「宣教70周年-2020 明日に向かって「将来と希望」パート17
 ~わざわいではなく、将来と希望!②〜 70年の満ちる頃」

2020年12月6日(日)
新城教会主任牧師 滝元順
エレミヤ書29章10〜12節

『まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。‐‐主の御告げ‐‐それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。』

 ハレルヤ!おはようございます。今日は皆さんの前でみことばを取り次がせていただけますことを、感謝します。

 今のピアノの演奏、すごかったですね。ベートーヴェンの第九は十二月によく歌われるわけですが、「星々の上に座しておられる主をあがめなよ」と歌っているそうです。また楽譜をめくる係の方もすごいですね。全て分かっていないとめくれませんから。私なんか絶対無理です。新城教会には、いろいろな賜物の方がおられて奉仕をしていただき、働きが成り立っています。
 今もインターネット配信がなされていますが、毎週、百人以上の方々が同時に視聴してくださっています。そのためにも大勢の方が奉仕をしてくださっています。このような困難な中にあっても、主が支えてくださっていますことを本当に感謝します。

 今日、読んでいただきました聖書箇所に、『「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、』とあります。私たちが信じている神さまは、法則性を持って働かれる方です。思いつきで事を行う、日本の神々とは違うのです。しっかりとした暦に基づき、周期的に業を行ってくださる方です。毎年、秋になれば収穫の季節がきます。神が季節を与えています。「今年はめんどくさいから、この秋は収穫ゼロ!」なんてないわけです。周期的に事を行ってくださる偉大な神です。
 ユダの民に、「七十年経ったら元の場所に戻してあげます。」とエレミヤを通して主は語られました。
 すると七十年が満ちたころ、本当にクロス王を通してユダの民はバビロンから、自分の国に戻ることを許されたのです。なぜなら神のみ手があったからです。

 二〇二〇年は新城教会にとって「七十周年」という記念すべき年です。期待と共に始めたのですが、いろいろな問題が起きて、私たちの期待とは違った年になったことも確かです。
 しかし十二月は「七十年が満ちる月」となります。ですから私は大きく期待しております。明日からは「七十周年が満ちるころ祈祷会」が一週間に渡って行われます。是非ともどこかのパートを満たしていただきたいです。神さまがこの週に、何をしてくださるのか、私は大きく期待しています。私も、家内のことがありますから、真剣に祈っています。今週も、大きな山場があるので、それに合わせて、このような祈祷会が行われることはたいへんうれしいです。きっと大きなことを、主が成してくださると信じます。

 十二月はイエスさまのお生まれを記念する月です。しかしクリスマス、十二月二十五日は、「イエスさまの誕生日ではありません」。これをしっかりと押さえておかなければいけないと思います。クリスマスは、あくまでイエスさまの誕生を「祝う日」であって、「誕生日」ではありません。三百六十五日の中で、どこかでイエスさまはお生まれになったわけですから、誕生を祝うことは別に悪くないわけです。けれども、誕生日は十二月二十五日ではありません。
 かつてローマ帝国は東の方から入ってきた、「ミトラ教」という宗教を国教としていました。それはオカルト的な宗教で、人々に悪い影響を与えていました。しかし四世紀のことですが、ローマ帝国はキリスト教を国教としました。
 当時、ミトラ教では太陽を神としていて、十二月二十五日は、「太陽再生の日」とし、太陽の誕生日として祝っていました。しかし国教が変わり、教会は「ミトラ誕生日を、強制的にキリストの誕生日にした」のです。置き換えたわけです。ミトラの誕生日をのっとったという意味もありますが、正しい理解には基づいていません。
 しかし聖書には、イエスさまのお生まれの日は記されてないです。ですから、どの日にしてもいいわけですが、現在のクリスマスの日程の背景は良いものでないことは確かです。
 私の誕生日は八月五日ですが、毎年、「あなたの誕生日は十二月二十五日ですね。」と言われたら、あまり気分はよくないです。クリスマスは一年のうちのどこかで誕生されたイエスさまを祝う記念日です。

