HOME > メッセージバックナンバー > 2012年バックナンバー > 2月 > メッセージ2012年2月19日

『まさしく、その通りです!』

2012.2.19(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
コリント人への手紙 第一 2章9節

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』


   ハレルヤ!おはようございます。今日はこうしてみなさんの前でお話しできますことを、心から感謝します。震災から、まもなく一年が経とうとしています。今も賛美の中に「恐れるな、たじろぐな」とありましたけれども、人生の中ではいろいろな事が突然起こったりするわけです。そんな中にも主が共におられるということは、感謝なことです。
 先日も、震災にあった方と出会いました。それも原子力発電所から二十キロくらい離れた村に住んでおられた方だったのですが、その方は震災に会われたのに元気が良くて、喜んでいました。なんで喜んでるのかな、と思ったら、「私は、命が助かっただけで十分です。他には何もいらない」というのです。

 その日、大地震が起こって、その女性の家は発電所から二十キロ圏内でしたから、本当にすごかったそうです。周りで地割れがして、まさに生き地獄だったというのです。原子力発電所の方から、黒い風が吹いて来たというのです。これは絶対にやばいことが発電所で起こっていると思って、すべてを捨てて逃げたそうです。それで、やっと命が助かったと言っていました。家族もばらばらで、今は自分一人だけで避難していると言っておられました。それでも、「命が助かっただけで十分です。他は何もいらないです」と言っておられました。
 今日、私たちも「生かされている」ということを、まずは心から感謝しなければいけないと思います。しかし今年は主が「新しい年に期待しなさい」と語られてます。私は信じています。きっと今年主が、新しい計画書を持っておられると信じます。

 二週間前、ここに立たせていただいた時、雅歌の中から「悲しみの季節が終わって、歌の季節がやって来る」と語らせていただきました。その後、ある方からメールをいただきました。「順先生、私はあなたのメッセージを読んで、本当にびっくりしました。」
メッセージがインターネットにアップされていますから、いろんな方が読んでくださってるみたいです。「私も同じ御言葉を夜中の三時頃起こされて、主から語られました。そして何気なく新城教会のホームページで順先生のメッセージを読んだら、その事が書かれていて本当にびっくりしました」とメールを送ってくださったのですが、私も励まされました。キリストのからだに、同じように主が語ってくださっています。

 今日の聖書箇所は、大変有名な箇所です。コリント人への手紙第一、二章九節です。

『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』

 「まさしく」とは、「正しく」と漢字表記するのですが、普段でもよく使う言葉です。それは、「確かに」とか「疑いない」という意味です。「確かに聖書に書いてある通りです」、「確かにその通りだ」と告げています。
 今日ここに集まっておられる方々は、主を信じ、愛しておられる方ばかりですから、私を含め、神が用意しておられるものは『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの』を用意してくださっているのです。この御言葉に信頼したいと願っています。

 先週は、新城教会に聖霊様が訪れてくださって二十年が満ちた、記念の週でもありました。一九九二年二月十三日の夜。まさしく、私は死ぬまで忘れることができない、いや、死んでも忘れないと思うのですが、主が激しく訪れてくださいました。
 それから二十年が満ちたのですが、二十年はあっという間でした。昨日の出来事のように覚えています。あの時も、見たことも聞いたことも思ったこともない事が突然起こったのです。天が開かれました。それから二十年、ある意味で毎日が、見たことも聞いたことも、思ったこともないことの連続であったような気がします。それは、これからも続いていくと信じています。

 私は先週の金曜日まで、スコットランドに行っていました。スコットランドで奉仕するなんて、私にとって見たことも聞いたことも思ったこともない事でした。
 私はイギリスについてあまり興味がありませんでした。でも、今回行くことになって少し調べたわけです。そうしたら、イギリスの正式名称はイギリスではなく、「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」と呼ぶそうです。みなさん、ご存じでしたか?「えっ、知りませんでした」というような感じですよね。
「通称イギリスは、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドから構成される、立憲君主制国家」とありました。「あれ?そんな国なんだ。初めて知った」という感じでした。「イギリスっちゃイギリスだろう」と私は思っていたわけですが、スコットランドで奉仕させていただきました。皆様方のお祈りに支えられて心から感謝します。

