HOME > メッセージバックナンバー > 2012年バックナンバー > 2月 > メッセージ2012年2月26日

『エルシャダイ、全能の神』

2012.2.26(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
創世記 17章1節〜2節

『アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」』


 聖歌隊のすばらしい賛美を感謝します。今歌われたように、神様からいただいた恵みを一つ一つ数えたいと思います。案外、悪いことは覚えていて数えるのですが、良い事は忘れてしまいがちです。恵みを忘れないようにしなければならないと思います。今日も生かされていることを、心から感謝します。

 今日は伝道礼拝ということで、私たちの信じている神様の素晴らしさをお伝えしたいと思います。今日は、子供たちにサービスというか、アイスブレイキングと言いましょうか、おもしろ写真も少し用意しました。。

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 写真は、撮る角度でいろいろと変わりますよね。

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 これが本当のホットドッグらしいです。おいしそうですね。

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 この寿司はあまり食べたくないですね。今日はゴスペル・サパーがあります。メニューは海鮮丼、油林鶏です。これを見ながらメニューを読むと、イメージが悪くなりそうですが、今晩、是非とも来て下さい。

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 目つきが悪いですね。この人は。

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 怖いですね。はい、もう一つ、それ!

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 赤ちゃんがのっています。今日は赤ちゃんも賛美していました。

 先週、私は韓国で奉仕がありまして、大邱(テグ)という韓国第四の都市がありますが、二百五十万人くらいの人口です。そこで奉仕をさせていただきました。大邱を福音化しようと、みなさん燃えていました。この街に教会は千三百五十もあるのです。たくさんありますよね。でも、寺も多くて、千くらいあるらしいのです。さらに占い所はもっと多くて、二千以上あるというのです。霊的には混沌とした街です。その街を福音化しようと、クリスチャンたちが一致して、とりなしの祈り会が毎月開かれています。私は今回、講師として三回目だったのですが、奉仕させていただきました。みなさん真剣に祈っていました。熱い集会でした。そこに来られている方々は、熱心に街のリバイバルを祈っていました。日本にもリバイバルが起こるようにと祈りました。

 今日のタイトルは、「エルシャダイ、全能の神」です。エル・シャダイ、それはなんダイ、と言われるかもしれませんが、ヘブル語で「全能の神」という意味です。
 先ほど読んだ創世記十七章に、『アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。」』
 新改約聖書では『全能の神』という所に*印がついていまして、欄外に「エル・シャダイ」と記されています。「エル」というのは、「神、または力強い」という意味があり、「シャダイ」は、「全能」という意味があります。私たちの信じる神様は「全能の神」です。何でもできる神様です。ちょっとみなさんで言ってみましょうか。「全能の神!」

 英語だと「God Almighty」と訳されています。これも「何でもできる神様」というような意味でしょうか。また、英語ではもう一つ訳があって、「The all sufficient one」という風に訳されています。「All sufficient」というのは、「これさえあれば十分、他には何もいらない」という意味です。

この頃、携帯電話もだいぶ変わってきて、みなスマートフォンになってきましたよね。私も旅が多くて、旅に行く時には、ノートパソコンを持ったり、いろいろ持ってすごく重いんです。この頃、空港の検査場は厳しくて、必ずノートパソコンを出さなければいけません。面倒くさいから、カバンに入れたまま知らない顔をして通すと、「あなた、パソコン入っているでしょ?」と言われて、見つかってもう一度検査しないといけないことになります。めんどくさいなと思うのですが、スマートフォンがあればこれで十分、もう他はいりません。これだけで旅ができるわけです。
 iPhoneと神様を比べちゃいけませんけれど、私たちの神様は、お一人で十分。この方が全てを網羅しておられるのです。そのような全能の神を私たちは信じているわけです。こんなすばらしい神様を信じることができるのは特権です。

 日本には、八百万の神々がおりまして、人々はどの神が本物かわかりません。けれども、私たちは真理を見いだしたわけです。こんなすごい神様が私たちと共にいてくださるのです。

 『アブラムが九十九歳になった時、主はアブラムに現れ』とあります。私たち日本人の感覚だと、神は厳しい修行をしないと、やたらめったら現れてくれないと思っています。でも、どうでしょうか。アブラムが九十九歳の時、一方的に現れて下さったというのです。九十九歳といったら、相当の年寄りです。年を取って、普通なら考え方は変わらないですよね。
 しかし、そんなただ中でも、神はアブラムに現れたというのです。そしてこう仰せられたのです。創世記十七章二節、