 最初のクリスマスは、どんな状況であったのかと言うと、ルカがレポートしています。ルカの福音書二章八〜九節、

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。』

 イスラエルに行きますと、ベドウィンたちがいます。彼らは無国籍で、テント生活をしています。彼らが最も不安定な人たちでした。しかし、最初に救い主のお生まれが知らされたのは、最も立場の弱い、羊飼いたちの所にみ使いと天の軍勢が現れて、救い主のお生まれを告げ知らせたのです。
 「羊飼いたちが野宿をしていた」とありますから、外で眠れるのは春から秋にかけてです。冬は野宿は無理だと言われます。ですからたぶん、イエスさまのお生まれは、春ではないかという説もあります。
 続いて、ルカの福音書二章十〜十一節、

『御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』

 これは羊飼いたちに告げられた言葉です。しかし同時に、この言葉は全人類に対する喜びの知らせ、宣言でした。私たちのためにも、イエスさまが生まれてくださったのです。私たちの神は天地宇宙を造られた方ですが、三位一体なる神の中で「み子」としての立場のイエスさまが、肉体をとって地上に来てくださったのは、本当にすごいことです。
 案外私たちは神が人となってこの地上に来てくださったことを、簡単に、単純に考えていますが、全宇宙的に考えますと、信じられないことです。

 今私たちは、太陽系の中の地球という惑星に住んでいます。太陽を中心として地球を始め、いくつかの太陽系の星々が回っているわけです。私たちは大きく言えば「銀河宇宙」に属しています。太陽系は、広大な銀河宇宙の、ごくわずかのパートしか占めていません。

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 銀河宇宙には、自分で輝く太陽のような「恒星」が「一千億個以上」あるそうです。銀河宇宙に太陽が一千億個くらいあるのと同じです。自分で光を発せない惑星をいれたら、十倍、二千億個くらいの星々があるというわけです。

 現在、冬の夜空を見上げますと大変綺麗な星空が広がっています。明日の夜は県民の森祈祷会があります。県民の森祈祷会、本当に恵まれます。一度来てみてください。特に県民の森で夜空を見るだけでも、広い心がもらえます。多くの星々を見ることができます。でもそれは、宇宙のごくごく一部に過ぎません。
 最近は、銀河宇宙のような一つのまとまった宇宙が、広大な宇宙空間に「二兆個」くらいは存在すると言われています。今後、もっともっと増える可能性があるというわけです。

 二兆個もある宇宙の中の、銀河宇宙の、その中の太陽系という、ちっぽけな空間の、さらに地球に、神が人となって来てくださったのです。創造主が人に関心を持ってくださっているなんて、信じられない事実です。なにゆえに私たちのことを、そこまで気にかけてくださるのか・・。宇宙人がいるのかどうかは分かりませんが、何があったとしても、すべての被造物の中で、ある意味、神の目から見たらミクロのような存在、人間のために神の子が来てくださったのです。あなたのために、私のために、神が愛を表してくださったということです。本当に心の底からの感謝をささげなければいけないですね。

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 本当に宇宙ってすごいです。この写真は「ハッブル望遠鏡」で撮った宇宙だそうです。一つ一つが星雲です。銀河宇宙なら、その中に二千億個くらいの星々が含まれているわけです。それが二兆個もあるわけですから、すごいものを神さまは創造したものです。これ、絶対に自然にできたなんて言えないです。知的存在が宇宙には存在することを否定できないです。

 そして聖書は、この広大な星空と、すべての被造物はつながっている事を示唆しています。
 戦後の有名なドイツの神学者でエーリッヒ・ザウアーが「世界の救いの黎明」という本を書いて、戦後の日本のキリスト教会に大きな影響を与えました。彼がこんなことを書いています。

 “天使たちと星たちの間には、ただ形容詞的な比較ばかりではなく、その詳細のことは我々にまだ知らされてはいないが、ある事実的、実際的な関連があることを聖書は証明している。”

