に結びつくと信じます。

 特に今日はヨム・キプールの日です。新しい契約でのヨム・キプールです。新しい契約のシンボルが「聖餐式」です。聖餐式は、新しい契約、「これはわたしの血による新しい契約です。」と告げられました。それは天の神殿で仕える契約のことです。毎日、家で聖餐式をすることはかなり重要です。
 ヨム・キプールの日、ユダヤ人たちは古い契約で行うのですが、私たちは新しい契約の中で祈りをささげ、聖餐式を行うなら、大きな勝利に結びつくのではないかと期待しています。

 今日は重要な日です。神さまが用意してくださった日です。新約的な概念の中で、特別な祈りの日として、祈っていただきたいと思います。
 イエスさまが大祭司であり、あなたの仲介役であることを忘れないで、イエスさまの血潮と共に、父なる神さまの前に、聖霊さまの助けをいただいて祈ってみてください。神の特別な祝福を受け取る日であると、心から信じています。
 最後にお祈りをさせていただきます。

 ハレルヤ、天の父なる神さま。み名をあがめて、心から感謝します。今日はヨム・キプール、大贖罪の日です。私たちは新しい契約と共に、神のみ前に出て、イエスさまを仲介者として、大祭司として、み前に出て行きます。
 聖霊さまも私たちと共にいて、私たちを励ましてくださっていることを心から感謝します。様々な問題で疲れ果て、倒れそうな時がありますが、聖霊さま、私たちを励ましてください。イエスさまの十字架の血潮と共にみ前に出ていくことができることを感謝します。
 あなたは本当に優しいお方です。ヨム・キプールの良い日に、新しい契約の聖餐式を行いますから、各家庭の聖餐式を祝福してください。
 すべての方々に、新しい契約下のヨム・キプールとしてくださいますよう、お願いいたします。
 インターネットで礼拝に出ておられる方々も多くおられます。主よ、その場、その場が神殿となって、主が下りて来てくださいますように。
 三位一体なる神さまへの栄光として、祈りをみ前におささげいたします。アーメン。