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『新しい年に期待せよ!』

2012.1.1(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
イザヤ書 27章1節

『その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。』


 ハレルヤ!みなさん新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。今日は一月一日と日曜日が重なり、なにか、新しい年を期待できる予感がします。今年はこうして主のよみがえりを記念する日から、一年が始まるということは、大変意義深いと感じています。
 先週の日曜日はクリスマスでした。ちょうど一週間前にはここでクリスマス集会を行っておりました。けれども今日は新年礼拝です。こんなタイミングはそうないと思います。クリスマス会が遠い昔のように感じます。怒濤のような二〇一一年が明け、新しい二〇一二年が始まったわけです。私たちは新しい年を「主に」期待していきたいと願っています。

 私は年末、大変忙しく過ごしました。先週は九州で奉仕があり、昨日の夜、戻ってきて越年のカウントダウン聖会に出させていただきました。毎年、十二月三十一日は、私たちの教会には、私以外に六名の牧師、副牧師がおりますが、新しい年に向けて祈って、主からいただいたメッセージを語るというプログラムがあります。私は毎年、その集会を大変期待しています。なぜならば一人一人が主の前に出て、主が何を語ってくださるのかを願い求めて語るからです。
 六名がメッセージを語りますから、誰から語ってもらうのか、順序が難しいです。年の順なのか、生まれ順なのか、あいうえお順なのか。これは難しいところなのですが、いつも私たちは祈ってからくじを引きます。聖書の中に『くじを引く時に決定は主から来る』という言葉がありますから、それを信じて、私はくじを作る役割なです。いつもは案外簡単に作るのですが、昨日は適当ではいけないと思って、三十分前に会堂に来て、「順序の中にも働いてください」と真剣に祈って、くじを作りました。
 普通にくじを引いてもあまりおもしろくないので、六人にジャンケンをしてもらいました。そして、勝った人からからくじを引く権利があるようにしました。二重の手の込んだ方法を使ったわけです。「最初はグー。ジャンケンポン」と六人の牧師たちがずっとやっていました。なかなか勝負がつきませんでした。その光景がおもしろかったです。あの光景を動画に撮ってみなさんに見せたかったですが、なかなか健気でした。
 でも、主が順序を決めて下さいました。トップバッターで語ってくれたのが、滝元開先生でした。六人が語ったメッセージの内容は、まもなく文章にしてインターネットにアップされたり、印刷物として届けますので、そちらの方を読んでいただきたいのですが、ダイジェストで昨日語られたメッセージを紹介したいと思います。

 滝元開先生が今年に対して与えられた御言葉の一部が、コリント人への手紙第一、九章二十三節、

『私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。』

 今年も一年この教会が、『すべてのことを福音のためにする』という教会でありたいと願っています。終始、福音を宣べ伝える、宣教のために存在したいと思います。一人でも多くの人が主を信じ、永遠のいのちを受け取る為に存在したいと願っています。
 昨年は日本にとって、大きな試練の年でした。メッセージの中でも、すべての先生方が取り上げておられましたけれど、本当に日本の歴史に末永く残る事件が起こりました。もしかしたら、世界史にも刻まれる事件だったかもしれません。三月十一日に東北で起こった大地震。それに続く原子力発電所の問題など、今も終結を見ないただ中にあるわけです。
 なんでそんなことが起こってしまったのだろうかと、誰もが神に問いかけたくなる気持ちです。そんな中、伝道者の書三章十一節も開かれました。

『神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。』

 二〇一二年の幕が開きましたけれど、今年も何が起こるのかわかりません。もしかしたら、昨年以上のことがあるのかもしれません。日本は地震国ですから、過去にも大きな地震が度々起こっているわけですから、起きない保証は全くありません。ですから私たちはいつ起こってもいいように準備しなければなりません。起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。しかし起こった場合、「神様、なんでそのようなことがあるのですか?」と問いかけてみても、神の業は「初めから終わりまで知ることはできない」というのです。被造物である人間は、神の業をすべて見極めることはできないのです。そのような限定的な存在であるわけです。
 しかし、ひとつ言えることは、『神のなさることは、すべて時にかなって美しい』といことです。我々は、一年とか二年とか、長くても十年、二十年というスパンで物事を考えますが、神は永遠というスパンの中で計画を立て、行動を取られるお方です。
 永遠のスケールを持つ神の視点ならば、すべてが神の時の中にあって美しいのだと語られています。また、『神はまた、人の心に永遠を与えられた』と語られています。『永遠への思いが与えられている』のです。

