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『前進するクリスチャン生活』

2012.2.12(SUN)
新城教会牧師 岡本信弘
ピリピ人への手紙 3章12~16節

『私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。』


  ハレルヤ! 主の御名を賛美いたします。二〇一二年が始まったと思ったら、早一カ月以上が過ぎてしまいましたが、今日、この場所に立って御言葉を語ることができることを感謝いたします。
 実は、一月二十二日に礼拝メッセージをすることになっていたのですが、風邪をひいて、十数年ぶりに五日間ほど寝込んでしまい、明先生にメッセージを交代していただきました。自分でも年をとったなぁと思ったのですが、何人かの人からは「先生も人間だったんですね」と声をかけられました(笑)。でも、今はいやされ、元気で働けることを感謝します。 私はインフルエンザではありませんでしたが、ちまたでは今も流行っていまので、気をつけてください。特に今年は高校や大学受験の子どもたちがたくさんいますので、彼らが体調万全で試験に臨むことができるようにお祈りください。メッセンジャーの代わりはいても、受験生の代わりはいませんから。
 代わっていただいた時の明先生のメッセージはすごく恵まれ、さすがだなぁと思いました。それにひきかえ私は、本当に語ることの下手な者ですが、主がこの場所に立ててくださったことを感謝し、私に与えられた証し、主の御言葉を皆さんにお分かちしたいと思います。

 さて、皆さんは今年、どんなことに期待し、どんな目標を立てましたか? 順先生は、一月の礼拝で「この年に期待せよ」というテーマで、主に期待することを語ってくださいました。私は、昨年末のカウントダウンで語らせていただいたように、「忠実に主に仕えるしもべになりたい」と願って、この年をスタートしました。私は主を信じて、五十年近くになり、信仰歴は長いのですが、なかなか歩みののろい成長の少ない者ですが、遅くても確実に一歩一歩前進していきたいと願っています。

 初めに読んでいただいたピリピ人への手紙三章十二節は、偉大な伝道者パウロが語った言葉です。

 『私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。』

 素晴らしい伝道の働きをしたパウロでさえ、ただただ前に向かって、主の働きをしたいと願っていることが分かります。
 今回のメッセージを準備するに当たって、今まで語らせていただいたメッセージを数年前までさかのぼって見ている時に、「忠実に主に仕える」というタイトルのメッセージがありました。それは、黙示録二章十節の御言葉からのものでした。

 『あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。』

 ここに、『死に至るまで忠実でありなさい』とあります。人生がどれだけあるか分かりませんが、私は、肉体が滅びるその時まで、イエスさまに対して忠実に歩んでいきたいと願っています。
 皆さんは、今までに命がけで何かをしたことはありますか。パウロは、何度も死線を越える経験をしたことが聖書に記されていますが、今の時代において、そのような体験をすることは少ないのではないでしょうか。
 ここには、第二次世界大戦で、戦争に行かれた方が何人かおられます。すでに天に召された私の父も、戦争で、死線を越える体験をしたひとりでした。父は、私が小さい頃、よくその話をしてくれました。幼い私には、それがどれほどのことかは理解できませんでしたが、日本が劣勢になって、今日はダメかと思うことが何度もあったそうです。ある時は、敵に追われて走って逃げているところへ爆撃され、自分の両側の人が吹き飛ばされてしまったが、真ん中にいた自分だけが助かった、ということがあったそうです。
 また、南方の島にいる時、その島が爆撃されるという情報を得て、船が助けに来たそうです。そこには大勢の人が乗船するために並んでいて、父はその船に乗れなかったのですが、先に乗っていた部下が(父はある程度の階級だったようです)わざわざ降りてきて、父を船に乗せてくれたそうです。そのお陰で父は助かりましたが、その船を最後に、島は爆撃され、代わってくれた部下は命を落としてしまったという話も聞きました。戦争に行かれた方たちは、本当に苦しいところを通られたと思います。皆さんの中には、様々な困難や病気で、生死をさまようような経験をされた方もいらっしゃるかもしれませんが、平和な時代に生きている私たちの多くは、死線を越えるような、命をかけるような体験をすることは少ないのではないでしょうか。
 しかし、昨年三月に起こった東日本大震災は、私たちに衝撃を与えました。一瞬にして大勢の方が海に飲まれ、家や車が津波によって流されている状況をテレビで目にした時には、これが同じ日本で起こっていることなのかと目を疑いました。一万数千人の尊い命が奪われ、今も行方不明の方がいらっしゃいます。このことを通して、命の尊さ、生きていくことの大変さを皆さんも感じられたことと思います。今も、被災地で困難な生活をされている方もいらっしゃいますから、覚えて祈り、できることをさせていただきたいと思います。
 人生と同じように、信仰生活もいつどんなことが起こるか分かりません。私たちが前進する時、いろいろな障害物があり、問題があります。信仰には戦いがあります。