 今回、私を呼んでくれたのは、韓国の宣教師でした。「小さい集りですけれど来てください。」と言われました。
 どんな集会かな、と思って行ったのですが、まさしく、見たことも聞いたことも、思っても見ない集りでした。「私はここで二十年間奉仕していますが、その中で一番大変な人たちを招きました。」というのです。「何人招いたのですか?」と聞くと、「二人です」というのです。「その二人は誰なの?」と聞くと、一人はユダヤ人、もう一人はドイツ人だと言いました。この二人だけだというのです。
 「ユダヤ人とドイツ人のために、全力で四日間、解放、地域のとりなし、その他、何でもやってください。私たちはそれを支えますから」というのです。

 みなさん、ドイツ人とユダヤ人といったら、どうでしょうか。かつてナチス・ドイツはユダヤ人を六百万人虐殺したわけです。一番微妙な関係の人たちじゃないですか。ドイツ人とユダヤ人のための集会なんかやったことないよ〜と思ったわけですが、「ユダヤ人とドイツ人は微妙な関係です。だから、ユダヤ人には絶対にドイツ人がいることを言わないでください」と言うのです。じゃぁどうしたらいいのかと聞くと、「まずはユダヤ人の所に行って話をしたら、次にドイツ人と話をして、ドイツ人の所に行ったら、また、ユダヤ人の所に行って下さい。そのようにやってください」と言うのです。二人のことは、少しは聞いてたけれど、一部かと思っていました。しかし、それが全てだと言うのです。まさしく見たことのない、聞いたことのない、経験したことのない集会に招かれていました。

 今、イスラエルを中心にして世界が大変緊迫しています。私たちはその事に関して真剣に祈らなければなりません。案外、私たちは、自分の周りとか、自分の問題については祈るのですが、国際的な視野で祈ることが、日本人はあんまり得意じゃないかもしれません。

 去年の震災からもわかるように、幸せっていうのは、国全体が幸せでないと個人は幸せでないことがわかります。「私には何も問題はありませんよ」と言っても、発電所が一つ壊れても大変になっちゃうわけですから、国全体が安定していることは重要です。
 今や私たちはグローバル化された世界に住んでいますから、世界の何処かで何か事件が勃発すると、世界中に激震が走るわけです。特に現在、パレスチナ問題が緊迫化しています。今、何が起こっているのかご存じですか?ぜひ、ニュースをよくご覧になって、祈っていただきたいと思います。 
 今、イランが核開発をしていて、核爆弾を持ったか持たないかでかなり緊迫しています。それに一番神経を尖らせているのが、イスラエルです。イスラエルはイランのすぐ近くにありますから、イスラエルは、イランが核武装したら国が脅かされますから、イスラエルは今年、イランに先制攻撃を仕掛けるかもしれないと言われています。その噂がかなり高くなっています。また、イスラエルの態度にイランが強く反応しています。ホルムズ海峡というペルシャ湾に入る海峡を封鎖するということで、国際社会も緊張しているわけです。
 近頃、イランで核開発している科学者たちが暗殺されました。それがイスラエルの諜報機関の仕業じゃないかと言われています。また、その報復と思われる、イスラエルの大使館関係者が、ニューデリー、グリジア、バンコクでテロに会いました。これはイランが関わっているとイスラエルは考えています。お互い疑心暗鬼になっています。すでに水面下で戦争が始まっているとまで言われています。
 いずれにしても、中東情勢からは目が離せません。あの地域で一度火の手があがったら、日本は一溜まりもありません。石油は全て中東に頼っていますから、大変なことになりかねないのです。イスラエルの動きで、私たちの生活も左右される世界に住んでいるのです。