 人類は、初めから今に至るまで、永遠について考察する生物です。なぜなら、永遠の世界があるからです。いろんなことが世界には起きるかもしれないけれど、そんな中、私たちは常に永遠のいのちに目を向けなければならないのです。今年も年の初めにあたって覚えておく必要があるのではないかと思います。
 今や人類は歴史の最終章に入ったと言われます。終末の時代にあって、私たちは背筋を伸ばし、永遠を見続けるものでありたいと願います。

 二番目にメッセージを語ったのは、インターナショナルミニストリーを導いている公畑フェルナンド先生でした。彼が引用した聖書箇所の一部が、イザヤ書六章一節~三節です。

『ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」』

 イザヤという預言者はウジヤという王様に仕えていました。王の側近でもあり、アドバイザーでもあり、王様にも大変信頼の厚い預言者でした。イザヤもウジヤ王を慕っていました。しかし、一番頼りにしていたウジヤ王が死んだというのです。頼りにしていた人を失うことは、大きな失望です。
 しかし、そんなイザヤにとって最悪の年に、彼は『私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た』というのです。地上の王座が消えた時、彼が見せられたのは、天の王座だったのです。
 私たちも、地上の王座を見るのではなく、天の王座に目を向けなければならないと話されました。また、イザヤはこの事を通して視点を変えられたと話しました。それは、現実の世界を見るのではなくて、永遠の世界、目に見えない霊的な世界に目を向けられたと語りました。
 聖書を見る時、エリシャという預言者が出て来ます。その弟子にゲハジという男がいましたが、ゲハジは、現実の世界しか見ることができませんでした。ある日、エリシャが敵の軍隊に囲まれて、絶体絶命という状況に陥りました。
 けれども、エリシャは全く動じていませんでした。しかし、ゲハジは大変恐れました。なぜならば、現実の敵があまりにも多かったからです。
 時々、我々も現実の敵を目の前にする時、恐れおののきます。いろんな問題が起こる時、恐れおののいてしまうものです。
 けれども、エリシャは現実を見ずに、霊の世界を見ていたのです。神の王座を見ていたのです。そして、ゲハジのために祈りました。「ゲハジの霊の目を開いてください」と。するとゲハジの目に写ったのは、敵よりも何倍も多い、神の軍隊が周りに満ちていた光景でした。

 私たちも、この地上を見るのではなくて、天の王座を見上げ、私たちと共にいる天の軍隊を見るべきです。敵よりも、私たちと共にいる者たちのほうが断然多いと。神様は私たちの側に万軍の天の軍勢を遣わして、常に守っていてくださるということを知る必要があります。
 日本の現実を見る時、将来はどうなってしまうのだろうかと不安があります。しかし我々が知らなければならないのは、日本の王座に座っているのは、私たちの主であるということです。そのことを信じ、地上の王座を見るのではなく、天の王座に目を向ける時、今年主は、勝利と征服の年にしてくださると語られました。今までになかった新しい創造と、救いと奇跡の年にしてくださるはずだと結ばれました。

 三番目に立った滝元明牧師が語った御言葉は、初めは、『青年は幻を見、老人は夢を見る』という御言葉を語りたいと思っていたそうです。しかし、朝のディボーションで開いた箇所が『夢を語るな』という箇所だったそうです。それで、もう一度神に祈り、新しい御言葉をいただいたということで語ってくれました。
 去年、二〇一一年というのは、彼にとって人生の中で一番多くの涙を流した年だったと言いました。いろんなことがあって、日本の現実を見たり、周りを見る時に本当に涙が止まらなかったというのです。
 しかし一方では二〇一一年は、神の目から見ると大きな意味を持った預言的な年であったのではないかと思うのです。彼が語っていた中に、昨年は「世界の暴君」と呼ばれる独裁者たちが死んだ年でもありました。
 九・一一のテロを主導したビン・ラディンが捕まえられて殺されたのも昨年でした。また、あのリビアのガダフィという四十年にも渡って独裁を続けた男も昨年は殺されました。またその他、エジプトの大統領も、その他各地で悪政をふるっていた指導者たちが捉えられたり、殺された年でもありました。昨年の暮れには、金正日も死にました。ある意味で、神は世界を聖めておられるのではないかと語りました。
 昨年、日本においてもいろいろな事が起きたけれど、二〇一一年は、神が世界を聖め始められた年ではないかと語りました。そんな中で導かれた御言葉が、ルカの福音書十六章十節〜十二節、

