「人生の土台を確認しよう。」

2020年11月29日(日)
新城教会牧師 四元雅也
マタイの福音書6章33節【新改訳2017】

『まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。』

 ハレルヤ!今日はこの場所でお話させていただけることを心から感謝します。
 石塚さんの賛美、ここはどこかしら?と間違えてしまうような、高尚な賛美を聞かせていただき感謝します。先ほど第一礼拝の時に「ドイツ語ですか?」と聞くと、「そうそう」と教えてくださいましたが、字幕があって良かったですね。意味が分かって恵まれることができて感謝します。

 コロナの拡大が止まらないような現実の中で、場所によっては営業自粛要請だとか、GoToの一時停止とか、日本でも大変な様相となってきておりますので、今日もお祈りしましたが、皆さんでご一緒にこの問題に対して祈りを持って神さまに期待して、大きなみ業が現されることを待ち望んでいきたいと思います。
 また世界の国々においても大変な中にありますので、クリスチャンが、神さまに頼って、そして一日も早く収束していくことができるように、また苦しんでいる人々が神さまの恵みの中で救いを受けることができるように祈っていきたいと思います。

 今日読んでいただいた聖書のみことばは、大変よく知られていることばです。今日はクリスチャンでない方もおられると思いますが、今日私がお話ししたメッセージを全部忘れても結構ですので、このみことばだけでもぜひ覚えて帰っていただきたい、暗記していただけたら良いと思いますので、映像に出していただいて、もう一度皆さんで読んでみたいと思います。

『まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。』

 大変重要なことばだと思います。歌にもなっています。歌ってみるとより覚えやすいかもしれませんので、みんなで歌ってみたいと思います。ご存じの方は、どうぞご一緒に歌って下さいね。伴奏は~?自分でやりますね。はい、ちゃんと用意していました。

♪神の国と神の義を
 神の国と神の義を
 まず求めなさい
 そうすればみな与えられる
 ハレル ハレルヤ♪

 ありがとうございました。

 話は変わるのですが、最近一冊の本を読んでおりまして、C.S.ルイスの書いた『キリスト教の精髄』という本です。このC.S.ルイスという人は、ナルニア国物語とかそういう小説を書いたクリスチャンの作家であります。

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 三千円くらいする本ですが、興味があれば通販サイトなどで取り扱っていますので、手にとってみていただければと思います。少し難しい本ですが、興味深いことがたくさん書いてあり、とても勉強になり恵まれます。

 今日はそこに書かれていることのひとつをご紹介したいと思います。それは私たちの『心』についてのお話です。

 時代が変わっても、文明が変わっても、言葉や思想、経済など人々の生活の基盤となるものが移り変わっても、人の善悪の意識、その規範となる道徳は、変わることがないといいます。
 どんな時代を調べてみても、そこにある道徳観を互いに比較すると、全体的に多少の違いはあるのですが、それにも増して非常に似通っていることが印象づけられるというわけです。

 たとえば、人の所有物を略奪することを善とするような社会は歴史上ありません。人の奥さんを横取りしたり、お年寄りをなぶり者にするのが良いことだと教える社会は何処にも存在しません。人をだまし裏切ることは時代を超えて否定されています。
 『善』と『悪』が『ある』ことは、だれでも同意することができると思います。その規範となる、『道徳律』といえるものが心にあるから、人々は決定的に『悪』となることがなく、『善』を選び取ることができるのです。

 たとえば、皆さんイメージしていただければと思いますが、見ず知らずの人が水に溺れているとします。そこにあなたがたまたま通りかかって見つけたとします。咄嗟にあなたには、「大変!助けなくちゃ」という思いが沸いてきます。しかし、同時に「いや、飛び込んだら自分の命が危ない」という思いも沸いてきて、あなたは両者の狭間に置かれるでしょう。さあ、どうすれば良いか?そんな時、「自分が犠牲になってでも救ってあげよう」と強く心を後押しする力があるのです。自分の危険以上に他人の救いを望み、自分を後回しにして、危険を押して飛び込んでいくように働く力があるのです。そんな大それたことではなくても、困っている人がいたら、自分の損得以上に「助けてあげたいな」と訴えかける、そんな心を人間は生まれながらに持っているのです。

