HOME > メッセージバックナンバー > 2012年バックナンバー > 1月 > メッセージ2012年1月15日

『新しい年に期待せよ!パート3』

2012.1.15(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
エペソ人への手紙 6章18節

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』


 ハレルヤ!おはようございます。今日もこうして、みなさんの前に立ってメッセージを取り次がせていただけることを、心から感謝します。一月は五回日曜日がありますが、四回メッセージを取り次がせていただき、心から感謝します。新しい年が始まって、今日はすでに十五日ですけれど、どんどん進んでいきます。クリスチャンにとっては、毎日毎日が主の日であって、神から与えられた良き日です。
 今日のタイトルは、先週に続いて「新しい年に期待せよ!パート3」です。シリーズで語らせていただきたいと思っています。

 私は先週、韓国で奉仕をさせていただき、昨日帰って来ました。今日はこれが終わりましたら、午後は東京で集会があって、その足でペルーに行きます。是非ともお祈りください。

 新城教会に二十数年前からペルーの方々が来られるようになり、インターナショナル集会が始まりました。今ではフェルナンド先生が指導してくださって、多くの方が集っておられます。日本で初めて福音を聞いて、本国にお帰りになった方々も、この二十年で何百人おられるのかわかりません。ペルーだけでなく、他の国々、特にブラジルの方々も多くおられます。しかい、新城教会ではペルーの方々が案外多いです。
 来週の日曜日は、新城教会ペルー支部といいますか、ペルーのリマで礼拝を持ちます。新城教会で救われた方々が、一年に一度、みんな楽しみにしてやって来られます。日本の片田舎に仕事のために来られて、イエス様と出会うとはまったく考えなかったと思うのですが、新城で救われてペルーで信仰生活を送っておられる方々が本当に多いのです。その集会には家族や親族も一緒に来てくださるのです。
 また、数年前からリバイバル聖書神学校を卒業した下田という兄弟が、宣教師としてペルーに遣わされています。今日もリバイバルミッションニュースが手渡されましたが、その中に彼のことも紹介されています。彼がペルーに遣わされたことで、宣教が拡がっています。
 今週、特に祈っていただきたいのですが、金土の二日間、リマから四時間くらい北に行ったワッチョという街で集会があります。今回は、私とフェルナンド先生と、ヤキマからジョー先生も一緒に行くのですが、集会を持ちます。その集会のチラシをちょっと見せたいと思います。

スライド1.JPG

 すごいでしょ。すごいポスターを作ったもんだと思います。「戦いのために備えよ!」というタイトルです。街のスタジアムで集会をやります。何人集まるかわかりませんが、会場はスタジアムなのです。
 しかし、集まる人数は問題じゃありません。なぜそこでやるかというと、ワッチョという街はペルーで最も霊能者や霊媒師が多い街なのです。周囲には何千人という霊能者や霊媒者がいて、毎年彼らはそのスタジアムを借りて、魔法使い大会をやるのです。全国から魔法使いを集めて、悪しき集会をやるのです。だから、ワッチョは暗い街です。
 今回はワッチョの二十幾つかの教会が協力して、悪しき集会が毎年行われるその場所で、街を支配する悪霊どもに対して、竜どもに対して、立ち向かう集会なのです。街の教会が勝利するための集会をやりたいと願っています。ぜひとも、祈っていただきたいと思います。かなり挑戦的な、挑発的な集会です。しかし、きっとすばらしい栄光が現されるのではないかと期待しています。よく、祈ってくだされば、再来週、良いおみやげ話しを持って報告できると思います。祈りが弱ければ「あれ?」という感じで帰ってくるかもしれませんが、是非とも祈っていただきたいと思います。
 キリストの体は国を越え、言葉を越え、空間を越えます。世界規模で主は働いてくださるわけです。

 先週もみなさん方のお祈りに支えられまして、韓国で集会をもたせていただいたのですが、日本でもアグローという女性の方々の集りがあるのですが、とりなしのために召された、聖霊の火に燃えた方々が集っておられます。韓国も皆、アグローの方々は熱いです。
 特に韓国のアグローの会長さんはすごく燃えている方で、韓国リバイバルミッションも、手伝ってくださったのですが、アグローのリーダーたちの三日間の修養会がありまして、私を招いて下さいました。

スライド2.JPG スライド3.JPG

 みなさんの祈りによって、毎回、すばらしい集会となりました。心から感謝します。「戦いに備えよ!」とペルーでもタイトルが付きましたけれども、私たちも、霊的戦いに備える必要があるのではないかと思います。