 今日は、昨年のカウントダウンのメッセージをもう少し掘り下げ、加えてピリピ人への手紙三章から「前進するクリスチャン生活」をテーマに、三つのことを皆さんと一緒に学びたいと思います。
 皆さん誰もが、恵まれ、前進していきたいと願っておられることと思いますが、第一に、私たちが信仰を前進させていくために重要なことは、主に忠実であることです。
 これは信仰だけにとどまらず、いつの時代であっても、家庭であっても、学校や会社であっても、どこにおいても忠実さは必要です。しかし、毎日同じことを繰返し、きちんと忠実に行っていくということは、簡単なようでなかなか難しいことです。
 マタイの福音書二十四章を開いてみましょう。

 『主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。』(四十五~四十七節) 

 ここで主人が求めている人材は、毎日毎日、きちんとしもべたちに食事を整えることのできるしもべです。一人のしもべが主人から長に任命され、他のしもべたちに毎日食事をきちんと用意することを任せられました。現代においては、食べるものを手に入れることは簡単ですが、この時代において食事を整えることは、とても重要なことでした。
 皆さんの中に、今日はめんどくさいから食事はしない、という人はあまりいないでしょう。私は時々、一食くらい食べなくてもいいか、と思うことがありますが・・・(笑)。自分だけならまだしも、特に主婦はご主人や子どもがいたら、自分が食べたくない時でも、食事を用意しなくてはなりません。
 このしもべも、大勢いるしもべに対して、手を抜かずに毎日決まった時間に喜んでもらえる、バランスのとれた食事を整えるのは大変なことだったでしょう。同時に、主人から食事を任せられたということは、食事にとどまらず、しもべたちの健康管理や生活全般の管理も任せられていたということだと思います。
 私たちの霊的成長もこれと同じです。霊的成長のためには何が必要ですか? 毎日、御言葉を読み、主に祈りをささげることで魂が養われていきます。そうすることによって、私たちが世にあるいろいろな問題や、戦いからも守られて生きることができます。しかし、守られているだけでは、成長した者とは言えません。
 幼い子どもでも、毎日きちんと食事を与えれば大きくなっていきます。しかし、体が大きくなっても人間として成長したとは言えないでしょう。霊的成長において、私たち牧師やスタッフは、霊的食物を与えるしもべであると思っています。しかし、サタンは、何とか私たちを霊的栄養失調に陥らせ、神様から遠ざけようと、霊的攻撃をしかけてきます。その中で、霊的状態を維持していくために、御言葉を吸収し主に祈ることで、ある程度保たれていけるでしょう。しかし、さらに信仰成長するために必要なことは、誰かのために祈り、誰かのために時間を費やし、誰かのために奉仕することではないでしょうか。その時に、本当の意味で、成長していけるのではないかと思います。
 ここに出てくるしもべは、自分のことはきちんとできていました。しかし、それだけでは不十分で、主人から任せられたしもべたちに、毎日きちんと食事を整えるという役目が与えられ、それをまっとうできるかどうかが大事なことでした。