 ローマ人への手紙2章14節〜15節には、こんなことばがあります。

『律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。』

 ここでいう『律法』とは、ご存じの通り、聖書のことです。聖書の教えを知っている人はそこに書かれているみことばの枠組みに善悪の基準というものを当てはめて判断します。しかし、今このみことばに書かれていたのは、その律法を知らない者、私たちも以前はそういう者であったのですが、聖書を読んだこともない、見たこともない、そういう者たちにとっては自分自身の心が自分の律法だというわけです。
 人は誰でも自分自身の律法に従って生きており、今読んだみことばを見ると、その律法というのは、聖書の中に書かれているのと同じ『律法』が心の中に書き込まれているというのです。たとえ聖書のみことばに精通していなくて、読むことも見たこともないという人であっても、心の律法にしたがって、正しく生きていくことができる可能性を人間は持ち合わせているというわけです。そして、その『心の律法』によって私たちはこの社会に生きる時に「あなたは正しい」とか「そんなことは不公平だ」とか判断して、互いに責め合ったり、弁明し合ったりすると、みことばは語っています。ですから個人を超越した『善悪判断のものさし』が私たちの心の中には生まれつき備わっているとみことばは語っているわけです。
 これを、C.S.ルイスは、『自然法』と呼びました。それは自分にとってたとえ損であっても、善と思われることを行う行動原理だというわけです。
 このような『ものさし』的な基準がなければ、人間の営みは時代の移り変わりと共に善悪の基準もどんどん替わっていく、ということが起きてしまいます。なぜなら人間は悪を行うことに容易い弱さを持ち合わせた者であるからです。そんな人々の集まりである社会も同様に悪態化しやすいものではないでしょうか。
 しかし、『自然法』はそのような下り坂を転げ落ちていかないように私たちを支えているのです。『自然法』は、時代や文化を越えて、共通の根本的な基準です。そして、聖書はこの『自然法』は、人間を創造された神様、人間を超越された絶対者なる方すなわち『神』が人の心に与えられたものだというのです。

 これを聞くとある人は、こう言うかもしれません。「いや『自然法』は確かにあるかもしれないけど、人間が他者との共存を成し遂げるために獲得してきた智恵だ。人間が社会で生きていく上で経験によって徐々に身につけた能力であり、そんな神がかったものではない」と言う方がいるかもしれません。
 なるほど人間には欲望があり、それらをコントロールして善を行うことによって、一時的に損をしても、社会全体としてはプラスになって、その結果、社会から恩恵を受けることができるということがあると思います。それを人類は長い歴史の中で学び取って知っており、それを実践しているに過ぎないんだと。だから、始めから『自然法』が備わっていたのではなく、人間の進化の歴史の中で少しずつ養われたものなのだ、と考える人もいます。
 けれども、それは『自然法』を説明する本質にはならないのです。皆さんまたイメージしていただきたいと思うのですが、たとえば小石を空中に放り出したら直ちに落下します。引力はすべての物質に分け隔てなく同様に働くという意味で、人間が考え出したルールではなく、この世界に始めから存在している自然法則のひとつと言えます。ここで、この投げられた石に意思があったとしたら、投げられた時に「俺は落ちないぞ!」と決めたとしても、引力の法則には逆らうことはできません。「投げたら落ちる」に決まっているのです。「落ちないでいこう!」と思っても、空中に放たれた石は落ちてしまうのです。逆の立場を取ることができない法則です。

 ところが今お話している『心の自然法』も自然法則の一つであるとお話ししているわけですが、人間にとってそれは、従うか従わないかという選択の自由があります。「従わないでいこう」と決めれば、従わないでいることができる。逆らうことができないような引力とは違うのです。自分で従うか背くか決めることができます。