 今日読みました聖書の箇所は、エペソ人への手紙六章十八節です。

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

このみ言葉も、今年一年の指針の言葉として、受け取っていただきたいと思うのです。ここで強調されているのは「祈り」です。
 今週も礼拝の後、愛知県民の森に行って祈るプログラムがあります。先週、参加させていただきましたが、祈りが自然に湧き上がって来て、楽しい祈りのー時でありました。今日もありますので、ぜひ参加していただきたいと思います。
 祈りは大変重要な真理です。祈りを持って、目に見えない敵と戦うわけです。

 ちょっと先週の御言葉とメッセージを復習させていただきます。黙示録の十二章の十七節から語らせていただきましたが、

『すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。』

今週の週報に「先週の御言葉」という箇所に、全体がうまくまとめられています。今回は、誰がまとめたのか知りませんが、案外うまくまとめてあります。たまに「あれ?ちょっと趣旨と違うな」ということもあるのですが、まとめる方がそのように感じたわけですから、それでいいのですが、今回は、先週のメッセージを趣旨通り、短くまとめてあります。

「イエス様の到来と十字架の復活は、竜、レビヤタンに対する勝利でした。しかし、地上に落とされた竜、レビヤタンは教会とクリスチャンを狙っています。教会とは、イエス様が頭で一人一人がキリストの体に属する各器官であり、主からの使命と賜物が与えられています。それらが百パーセント生かされる秘訣は、キリストを頭としたキリストの体、教会に植わることです。霊的戦いは個人戦ではなく、教会とレビヤタンとの戦いです。教会という権威の中で、レビヤタンが打ち破られていく年となることを信じています。」と、うまくまとめてくれました。

 霊的な戦いは、個人戦ではなく、教会対敵の勢力との戦いです。今年一年が守られるためにも、どうしても教会の祈りが必要です。一人一人がキリストの体の各器官として、定められた場所に位置につく時、教会は力強い働きをします。
 聖書に記されている真の教会が、地上に現されることを私は切に願うものです。新城に、聖書に記されている『教会』が現されるように祈り続けなければならないのです。そのために必要なのは、一人一人が神からいただいた賜物を結集し、キリストを頭とした各器官として定められた場所にしっかりと植わることが重要です。
 それぞれに役割があるのです。誰の役割が重要で、誰が重要ではないということはありません。それどころか『弱いと見えるような器官がかえってなくてはならないのです』と書かれています。
 この教会には、子供からお年寄りまで、幅広い年齢層がおられます。しかし、お一人お一人が本当に重要な役割を果たしていると思います。
 そんな中でも、私はいつもハレルヤ会のおじいちゃん、おばあちゃんにたいへん感謝しています。なぜならば、必ず私のために祈ってくださっているからです。もちろん皆さん祈ってくださっていますが、お年寄りの方々は、週報をいつもよく読んでいて私のスケジュールもよく知って祈ってくださっています。「順先生、韓国のために祈っていましたよ」「ペルーのために祈っていますよ」とよく声をかけてくださいます。時々、週報が間違っていたり、情報が間違っていてもその通りに祈ってくれます。忠実さが溢れています。
 このような祈りがあって、私も自由に働けるのだと思います。私もやがてハレルヤ会に入るわけですけれど、その時には、若いみなさんを支える役割になりたいと思ってます。与えられたパートを満たして、今年は勝利したいと思います。

 そんな中で必要なのは、キリストの体の各器官、その一つ一つが主からの情報を受けとって祈ることではないかと思います。『互いのために祈りなさい』と、ここでは教えられています。『すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』と書かれています。キリストの体に属するお一人お一人のために、お互いに祈り支えなさいというのです。

 私たちは目に見えない敵と戦っているのですが、内側が弱かったら、外に戦いを持ち出すことは出来ません。今年は内側が健康で喜びに満たされて、なんの問題もなく祝福されていたら、神の国の働きは拡大していくと思います。お互いを支える祈りは、そのような意味でも重要です。

 人類は、どの時代を見てみても「祈り」を止めた時代はありません。「祈り」とは、ただキリスト教用語ではなく、どの宗教にもあります。昨日も「祈り」という言葉が一般的にはどういう風に定義されているのかを「ウィキペディア」で調べて見ました。ウィキペディアの情報はあんまり確かじゃないですけれど、時々は「うまく表現したな」と感心する情報もあります。そこには、こう定義されていました。
 「祈りとは、神ないし、神格化されたものと、意思の疎通を図ろうとすること。あるいは、神に何かを願うことである。」とありました。祈りは人間だけに与えられている機能です。
また、「祈りはキリスト教に一番顕著だ」とありました。
「キリスト教における祈りとは、信仰生活の中心を成す宗教行為の一つである。その形は賛美、感謝、嘆願、とりなし、静聴、悔い改め、と多数であって、これらの組み合わせが一般的に祈りと言われる。異教の祈りと根本的に異なるのは、まず、神の御言葉に聞いて、それに基づいて祈ることが肝要で、単に自分の願いを打ち明けることにあるのではない。その意味で、祈りと聖書を読むこととは、クリスチャン生涯では一体的な営みとされる」とありました。