『小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。』

 新城教会も今年で歴史が六十年くらいになります。私は「宣教何周年」という記念行事はあえてやらないようにしています。なぜなら、毎日毎日が勝負であり、毎日毎日が主の日ですから。
 この教会が始まってしばらくした時、父は巡回伝道者として立ち上がり、全国を巡回して回るようになりました。ある日、どこかの奉仕から帰って来たら、母が大変悲しそうな顔をして言ったそうです。
 新城教会の礼拝に、他教会から牧師先生方が参加したそうです。そうしたら、こう言ったそうです。「この教会は閑古鳥が泣くような、鳳来寺山があるけれど仏法僧が泣くような、寂しい教会ですな」と。なぜなら、その日はたった三人しか礼拝に参加する人が居なかったからです。
 そのことを聞いて、父も母もがっかりしたそうです。「神様、このままでいいのでしょうか。私は外で奉仕をしているけれど、こんなことでいいのでしょうか。この教会でもっとがんばらなくていいのですか?」と祈っていた時、神が与えてくれた御言葉が、ルカの福音書十六章十二節だったそうです。

『あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。』

 新城教会が今まで支えられてきたのは、ある意味、「他人のものに忠実にさせられた」ことが、結果的に祝福に繋がったのではないかと思っています。私たちの教会は、「全日本リバイバルミッション」の働きを中心的に担っています。私も主任牧師といいながら、外での奉仕が多いです。「もう少し、中を固めた方がいいんじゃないですか?」と言われますが、神の国の法則は、他人のために忠実である時、気がつくと自分も祝福されるという原則ではないかと思います。
 今年も、主はどのような導きをしてくださるのかわかりませんけれど、私たちは自分のために忠実であるというよりも、他人のものに忠実であるという法則の中に生きる時、祝福があるのです。この法則は一人一人の人生にも同じです。また一人の魂のために、忠実に働いていくことが重要だと語られました。

 続いて語ってくださったのが岡本信弘先生でした。その御言葉は明牧師と同じテーマでした。彼は昨年自分が語ったメッセージの結びを読み返したら「二〇一一年には険しい道がある」とメッセージを結んでいたというのです。
 彼はある意味で、昨年、預言的にメッセージを語ったのだと思います。「二〇一一年には険しい道がある」と。
 そして、今年に対して主からいただいた御言葉が、マタイの福音書二十四章四十五節〜四十七節でした。

『主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。』

 ここで述べられているのは、「主人からその家のしもべたちを任されて、このしもべたちに食事をきちんと与える忠実なしもべにならなければならない」と語っていました。
 私はこの御言葉を聞いて、はっとさせられました。私たち牧師たちの仕事は、教会に属するお一人お一人に対して責任があるわけです。それは、「食事を提供する」という役割です。今年も私たち牧師たちが、霊的な食事をきちんとみなさまに提供できるように、ぜひとも祈っていただきたいと思います。
 私たちが割り当てられた方々に、きちんと霊的な食物を提供していくならば、何が起こるのかというと、四十七節にあるように、『まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります』とあります。
 ここでも「忠実さ」について語られていますけれど、今年、神が、一人一人に、またこの教会に、小さなことにも、大きなことにも忠実でありなさいと語っておられると信じます。神に忠実に応答することを願っておられると、感じました。

 次に語ってくれたのが、四元雅也先生でした。彼が引用した聖書の御言葉の一部がルカの福音書十二章四十九節でした。

『わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。』

 昨晩、彼は神学的と言うより「化学的なメッセージ」を語りました。化学の方程式を知らないとわかりづらいのかもしれません。「燃える」とは「酸化」という現象だと語っていました。普通の紙でも、長い時間が経つと酸素と結合して酸化し、ぼろぼろになっていきます。しかし、火をつけると、瞬間的にぼろぼろになってしまうのですが、それは究極的な酸化現象です。「燃える」とはそういう意味だと語りました。「通常の酸化とは違った、究極の酸化現象が『燃える』ことだ」と彼は定義しました。