 そのことを踏まえた上で一つのことを考えてみたいと思います。『人間は誰でも利己的であってはならない』、『自分勝手であってはいけない』、この言葉はおそらくここにおられる皆さんが同意される理念ではないかと思います。人間は誰でも自分勝手であってはいけない。
 でも、この言葉には一つの疑問符が付きます。『なぜ人間は利己的であってはいけないのか?』『どうして人間は自分勝手に生きていってはいけないのか。』
 すると、こういう考え方が生まれてくるかもしれません。『社会と人の幸福のためになることだから、人は利己的であってはならない』すると別の疑問が湧いてきます。『人のことや、社会のためなど考えるのを止め、自分の利益だけをひたすら追い求めた方がいいじゃないか。周りのみんなは社会性を重んじてくれればいい。自分だけが利己的に生きれば他人より得だ』という考えです。
 すると、『いや、そんな自分本位な考え方は人としてよくないよ』という結論になるわけです。そうなると、また振り出しに戻ってしまうわけです。『利己的であってはならない。』どうして?『社会のために自分の幸せにつながることだから。』『いやいや、自分だけが利己的に生きれば得じゃないか。』『いやいや、そんな利己的では駄目だ。』これは循環論法になってしまうわけです。『利己的であってはならない』という心の持ち方は、「そりゃそうだ」と、誰でも同意するところですが、その原点に『社会が大事だから』という理念を持ってきても役不足だというのです。説明していることにならない。もっと深い本質的なものがあるはずだという疑問が生まれてくるわけです。
『自然法』と呼ばれるものが、私たちの心の中に備えられている理由には、そのように人間が学習をしてだんだんと身に着けたものだとか、社会性とか、そういったものを越えた『ものさし』が要求されるわけです。

 この社会に対して、男性が女性に対して暴力的な衝動に従うことをせず、両者に一定のモラルが保たれている。そういう社会だから、女性は武装し、おびえながら街を歩かなくても良い。
 命を救うために危険の中に自らを置く救助隊員がいます。九年前、大震災の激しい災害の中で命をかけて人を救おうとする救助隊員の行動は、仕事だから、お金をもらっているから、ということとは別の次元の自己犠牲的な善意を見ることができます。それで自分が死ぬかもしれないけど助けなければいけない人がいれば助けたいと思う、そういう思いがなかったらできない仕事だと思います。

 もっと身近な話ですが、買い物をして、おつりが多かったら正直に「おつりが多いよ」とレジの人に告げる、道路を渡ろうとする子どもがいたら、自分が気持ち良く車を走らせていてもブレーキを踏んで横断させてあげる、力の強い子どもが弱い者いじめをせずに力の弱い子に合わせて遊んであげる。
 そういうことは人から称賛されなくても心を晴れやかにし、生きることを前向きにさせます。そういう『自然法』普遍的な掟というものが、私たちの心の中に書き記されています。
 これは人間が編みだしたものではなく、この聖書を見ると神さまが持っておられ、神さまの作品である我々人間に与えられた恵みだというわけなのです。それがあるからこそ、私たちも幸せに生きていくことができる。そして、これこそ『神の心』だというわけです。エペソ人への手紙二章十節、

『実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。』

 ここに神さまの作品として私たちが造られた。その私たちには、『神さま基準の良心』というものを生まれながらにして与えられているということなのです。良い行いを予め備えてくれた。
 そして、『自然法』は、自分よりも他を優先するところに究極の姿を見ることができます。自分が得にならなくても、他を生かしていこうという中に自然法の本質があります。
 イエスさまが「究極の律法は何ですか?」と問われた時に、「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』」とお答えになられた、そんなことばがありますが、その究極の律法を示しています。

 そしてこの究極の律法を究極的に実践されたのがイエスさまです。ピリピ人への手紙二章三〜八節のことばを読むと、

『何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。』

 人間が神さまによって造られ、素晴らしいこの世界を与えられ、そして神さまと愛し合う関係を持つことができる。できていたのに、悪魔に誘惑され自ら罪を犯してその関係を壊してしまった。そしてその時から、人間社会には利己的な思いや虚栄心が生まれ、そして社会にいびつな力が加わって歪みが現れるようになったと聖書から私たちは知ることができます。