 誰がまとめたか知りませんけれど、なかなかうまいことまとめたと思いました。
「異教の祈りとキリスト教の祈りは根本的に違う」というのです。私たちの祈りは、神の御言葉に聞いて、それに基づいて祈るということだというのです。しかし異教の祈りは、自分の願いをただ、霊的存在に打ち明けるのに終始するというのです。
しかし、クリスチャンの祈りは、神に聞くことだというのです。「その意味において祈りと聖書を読むということは、クリスチャン生活においては一体的な営みだ。」と。

祈りは、県民の森に入って「主よー!」と叫ぶことも祈りですが、同時に聖書をしっかりと読む必要があります。
 今日私はちょっと大きい聖書を持っているのですが、いつもは小型の聖書を使っています。なぜかと言うと、聖書を韓国に忘れたのです。「よく韓国に行くから、向こうに一冊ぐらい預けておけばいいか」と思っていますが、御言葉の剣を落としてはいけないのです。
 み言葉を通して神に聞いて、「このことを祈りなさい」という事柄を祈るならば、教会は勝利していくのです。
 そして、『お互いのために祈り合いなさい』とエペソ書では勧められています。

 そもそも人類がいつから祈りを始めたのかというと、祈りの起源についても述べられています。創世記四章二十六節、

『セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。』

と記録されています。聖書の記録によりますと、人類最初の祈りは、セツという人に男の子が生まれて、エノシュと名付けられたのですが、エノシュが生まれた頃に主の名によって祈ることを始めたというのです。
 セツというのはどういう人物であったかというと、アダムとエバにカインとアベルと子どもがいたのですが、その弟です。彼がエノシュという子供を設けたのです。その時に祈りが始まったというのです。
人類は主の御名によって祈るということから始まったという記録です。アダムが百三十歳の時にセツを生んでいて、セツが百五歳の時にエノシュを生んだと書かれています。
 セツという人は九百歳まで生きたと記録されていますけれども、聖書を見ると、初めの人たちは信じられないほど長生きです。しかしそれは当然だと思います。当時は、環境的にも汚染されていなかったですし、人類が創造されてまもない時代であったわけですから、人間の遺伝子も突然変異なんかしていなくて、完全なものだったと思うのです。神が創られた完成品は、強力なものだったのです。
しかし現代では、神がはじめに与えた機能が失われ、衰えています。
なぜ何百歳までも生きることができるような強い人間が、弱くなったのかというと、人類が罪に手を出した結果です。ご存じのように、アダムとエバが知恵の木から実を取って食べたことによって、人類に罪が入ってしまったのです。
 それで人類は悪い方向に行ってしまったのです。神はノアの洪水で一度人類を滅ぼし、リセットしているのです。そして、初めの人類にかけたのと同じ祝福の言葉と共に、ノアの子供たち、セム、ハム、ヤペテから人類を始めています。しかし、またもや人類は悪い方向へと向かって行ったのです。
なぜ悪い方向に向かって行ったのかというと、そこに「祈り」が関わっていました。
 エノシュが生まれた頃には、主の御名によって祈っていたのですが、主の御名による祈りを忘れて、悪い祈りをするようになったからです。そのことが記されているのが、創世記十一章一節~三節です。

『さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。』

 昔は、『全地は一つのことば、一つの話しことばであった。』と書かれています。今もそうだったら、本当にいいのになといつも思います。先週は韓国で奉仕でしたが、私は韓国語はできません。でも、すばらしい通訳者が何人もいるのです。私が話さない前から私が何を話すかわかるような人がいます。先週はチェ先生が私の通訳をしてくださって、私のメッセージ以上によくなりました。でも時々もどかしいです。結構みんな、おもしろいことを話してげらげらと笑っている時、私は反応できなくて「何を話しているのだろう?」ということがよくあって、「同じ言葉だったら良かったのにな」と思ったりします。
 今週からは、スペイン語の世界です。スペイン語もわかりません。けれども、フェルナンド先生が通訳してくれます。今回はフェルナンド先生のために、特別祈ってください。今回は、私の通訳と、ジョー先生の通訳もするのです。彼は日本語と英語ができますから、私の時には日本語からスペイン語、ジョー先生の時には英語からスペイン語、そして自分もメッセージを語らなければならないのです。彼が一番大変です。そしてレストランに入ったら、支払いまでしなければなりません。祈っていただきたいと思います。

 でも、新城教会には、スペイン語でも英語でもよくできる方がおられ、バベルの塔の呪いから少し解放されているところがあるのですが、最初は一つの話し言葉だったのです。
しかし、それが多くの言葉に別れてしまったのは、どこに原因があったのかというと、創世記十一章三節、

『彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。』

と記されているのですが、この間、ある本を読みましたら、その主張によると、人類が悪い方向に向かった最初の原因は、街を建て始めたことだというのです。それも、より高機能な人工的な街を作ろうとした時、人類は悪い方向に向かって行ったというのです。
 『彼らは石の代わりにれんがを用い』とありますが、石というのは自然のものですが、「れんが」は土をこねて形を整え、天日干し、または、窯で焼かなければならないのです。ペルーに行きますと、インカの文化は天日干しのれんが文化です。人の手が加えられているわけです。それは古代の人工都市です。
 そして『粘土の代わりに瀝青』とあります。すなわち、アスファルトを使い始めたというのです。今までは自然のものでまかなっていたのに、人の手を加えて高機能都市を作ろうとした時、人類はおかしな方向に向かって行ったというのです。

 私たちは現代科学の恩恵を受けています。高機能な都市に住んで、その恩恵を受けているわけです。そんな中にも、レビヤタンの策略があるわけです。
案外、私たちはそれに流されて、レビヤタンの策略を見抜くことができなくなっています。

日本には整った社会があります。感謝なことでもあります。実は、私は今朝、「日本っていいな」と思ったことがありました。それは何かというと、昨日、私は韓国から帰って来て、すぐに同じトランクをペルーに持って行くので、新しく荷造りをして、宅急便に持って行きました。その時にキャラメルを口に放り込んで食べながら出かけて行きました。すると、ガチッと音がしました。「あれ?硬いキャラメルだな」と思って見たら、なんと差し歯がキャラメルと一緒に取れていました。
時々歯が取れちゃったりすると、本当に惨めですよね。一本取れただけで、口の中にものすごいスペースが空いたような感じがして、歯が一本ないだけで空気が漏れて話しにくいし、何よりも、自由に食事ができないのは残念です。「ペルーのおいしい食べ物が食べられない!どうしよう~!」と思って、アロンアルファかなんかでつけてしまおうかと思いましたが、インターネットで見たら「それは絶対にだめ!」と書いてあったので、あきらめかけたのですが、新城市のホームページを見たら、日曜日の朝九時から休日診療所で歯科があると書いてありました。「やったー!」と、朝八時半から行って一番に並んでいましたが、他に誰も来ませんでした。私一人だけでした。すごく丁寧に直してくれました。本当に、カムサハムニダ。ありがとう。サンキュー。グラシアス。というような感じでした。本当に感謝をしました。日本っていい国だなって思いました。高機能な国です。

 しかし、人類の方向がおかしくなったのは、石の代わりにれんがを使い、粘土の代わりにアスファルトを使って都市を作り始めた時からでした。そして、都市を高機能にする為の手段に「悪い祈り」があったのです。そのことが書かれているのが、創世記十一章四節~九節、

『そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。』

 現代人は一つ、大きな誤解をしています。それが何かといったら、「現代人が最も優れた人類だ」という誤解です。昔の人たちは進化途上の人たちで、今が一番進化し発達した最先端の者たちだと考えています。これは誤解であり、注意しなければならない進化論的な考えです。神が人間を造った時に、完成品として造られましたから、脳の量は昔も今も同じです。昔と今と違うとしたら、どこが違うのかというと、それはただ一つ 、価値観の違いだけです。
 現代社会のハイテクとはなんでしょうか。それはコンピューター社会です。コンピューターをなくしてしまったら、人類は生きていけないのです。すべてにコンピューターが関わり、それによって制御されている社会です。
 また、様々な分野にハイテクと呼ばれるテクニックが使われていて、日本はハイテク産業が盛んだと言われます。今の社会が持っているノウハウと知識は、今までの人類の歴史の中で最高のものだと私たちは考えています。でも、これは現代人のおごり高ぶり以外のなにものでもないのです。

 昔の人たちは、全く現代人とは違った価値観を持っていたのです。彼らのハイテクは何であったのかというと、それは「祈り」だったのです。祈りが彼らにとっての最高のハイテクだったのです。
 そして、その祈りの象徴がバベルの塔だったのです。都市の真ん中に高い塔を作り、頂上には神殿を作って、神に対する祈りをするのです。神というよりも霊的存在にです。霊的存在を人類に招き、彼らと取り引きをすると、普通では絶対にできないことでもできるという、現代人では予想することもできない霊的ハイテクを古代の人々は持っていたのです。