 そんな中、イエス様がこの地上に来てくださった目的は、ルカの福音書十二章四十九節、

『わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。』

 主が私たちに願っておられるのは、通常の酸化現象ではなくて、「燃える」という、「究極的酸化現象」を願っておられると語りました。なかなかインパクトのあるメッセージでした。
 そして、この「燃える」という「激しさ」の中で、聖書のストーリーは展開していったというのです。十字架も、激しい戦いでした。その激しさの中に、勝利が勝ち取られたというのです。教会の誕生のペンテコステも、激しい祈りの中で激しく聖霊がくだりました。また、宣教も激しい迫害の中で前進していったわけです。
 私たちも信仰も、ややもすると、通常の状態、放っておけば古くなって酸化するというようなクリスチャンになりがちです。しかし、主が願っておられるのは、そのような信仰ではなく、「燃えるクリスチャン」だというのです。これは「非日常」のことなのです。それを神は私たちに、願っておられるのです。魂の救いも、聖霊が注がれることも、火のように激しく、主に対するひたむきな姿の中でいただくことができるものです。そして「今年は燃えなければならない」と語られました。
 本当にその通りだと思います。私たちが聖霊の火に燃やされて、二〇一二年を過ごしていきたいと心から願うものです。
 みなさん、今年は通常のクリスチャンをやめましょう。燃えるクリスチャンになろうではありませんか。ここでアーメン言いませんね。韓国ならここで、「アーメーーン!!」と激しく叫びます。アメリカの黒人教会に行ったら全員立ち上がります。けれども、日本は静かですね。でも日本人は燃えてますから大丈夫です。激しさの中で主は業を行なわれるのです。

 最後に、上條実先生が語ってくださった御言葉は、詩篇八十五篇十二節〜十三節、

『まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。』

 今年、この御言葉に期待したいと思います。今年、主は良いものをくださると。私たちの国は産物を生じると。そのような年になることを、心から期待するものであります。
 しかしその条件は、『義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とする』ということです。それは私たちが聖められ、主の前にへりくだって、リバイバルを求めていく時に現されるのです。そのような道の中に、回復を与えてくださると思います。
 今日、私たちは二〇一二年一月一日、主の道だけをまっすぐに歩むことを決断し、主の前にへりくだり、聖められ、進んで行くことを願う者であります。

 このように、六人の先生方のメッセージは、本当に主から与えられた御言葉であり、鋭いものでした。心から主に感謝しました。くわしくは、後日、みなさんに手渡されますので、是非とも読んでいただきたいと思います。
 六人の先生方のメッセージに、私に語られている御言葉を付け加え、一つにまとめたいと願っています。

 私も暮れになりますと、いつも神の前に出て、「主よ、新しい年にどんな御言葉とテーマを与えてくださるのですか」と祈り求めることにしています。昨年は大変忙しかったので、そのようなテーマで祈ることがなかったので、祈らなくてはと思っていました。もちろん少しは祈っていましたが、なかなかピンっとくる御言葉が与えられませんでした。
 私はよく、ウォーキングしながら主と交わって祈るのですが、十二月二十一日の夜のことでしたけれど、家内に、「今から来年のテーマをもらうために、祈りに行って来る」と告げて出かけて行きました。二時間以上、来年のテーマを祈り求めながら、この地域を廻りながら祈りました。「主よ。どうか、来年に対する御言葉を与えてください」と祈り求めました。
 そして、家に帰ってきました。すると、家内が私に聞きました。「どんな御言葉をもらったの?」私は答えました。「わからん」と。
 二時間以上歩いて祈って来たのですが、まだピンっと来るものがなかったのです。家内に「わからん」と正直に答えると、「それじゃ二時間以上、何やっとっただん」と言われました。それはそうだなと思いましたけれど、私は御言葉を求めて真剣に祈ったのです。「どうか来年のテーマを教えてくださいよ。私は行き詰まっています」と申し上げて、「どうか主よ。私に語ってください」と。でも「これを語りなさい」ということはありませんでした。