 先ほど『自然法』が「人間の努力によって養われた社会性である」という意見について考えましたが、社会の現実はむしろ逆なのです。人間は歴史を通じて様々な知恵を磨き、そして幸せを追求してきましたが、現代に至るまでその努力は報われることがありませんでした。昔から変わることなく、人々の間には弱い者が強い者に搾取される不均衡がありますし、毎日目にするニュースでは凶悪な事件や不正によって、多くの人が悲しみに暮れる姿が映し出されています。

 そのように不完全で苦しみに溢れた人間を救うために、三位一体の第二格として、永遠にあがめられ礼拝されるべきご性質をもったお方である「神」イエス・キリストが、神としてのあり方を捨て、私たちと全く同じ身体を持ち、へりくだってこの地上を歩かれた。
 そして、人のすべての罪を担い、人の受ける侮辱や差別、いわれのない罪の濡れ衣を着せられて刑罰を受ける、それも死罪を言い渡され、しかも家族や友や弟子たちに裏切られ、さらに父なる神にさえ見捨てられるという苦難の道を、イエスさまは私たちのために自ら進んで通ってくださいました。第一ペテロ二章二十四節に、

『キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。』

とあるように、イエスさまの犠牲のゆえに、私たちは救いを受け、いやしを受け、そして新しい命を受けることができ、そして、『神の義』のために生きることができる者とされたのです。

 イエスさまが人となってこの世界に来てくださったことは、私たちが救われるための道を開き、そして人が神さまとの交わりを回復するため。イエスさまとおんなじように、人も神の子として生まれるために、神としての品格をもたれたお方が、自らを低くし、人間の姿、それも王様や権力者の姿ではなく、仕える者の立場でこの世界に来てくださり、私たちが受けるべき刑罰を代わりに受けられて、十字架で死んでくださったのです。そして、人であったと同時にイエスさまは神でもあられたので、それゆえに、死の力を打ち破って永遠の神としてよみがえり、そして人間が神さまに受け入れられ、イエスさまとおんなじ神の子どもとされることのできる唯一の道を開いてくださったのです。ここに、神の愛が私たちに示されているのです。

 そして、私たちがイエスさまを信じ受け入れ、神さまの子どもとなる時、私たちの中にある『神の心』は、正しく機能し始めるのです。ヘブル人への手紙九章十四節、

『まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。』

 私たちが『神の心』を持ち、『神の義』を行う、そのためにイエス・キリストが犠牲となって十字架の上で流された血潮が神の前にささげられて、それゆえに私たちはその心を正しく働かせることができるんだと聖書は言っています。

この『神の義』、『神の心』を持つ時に、私たちは何でも求めたら与えられますよと、聖書は約束しています。最初にお読みしたみことばマタイの福音書六章三十三節、

『まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。』

 本当にすばらしいことだと思います。
 今日は、『神の義』を、私たちの心の内に与えられている『自然法』という視点からお話しさせていただきました。私たちは一人一人置かれた場所にあって、『神の義』が私たちに与えられるように追い求め続けて歩んでいきたいと思います。それが、私たちが結果として、必要なものを神から受け取り、また幸せに生きる、またこの地に神の栄光が現されて、そのような神の栄光が拡大されていくために大きな推進力になっていくと信じます。
 もちろんそこには大きな霊的戦いもあります。悪魔はそうならないように、必死になって、「こっちの水が甘いよ。」じゃありませんが、「こっちにおいでよ。あなた自身が得する道はこっちだよ。こっちのほうがあなたによって楽しい、楽だ」と、うそぶいてくるわけです。
 しかし、『神の義』は、もっと大きな声で、「そうじゃないよ。神が喜ばれる道はこっちだよ。こっちのほうが、人を優先し、人のため、神のために生きることだよ。」と私たちの心の中に教えてくださいます。そこには、私たちの選択というものが深く関わってきますけれども、いつでも神さまの御心を第一として歩んでいく者となることができるように皆で励まし合いながら、前進し続けていきたいと思います。