 私は、クリスチャンホームに生まれました。私の母は、私が生まれる前からクリスチャンで、私は、教会に行くことを母から厳しくしつけられました。毎週土曜日に行われていた子ども祈祷会、そして中高生になった時には、中高生会や、週一度の中高生の早天祈祷会には必ず出るようにと言われて育ちました。早天は朝五時半からですが、母は毎週私をたたき起こし、必ず出席させました。私は昔のことはあまり覚えていないのですが、そのことはよく覚えています。そのようにしつけられたことによって、信仰が守られてきたことを感謝しています。
 当時、明先生が証しと同時にッセージをしてくださったのですが、その時にもいつも、私たちが恵まれるというよりも、隣人を愛し、ひとりでも多くの魂が救われるために、日本のリバイバルのために奉仕しなければならない、仕えなければならないと語られたのを覚えています。その中で、私自身が主のために働きたいと願い、献身しました。

 私には二人の子どもがいます。皆さんからは、甘い親だと思われ、私自身も甘い親だと思っていますが、礼拝と家庭集会は必ず出席するように、それだけは厳しく育ててきました。
 一つの証しをしますが、献身当時(当初はまだ泉が生まていませんでしたが)、ここにおられる安城の河合兄の家の家庭集会を任せられ、子どもたちを連れて家族で九年間、毎週安城に通いました。夕方四時頃、マルイチさんからコロッケや天ぷらといった揚げ物を買い、持って出かけました。そして河合家では、河合姉(数年前に天に帰られました)が、おいしい味噌汁やサラダを用意してくださって、家庭集会に集まってくる人たちと一緒に食事をしてから、九時頃まで集会をしていました。帰りはいつも遅くなったので、ワゴン車の後ろの座席を倒して布団を敷き、子どもたちを寝かせてきたことを今もなつかしく思い出します。そのようにして、子どもたちの信仰が守られてきました。
 私たちは、自分の役割を果たすと同時に、子どもたちや、若い人たちに信仰継承していくことを主から委ねられています。
 当時河合家で一緒に食事をし、共に祈ってきた可愛かった河合家の子たちや、松枝くん、今松くん、中野くん、宮木くんといった子たちが、二十数年たった今、信仰が守られ、それぞれクリスチャンホームを築き、成長している姿を見ることは、すごく嬉しいことです。

 この二〇一二年、皆さんお一人おひとり、個人的な目標を持っておられると思いますが、ただ自分のためだけではなく、誰かのために時間を費やし、少しでもあなたの隣人のために祈る時、あなたの信仰が成長していきます。
 新城教会は、すでに六十年近くの歴史がありますから、その中ではいろいろな問題もありました。特に二十年前、この教会に聖霊の注ぎがあって霊的戦いが始まった一九九二年、甲子園ミッション一年前のことは、本当に大きな痛みでした。現在、礼拝出席人数は三百五十名くらいですが、当時も三百名ほどの方が来られていました。それが、毎週のように十人減り、二十人減りと、数カ月のうちに半分近くまで人数が減ってしまいました。丁度、教育館が建てられたばかりで、返済が始まった時でした。私は現実的な人間ですからすぐに計算して、この人数で返済していくことができるのか、大丈夫なのか、これからどうなるのかとすごく不安になりました。
 しかし、その時にこの教会に残ったクリスチャンたちが、自分のためにではなく、教会の守りために、クリスチャン一人ひとりの守りのために、日本のリバイバルのために、主を見上げて祈った、自分の恵みや祝福をさておいて祈った、そのことによって、一人ひとりが成長したと思います。その痛みがあって、新しい扉が開かれて、今日まで主の守りの中で導かれてきました。ただ自分だけがよければいいというのではなく、忠実に主の御前に歩みたい、教会に仕えていこうと決意を新たにして祈っていく時、新城教会を恵んでくださったことを、今でも忘れられません。

 明日は、新城教会に聖霊が注がれて丸二十年になります。本宮山へ登って日本のリバイバルのため、この地の祝福のために祈りの時が持たれます。行かれる方は参加して共に祈りましょう。また行かれない方も、同じ時間に是非自分の家で祈ってください。

 私たちは、マタイ二十四章四十六~四十七節に『主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。』とあるように、忠実に主に仕え、主に委ねられる者になっていきたいと思います。