 しかし、次の日の朝、不思議なことがありました。十二月二十二日の朝でしたが、朝起きようとした時、半分寝ていて、半分起きているような状態の中で、頭の中に賛美が巡り始めました。
 みなさんもそういう時はありませんか?朝起きようとした時に、歌が巡るというような体験があると思います。朝、別に賛美がしたいと思っていたわけでもないのに、賛美が巡っている時があるじゃないですか。案外、いつも口ずさんでいる歌が夢の中に出てきたり心を支配します。かつて、「さかなの歌」が流行っていた頃、どこに行ってもさかなの歌が流れていました。頭の中に「さかな、さかな、さかな〜♪」とさかなに洗脳されたようでした。くだらない歌は聞かないほうがいいと思うんですが、その日、朝起きた時に、賛美が巡っていました。
 「賛美が聞こえている・・・」と思いました。賛美が聞こえている時は、神が私たちに何かを語りたいと願っている瞬間なのかもしれません。だから、私は賛美が聞こえているただ中で、祈りながら半分寝ている感じでした。
 その時に、突然、私のところに、どういう形かはわかりませんが、声が響いて来ました。それが、今日の朝のタイトルです。「新しい年に期待せよ!!」という言葉でした。はっとしました。そして、次に響いて来た言葉が「竜を打ち落とせ!!」という言葉でした。この二つの言葉が私に響いて来たのです。
 枕元にiPhoneが置いてあったのですが、すぐにそこにメモとして書き込んでまた寝ました。
 朝起きて、「そういえば今朝、何か主が語ってくださったな・・・」と思って、メモを開いてみたら、「新しい年に期待せよ!!」と「竜を打ち落とせ!!」という二つの言葉が記されていました。私は、この言葉が主から来たものであると信じたいです。

 自分自身としては、あまり期待していない言葉でした。新しい年に関しても、不信仰な者でしたけれど、主は「新しい年に期待せよ!!」と声をかけてくださいました。
 みなさん、今年、私たちは天の王座を見て、新しい年に大きく期待しようじゃありませんか。
 そして、「竜を打ち落とせ!!」と語られたのです。その時に与えられた御言葉が、イザヤ書二十七章一節であります。

『その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。』

 この御言葉が与えられました。この世界には、「空想の生物」というのがありまして、その一つが「竜」だと言われます。竜なんていう生物は現実には存在しませんし、それは人間の空想・想像の産物だと言われます。

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 しかし、聖書を見ますと、「竜」とはサタンの象徴です。旧約聖書中の知恵文学、最大の傑作といわれているのが「ヨブ記」です。ヨブ記を見ますと、サタンがどんな働きをしているのかがよくわかります。ヨブ記一章一節〜二節、

『ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。』

 ここに、『ウツという地にヨブという名の人がいた。』これは、ヨブという人物が現実に存在したことを現しています。ウツには鬱病の人たちが多く住んでいたかどうかは知りませんが、そういう地名ですが、ヨブは潔白で正しく、主を恐れていたのです。彼には七人の息子と三人の娘がいたというのです。子だくさんでした。

 先週私には、嬉しいことがありました。四番目の孫が生まれたからです。娘のところに男の子が二十六日に生まれたのですが、またわけのわからん名前をつけました。選生(えりい)君だそうですが、本当に感謝です。

 ヨブには十人も子供がいたというのです。でも、主に仕えて素晴らしく祝福されていたヨブだったのですが、なんとある日、大変な目にあったのです。サタンが彼のすべての財産を失わせ、さらには皮膚病で彼を襲って、死にたくても死ぬことのできない大きな苦しみが伴う病となりました。
 その時にヨブの奥さんは、「なんであんたは、ここまで苦しめられても神に忠誠を尽くすのですか。神を呪って死んでしまえ」と発言したゆえに、世界の三大悪妻の一人に加えられてしまったのですが、ある意味、神様に忠実に歩んでもいろんな試練があったり、苦しいことがあったりするとそんな心境にもなります。

 しかし、ヨブは大きな苦しみに出会ったのですが、決して主から離れることはありませんでした。その後、友達たちが来て、いろんなことを言われて、ヨブは責め立てられたのですが、最終的には神様はヨブを回復し、財産を二倍にし、祝福を二倍にしてくださったのです。ヨブが主に誠実な態度を貫き通したことによって、神は彼を回復したという結論を見ることができます。

 ヨブ記全体を見ますと、ヨブの信仰は大したものだと思います。しかし一方では、ヨブのように信仰を貫いていくのは大変だと感じます。

 ある本を読みましたら、こんなことが書かれていました。「ヨブの悲劇とは何か?ヨブにしても、登場人物にしても、誰一人、問題の真犯人について気づかなかったことだ。そこに最も大きな悲劇がある。問題をもたらした真犯人が誰か、それはサタンである。ヨブ記の登場人物の中で、神を含めて、誰一人として真犯人について語らなかった。真犯人に気づかなかったことが、ヨブの最大の悲劇だ」とありました。そして、「そのことに気づくことができるのは、ただ、読者だけである」と結ばれていました。