 「クリスチャン」という呼び名は、「キリストに似た者」という意味です。私たちは、この世界でイエスさまが歩まれた生き様に習い、イエスさまが通られたように生きようと決断した者たちです。その道とはある意味で生やさしいものではなく、世の流れに逆らい、自分のエゴ・自我を殺して、人のために、そして神さまのために生きることを選ぶ厳しい道です。
 この福音書には悪魔がイエスさまを誘惑した記事が書かれています。神が人の弱さをまとい、悪魔の誘惑に遭われたとは、本当に驚くべきことです。どんなにか大きなへりくだりがそこに必要であったかと思わされます。
 イエスさまは人となられたことで、そんな宿命をも自ら背負われました。イエスさまが味われた人としての弱さや不便さ、そして辛さは私たち人間の理解を超えたものであったのではないかと思います。イエスさまは、本当は宇宙という枠組みを超えた方です。イエスさまが父なる神さまと聖霊さまとご一緒におられた栄光の世界は、私たちの住んでいる世界を超えて、時間も距離も超越した光だけの世界、言い換えれば『神の義』の世界であるわけです。どんな世界なのか想像しても、頭で理解できる範疇を超えていて私たちにはわかりません。そんな世界から人となって、私たちの世界にイエスさまはまさしく「降りてきて」下さったのです。ちなみにそれを喜び祝うのがクリスマスです。
 そしてイエスさまは降りてこられただけではなくて、この世界のあらゆる理不尽や歪みをも、その身をもって経験して下さったのです。神の国の味をご存じであったイエスさまにとって人として生きた年月は、毎日が自分に死ぬような日々であったかもしれません。自分を殺して他者を生かすような、そういう日々だったと思います。イエスさまはそれに従われたのです。どうして?あなたや私、すべてこの世界に存在するもののためにです。その救いのために、イエスさまは自分からそのようにしてくださった。そのことを考えると心が震えるような気持ちになります。

 今日のためにお祈りしている時、もう一つみことばが心に留まりました。詩篇百三篇一〜五節【新改訳2017】、

『わがたましいよ主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やしあなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせあなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。』

 詩篇には、百五十の賛美が集められて1冊となっているのですが、聖書の時代のユダヤ人たちは、今日私たちがしているのと同じように神さまの前に集い、神さまの前で賛美を捧げたわけです。
 そしてこの詩篇の歌に限らず、聖書のみことばには、最初に読んだみことばもそうですが、私たちに励ましを与えられることばがたくさんあります。
 私たちクリスチャンにとって、「好きなみことば」は?と聞かれたら「このみことばです」といくつも揚げることができるのですが、その中でも多くの人が大好きな本当に美しいみことばが、この詩篇百三篇だと思います。

 詩篇百三篇は、全体を通して、私たちが神さまを知り、神さまとの関係を持ち始めた時に人生に起こった、数々の神の恵みのわざがどんなに素晴らしいものか、はかない存在である私たちを神さまがどのように大切に扱ってくださるのか、ということを考えさせ、それ故に、この素晴らしい神さまを賛美し、感謝を捧げる思いがわき上がる、『あなたのすべての罪を赦し、病を癒やし、あなたの命を穴から贖い、恵みとあわれみの冠をかぶらせ、あなたの一生は良いもので満たされる。あなたの若さは鷲のようになる。』本当に聞いただけでもすばらしいことばでありますが、この約束を私たちはみことばから、神のことばとして受け取ることができる。本当に感謝なことだと思います。それゆえ、『わがたましいよ主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。』とね、この詩篇百三篇は私たちの歩む人生そのもののような、人生を通して神を礼拝していくという、そういう思いが詰まったようなみことばだと思います。本当に神さまを信じて生きることは、素晴らしいものであります。

 最後にひとつお話してメッセージを閉じたいと思いますが、先週岡本先生が素晴らしいメッセージを語って下さいました。その中で先生がプレイズで出されたばかりの新刊を紹介しておられました。

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 『はい、主よ、わかりました。』 どりあ山崎ランサムさんが編纂した本です。