 しかし、そもそも、私たちが救われたのは、ユダヤ人のおかげなのです。聖書はどう語っているかというと、ローマ人への手紙十一章十一節〜十二節。

『では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。』

 イエス様はイスラエルにお生まれになりました。そこで、悪霊を追い出し、病を癒やし、良き事を為されたわけです。そのことに関して、イエス様は「神の国が来た」と語られました。
 しかし、ユダヤ人はそれを受け入れることをしませんでした。何をしたかといったら、イエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。もちろんイエス様は、『自ら命を捨て、自ら命を得た』とありますから、神ですから、自ら命を捨て、また受ける権利があったわけですが、表面上は、ユダヤ人がイエス様を十字架につけてしまったわけです。与えられた救いを、外に投げ捨ててしまったのです。
 ユダヤ人以外の人たちは、ユダヤ人から見たならば、異邦人です。救いは、ユダヤ人に来たわけですから、ユダヤ人は民族意識の強い人たちで、選民意識を持っていましたから、彼らがもしも救いを受け取ってしまったら、決して外には出さなかったと思われます。
 しかし、ユダヤ人が「こんな物いらんわ」と投げ捨てた物を誰が拾ったのかというと、異邦人が受け取ったというのです。宝くじの当たり券を「こんな物いらん」とユダヤ人が投げ捨て、場外の人が拾った感じです。それで私たちは救われたのです。『彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです』というのです。

 彼らが投げ捨てなかったら、異邦人は救われなかっただろうというのです。しかし十二節にあるように、『もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう』と言われています。
ユダヤ人が捨てたおこぼれで異邦人は救われ、こんなにも素晴らしく変わったのならば、福音を捨てたユダヤ人たちが救われたら、どんなにかすごい事だろうかと語っているわけです。そして、ローマ人への手紙、十一章十五節にはこのような言葉があります。

『もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。』

 ユダヤ人が主を信じる、クリスチャンになるということは、どのくらいすごいことかと言ったら、『彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。』
それは、死人が生き返るくらいのことだというのです。ユダヤ人が主を信じるようになるのは、復活と同じ意味があるというのです。

 今回、ユダヤ人のおばちゃんのために奉仕させていただいたのですが、彼女は、メシアニックジューと言いまして、ユダヤ人の文化の中に生まれ育ったのですが、途中でイエス・キリストを信じたのです。彼女はイエス様を救い主として信じている人であるわけです。しかし同時に、いろんな霊的な問題もあるのです。
 けれども、この問題が解決して、彼女が癒やされることは、死人が復活すると同じくらい、世界のリバイバルにも結びつく大きな勝利とテーマがあるのではないかなと思わされました。
 彼女は「十年間、眠ることができない」と語っていました。そして、「座ることができるのは、このベッドの上と、あの椅子だけです」と言っていました。外出も不自由だし、閉じ込められておりました。それは何だろうと祈っていた時に、一緒に行った韓国の方が神様から示されました。「これが現代のイスラエルの姿そのものだ」と。
 「だから彼女の回復のために、真剣に祈りなさい」と主が語られたと言っておられました。本当にそうだろうなと思いました。
 イスラエルの人たちは、古い物しか手に持っていないのです。イエス様が来て、新しい契約を与えてくださったのにも関わらず、彼らは依然として、古い契約の中に閉じ込められている人たちです。同じ場所に座って、そこから動くことができない人たちです。しかし、彼女がそこから出ることは、イスラエルの回復そのものではないかと思いました。この方のために祈らせてもらえるのは、光栄なことだなと思いました。

 イエス様が十字架にかかる前、ちょっと長いを祈りをされました。それは「大祭司の祈り」とも呼ばれるのですが、どんな祈りをされたのかというと、ヨハネ十七章十一節、

『わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。』

続いて、ヨハネ十七章二十一節〜二十三節、

『それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。』

 十字架にかかる前のイエス様の祈りのテーマは、「一つとなるように」というものでした。
私たちも、心一つにすることは重要です。心を一つにして主のために働くことは、大きな力となります。
 「協力」という言葉がありますが、協力というのは、左側に十字架があって、そこに小さな力を三つ合わせると大きな力になって「協力」となるわけです。私たちは小さな力かもしれません。しかし、十字架の元に力を合わせると、大きな力となるのです。
 私たちが日本のリバイバル、世界のリバイバルのために、心を一つにして、神の前に出るようにとイエス様は十字架を前にして真剣に祈ってくださったのです。「彼らが一つとなりますように。一つとなりますように。一つとなりますように」と。