 聖書は、広大な星空と天使たちが繋がっている事を証明している、というわけです。私たちが見る星々には神秘が隠されていて、天の軍勢と一体であるというわけです。
 ゆえに人類は、星空を見る時に神秘性を感じ、古から人類が最も関心を持ったのが星空でした。何千年も前から人類は星を見ることを始めました。今に至るまで天文学は衰えることなく、さらに進展しています。天文学には数千年の歴史があります。
 そんな探求の中、古代の人たちは一つのことを発見しました。それは星々と人類とは関連があるということでした。
 今はそれは、「占星術」でしか取り扱われていないのですが、昔は最先端の科学だったのです。
 しかし天文学といっても、天体を神として礼拝する占星術が混じっていました。聖書は「天体を拝んではいけない!」という、天体礼拝禁止令を出しています。
 日本人は十五夜などになれば月を拝んでいます。
 絶対に星々、太陽、月を拝んではいけないのです。聖書は「そこに神秘を感じたとしても拝んではいけない。」と禁止しています。

 イスラエルの民が四十年間荒野を旅して、カナンの地に入る直前、モーセはすべての民を集めて訓示をしています。そこで「幸せに生きる秘訣」について語り、「偶像礼拝から離れなさい。」と告げました。特に彼が強調したのが、申命記四章十九節、

『また、天に目を上げて、太陽、月、星など天の万象を見るとき、惑わされてそれらを拝み、それらに仕えることのないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が天下のあらゆる民に分け与えられたものである。』

 天の万象に神秘性を感じても、礼拝をささげたり、仕えることがないようにしなさい、と語りました。
 日本の国神はアマテラスという太陽神です。月も月夜見と言って拝まれています。北斗七星とか、日本の偶像は地上にあるようですが、すべて天につながっています。
 天体礼拝はたいへん危険です。なぜならば、そこには天使たちの世界が関わっているからです。被造物である星々を拝むと、天使ではなくて、堕天使たちの世界に引き込まれます。本来星々は「天下のあらゆる民に分け与えられたものである」とモーセは言いました。実際、宇宙にどれだけ存在するのか分からない星々、それらは、「天下のあらゆる民に」ということは、私にも、あなたにも、分け与えられているという事になります。天の星々のどこかに、皆さんのために分け与えられている星があるというわけです。

 宗教改革に大きな影響を与えたジュネーヴ訳聖書があるのですが、そこでは、「with All the host of heaven、すべての天の軍勢と共にある」と訳しています。天の星々はただの物体として空にぶらさがっているわけではなく、天の軍勢と共にあるわけです。これは神の創造の神秘です。
 また黙示録一章十六節、

『また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。』

続いて黙示録一章二十節、

『わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。』

 黙示録には七つの教会が出てくるのですが、世界中の教会は、七つの教会のどこかに割り当てられていると思います。新城教会、どこに割り当てられているのだろうかと思います。フィラデルフィア教会ならいいなと思います。教会にも星が割り当てられているのです。それは天の軍勢と共にあるわけです。
 私たちにも、天の軍勢が割り当てられているはずです。

 なぜ神さまはこんなちっぽけな、人類に強い関心を持っておられるのでしょうか。それには理由があります。それは人は被造物の管理人だからです。人の振る舞い如何で、神が造られた被造物全体の動きが変わるからです。

 イエスさまがお生まれになった時に、東の方から博士がやって来ました。そして、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので礼拝するために来たのです。」と、聞きました。
 皆さん、どうですか。現在、このように言われても、誰も関心を持たないと思います。例えば博士たちが新城市役所に来て、「ここに王様が生まれと思いますが、どこにおられますか?」と聞いたとします。
 『どうしてあなたたちは王が生まれたと言うのですか?』「星が昇るのを見たからです。」と答えたら、『あなたたち、大丈夫?病院行ったほうがいいよ。』と言われます。
 しかしイエスさまが生まれた時代は、この知らせに対して、王様をはじめ、地域住民は皆、動揺したのです。
 「動揺した」というギリシャ語は「タラッソー」という言葉が使われているのですが、「水が沸騰する」というのが語源です。すべての人たちがおおきな不安を抱いたのです。
 当時の人たちがどのような世界観を持っていたのかを理解しないと、意味って分からないです。
 例えば、東京の方から優れた博士たちが新城市役所に来て、「新城市に新型コロナウイルスが潜んでいるらしいです。すごい量のウイルスが隠れているらしいです。どこにいますか?」と言ったら。市長さんはじめ、地域住民全員が、恐れおののきます。なぜならば「新型コロナウイルスは怖い」ということを皆が知っているからです。
 しかし二千年前のエルサレムに行って、新型コロナウイルスのことを言っても誰も動揺しません。
 二千年前の博士たちの言葉に皆が動揺したということは、「星と人生には、なんらかの関連性がある」ということを、すべての人たちが事実として受け入れ、理解していたからです。王様にとっては「新しい王が生まれた」と言ったら、自分の地位が揺らぎます。地域住民も、いつかメシアが生まれることも知っていました。けれども、救い主とは政治的パワーを持った人物と理解していたので、いろいろ心配になったわけです。