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 甲子園リバイバルミッション、一九九二年十一月五、六、七日と三日間、阪神甲子園球場で行われたリバイバルの大会ですが、この大会に向けて二年くらい準備がなされていたのですが、その時に献身した当時の若者たちの証言を綴った本であります。
 実は私はこの本のど真ん中世代です。登場人物はすべて仮名で描かれています。それは栄光が人にではなくすべて神さまに返されるようにとの配慮だそうです。実は僕はこの本に描かれた人たちの顔を皆浮かべることができます。もちろん私が証しさせていただいたことも記されています。
 先々週、本の制作に関わったということで、完成した本をプレイズよりいただくことができました。その日、夜中十二時に読み始めたのですが止まらなくて三時間余りで隅から隅まで一気に読んでしまいました。本当に励まされました。心が燃やされました。当時の自分や証しされているみんなのことがありありと感じられました。
 この本に書かれていることは僕の青春の一ページであることは間違いないので、ある意味、同窓会で記念誌を作っていただいたような気持ちです。こんな本ができるとは思いもしませんでしたので嬉しい限りです。
 ここに記されているのは甲子園に命をかけた人たちの証しです。そしてこの本を通して、同じように主のために命をかけて働く方がこの本を読み、ここに描かれているリバイバルの情熱に励ましを受けていただけたらいいなぁと、また、若者たちの主への献身につながっていただけたら素晴らしいなぁと心から思います。

 そして同時に、この本を読み終えて感じたことは、僕はここに書かれていたリバイバルの器たちの他に、本当にすばらしいリバイバルに人生を捧げ、自分の命を自分のためではなく神のためにささげて、そしてこの新城教会宣教七十周年、リバイバルミッション五十周年と言われていますが、この年月を駆け抜けてきた『リバイバルの担い手』を個人的に知っている、ということです。本当に感謝だなあと思いました。
 私たちは、順先生・享子先生を知っています。そしてまた私たちの多くは明先生・清子先生を知っています。そして岡本先生・上條先生・開先生・フェルナンド先生も知っています。「預言者は地元に歓迎されない」というみことばがありますが、新城教会に属する私たちにとってこれらの人々は身近な存在であり、あまりありがたみを感じないようなところがあるかもしれませんが、でも私たちはこの先生方を通して、どれだけ多くのすばらしい影響を受けてきたか、先生方の生き様を通して私たち自身が励ましを受けて、私たちも神さまに従っていこうという思いを新たにすることができたかということを思ったわけです。本当にすばらしい幸せなこと、どんなに神さまに感謝しなければならないことかと思わされました。
 そして、これらの善い業を私たちの中に、この教会の中に起こされている神さまに、私たちはさらに信頼して仕えることができるという、そのことを私たちは心の誇りとし、ますます神の国と神の義を第一として、この信仰の歩みをお互いに励まし合いながら歩んでいきたいなぁとそのように思わされています。
 神の国とその義とをまず第一に求めなさいと、その心は私たちの中にすでにイエスさまの十字架によって与えられています。そして本当にそのことを行うことができます。しかしそこには私たちが悪魔との戦いに勝利して、自らをその場所に置くという、ある意味で自己犠牲の気持ち、自分を神にささげるという、そういった思いがなければなりません。
 しかしそのことをした時に、神さまは「それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」ということを約束してくださっています。本当にこの恵みの歩みの中に私たちの身を置かせていただけるように祈っていきたいとそのように思います。
 最後に一言お祈りをして終わりにします。

 ハレルヤ、天のお父さま、あなたのみ名をあがめて心から感謝します。今日はマタイの福音書六章三十三節、このすばらしいみことばを通し、私たちの心に神が与えてくださった神の義を私たちは大切に、そしてその示すところに従順に従っていくことができるようにとおすすめさせていただきました。
 どうぞ主よ、お一人お一人を聖霊さまが力強く働いてくださり、悪魔との戦いに勝利し、この神の国の前進のためにお一人お一人が自分自身をささげていくことができますように。
 イエスさまご自身がそのための模範を示してくださいました。私たちもあなたの生き様にならい、この歩みをし続けていくことができるように、どうか祝福してください。心からお願いいたします。
 お一人お一人、神の恵みと祝福が豊かにありますように。今日この時を与えてくださった主に心から感謝し、尊きイエスさまのみ名によって祈りをみ前におささげいたします。アーメン。