 今日はここには三百人以上の方々が集まっておられますが、私たちが十字架の元で力を合わせるならば、日本のリバイバルに繫がり、世界のリバイバルにも繫がるはずです。
 イエス様が祈りに『彼らが一つとなるためです』とあります。特に、『彼らが全うされて一つとなるためです』というのです。一つになると全うされる、これは完成するという意味です。

 実は、「一つとなる」とは、今語ったように私たちが心を一つとするということも重要なテーマですが、イエス様が語られた「一つとなる」というのは、さらに深い意味があるのです。
エペソ人への手紙二章十四節〜十六節。

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。』

 ここで、二つのものを一つにする、『二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げる』とありますけれど、それはイエス様の「一つとなりますように」という祈りと同じです。同じテーマをエペソ人への手紙で、パウロが扱っているのです。
実はこの「一つとなる」という中心的意味は何かと言うと、クリスチャン同士が「一つになりましょう」ということもありますけれど、ユダヤ人と異邦人の一致です。ユダヤ人と異邦人の真ん中にある隔ての壁が打ち破られ、ユダヤ人も主を信じ、日本人も、世界の異邦人と呼ばれる人たちも主を信じて、一つとなる時に「全うされる」というのです。教会はそこで完成を見るのです。

 私たちは、ユダヤ人たちが救われるように、真剣に祈らなければなりません。彼らの霊の目が開かれるように、祈らなければなりません。ユダヤ人たちは、依然として、あのおばちゃんのように、古い所に座って、そこから動くことができません。古い物を着込んで、恐れの中にある人たちです。自分たちのただ中に、救い主がお生まれになったのにも関わらず、それがわからなくて拒否してしまったわけです。しかし、そのおかげで私たちは救われたわけですが、救いを受けた異邦人たちが、今度はイスラエルが救われて壁が打ち破られ、教会が完成されるように祈る必要があるのです。
ユダヤ人と異邦人の仕切り壁が打ち破られる時、教会は本当の意味で力を受けるのです。

 一致とは何か。根本的には「ユダヤ人と異邦人の一致」です。
 実は二年前でしたか、韓国のキム監督がイスラエルツアーをするということで、私にも来てくださいと言われました。
イスラエルには少ないですが、クリスチャンがいます。その方たちと共に集会をするというのです。それで「その集会の中であなたもメッセージをしてください」と言われました。「何を話したらいいのか。私の任されている領域の中で、私の賜物の中で何か話すことができたらいいな」と思っていました。
 私がそのために祈っている中で、主は一つのみ言葉を教えて下さいました。それは、マタイ十二章二十二節から二十四節です。こんな言葉があります。
イエス様は悪霊を追い出し、目も見えず口も利けない人を癒やしたのです。その時、群衆は本当にびっくりしました。しかしそれを見た、ここには「聞いた」と書かれていますので噂を聞いたのでしょうか、パリサイ人がこんなことを言いました。マタイ十二章二十四節、

『この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。』

 なんとイエス様が悪霊を追い出し、病を癒やしているのを、パリサイ人たちは「悪霊の働きだ」と言ったのです。パリサイ派の人たちは宗教家たちで、権力を持っていた人たちでした。
今でもイスラエルに行きますと、イスラエルで一番力を持っているのはパリサイ派の人たちです。彼らが一番威張っています。彼らの生活費は全てイスラエル政府が負担しています。彼らは宗教活動だけで生きているのです。イスラエルに行ったことのある人は黒い服に身を固めて、闊歩するパリサイ人を見たことがあるかもしれません。
イエス様の時代も、この人たちはイエス様の働きを不快に思っていました。なぜならば、イエス様によって自分たちの立場がなくなってしまうかもしれないからでした。それでイエス様を迫害したのです。
 イエス様が悪霊を追い出し、病を癒やし、問題を解決する姿を見て、「イエスは悪霊に取り憑かれているんだ。悪霊の頭、ベルゼブルを使って悪霊を追い出しているだけだ」と言ったのです。
その時にイエス様はなんと言われたのでしょうか。マタイ十二章二十七節〜二十八節、