 エジプトに行きますと、ピラミッドがありますけれども、ピラミッドは今まで王の墓だと思われていました。しかし、そうではないことが分かってきたのです。それは、なんらかの霊的施設であったことがわかってきたのです。
 今週はペルーに行くのですが、ペルーに行きますと、なんとエジプトよりも時代的に古いピラミッドが多くあります。それも一基を造るのに何億個もれんがを積んで築かれたピラミッドが数多くあるのです。それは、リマのただ中にもありますし、今回行くワッチョ付近には、ピラミッド群が存在します。一体、誰がそんなものを作ったのかというと、インディオと呼ばれる人々の先祖、それはアジアから渡って来た人たちでした。それらを調べてみると、エジプトよりも時代が古いのです。
 それで何をしていたのかというと、頂上の神殿で悪霊を呼ぶ為の施設として使用していたのです。それを「シャーマニズム」と呼びます。ピラミッドとは砂漠に山を人口的に作って、頂上で生贄を捧げて霊を呼ぶと、霊が喜んで降りて来て、人類と取り引きすると言う、テクニックでした。人類はそれを高度に発展させ、シャーマニズムに終始していたのです。

 私たちはハイテクの先端である飛行機で世界中を旅行します。ペルーまでは飛行機で二十数時間かかります。二十数時間で地球の裏側まで行けるわけですから、近いです。私たちは、これが現代人のハイテクだと考えていますが、昔、シャーマニズムというハイテクを持っていた人たちは、飛行機など作らなくても、一瞬にして日本からペルーまで移動するような技術も持っていたみたいです。聖書の中にもそれを示すような記述があります。彼らは距離も時間も空間も、自由に飛び越えるような技術を持っていたかもしれないと言われるのです。

 何年か前にハワイでリバイバルミッションを行いました。ハワイ諸島は太平洋の真ん中にあります。しかしそこに、何千年も前から人が入っていたのです。それは偶然、漂着したのではないのです。ちゃんと位置情報を持って、目的を持ってそこに来ているのです。どうしてそんなことが出来たのでしょうか?それは、現代人では計ることができない、ハイテクニックを彼らは持っていたからです。それが何かというと、「祈りのテクニック」でした。それも、悪い祈りのテクニック、すなわちシャーマニズムでした。

 バベルの塔は、シャーマニズムを始めた人類に対して、神がストップをかけた記録です。
人間が創造の初めに持っていた言語は、相当パワフルなものであったと思われます。神が天地、宇宙、そして、人類を創造した時の言語を人に分け与えた訳ですから。その言葉は創造性豊かなものであったと思われます。しかし、シャーマニズムを行なった事により、神は本来人類に与えた言葉のパワーを弱め、世界中に散らしたのです。
祈りとは、本来はたいへんパワフルなものであったわけです。でも、人類が悪い祈りを選択したことによって、祈りのパワーそのものが弱められてしまったのではないかと思うのです。

 しかし、イエス様がこの地上に来てくださって、聖霊様が来てくださった時、何が起こったのかというと、今まではコミュニケーションできないような、言葉が通じない人達とコミュニケーションが回復したのです。弟子たちが聖霊を受けた時、他国の言葉を話したからです。

 先週、異言の賜物についてお話しましたが、聖霊が来られる時、言葉に変化が起きるのです。皆さんの中にも「異言の賜物を持っています」という方がおられると思うのですが、それはたいへん重要です。なぜなら聖霊様が来られる時、言葉に変化が生まれるからです。それは何のしるしかと言うと、神が元々人類に与えた祈りの機能の回復です。
 私たちはバベルの塔が築かれる以前の祈りの力を回復しなければならないのです。ですから、エペソ六章十八節は何と言っているかというと、『どんな時にも御霊によって祈れ』というのです。聖霊様の与えた言語で祈る事も、神に聞いて祈る事も同じ御霊による祈りです。

御霊によって祈る時、すべての聖徒が守られ、教会は強められ、レビヤタンに対して立ち向かうことができると、ここで教えているのではないかと思います。
 エペソの六章十八節の言葉は、六章の前半を受けながら、結論的に語られているのですが、六章ではどういうことが語られているかというと、これはエペソ人への手紙の結論的なまとめです。十節からは大変有名な箇所ですが、エペソ人への手紙六章十節~十七節、

『終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』

そして、十八節、

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。』

となっています。これは、霊的戦いのために、祈りがどのくらい重要かを教えています。新改訳聖書では、「エペソ人への手紙」となっています。そこから受ける印象は、日本人、アメリカ人、新城人とか、エペソの街の人達だから「エペソ人」という風に思いますが、エペソ人への手紙は、「エペソの教会」に宛てた手紙です。実は、これは「教会」に対して語られている言葉なのです。
 案外、私たちは、これを個人的に受け取るのですが、もちろんそれも間違いじゃないと思いますが、エペソ人への手紙六章は、教会に語られている言葉なのです。先週も語ったように、「キリストの体に属する」という、「キリストを頭とした各器官全体」、すなわち教会に対して主が語っておられる言葉であるわけです。

