「パンデミック時代の信仰」

2020年10月4日(日)
鶴見キリスト教会牧師 山崎ランサム和彦師
詩篇131篇

【主】よ私の心はおごらず私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに私は足を踏み入れません。まことに私は私のたましいを和らげ静めました。乳離れした子が母親とともにいるように乳離れした子のように私のたましいは私とともにあります。イスラエルよ今よりとこしえまで【主】を待ち望め。』

 この度、このようにして再び新城教会の礼拝でご奉仕の機会が与えられたことを感謝しています。
 2020年は間違いなく、新型コロナウイルスの大流行によって記憶される年となるでしょう。この半年あまりの間、「コロナ」という言葉を一日として聞かない日はありません。新型コロナウイルスの感染は世界中で爆発的に拡大を続け、今もその勢いは衰えを見せていません。現在世界の感染者は3千万人を超えています。感染症がもたらす健康被害はもちろん、それに伴う社会的、政治的、経済的影響は甚大で、世界の国々を大きく揺るがし続けています。
 私たちの「日常」は一変してしまいました。そして、コロナ以前の「日常」に戻ることは、もうないのかもしれません。
 キリスト教会ももちろん、この変化と無縁ではありません。多くの教会堂は閉鎖され、礼拝はオンラインやその他の手段で行われるようになっています。私が教えている聖契神学校でも、前期の授業はすべてオンラインで行われるようになりました。後期もオンライン授業の継続が決まっています。
 信仰者としてこの「非常事態」にどのように向き合い、このパンデミックの世界にあってどのように神の召しに従って歩んでいくか、ということは、私たちの誰もが考えなければならない問題です。
 けれども同時に、私たちは何かこれまでなかったような、全く新しいことをするように求められているわけでもないと思います。そもそも、今回のコロナ禍のような感染症の流行は、人類の歴史の中で度々起こってきたことであり、そのような過去の事例から学ぶことができます。
 さらに大切なことは、この地上を歩む信仰者に対して聖書が語りかけている生き方の原則というものは、どのような時代、どのような状況に置かれたクリスチャンであっても、それほど変わりはありません。たとえ個別の具体的な実践においていくらかのイノベーションが求められるとしても、私たちが立ち戻るべき原則は、いつでも聖書に見出すことができるのです。
 今日は旧約聖書の詩篇から、「信仰」というテーマについて、ご一緒に学んでいきたいと思います。今回のパンデミックに関しては、世界中の神学者たちがいろいろな見解を公にしています。その多様な主張を一言で簡単にまとめることはできませんが、一つだけ確かなことがあります。それは、これから世界の状況がどのように進んでいくのか、確信を持って見通せている人は誰もいないということです。もちろん、先程申し上げたように、人類はこれまでの歴史の中で何度もパンデミックを体験してきましたし、教会の歴史からも貴重な教訓をいくつも学ぶことができます。けれども、現在私たちが住んでいる世界において、これほどの規模で感染症の流行が起こった時、それをどう理解し、対応していくか、ということに関して、この通りに行動すれば確実だというマニュアルは何もないのが現実です。
 先が見通せない状況というのは、私たちを不安にさせます。私たちは物事がどのように変化していくかを予測することができ、どのようにすれば状況をコントロールできるかを知りたいと願います。それは人間として自然な反応です。けれども、まさに今回のコロナ禍のように、世界中の専門家の力をもってしても、各国政府の力をもってしても、予測もできなければコントロールもできない事態に直面すると、私たちはパニックに陥ってしまうのです。けれども、そのような中で私たちに必要とされているのは、信仰です。
 けれども、そもそも信仰とは何でしょうか? よく「あの人は信仰が強い」とか、「私はなかなか信仰が弱くて」とかいいますが、信仰が強いとか弱いというのは何を意味しているのでしょうか?
 私たちは、「信仰」とは正しい教えを疑うことなく信じ受け入れることだと考えることがあります。使徒信条のようなキリスト教の基本的な教えを受け入れ、それを確信を持って保持し続けることが信仰だと考えることがあります。
 けれども、これは正しい「信仰」理解ではありません。このような理解によると、信仰の強さとは、心理的な確信の強さによって測られます。この場合、信仰の反対は「疑い」と定義されます。正しい教理を学び、それを疑わずに受け入れることが信仰だ、ということになるわけです。
 けれども、聖書で教えられている信仰はそのようなものではありません。マルコの福音書9章では、悪霊に憑かれた息子を持つ父親がイエス様に、できることなら息子を解放してくださいと懇願します。

 イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」(23-24節)

 ここに記されている父親の言葉はたいへん奇妙です。自分が不信仰であるといいながら「信じます」と告白しているのです。この父親はイエス様がいやしの力を持っているかどうか、確信が持てなかったのかも知れません。けれども、それでもこの御方に信頼して賭けてみようと思ったのです。
 つまり、聖書的な信仰とは、特定の教えを疑わずに受け入れることではありません。またすべてのことについて把握し、確信を持っているということでもありません。むしろ、信仰とは、先の見通せない不確実な世界にあって、神様という人格に信頼して行動していく態度なのです。このような意味で信仰を捉えるならば、それは「疑い」や「疑問」「不確実」ということと矛盾するものでないことが分かります。むしろ、信仰はさまざまな疑いや疑問と格闘することによって成長していくことになるのです。
 前置きが長くなりましたが、ここで詩篇131篇をお読みしたいと思います。

主よ 私の心はおごらず
私の目は高ぶりません。
及びもつかない大きなことや奇しいことに
私は足を踏み入れません。
まことに私は
私のたましいを和らげ 静めました。
乳離れした子が
母親とともにいるように
乳離れした子のように
私のたましいは私とともにあります。
イスラエルよ
今よりとこしえまで 主を待ち望め。

 これはダビデの詩とされていますが、彼は1節で「主よ 私の心はおごらず 私の目は高ぶりません。
及びもつかない大きなことや奇しいことに 私は足を踏み入れません。」と告白しています。
 私たちがまずすべきことは、高ぶりを捨ててへりくだることです。私たちには分からないことがあります。そこにあえて足を踏み入れることはしない、とダビデは言うのです。
 今回のコロナウイルスについてもその実態はまだ解明されていませんし、ワクチンも開発中ですが、今のところ実用化はされていません。
 そして、それらの謎を明らかにしようとして、日夜科学者の方々が研究を続けています。そのような、知識を得ようとする営み自体が悪いわけではありません。ダビデがここで勧めているのは、自分の心の平安を得るためにすべてを知ろうとすること、コントロールしようという欲求を手放すことなのです。
 科学がどれほど発展したとしても、神様が作られたこの世界の神秘をすべて解明することも、ましてやコントロールすることもできません。いずれにしても、現在私たちがコロナウイルスや各種の自然災害に対していかに無力であるか、ということは、現に体験していることです。
 ですから信仰の第一歩は、自分の無知を認め、自分には自分の運命を決めることはできない、ということを認めて、主の前にへりくだることです。
 2節をお読みします。

まことに私は
私のたましいを和らげ 静めました。
乳離れした子が
母親とともにいるように
乳離れした子のように
私のたましいは私とともにあります。

 ここで詩人は主への信頼を歌っています。もし私たちが世界の有様についての完全な知識もなく、これから私たちの人生がどうなっていくのか、見通すこともコントロールすることもできないことを認めるなら、私たちに残された道はただ一つ、すべてをご存知であり、すべてを御手の中に収めておられる神様に信頼することです。
 私たちが自分の力で周りの状況を、自分の人生をコントロールしようとする時、私たちの心には落ち着きがありません。常にすべてがうまく行っているか、心配が絶えません。けれども、主の御手にすべてを委ねていくときにはじめて、私たちの心には平安が訪れるのです。
 そして、詩人はこのような神様への信頼を、子どもと母親の関係に譬えています。後半の「私のたましいは私とともにあります」は少し分かりにくい表現ですが、聖書教会共同訳では前半と後半が同じような内容を語っているとして、「私は魂をなだめ、静めました 母親の傍らにいる乳離れした幼子のように。私の魂は母の傍らの乳離れした幼子のようです。」と訳しています。
 三位一体の神様が「父・子・聖霊なる神」と言われるように、聖書の神様は父と呼ばれることが多いですが、これはあくまでも人間関係からとられた比喩であることを知る必要があります。神様は性別を超越したお方ですので、男性でも女性でもありません。
 たしかに、聖書の中には神様について男性的なイメージが使われることが多いのですが、女性的なイメージで描かれることも時々あります。この箇所では、神様は母親として描かれています。ここにあるイメージは、親としての愛情と保護、そして養いです。詩人は幼子が母親に信頼するように、神様に信頼する、というのです。
 ここで興味深いのは、この子どもが「乳離れした子」と呼ばれていることです。なぜ乳飲み子ではなく乳離れした子なのでしょうか? これは単なる詩人の言葉のチョイスの問題であって、子どもが乳児でも乳離れしていても大きな違いはないと考える解釈者もいます。けれども、私はここでダビデがあえて「乳離れした子」と言っているのには、意味があると思います。
 乳幼児であっても、乳離れした子であっても、母親により頼む姿勢には変わりありません。けれども、その内実には大きな違いがあります。授乳期にある幼児は、自分では何もすることができず、ひたすら母親の世話になって生きています。この子たちにとって、母親の保護が与えられていて、それに信頼するのは、自分でおこなった選択の結果ではありません。彼らはただ、母親の腕の中で憩うのです。そこには何の疑いも葛藤もありません。
 しかし、子どもが乳離れしてくると、だんだん状況は変わってきます。今や子どもは自分の力で動き回り、いろいろな活動ができるようになります。そして好奇心を持って何でもやってみようとします。子育てをなさった方は経験があると思いますが、1歳から2歳位までの子どもは本当に目が離せません。危険なものでも汚いものでも何でも触ったり、口に入れたりします。小さな子どもたちは自分で何でもやりたがるので、親の干渉を嫌います。「ぼくがやるんだ!」「あたしのやりたいようにするの!」と言いますが、そのようにしていくと、しばしば痛い目に遭うのです。
 そのような苦い経験をしながら、子どもたちは母親に信頼することを学んでいきます。これが乳離れした子と乳幼児の違いです。つまり、ここで詩人が語っている信仰者の姿は、自分の力で人生を切り開こうとして神様から離れて行動し、苦い経験を積んだ後に、ようやく主への信頼を学んだ人物を指しているのです。聖書でダビデの生涯を学んでいくと、彼はまさにそのような人生を歩んだ人物であることが分かります。まだまだ神様の前に子どものように未熟な存在であることには変わりないのですが、少なくとも一歩成長した信仰者の姿です。
 3節をお読みします。