『また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』

 なんとイエス様はユダヤ人たちに、「わたしは神の指によって、聖霊によって、悪霊を追い出している。」と語られ、「神の国が来ている」と言われたのです。

 私たちのところにも、二十年前に聖霊様が訪れてくださったのですが、その直後に起こったのが「霊的戦い」でした。みなさんもご存じだと思います。
なんで霊的戦いなんか起こったのかなと。悪霊が追い出されていく様を見たら、びっくりするかもしれません。「えぇ、これってなんなの?」と。
 まさしくユダヤ人たちにとっても、その光景はショックだったかもしれません。今まで、見たことも、聞いたことも、思ったこともない光景であったのでしょう。
それを見た、噂を聞いた彼らの評価は、「これは、悪霊どもの親分、ベルゼブルで追い出している」と決めつけたのです。しかしイエス様は言われました。「聖霊によって追い出している」と。それは「神の国が訪れている証拠だ」と言われたのです。

 聖霊が注がれ、悪霊が追い出されるということは、「神の国の訪れ」なのです。
 二十年前に、教会に聖霊様が訪れてくださり、そこから起こったのが「霊的戦い」でした。その当時からおられる方は、それに遭遇して本当にびっくりしたと思います。今まで、見たことも、聞いたこともない事が起こったわけですから。本当に、びっくりしましたよね。
 あの時もいろいろ混乱がありました。その頃、私たちが属していた団体では、それを「おかしい!」言いました。「滝元順を始め、新城教会のスタッフたちは悪霊に取り憑かれ、あんなことを始めたのではないか」と言いました。

 ある意味で、パリサイ人と同じような評価だったのです。イエス様はパリサイ人たちにたいへん厳しいことを言われました。どんな厳しいことを言われたかというと、それがマタイ十二章三十一節〜三十二節に記されています。

『だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。』

 どんな罪でも赦されるけれど、一つだけ赦されない罪があるというのです。それが、「聖霊に逆らう罪」だというのです。
 時々、この箇所を読んで、「私はもしかしたら、聖霊に逆らうことをしてしまったかもしれない。もう私は赦されない・・・」という人がいますが、聖書は、いつも語られている様に、前後関係、誰に対して、どのような状況で語られたのかをよく読み取らないと、勘違いしておかしな事になります。
 どういう罪が赦されないのか。ここで「聖霊に逆らう罪」とは何かと言うと、イエス様が聖霊の力で悪霊を追い出したのですが、その時に、パリサイ人たちは、悪霊によって追い出していると言ったのです。それが聖霊に逆らう罪だったのです。聖霊によって悪霊が追い出される光景を、悪魔・悪霊どもの仕業だと評価することが赦されない罪だというのです。

 新城教会で分裂が起こった時、ある人たちは私たちのことを批判して、「滝元順が県民の森で悪霊を受け、こんなことを始めた」という怪文書を全国の教会にばら撒きました。それは甲子園ミッション開催に対して、大きなダメージとなりました。私は、彼らの行った事がこの赦されない罪に当たるのではないかと、ちょっと心配でした。しかし、その文書の「悪霊」という後ろに括弧で「(?)」が書かれていたのです。“?”マークを付けたから大丈夫だと思います。決して赦されない罪じゃないと思います。「もしも聖霊の働きだったらどうしよう」と言う心配があって“?”マークを付けたのだろうと思います。