 ここで『すべての武具をとりなさい』と書かれています。『では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。また、信仰の大盾、救いのかぶと、御言葉の剣を受け取れ』とありますが、これは「教会が武装しなければならない」ことを教えているのです。教会が霊的な戦いに備えて武装する時、邪悪な日に対抗できるのです。
 悪魔はいろいろなプランを持っていて、人類を、特に、教会を破壊するために常に働いていると前回もお話ししました。悪魔は、キリストの花嫁である教会を狙っています。しかし教会全体が武装して、そこに属する一人一人が御霊によって祈る時、「決して負けることはない、すばらしい勝利が現される」と教えているわけです。

 今年は新城教会がエペソ六章にあるように、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備えの靴、信仰の大盾、救いのかぶと、御言葉の剣が与えられ、完全に武装されて、敵の力を完全に打ち破る教会になることを祈ります。
 キリストの体に属する一人一人に、神は役割を与え、全体的な賜物で勝利していくのです。

人間の体も同じです。例えば冷蔵庫から食品を取りだして食べる時、何気なく取り出して食べるのですが、多くの情報を総合して食品を口に入れているのです。
 まず、冷蔵庫を開けた時に、ふわ~っと冷気を感じます。それはどうでしょうか?冷蔵庫を開けた時に熱い空気を感じたら「大丈夫かな?」と思うわけです。そして、手に食品を掴んで見て、その感触でりんごなら、りんごの硬さを覚えていて、次に目で情報を集めて「これはちょっとおかしいな」とか、「これならば食べてもいいかな」と情報を受け取るわけです。それで、段々とりんごが口に近づいてくると、今度は鼻という機能が働いて「これは腐ってるんじゃないか」とか、また新しい情報が加わります。それで最終的に食べるか食べないかを判断して、がぶりとりんごを噛んだ時に、さらに、歯ごたえと舌で最終確認をして、オッケーが出たら飲み込むわけです。一つの食品を冷蔵庫から取り出して食べる時だって、人はいろんな情報を総合的に取り込みながら判断し食べているわけです。
キリストの体も同じだと思うのです。ある人は肌で感じる人もいれば、目のような人もいれば、触った時の感触とか、いろんな情報を総合して、やがて勝利が来るのです。

 前にもお話ししたことがあるのですが、飛行機に私はよく乗るのですが、飛行機を構成している材料は、恐ろしいことにどれ一つとっても空を飛べるような材料は一つも使われていません。何百万点というような部品が使われていますけれど、何が飛行機を飛ばすのか。すべての部品は手を離せば下に落ちるものばかりです。はっきりいってそんなものに乗るのは怖いですよね。いつ落ちても文句は言えません。いつも、「もしかしたら落ちるかな?」と思いますけれど、飛ぶからにはそれぞれの部品の役割があるわけです。翼には翼、エンジンにはエンジン、客席には客席、それぞれの役割があって、それらが全部うまく機能する時に飛ぶわけです。
 しかし、飛ぶことができるのは何のおかげかというと、もちろんパイロットがいて操縦してくれるからですが、一口で言えば、飛行機には人間の知恵が込められているからです。人間の叡智によって、すべての働きを総合すれば空を飛んで移動できるのです。人間の知恵があるがゆえに、ノウハウがあるがゆえに、飛行機は飛ぶのです。

 教会も同じだと思うのです。私たち一人一人、手を離せば全員落ちてしまうようなものかもしれません。しかし、それぞれに役割があるのです。そして、そこに神の知恵が注がれる時、教会は飛び立つことができ、目的地まで到着できるのだと思います。「御霊によって祈る」とはそういう意味だと思うのです。

 人間の知恵や人間の思惑を実現するための自己実現的な祈りではなく、神に聞いて、神の御心を祈っていくとりなしの祈りを通して、私たちは飛び立つことができ、目的地に着陸できるのだと思うのです。

 今年、お一人一人が神の知恵をいただいて、教会全体に神の知恵を注いでいただいて、目的の場所にまで到達できるよう祈る必要があると思うのです。そのためには『絶えず目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい』と書かれているのです。

 特に、『聖徒のために祈れ。お互いのために祈りなさい』とあります。お互いのために祈り合う、それも神の知恵によって祈る。是非、今日はお帰りになる前に、周りの方と祈りの約束を結んでおいてください。「今週一週間、あなたのために祈りますよ!」と。
『忍耐の限りを尽くして祈れ』とあります。「あいつのためには祈りたくないな」と時々思う事もあるかもしれませんが、忍耐を持って祈らなければいけません。また「祈るのに疲れちゃった」という時もあるかもしれませんが、忍耐して祈らなければならないのです。

 今年は祈りの賜物を主から受け取っていきたいと願っています。そして、特に『邪悪な日に対抗して祈れ』と言われているように、邪悪な日に打ち勝つことのできるように、祈らなければなりません。