イスラエルよ
今よりとこしえまで 主を待ち望め。

 1節と2節は個人による神様への語りかけでしたが、3節ではイスラエルに向かって呼びかけています。個人の信仰者が神様により頼む必要があるなら、共同体としての神の民も全体として主に信頼して、その救いを待ち望む必要がある、というのです。
 これはまさに今私たちに語りかけるメッセージでもあると思います。このコロナ禍の中にあって、個人的に様々な危機に直面しておられる方もいるでしょう。ご本人が感染しているということでなくても、親しい方が感染して苦しんでおられたり、あるいは直接感染者とつながりがなくても、さまざまな社会的・経済的な影響を受けて不安で辛い毎日を送っておられる方もいらっしゃると思います。
 また、私たちはキリスト教会全体としても苦しみの中にあります。国家としても、また人類全体としてもそうです。今回のコロナウイルスの問題は、地球上のどこにいても、どの国に住んでいてもその問題と無関係ではいられない、という意味で、非常に特殊なケースだということができるでしょう。
 このような状況において、私たちがすべきことは何でしょうか? まずは自分の知識や力が及ばない領域があることを謙虚に認め、へりくだって主に信頼することです。乳離れした子どもが母親に寄り添うように、私たちは神様に信頼して委ねていくことが必要です。
 このような態度を聖書では「知恵」と呼びます。無知を認めることが知恵であるとは、奇妙に思えるかもしれません。けれども、実は自分の無知を認める、限界を認めることが知恵の初めなのです。「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9:10)である、と書かれているとおりです。
 このような知恵がテーマになっているのがヨブ記です。ヨブの物語はご存知でしょう。彼は正しい人でしたが、いわれのない苦しみを受けます。「なぜ義人が苦しまなければならないのか?」ということがヨブ記のテーマです。けれども、ヨブ記を最後まで読んでいっても、この問いにはストレートな答えは与えられません。結局のところ、神様のみわざは人間には極めがたい、それを悟ることが知恵だというのです。なんだかはぐらかされたような気になるかも知れません。けれども、これはまさに詩篇131篇が教えているのと同じ信仰の姿勢なのです。
ヨブ記で扱われている問題は、より一般的に言えば、「神様がおられるのに、なぜこの世はこんなにも悪や苦しみに満ちているのか?」ということです。コロナウイルスの問題も、その一つと言えるかも知れません。科学はウイルスがどのような構造をしていてどのように広がるか、それをどのように防ぐことができるかは答えられますが、そもそもなぜウイルスや感染症が存在するのか、なぜ人間はそれによってこんなに苦しまなければならないのか、という問いには答えられません。なぜ神様はウイルスが世界に蔓延するのを許しておられるのでしょうか。世界中の神学者がこの問いに対して答えようとしていますが、一致した見解はありません。私たちにははっきりこれだ、と言える答えはないのです。
 では答えがないから何もできないか、というとそうではありません。私たちは神様がなぜ今回のコロナ禍を許しておられるのかは分かりません。それは詩篇にあるような、「及びもつかない大きなことや奇しいこと」の一つかもしれません。私たちにはわからないことだらけであっても、その中で自分の無知と無力を認め、神様にへりくだって信頼する「信仰」が求められているのです。
 神様に信頼するというのは、神様にゆだねて自分は何もしないこととは違います。「信仰」というのは、家の中に閉じこもってコロナが収まるのをただ待っていることではありません。(もちろん、不必要な外出を避け、マスクを着けたりソーシャル・ディスタンスを保つなど、必要な措置を取ることは重要ですが)。信仰とは、神様に信頼しつつ、神と隣人を愛して主のために行動することです。