 第二番目に信仰を前進させるために必要なことは、油を絶やさないことです。
 マタイの福音書にはいくつかのたとえ話が記されていますが、二十五章の一節からは、油を絶やさないというテーマで書かれています。

 『そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。』

 この十人の娘たちは、花嫁の代理人として選ばれて、婚礼会場の入口で花婿を迎え、付き添いとして花婿と一緒に会場に入る役目を担っていたようです。娘たちはみな、ともしびを手に花婿の到着を待っていましたが、なかなか来なかったので、十人とも眠ってしまいました。
 ここでは、五人の賢い娘と、五人の愚かな娘に分けられています。十人とも眠ってしまいましたが、真夜中に『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声を聞いた時に、賢い娘たちは予備の油を用意していたので、油をつぎ足してすぐに花婿を迎え、婚礼の祝宴に行くことができました。
 一方、愚かな娘たちは、ともしびは持っていたけれど予備の油を持っていなかったために、花婿を迎えることができません。そこで、賢い娘たちに、「油を分けてください」と頼みましたが、『あなたたちに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい』(同九節)と断られ、買いにいっている間に戸が閉められてしまいました。娘たちは、戸を開けてくれるようにと主人に願いましたが、主人に「私はあなたがたを知らない」と冷たくあしらわれてしまったのです。

 皆さんの信仰生活は、大丈夫ですか? 時に、人生は航海にたとえられます。船は人数や天候、様々な問題点、いろいろな状況を想定して造られ、出発していきます。しかし、時々あり得ないようなことが起こります。
 先日、四千二百人が乗っていたイタリアの豪華客船が沈没しました。この船は高級ホテルに泊まっているような設備の整った船だそうですが、もちろん誰もこの船が座礁するなど、考えもしなかったでしょう。幸い、亡くなった方は少なかったようですが、あるハンガリーの男性は、楽器を取りに戻ったために死んでしまったそうです。
 皆さんの人生にも、いつ、何が起こるか分かりません。
 先程のたとえ話で、本当は、予備の油を持っていなくても、花婿が時間通りに到着していれば、十人とも花婿を迎え、中に入ることができたのです。しかし、五人の賢い娘は、不測の事態に備えて予備の油を用意していたわけです。
 高性能の車にしても、ガソリンがなくなれば止まってしまいます。私も昔はよく、「しまった! ガソリンがなくなった」ということがよくありましたが、今の車は、燃料が少なくなるとエンプティーランプが点灯します(昔は装備されていませんでした)。ですから、ランプが点灯した時に、早めに補充すればガス欠で止まるということはありません。
 私たちの信仰生活においても、一度油注ぎを受けたらそれだけで十分かというと、そうではありません。油は使えばなくなっていきます。車のエンプティーランプのようなランプが点灯して、油が足りないことが分れば、つぎ足していけばいいということになります。しかし、つぎ足すというより、エンプティーランプがつかないように日々補充し、常に油を満タンにしていれば安心です。そのように心掛けたいと思います。
 このたとえ話から教えられることは、「いつも霊の目を覚まして信仰と希望を失わず待ち望んでいなさい」ということです。十人とも待ちくたびれて居眠りをしましたが、五人の賢い娘はしっかりと油を用意していて、役目を果たすことができました。
 私たちの信仰生活の中でも、どんな時にも、いつ主が帰って来られてもいいように、主を迎える準備をすると同時に、「主よ来てください」と期待を持って油を用意しておく者になりたいと思います。そして、主の前に出た時に、「わたしはお前を知らない」と言われないように、祈りと望みを持って進んでいきたいと思います。

 信仰を前進させるために必要な第三番目は、与えられた賜物を用いるということです。
 マタイの福音書二十五章十四~三十節には、財産を預けて旅に出て行く人のたとえが書かれています。十四~十八節をお読みします。

『天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同時に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。』