『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。』

 前回もお話ししましたが、アブラハムからその後、約束の子、イサクが生まれました。九十九歳のじいちゃんに神が現れて、「あなたの子孫をおびただしくふやそう」と言われたらどうでしょうか。「冗談じゃないよ。この老いぼれに何ができようか」と思うのじゃないですか。しかしなんと、イサクが生まれて、アブラハム、イサク、ヤコブと子孫は続き、やがてそこからヘブル民族が生まれ出て、世界の国々につなかったわけです。これこそ、全能の神である証拠です。

 実は、アブラハムはもう少し若い時にも、一度、神から語りかけられていました。彼は七十代だったのですが、十二章一節から見ると、創世記十二章一節〜三節、

『主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』

 アブラムは当時、どこに住んでいたのかというと、古代バビロニア帝国の首都、ウルに住んでいました。そこには異教の神々がいっぱいあって、偶像礼拝のただ中に彼は住んでいました。彼はそういう文化の中で育ちましたから、バビロンの文化・習慣の強い影響を受けていました。真の神様なんか、全然知らなかったわけです。
 しかしなんと、天地宇宙を造った全能の神自らアブラムに近づいて来て、声をかけてくれたのです。
 この箇所を読むだけでも、「本当に、この神様って素晴らしいな」と思います。何か一生懸命、滝に打たれて修行して、断食して、修験者のように山を歩き廻ってやっと現れる神ではなく、一方的にアブラムに現れて、救ってくださったのです。私たちの神は愛の神であり、本当に良い方であるのがわかります。

 そして、この言葉はすごい言葉じゃないでしょうか。まったく見ず知らずのアブラムに現れて告げた言葉は、あまりにもすごい言葉です。創世記十二章三節、

『あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。』

というのです。『地上のすべての民族』というのは、私たち日本人も含まれているはずです。それがなんと、このアブラムに与えられた祝福でした。彼によって私たちも祝福されることになるというのです。
 聖書は旧約聖書があり、やがて新約聖書につながって結論を見るわけです。私たちは両方、バランスよく読んでいかなければいけないわけですが、創世記のアブラハムについて、新約聖書ローマ人への手紙四章十三節では次のように語られています。

『というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。』

 続いて、ローマ人への手紙四章十六節、

『そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。』

 アブラムに神がなんと語られたのかというと、『わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう』と告げられました。
 しかしこの言葉は、アブラハム一人に語られたようですけれど、なんと、今の時代では、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる、「すべての人のもの」になるというのです。
 キリスト教信仰は実に単純です。信じたら、なんと、アブラハムに神が与えた祝福が信じた人の物になるというのです。すごい祝福があるわけです。
 私たちが主を信じるということは、アブラハムが神からもらった祝福を、そのまま受け継ぐことになるのです。

 徳川家康は「人生とは、大変なものだ」と言いました。遠い道を重い荷物を背負って歩んで行くが如しだと語りましたが、私たちが主を信じるならば、神がアブラムに約束された祝福を受け継ぐことになるのです。
 神はあなたを「大いに祝福してあげます」と約束しているのです。この御言葉を信じる時、勇気が湧いてきます。「私には神の祝福があるんだ!」と分かります。
 この祝福は『アブラハムの信仰にならう人たちにも保証されるためなのです』と、なんとイエス・キリストを信じたら、保証書が手渡されるのです。アブラハムに与えられた保証書と同じ保証書を、私たちは受け取ることができるのです。こんなにすごい神様に頼ることができるとは、なんと幸せでしょうか。

 人生には二つのタイプがあって、このような祝福を受け継ぐ人生と、もう一つは呪いを引きずるような人生もあると聖書は語っています。申命記十一章二十六節〜二十八節、

『見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。』

 人生には、祝福の道と呪いの道の両方があるというのです。そして人生とは、「どちらか一つの道を選んでください」と言う選択です。選択権は、神にではなく、私たちにあるのです。祝福の道を選択するのか、呪いの道を選択してしまうのか、それは個人にかかっているのです。
 アブラムが主と出会った時、彼は「祝福の道」を選んだわけです。それで、彼の名前は祝福となり、やがて全国民、私たちまでも祝福されるようになったのです。