 ヨブがそのような悲惨な人生に陥ったのは、どこに原因があったのか。友達たちもいろいろ原因を追求したのですが、気づかなかったのです。誰一人として、犯人がサタンであるとは気づかなかったのです。それがヨブの悲劇だったのです。
 ヨブ記一章、二章を読んでいきますと、ヨブは祝福されていたのですが、すべてを失っていく中に、また、健康を失っていく中に、天におけるサタンによる激しい訴えがありました。その結果として、地上に大きな問題が起こったのです。

 しかし神はそのことを隠して、ヨブには告げなかったと言われますが、実は、聖書をよく読んでみると、神は決して原因を隠したわけではないのです。
 先日、ある先生のメッセージを読んだのですが、それはヨブ記四十一章についての解釈でした。
 ヨブ記四十一章を読むと、大変興味深いことが記されています。それは「レビヤタン」という生物についてです。
 ヨブ記四十一章一節〜四節、

『あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪繩でその舌を押さえつけることができるか。あなたは葦をその鼻に通すことができるか。鉤をそのあごに突き通すことができるか。これがあなたに、しきりに哀願し、優しいことばで、あなたに語りかけるだろうか。これがあなたと契約を結び、あなたはこれを捕らえていつまでも奴隷とすることができようか。』

 レビヤタンとは、どのような生物なのか。いろんな説があります。一つの説は、「ワニ」です。この章は神がご自分の創造物である「ワニ」について語っている箇所だという解釈です。
 しかし仮にこれがワニだと仮定して読んでいくと、矛盾が生じます。ワニは釣り針で釣り上げることもできるし、縄で縛ることもできるし、人間はワニをコントロールすることができるからです。
 でも、ここでレビヤタンとは、全く人間には歯が立たない生物だというのです。ヨブ記四十一章八節〜十節、

『その上にあなたの手を置いてみよ。その戦いを思い出して、二度と手を出すな。見よ。その望みは裏切られる。それを見ただけで投げ倒されるではないか。これを起こすほどの狂った者はいない。だから、だれがいったい、わたしの前に立つことができよう。』

 神様以外でレビヤタンほど強い生物はいないというのです。人間は、レビヤタンを見ただけで倒れてしまうというのです。そんな生物がいる、と神はヨブに告げておられるのです。「そいつと戦うことだけは止めておけ。一度戦ったら大変なことになるから」と語っているわけです。また、ヨブ記四十一章十八節〜二十二節、

『そのくしゃみはいなずまを放ち、その目は暁のまぶたのようだ。その口からは、たいまつが燃え出し、火花を散らす。その鼻からは煙が出て、煮え立つかまや、燃える葦のようだ。その息は炭火をおこし、その口から炎が出る。その首には力が宿り、その前には恐れが踊る。』

 すごい生物じゃないですか。くしゃみと共に稲妻が出るというのです。恐ろしい生物です。これは神が創造のみ業について語られている中で、レビヤタンを取り上げられていますから、ワニでも、架空の生物ではなく、現実にそのような生物がいると語っているのです。ヨブ記四十一章二十五節〜二十六節、

『それが起き上がると、力ある者もおじけづき、ぎょっとしてとまどう。それを剣で襲っても、ききめがなく、槍も投げ槍も矢じりもききめがない。』

 どんな武器を持っても、戦うことのできない相手が「レビヤタン」だと言うのです。そして聖書はレビヤタンの別の表現として「竜」と表現しています。レビヤタン、竜とは、決して空想の生物ではなく、実在の生物だというのです。それは人間が手出しできないものすごい生物であり、そんな生物が宇宙には存在するのです。
 実は、神がヨブに伝えたかったメッセージは、四十一章を通して、「ヨブを苦しみのどん底に突き落としたのは、世界で最強の獣、レビヤタンだ」と告げたかったのだ、と語られていました。それが「サタン」なのです。

 普通ならば決して勝つことのできない存在、レビヤタン、竜に対して、神は何をしてくださったのでしょうか。イザヤは二十七章一節で、

『その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。』

 人間ではどうにもならない、サタンの勢力を主が打ち破ってくださるという約束が、旧約聖書のイザヤの預言の中にあるのです。
 そしてそれは、やがてイエス様がこの地上に来てくださり、何をしてくださるかの約束でした。ヘブル書二章十四節〜十五節、