 でも、先が見えない、状況が把握できていない中で、どう行動したら良いのでしょうか? ここでも「知恵」が必要になってくるのです。
 聖書が教える知恵は、単なる知識ではありません。それは複雑で常に変化する予測の出来ない現実の中で、臨機応変に信仰深い判断をしていく能力のことです。マニュアルのように決められた行動をするのではありませんので、その時の状況によって、また人によってなすべき行動は違ってきます。唯一の正解というものもありません。
 近年キリスト教会では、聖書全体を一つの壮大な神の物語として読む、というアプローチが強調されるようになってきました。英国の聖書学者N・T・ライトは、聖書を未完の五幕劇の脚本に譬えました。この有名なアナロジーの中で彼は、聖書全体を貫く大いなる物語を「創造」「堕落」「イスラエル」「イエス・キリスト」「終わりの時代」の五つの幕に分けて説明しています。彼によると、この「脚本」は未完のまま与えられたもので、五幕目の最初の部分(初代教会)までしか完成しておらず、あとは結末(終末)のラフスケッチしか残されていません。そして現代の教会は、この筋書きを元に、未完のまま残された部分をアドリブで演じるように招かれている、というのです。
 アドリブとは全くのでたらめを演じることではありません。かといって、前の場面の演技をそのまま繰り返すことでもありません。劇のストーリーがこれまでどのように展開してきて、どのような結末に至るのか、自分に与えられた役柄はどのようなものか、劇の作者(神様)がこのドラマで何を伝えようとしているのか、これらを熟知した上で、今演じているシーンにふさわしいパフォーマンスは何か、ということをよく考えて行うことが求められています。クリスチャンであるとは、聖書の教えに従って生きることですが、これはただ宗教的・道徳的原則を信じ適用するということではなく、「現在進行中の聖書の物語を神様に導かれて生きる」ことなのです。
 今私たちはコロナウイルスによって「先の見えない」社会に生きています。このような時にこそ、私たちは主に信頼して、今置かれた状況で最善の歩みができるような知恵を求めていきたいと思います。
 そして、思い出してください。私たちが信じている神様は、母親のように慈愛に満ちた、恵み深いお方です。この神様は完全に良いお方であり、私たちを愛して、私たちに最善を願ってくださっているお方なのです。この神様に信頼して、歩んでいく者とならせていただきましょう。 
 
最後に一言、お祈りをさせていただきます。
 天地万物を造られ、その御手の中に、今もすべてを治めておられる全能の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美いたします。
 今私たちは日本でも、世界でも、大きな苦しみと混乱の中にあります。このような状況の中から、いつ抜け出す日が来るのか、私たちは未来を見通すことができません。私たちの人生を取り巻く様々な状況をコントロールする力もありません。けれども、私たちがたった一つ知っているのは、あなたは良いお方であり、信頼するに足るお方であるということです。
 主よ、私たちは今日、あなたの御前に自分の無知を告白し、ただあなたに信頼を置いてついて行くことを告白いたします。
 私たちがこの先の見えない不確実な時代を、あなたの御心に従って生きていくことができるために、私たちに知恵を与えてくださいますようにお願いいたします。
 それぞれが置かれた状況の中にあって、どのように行動したら良いのか、御霊ご自身が私たち一人一人を導いてくださいますように、お願いいたします。
 そして今、肉体的に、あるいはまた社会的、経済的、心理的に、様々な圧迫の中にある方々の上に、あなたの癒やしと回復が豊かにありますように。
 お一人お一人が強められ、置かれた場所であなたの御国のために知恵を持って生きて行くことができるように、どうぞあなたが助けてください。
 この時を感謝し、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。