 しかし、このパリサイ人たちは断言したのです。「これは悪魔の仕業だ。悪霊の仕業だ!」彼らは、絶対に赦されない罪を犯してしまったのです。
 そして最終的には、イエス様を十字架につけて殺してしまったのです。十字架につけた時にもひどいことを言っています。
マタイの二十七章のところで、ピラトという裁判官がイエス様を十字架につけるか否かで裁きました。その時、イエス様に罪を見いだすことはできませんでした。
でも、パリサイ人にたちによって先導された人たちが、「十字架につけろ!十字架につけろ!」と叫び続けたのです。それで暴動が起きそうになりました。マタイ二十七章二十四節〜二十六節、

『そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。』

 なんとピラトが、ユダヤ人たちに対して『この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい』と言ったのです。その時に、このユダヤ人たちは何と語ったかと言ったら、『その人の血』、すなわちイエス様の血について、『私たちと子どもたちの上にその責任が降りかかってもいい』と言ったのです。それは、自分たちの子孫にも呪いが来たっていいと言う、すごい言葉でした。そのくらい、彼らは確信を持ってイエス様を十字架につけたわけです。

 しかしその結果、ユダヤ人の歴史は、本当に悲しい歴史となりました。近年に至るまで、ユダヤ人が虐殺されない年がないくらい、ひどい目に遭いました。第二次世界大戦の時には、ナチスドイツによって六百万人が殺されたと言われます。あまりにもひどいことです。これは『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい』という言葉から、何らかの影響を受けていると思われます。
 もちろん歴史というのは、いろんな側面から評価しなければなりませんから、何とも言えないところもありますけれど、しかし、ユダヤ人たちは、かなりの霊的束縛を自ら受け取ってしまったのではないかと思われます。
 せっかくイスラエルに、ユダヤ人のただ中に神の国が訪れていたのにも関わらず、聖霊によって為された霊的戦いを自らストップさせてしまったのです。その上、イエス様を十字架につけて、「この血の責任は俺たちと子孫にかかってもいい」と宣言したことは、大変なことをしでかしたわけです。

 しかし、「赦されない罪だ」と言われても、イエス様の十字架の救いが完成した今では、「ユダヤ人も救われる」という約束もあるわけですから、たとえ、赦されない罪と評価されるようなことに触れたユダヤ人でも、イエス・キリストを信じるなら、赦されるはずです。
 今の時代にあっては、イエス・キリストの十字架の贖いによって、赦されない罪はないはずです。悔い改めない罪は赦されないけれど、告白して悔い改めた罪は全て赦されるのです。

 二年前にイスラエルに行った時、その事を示されました。イエス様の時代にパリサイ人たちが、イエス様の始められた霊的戦いをベルゼブルのせいにし、それが赦されない罪とまで評価され、血の責任は自分たちの子孫にかかってもいいとまで言い放った罪を、ユダヤ人クリスチャンが認識し、悔い改めて、「私たちは霊的戦いを再開します!悪魔に立ち向かいます!」と宣言しないといけないと思いました。
 その集会で私はそのようなメッセージをしました。私の話を聞いていたユダヤ人クリスチャンたちは、うなずいていました。

 その時に私は祈りました。「主よ、いつの日にか、ユダヤ人クリスチャンが自らの口で、霊的戦いを開始する宣言をするように、もしも許されるならば、私がその祈りを導くことができますように」と祈りました。
ピリピ人への手紙二章十三節、

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。』

とありますが、二年前のエルサレムの集会で、会衆のただ中で私は祈りました。
 しかし、今回それが起きたのです。「あなたはユダヤ人ですか?」と言うと、「私は正真正銘のユダヤ人です」と答えました。彼女は、「私はレビ族の血を引く者です」と言いました。
 「ならば、あなたは『かつて、私の先祖が遠い昔、霊的戦いを否定してベルゼブルの働きとし、戦いの剣を捨ててしまいました。その剣をもう一度受け取って、ユダヤ人として戦い始めます!』と主の前に宣言してください」と言ったら、「わかりました!」と言って、彼女は大きな声でそのことを祈ってくれました。
 それは私にとって、見たことも、聞いたことも、思いに浮かんだこともない光景でした。ぼんやりとはそんな日が来たらいいなと思ってはいましたが、まさに、そんな祈りを導かせて頂きました。