 ヨセフという人が出て来ますが、彼は不思議な夢を見ました。創世記三十七章九節、

『「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」と言った。ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」』

星とか太陽、月と家族が対応した夢でした。この広大な宇宙はどうなっているのでしょうか。星々を、神はただ単なるイルミネーションとして創造されたのではない事は確かです。星々と人類には強いつながりがあるのです。それはどういう形であるのかというと、天の星々と天の軍勢の関わりにあります。
 それらは、人々に仕えるナビゲーション・システムのような存在ではないかと私は考えています。

 最近はGPSが一般化して、車で新城教会に来られる時も、ナビ設定したらガイドしてくれます。人生のGPSの一つは、神のみ言葉と共に、星々と天の軍勢が関わっています。それらが正しく機能するならば、将来と希望に向かって行くのだと思います。
 しかし悪魔は、神が創造された全宇宙のナビゲーション・システムを切り取って、自分たちのために利用しているのです。

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そうすると人々の人生は、わざわいに向かって行くのだと思います。昔からよく言われます。「不幸な星の下に生まれてしまった。」
 これはただ単なる詩的表現ではなく、人類の経験から出た言葉だと思われます。エーリッヒ・ザウアーが指摘しているように、なんらかの関連性があることは事実だと思います。
 そして、多くの人たちが、本来、神に与えられた、人生を正しく導くナビゲーション・システムを、悪魔に奪われているのです。

 イスラエルの人たちは、あれほど神さまに良くしてもらったのですが、彼らは方向性を失い、やがてアッシリアに、バビロンに捕囚されたのです。なぜそんなことが起こったのかに関して、聖書は次のように語っています。使徒の働き七章を見ますと、ステパノがそのメッセージを語っています。使徒の働き七章四十三節、

『あなたがたは、モロクの幕屋とロンパの神の星をかついでいた。それらは、あなたがたが拝むために作った偶像ではないか。それゆえ、わたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ移す。』

 ここから出エジプトの時代に、すでにイスラエルの民の方向性が決定づけられた事がわかります。モロクとかロンパとは、アッシリアの「土星の神」です。土星をイスラエルの人たちは礼拝していたのです。
 土星って見たことがありますか?私は小学生の時に望遠鏡で見て感動した覚えがあります。肉眼で土星の輪は見ることは難しいです。地球から土星までは「十五億キロ」あるそうです。光の速度でも八十分以上かかります。すごく遠くです。小さくてよく見えないような星を拝んで、それが原因で将来の災いが決定したのです。
 土星がただの物質なら、神さまも大目に見てくれそうですが、土星を拝んだことによって、イスラエルは国を失ったということは、相当、背後に大きな理由があるはずです。
 人類は星々に仕えるのではなくて、管理人として、すべての星々を含めて、管理する重要な役割があるのです。

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 一人の神学者が次のように書いていました。

 “人間はその他の被造物から切り離された存在ではなく、本来、宇宙全体とつながっているのである。神の働きに参画する時、人間は決して他の被造物を無視することはできず、罪によって破壊された全宇宙をその愛によってつなぎ合わせ、被造物が恵みによって再び美しく輝くように、主と共に働くのである。”