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

 イエス様がこの地上に来てくださり、十字架で死に、死を打ち破りよみがえって下さったのは、死の力を持つレビヤタン・竜、すなわち、サタンを打ち砕くためでした。イエス様の十字架と復活によって、決して手出しできなかったレビヤタンに、人類が立ち向かい勝利できるようになったのです。イザヤ書五十一章九節、

『さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。』

また、ヨハネの黙示録十二章七節〜九節、

『さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。』

 今まで天において神の前で私たちを訴えていた竜が、イエス様の十字架と復活の勝利によって、天から投げ落とされたのです。レビヤタンは権威を失ったのです。黙示録十二章を読み続けると、その戦いは、キリストの花嫁たちの集団、すなわち「教会」に託されたことが記されています。
 今、竜との戦いは、教会によって地上で継続されているわけです。私たちは今年、日本を長く牛耳ってきた、この竜が打ち落とされる年になることを、大きく期待しよではありませんか。

 今年は竜がかなり注目を浴びています。みなさんご存知ですか?日本人は、出会った時に「何歳ですか?」と聞くのではなく、「何年生まれですか?」と聞きます。私も時々他の教会に行って、「順先生は何年生まれですか?」と聞かれますが、私はいつも「イエス様年です」という風に答えるのですが、何を期待しているのかというと、「干支」を聞きたいのです。
 干支を意識してはいけません。十二支とはどこから来たかというと、それはサタンから来ています。「アジアの占いの根源に十二支ありき」です。ヨーロッパの方になると星占いと対応して、「黄道十二宮」と呼ばれます。アジアになると動物に対応して十二支となります。さらに、中国の陰陽五行が関わって六十年で干支は一周します。還暦はそれを意味します。「アジアの占いの根源に十二支ありき」です。ということは、干支を意識して自分の年にすることは、すなわち、サタンの策略にかかることです。

 今年は何年と呼びますか?それは「辰年」です。「今年は辰年だから、昨年はひどかったけど、今年はいいことがある」なんて考えています。しかし、聖書から見たら、辰、すなわち竜とは、悪魔、悪霊の象徴です。この年に私たちは、竜に対して戦いを挑まなければなりません。
 イザヤ書では、『この曲がりくねる蛇レビヤタン、海にいる竜を殺される』とあります。私は、今年と来年はたいへん重要な年だと思います。なぜならば、竜と蛇に戦う年だからです。今年が辰年、来年は巳年、このように人々が竜だ蛇だと言って、竜と蛇を礼拝するときにこそ、激しい霊的戦いが必要なのです。そのとき、サタンとその子分どもが打ち倒されると信じます。

 また、辰という文字は地震の「震」から来ています。辰年というのは、震える年とも書き換えることができます。今年、国民が竜を拝むとことは、地震を引き起こす権利を悪魔に与えるようなものです。
 私たちは今年、日本が地震から守られるように、祈らなければなりません。二〇一二年、二〇一三年は、竜と蛇が打ち砕かれる年、すなわち悪魔が打ち落とされて、日本にリバイバルが来る年になってほしいと期待しています。
 太平洋戦争の時に、アメリカがプロパガンダとして、このような日本地図を使いました。

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 日本は竜の国だと西洋諸国に宣伝しました。すなわち、悪魔の国であると言いたかったわけです。まさしく日本は竜のような、ドラゴンに支配されている国かもしれません。

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 十二支は、方角も含んでいます。竜は、東南東三十度が今年の方角だというわけです。それで恵方巻きをその方向を向いて食べるのです。それは自ら悪霊を呼ぶ呪術的行為です。そういうことをしてはいけないです。

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 今年と来年は、竜と蛇を象徴する年ですが、私たちにとっては竜と蛇をやっつける年になります。

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 竜と蛇を踏みつけて、勝利の年になって欲しいと願っています。
 神様はこの年に大いなる計画を持っておられると信じます。「新しい年に期待せよ。竜を打ち落とせ」と、ある意味、霊的戦いの最終決戦が、今年と来年かもしれません。日本に大いなる勝利が現されることを堅く信じる者であります。
 二〇一二年に対する七人の牧師たちのメッセージを総合して、私の視点でまとめさせていただきました。最後にそれを紹介して、終わたいと思います。