 ユダヤ人のおばちゃんが、「私はユダヤ人の代表として悪魔に立ち向かいます!」と宣言しました。私たちは彼女と心を一つにして、祈ることができました。彼女はこれからも眠れない日が続くかもしれないけれど、近い将来、必ず、回復してくださると信じます。
 私たちが祈った次の日、「昨日は二時間寝れた」と言いました。その日はお化粧なんかして私たちの前に出て来ました。

 最後の祈りをしている中、主が一つのみ言葉を私に語ってくださいました。それは伝道者の書九章十三節〜十五節、

『私はまた、日の下で知恵についてこのようなことを見た。それは私にとって大きなことであった。わずかな人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て、これを包囲し、これに対して大きなとりでを築いた。ところが、その町に、貧しいひとりの知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を解放した。しかし、だれもこの貧しい人を記憶しなかった。』

 案外、神様の働きはこういうものではないかと思います。大きなことが起こって、誰の目から見ても「すげ〜!見たことも、聞いたことも、思ったこともない神の業だ!」ということも起こるけれど、国が解放されたり、街が解放されたり、地域、家族が解放されるきっかけは、そこに住んでいる貧しいひとりの人が知恵を使って解放するのだと。しかしそのことは、誰も気づかず、誰も記憶しないのです。
 それが神の働きかもしれません。今後とも、私たちの働きはそうかもしれません。「あの日、順先生があの街に行って祈ったから、こういう事が起こった」ではなくて、「誰がやったのかわからない」。
もしかしたら、将来イスラエルが回復して、「ユダヤ人たちが続々とクリスチャンになった、どうしてこんなことが起こったのか!」
それは、もしかしたら眠ることができないユダヤ人の女性の祈りを通してかもしれません。そこで、誰も知らない日本人たちが関わって、異邦人クリスチャンとして心を一つにして祈った、それは、誰も記憶に留めなかった、しかし、それが扉を開けた、ということもありえるのかもしれません。

 みなさんの働きも同じではないかと思います。毎日の働きの中で、さほど大きく見えないかもしれませんけれど、神の目からの評価は、見たことも、聞いたことも、思ったこともない事かもしれません。神の知恵と私たちの概念とは、結構大きく違うのではないかと思います。私たちの目には小さく見えるけれど、実はもしかしたら神の前には大きな働きかもしれません。
 今年のテーマは『小さいことに忠実な者は、大きなことにも忠実』と語られましたけれど、今回、イギリスに行って「小さく見えることを、忠実に実行しなければならない」と、改めて教えられ、また、皆様方の祈りによって支えられたことを心から感謝します。

 今年は、主が、何か新しいことをしてくださるのではないかと、期待しています。何か、大きく気づくこともあるかもしれないけれど、全く気づかないかもしれません。貧しい者が与えられた鍵を使うことによって、後の日になって、その結果を主が教えてくださるでしょう。私たちはいつも主の前に謙遜で、貧しい者のひとりとして、歩んでいきたいと願っています。

 みなさんのお祈りを心から感謝し、私のメッセージに代えさせていただきます。一言お祈りさせていただきます。

 ハレルヤ。天の父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。私たちは異邦人として救われ、今神の国に接ぎ木されていることを、心から感謝を致します。主が私たち一人一人に委ねられている鍵を使うことができますように。イギリスに導いてくださったことを感謝します。小さな働きではありましたけれども、その背後に神の大きな計画があったことを信じます。
 主よ、お一人一人の毎日の働きの中で、繰り返しのような小さく見える働きかもしれませんが、小さなことに忠実であり続けますようお願いいたします。そして主よ、知恵ある貧しい者として働くことができますように導いてください。
 イエス様、あなたの十字架の血潮は、全ての罪を赦すものであることを心から感謝します。赦されないと言われる罪でさえ、あなたは赦すことができるお方ですから、心から感謝します。
 今から聖餐式を行ないます。すべての罪を赦し、私たちの生活のただ中で、貧しい者として、神からの知恵を使う者として、用いて下さい。この時を心から感謝します。すべての栄光をお返しして、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。