 人生には責任があります。それは自分一人で終わるものではないからです。それは次の新しい世代に対して、責任があるのです。これからどんな人生が待っているのかわからないけれど、どんな世代が生まれ出るのか知らないけれど、今を生きる人の選択が良ければ、未来は祝福されるのです。
 未来は、私を含めて、みなさんの選択にかかっているのです。祝福の道を選択するのか、または、呪いの道を選択するのか、私たち自身にかかっているのです。

 「呪いの道」とは何か。それがここで述べられています。『あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える』というのです。
 全能の神、天地宇宙を造られた神様は、一人しかおられません。この神を選択するなら、「祝福の道」です。しかし、他の神々を選択すると、「呪いの道」に入ってしまうのです。
 日本には八百万の神と先ほど言いましたけれど、多くの神々がいます。しかしそれらは、祝福の神ではなく、呪いの神々なのです。「全能の神、イエス・キリストを選ぶならば、祝福の道ですが、他の神を選ぶなら呪いの道になりますから、気をつけてください」というのが聖書のメッセージです。
 しかし日本では、なかなか全能の神を選択しにくい状況があります。けれども、幸せな未来のために、確実に「祝福の道」を選択しなければならないのです。

 私は先週は韓国で大きな集会で奉仕をさせていただきましたが、昨日は、韓国から戻って来て、ある山奥にあるご家庭で家庭集会に参加させていただきました。
 ちょっと寒かったですが、こたつに入って家庭集会をしました。向こうに行きますと、漬け物とお茶を出してくださり、漬け物を食べながら、お茶を飲みながら家庭集会を行います。なんかいい雰囲気ですよね。その地域の人と一緒に賛美したり、祈ったりしました。
 この村はたいへん因習の深い村です。村の至る所にいろんな神々が祀られていて、みんな一生懸命拝んでいます。でも、この家庭の一人があるとき、クリスチャンになり、一つの事に気づいたというのです。

 その方が四十代の時、この村のクラス会に行ったそうです。この方が村に住んでいたのは小学校・中学校の時でしょうか。当時、同級生が九十八人いたそうです。しかし、四十代のクラス会で全員が顔を合わせるかと思ったら、九十八人中、すでに「十四人」が亡くなっていたそうです。
 四十代で十四人が亡くなったというのです。それは、二割くらいの同級生が亡くなった事になります。どうしてそんなに多く亡くなったのかと聞くと、自殺したり、事故にあったり、病気で十四人が亡くなったというのです。

 この村に行きますと、およそストレスがあるとは思えない村です。美しい自然もありますし、のんびりしていて空気もいいです。水道代だってかかりません。きれいな水が流れていて、その家のトイレに行きましたら、水道の蛇口から水が常時流れっぱなしなのです。止めなくてもいいのか、と聞くと止めなくていいというのです。なぜかと言うとそれは沢の水だからだと言うのです。なんかもったいないような気がしましたけれど、本当に環境がいい村です。
 しかし、小・中と一緒に勉強して来た同級生が、九十八人中、十四人も亡くなっていたというのです。たいへん悲しかったというのです。何か、この村には、呪いがあるのではないかと、みんな話しているというのです。
 ということは、やはり、その村の選択が正しいのか、正しくないのかを今一度よく村人は考えなければならないのではないでしょうか。

 そんな中で、このお宅は祝福の道を選びました。すごく大変な中にありますが、お母さんもイエス様を信じたし、今度は、お姉さんも洗礼を受けることになりました。ほとんどの家族が洗礼を受けて、クリスチャンになる宣言をしたのです。
 これからは葬式も何もかも、教会でやってくださいと言われました。過去帳を見たら、この家は二百年以上も続いている家ですが、最近、お墓もキリスト教式に作り直してしまったのです。まぁ、ここまでやるか、という感じです。いくらクリスチャンになっても、なかなかここまでは出来ないかもしれません。しかし、この家は徹底していました。
 前にも少し紹介しましたけれど、ここにはゲゲゲの鬼太郎とその一族が住んでいるんじゃないかというような雰囲気のする墓場ですが、今までの墓を壊して、まだ工事中ではありますけれど、キリスト教式の墓ができました。
 墓石には十字架を刻んで、「わたしは道であり、真理であり、いのちです」というみ言葉も刻みました。この墓は村では大評判です。
 「何が起こったんだ!あの家は!」と、みんなから村八分にされるかと思ったら、意外にそうではなくて、「よくぞ決断しましたね。どうして決断できたんですか?」と、こっそり聞きに来るそうです。