<二〇一二年に対する預言的メッセージ>

 今や人類の歴史は最終章に入りました。今年も世界に様々な事件が起こるでしょう。しかし恐れてはなりません。人は神の業を始めから終わりまで見極めることは出来ないのです。けれども、すべてはわたしの手の中にあります。神の行うことは、すべて時にかなって美しいものです。あなた方は今年も、福音を伝える為に全力を尽くしなさい。

 地上の王座を見ないで、天の王座を見なさい。わたしは常に天の王座に座っています。わたしは日本の主です。今年はあなたがたにとって、勝利と征服の年となるでしょう。今までなかった新しい創造と救いと奇跡の年となります。

 その為には、小さいことに忠実でありなさい。あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与える、忠実な賢いしもべとなりなさい。その時、わたしはあなた方に全財産を任せます。

 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためであることを忘れてはなりません。わたしはその火が燃えていることを強く望んでいます。1992年に、あなた方の教会に起ったことを思い出しなさい。普通であってはなりません。燃えなさい。わたしの前にへりくだり、聖めを求めなさい。その時、わたしはこの国に産物を生じさせます。

わたしは今年、この国を長く支配していた竜を打ち落とします。わたしに期待しなさい!!

「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。」


 このようにまとめさせていただきました。これが主からの言葉であったことが二〇一三年の新年に確認できたら感謝です。主が、今年、何をしてくださるのか。新しい年に大きく期待していきたいと願っています。

 今からイエス様の十字架、そして復活を記念して、聖餐にあずかりたいと願います。昨日もちょっと話ししたんですが、私は昔、この教会の伝統として、聖餐式が毎週あるのは面倒だと考えていました。月一度でいいじゃないか、ジュース代もかかるし、パン代もかかると、馬鹿なことを考えていました。
 でも、一九九二年の七月でしたが、この教会で地域に対する霊的な戦いが始まりました。あの日のことを忘れることはできません。どう表現していいのかわからないのですが、本当に強い聖霊様の促しを受け、外に出て行って、蛇と戦うように、竜と戦うように押し出されました。
 「さぁ、出て行くぞ!」と、この場に集まり祈って出て行こうとした瞬間、主が「ちょっと待て!」と言われました。そして、聖餐式をやってから出て行けと語られました。
 私は聖餐式の真理に対して、理解のない者だったのですが、主が「ちょっと待て。聖餐式をやってから出て行け」と言われたのです。急遽、パンとジュースを買って来て、聖餐式をしてから出て行ったのを鮮明に覚えています。

 みなさん、聖餐式に毎週のように預かっていますけれども、これはただ事ではないのです。教会はキリストの体です。頭がイエス様です。私たちは単独で、竜と戦うことはできません。「二度と手を出すな」と言われるくらいですから。しかし、この戦いは「教会の権威」の中に託されているのです。私たちがキリストの体に属し、それぞれ植えられた場所にしっかりと固定される時に、司令官であるイエス様からの知恵が来て、キリストの体全体でレビヤタンを打ち砕くのです。
 今日は教会のすべての兄弟姉妹が、イエス様を頭とするキリストの体の各部所にしっかりと植えられ、竜との戦いに勝利できるように、十字架の血潮を仰いで一年を始めたいと願っています。
 今から聖餐の一時を持ちますけれど、へりくだって主の前に出て、聖餐をいただきたいと思います。第一コリント十一章二十三節〜二十八節、

『私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。』

 「主の前にへりくだり、聖められることを求めなさい」と語られましたけれど、イエス・キリストの十字架の血潮を心から感謝し、聖めをいただいて、キリストの体に属して、「主よ、この戦いのために私を勇士として用いてください」という祈りと共にい聖餐式を行います。一言祈ります。

 ハレルヤ、父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。この二〇一二年、主よ、あなたに期待します。あなたがどんなことをしてくださるのか、期待します。主よ、大いなる御業を表してください。今日は年の初めにあたり、イエス様の十字架と復活を記念し、聖餐に預かることができ心から感謝します。十字架の血潮で私の霊・肉・魂のすべてを聖めてください。この戦いに勝利するための備えを今日、お与えください。そして、この国に大いなるリバイバルを起こしてください。尊いイエス様の御名によって、祈りを御前にお捧げいたします。アーメン。