 ここには、タラントを預けられた三人の人が出てきます。一タラントといっても莫大な金額です。
 これは余談ですが、先日、なんとなくテレビを見ていましたら、あなたにどんな才能が隠されているか、クイズで見分けることができる、という番組がありました。音楽家、デザイナー、料理人、漫画家、カメラマンなどについて、十三ほどの三択問題で才能があるかどうかを判断するものでした。たとえば、デザイナーの才能があるなら、三つの答えの中から、絶対これを選ぶはずだという前提で作られていたのですが、私は、どんな才能があるかと楽しみながらその三択に答えてみました。結果は、どうだったでしょうか。見事にどの分野においても才能がないと判断されました。まさしく才能がないなぁ、何もできない者だなぁと思いました。
 しかし、聖書は何と言っていますか。皆さんそれぞれに、主から与えられた賜物があると教えています。ローマ人への手紙十二章五~八節には賜物について書かれています。

 『大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。』

 ここに書かれている賜物も、ごく一部です。主からの賜物の種類は、限りなくあると言っていいでしょう。自分には何の賜物もない、と思っている方がいらっしゃるかもしれませんが、それぞれに必ず賜物が与えられています。すでに与えられていて、使っているにもかかわらず、気づいていないだけの方もいらっしゃると思います。

 私が教会に献身した当初、二十四、五年前ですが、教会の印刷物を担当しました。教会の古い建物の一角に六畳のプレハブが印刷室として用意されました。トタン屋根だったので、夏は四十度以上にもなって非常に暑く、インクがタラタラになってしまうので、昼間は印刷ができず、夜中に仕事をしていたことを思い出します。
 そんなことから印刷にかかわり、今から二十一年前に、プレイズ出版がスタートしました。その時、夏目洋平兄が会社を退職し、献身してプレイズ出版に飛び込んできてくれました。二人とも印刷の経験もなく何も知らなかったので、ある意味、無謀だったと思いますが、試行錯誤しながら始めました。
 それからしばらくして今の所に場所が移された時も、一度印刷機を回し始めたら途中で帰るわけにはいきませんから、交代で印刷したり、ある時は、印刷室のコンクリートの上に段ボールを敷き、毛布をかぶって夜を明かしたこともありました。
 そんな中でも洋平兄は、愚痴ひとつこぼすことなく奉仕してくださり、忠実に仕えてくださいました。私に仕えたというのではなく、主に仕えてくださったことを、心から感謝しています。私一人では到底できなかったことですが、それから多くのスタッフが加えられ、現在プレイズ出版に働いている人は、二十数名になりました。
 私は、皆さんそれぞれが与えられている賜物を忠実に使って、賜物を最大限生かして主の働きをしていただきたい、そのための手助けができたら、と願っています。
 タラントを分け与えられたしもべのたとえで、五タラントもうけて十タラントを主人の前に差し出したしもべに対して言った言葉が、マタイの福音書二十五章の二十一節に書かれています。

 『その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」』

 同じ内容の御言葉を、カウントダウンの集会で明先生が、ルカの福音書十六章十節の『小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり・・・』から「忠実な者でありたい」と語っておられ、大変恵まれました。
 初めに読んでいただいたピリピ人への手紙三章十三~十六節をもう一度お読みします。

 『兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。』

 パウロは、イエスさまを信じたゆえに人々から罵倒され、苦しみを受け、何度も死線を越えるようなめに遭った人物でした。心が萎えた時もあったと思います。しかし、彼は、ひたむきに前のものに向かって進み、ただ主に仰ぎ、神の栄冠を得るために一心不乱に走り続けました。そして、多くの人を神のもとへ勝ち取るリバイバリストとして、素晴らしい働きをしました。私たちも、どんな時にも後退することなく、前進する者となっていきたいと思います。

 今皆さんの中には、大変な状況に置かれている方、病気の方、迷っておられる方、弱っている方がおられるかもしれません。そんな時こそ、私たちが忠実に主に仕え、油を補充し、皆さんに必ず与えられている賜物を使って、自分のためではなく誰かのために祈り、奉仕する時、あなたの信仰が必ず成長し、主に喜ばれることができます。
 私たちが期待している二〇一二年、一人ひとりがそのようにして、少しずつでも信仰が成長したなら、教会全体では大きな力となり、大いなる主の業が現れていくと信じます。

お祈りします。