 私たちは、すべての被造物とつながっています。神は、人となって地上に来てくださり、人類に大きな愛を表してくださいました。私たちが神の愛を知る時、その愛を、すべての被造物に示していく使命があるのです。ゆえに、宇宙全体から見たらごくごく小さなパートに属する人類を、神さまは心から愛しておられて、目を向けてくださっているのです。

 全宇宙から見ますと、私たちの存在は、あまりにも小さいです。取るに足らない存在です。しかし神は人類に対して、大きな愛を表してくださっているのです。

 このメッセージを準備している中で、詩篇十九篇を読み、感動しました。詩篇十九篇一〜五節、

『天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。』

 しかし私はこの箇所を読んで、ちょっと、「ん?」と疑問に感じた点がありました。なぜならば、私が習ったのは、太陽は動かないで、私たちが動いている、という地動説を習ったからです。
 ここでは「太陽が勇士のように、その走路を喜び走っている」というのです。
 太陽が東から出て西に沈むのを描写しているのでしょうか。しかし太陽は別に走っているようには見えません。ゆっくりです。歩いていると表現した方がいいです。ここでは「喜び走っている」と表現しています。
 それで、ちょっと疑問が湧いて、調べてみました。そうしたら日本のJAXAの科学者が一つの発表をしたのですが、

“太陽は、地球を含む太陽系の星々を従えて、銀河系の中心を中心として回転している。その周期は二億年くらいだと推測される。”

 太陽は走っているのです。ある方がそのことをうまくアニメにした動画を送ってくださったので、ちょっと皆さんに紹介したいと思いますが、星々は、特に太陽は賛美しながら走っているのです。時速約七万キロ!(他説では八〇万キロ)だそうです。どうぞ、ご覧ください。

動画:走路を走る太陽

 私たちは地球に乗って、太陽と共に時速七万キロで突っ走っているのです。この広大な宇宙の中で、神が私たち人類に愛を注ぎ、目を注いでくださっている事実を、もっと厳粛に受け取らなければならないと思います。
 螺線運動は生物が生きるために必要な力だというのです。それが太陽が公転することによって発生し、命が保たれているというのですから、この神秘、どれほど深いものでしょうか。
 そして星々が天の軍勢とつながって、彼らは我々に仕えようとしているのです。
 ローマ人への手紙八章を読みますと、すごいことが書かれています。ローマ人への手紙八章三十七〜三十九節、

『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』

 広大な宇宙でバイ菌にも満たないような小さな存在の私たちに、神は全勢力を傾けて愛し、み子イエスさまを送ってくださいました。何故でしょうか。それは大きな意味があります。それは私たちが管理人として、天の天から地のどん底まで、主をほめたたたえさせる役割が与えられているからです。私たちは神の愛を、すべての被造物に分け与える存在です。そのために、まず最初に人類を選んでくださったのです。

 最後にもう一つの動画をお見せしたいと思います。すべての星は音を出している、また被造物も音を出しているのです。それは何のためかと言ったら、賛美しているのだろうと、ある牧師が語っていた動画です。

被造物の賛美

 私たち、神の民は賛美を指揮して、神のみ座を賛美で満たす役割があるゆえに、神が大きな愛を表してくださいました。そのことを思いながら、見ていただきたいと思います。
 最後に一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ、天の父なる神さま、み名をあがめて心から感謝します。取るに足らない人類に目を向けてくださり、愛を注いでくださって心から感謝いたします。今日はここにおられるお一人お一人に回復を与えてくださり、特に、「七十年が満ちたこの年」に、主のみわざを現してください。
 十二月、新城教会において、「七十年が満ちた月」になります。主の勝利を与えて、私たちが、わざわいに向かうのではなくて、将来と希望に向かって前進出来ますように、お願いいたします。主のみ名によって祈ります、

 一度皆さん立ちあがって、ご一緒に祈りたいと思います。私たちは「星々の上におられる主を賛美します!」と「私たちを被造物の管理人として用いてください!悪魔が設定したナビとのつながりを完全に打ち破ってください。」と、しばらくの間、祈りましょう。