 私たちの幸せは、自分だけがうまくいっていれば幸せとは言えないのです。日本の祝福は日本一国では成り立たないし、ありえないことがわかってきました。このようなグローバルな時代になると他の国々がどう動くかで、日本の立場もまったく変わるわけです。
 今年は、アジアの諸国のために働くように主が語られていますけれども、それは結果的に私たちの祝福と守りのためにも、欠かすことのできない祈りなのです。ただ日本国内とか、自分の足元だけ見てると罠にはまるのです。広い視野で祈らなければならないのです。

 日本人は平和ぼけしていて、日本にどんな危機が迫っているのか、しっかり理解していないのではないかと思います。日本は将来何が起こるのかわからない、危機のまっただ中にある国です。昨年はそれを思い知らされた一年でした。東北の地震を通してそのことを知らされたのですが、それだけではなく、国際問題に関しても、祈らなければいけないテーマがたくさんあります。

 私は、日本とアジアの最大の危機は、私たちが生きている中で起こりえる最大の危機は、この頃は、イランが大変危ない状況ですが、それ以上に、北朝鮮問題だと思います。
 あまり、そのことに関して真剣に受け取っていないかもしれませんが、北朝鮮は、今や世界で唯一の独裁国家です。去年は独裁的な国々が滅び、独裁者が死んだ年となりましたけれど、歴史を見てもわかるように、抑圧的な権威は必ず破綻を迎えるのです。

 北朝鮮は、日本にかつてあった五人組が今でも機能していて、それが三人組になって、お互いを厳しく監視している国です。しかし今、インターネット社会になって、段々と北朝鮮にも情報が入って来ているわけです。それで今後、北朝鮮に何が起こるのかわかりません。
 戦争が起こったらどうでしょうか。日本は大きな被害を受けますし、韓国も悲惨なことになるのは目に見えています。昨日もアメリカの高官が「この数十年の間に、必ず、そのことは起こる」と言明していましたが、六十年も独裁体制があるわけです。何かが起こるのは明らかです。祈らなくてはいけないのです。特に日本の教会が祈らなければいけないのです。

 韓国に行きますと教会が、南北統一のために真剣に祈っています。先週も私は韓国で奉仕をしていましたけれども、「南北統一のために祈りましょう!」というと、普通の祈りの何倍も大きな声で皆さん祈っておられます。日本人から見ると、「同じ民族だから統一したいんだろうな~」と思うのですが、実際、今の状況をしっかり見たら、統一までには何が起きるのだろうか。本当に信じられない、悲惨なことが起こる可能性があるのです。

 実は、先週、韓国アグローで奉仕をしたのですが、聖霊様が私に一つのことを教えてくれたと思います。預言の賜物について先週も語りましたが、自分では全然考えていなかったようなことを、私はメッセージの中で語っていました。「あれ?こんなこと話してる!」と自分もびっくりして、また、聞いている人たちも「これは祈らなくちゃいけない!」と、強いインパクトを受けたそうです。
それはどういうことかというと、

 マタイの四章を見ると、イエス様が高い山にサタンによって連れて行かれ、この世のすべての国々と栄華を見せられて、なんと言われたかというと、四章九節、

『「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」』

 サタンが「俺の前にひれ伏せ。そうしたら、すべての世界の栄華をあげる」とイエス様に言ったのです。サタン、レビヤタンは、地球の王です。ルカ四章五節~七節を見ると、

『また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」』

と言ったのです。『あなたが私を拝むなら』と書いてありますが、横に印が付いていて『ひれ伏すなら』と、このマタイと同じ訳も可能です。
 サタンはイエス様が神の子だということは知っていたわけですから、もしもひれ伏してもらっても、自分を拝んでいるとか、礼拝してくれているとか思うほど馬鹿じゃないのです。
サタンがイエス様に要求したのは「ただひれ伏せ」と、動作、アクションを要求したのです。「ただ、それだけでいい。それだけやれ」と言ったのです。

 実は、世界でひれ伏す礼拝のスタイルを持っている国々があります。その国々を見ると、必ず、一人の人物に国の全権が渡たり、独裁者によって人々が苦しんでいるのです。ちょっと写真を見せたいと思います。

スライド4.JPG

 これはイスラムです。

スライド5.JPG

 イスラム圏の人たちは、ひれ伏して礼拝をします。イスラム勢力は今やキリスト教圏を凌ぐほどになってきています。イスラムの勢力に対して祈らなければなりません。今後、どう世界は展開するのかわかりませんが、イスラムの人たちはレビヤタンにひれ伏しているのです。その時にどういうことが起こるかというと、イスラムの国は必ず一人の人物の手に鍵が渡っています。イラクでもフセインという暴君に鍵が渡って、人々が苦しめられたし、イランはかつてホメイニという人物によって苦しめられていました。
どこのイスラムの国でも宗教指導者がすべてを束ねていて、民衆を支配しているのです。
 ひれ伏すという単純な行為ですが、その時サタンは「よし、おまえだ。おまえに鍵をやる!」と言うのです。

 そして、もう一つ、ひれ伏す礼拝スタイルを持っているのが、次です。

スライド6.JPG スライド7.JPG

 それが、チベット密教です。五体投地といって、チベット密教の人たちはひれ伏して仏教の神々を礼拝するのです。チベット密教を見てください。「ダライラマ」という人物にすべてが渡っています。今、ダライラマが世界に大きな影響を与えていて、去年も日本に来て、多くの人たちが彼に耳を傾けました。アメリカでも彼は大きな影響を与えています。彼が語ることがあたかも神の言葉になってしまうのです。中国とも対立するほどの力があるのです。

 そして、もう一つ世界にひれ伏して礼拝している人たちがいます。それがどこかというと、韓国と北朝鮮です。

スライド8.JPG

 これは韓国です。

スライド9.JPG

 これが韓国の祖先崇拝です。チェサといいまして、韓国ではひれ伏して、先祖の霊を礼拝をするのです。

スライド10.JPG スライド11.JPG

 墓で行われるチェサは一番重要なものです。韓国は氏族社会ですから、氏族全体の代表者が集まって、先祖のふりをした悪霊にひれ伏すのです。韓国だけでなく、北朝鮮もすべて含んでやるのです。レビヤタンの前にひれ伏すのです。

 日本は西暦を使っていますが、韓国では西暦ではなくて、旧暦を使っています。旧暦はご存じでしょうか。これは月の満ち欠けをカレンダーとしているのですが、江戸時代までは旧暦だったですが、今は太陽暦、西暦となりました。
 私は先週韓国に行ったのですが、韓国は旧暦を使っていますので、まだ年が明けていないのです。だからクリスマスの飾りがまだ残っています。「クリスマスかな?」というような感じでした。
韓国と北朝鮮の正月がいつかといいますと、それが来週の月曜日、「一月二十三日」です。来週の日月火が、正月三が日というやつです。二十三日月曜日が韓国と北朝鮮においては重要な日です。
 なぜなら国民のほとんどが、先祖の墓の前で北朝鮮も韓国も皆一斉にひれ伏すからです。

 先日、金正日が死んで、金正恩に政権が移りました。

スライド12.JPG

 金正恩は若干、二十九歳です。彼の父の金正日も金日成から権威を受け継ぎ、北朝鮮を独裁的に治めていたのですが、今度、金正恩に移るのです。見かけは移っているように見えるかも知れません。しかし、霊的世界ではまだ移っていないというのです。いつ移るのか。それは正月に北と南の人たちが一斉に「せーの」で悪魔の前にひれ伏した時、悪魔は、「よし、正恩、おまえに朝鮮半島をやる!」と渡すのだと、示されました。だから、来週の二十三日は、日本も大きく関係がありますから、韓国、北朝鮮の為にとりなす必要があるのです。
私はこんなこと、考えてはいなかったのですが、メッセージの最中に自分で語っていて、「あれ?なんでこんなこと語っているのか?」と思いながら話しました。
後から、「これは本当に、聖霊様が語らせてくれたんだな」と思いました。その時にみんながそのことを真剣に受け取ってくださり、「今年の正月は真剣に、悪い鍵が金正恩に渡らないように祈ります」と約束してくださいました。
北朝鮮問題は本当に重要です。キリストの体がとりなして祈ることが必要であることを、先週韓国に行った時に主から語られました。これは新城教会の皆さんにシェアをして、祈ってもらわないといけないと思いました。
 来週の日曜日は、私はいませんので今日話させていただきました。来週の日月火、旧暦の正月にお隣の国々においては、レビヤタンの前にひれ伏す行為が行われます。この「邪悪な日に対抗して、教会は祈りなさい」と語られているのではないかと感じます。新しい年に期待すると共に、竜を打ち落とすために、キリストの体が立ち上がっていきたいと願っています。

それぞれの役割の中で、いろんな祈りのテーマが主から与えられると思いますけれど、今年は深いとりなしの年にさせていきたいと思います。今週は特に、主の前に出て、主からの情報を受け取って祈って下さい。最後に一言お祈りして、聖餐式に移っていきたいと思います。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。今日はこうして、キリストの体が一つとなって、主の前に出て聖餐式ができますことを、心から感謝します。今日の聖餐式を通して、あなたが用意してくださった場所に植わり、イエス様と一つになることを宣言します。主よ、どうか今からの聖餐式を祝福してください。
 私たち一人一人があなたを頭として、その体に属することができますように助けてください。
 キリストの体である教会が、真理の土台、柱として国の歴史に大きく関わりますように。世界の歴史を変えるために、私たちを用いて下さい。今からの聖餐式のひとときを祝してください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。