 日本人って案外、人目ばっかり気にして暮らしていますから、なかなか決断できないことが多いのですが、誰かが大きな決断すると興味があるわけです。私たちは明るい未来のために、祝福の道を選び取らなければいけません。呪いの道ではなく、祝福の道を掴むならば、子々孫々、祝福の中を歩むことができます。それが聖書の教えです。

 もちろん、このように一足飛びにはできないのかもしれません。けれども、まずは全能の神様を選択し、その道を歩んで行くプロセス上に、問題があっても主は解決してくださるのです。勇気を出して主に従って行く時、全能の神が私たちの味方となってくださいますから、恐れることはありません。全能の神が私たちの味方となったら誰が敵となるのですか、と聖書は告げています。いくら日本で迫害があっても、現代は殺されることはありませんから、大胆に祝福の道を選び取ろうじゃありませんか。
 もうここにおられる、ほとんどの方は祝福の道を選んでおられます。これから期待していただきたいです。それはアブラハムに与えられた祝福が、私たちのものにもなるということです。
 アブラハムにどんな祝福があったのかは、創世記十二章くらいから読んでみてください。「すごいな〜。こんなに祝福されるのか〜」と。その祝福を、私たちは信仰によって受け取り、共有できるのです。そして子孫も祝福されますよと。

 聖書を読むなら、「そもそも、アブラハムとその子孫があれほど祝福されたじゃないですか。それならば、あなたの子孫だって、祝福されないはずがありませんよ」ということです。
 私たちは聖書を読む時に、「アブラハムに起こったことは、私にも起こるはずだ。私の未来も、必ず神は責任を持ってくださる!」と信じ、期待することができるわけです。

 私たちがイエス・キリストを信じたら、この地上で別れるようなことがあっても、天国でもう一度会うことができるのです。たいへん大きな希望です。
 ある意味で、人生は寂しいものです。今まで、新城教会で一緒に信仰を育んできた多くの兄弟姉妹が、あの方も、あの方も、あの方も、みんな天国に行っちゃった、本当に寂しいですね。
 人とはある時は元気なのに、やがて年を取り、病気になって、帰らぬ人になってしまうのです。それで、永遠に会えないなんて言ったら、本当に寂しいです。しかし私たちは天国でもう一度再会し、共に永遠を過ごすことができるのです。
 教会に来たら、私たちは永遠を共に過ごす仲間なのです。ちょっとお隣近所の方の顔を見てあげてください。その人と永遠を一緒に過ごすわけです。「この人と永遠に過ごすのか、たまらんな」なんて言わないでください。永遠を共に過ごしますから、是非とも仲良くしていただきたいと思うのです。ちょっとお隣の人に「永遠によろしくお願いします!」と言って、ご挨拶の時間を持ちましょうか。

 私たちは永遠の仲間です。それも全能の神の元で永遠に過ごすのです。この全能の神とは全てが可能な神ですから、この神の元にいたら、人生は安全です。安全保証書を我々は共有できるのです。
 詩篇九十一篇一節〜四節、

『いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。』

 ここに、『いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る』とあります。ここにも『全能者』という言葉が出てきますけれど、エル・シャダイです。「全能の神があなたを守ってくれますよ。」という約束です。イエス・キリストを信じることは、全能者の陰に宿ることを意味します。
 詩篇の記者は言いました。『私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。』このように告白したのです。
 『私は主に申し上げよう』と言っていますから、私たちも今、主に申し上げようじゃありませんか。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神!」

 もう一回、心を込めて主に申し上げましょう。全能者なる神、イエス・キリストの名前を通して全能者なる父なる神に到達できるのです。しかしイエス様と全能者なる父なる神様は一つです。私たちはイエス様の名によって、この全能者なる神に申し上げることができるのです。
 心の底から全能者なる神に、エル・シャダイなる神様に申し上げようじゃありませんか。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」
 大きな拍手をエル・シャダイなる神様にお捧げしましょう。ハレルヤ!みなさん、今日、ここにおられる方は皆、全能者の陰に宿っている方々です。

 この全能者なる神は『狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出される』と約束しています。そして、五節から読んでいくと、詩篇九十一篇五節〜十三節、

『あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。』

 なんと力強い言葉じゃないでしょうか。私たちが主を避け所にする、エル・シャダイなる神に身を寄せる時、我々の人生は守られるのです。『狩人のわなから、恐ろしい疫病からあなたを救い出される。』と約束されています。
 『千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない』と約束されています。

 この頃は何が起こるのか、わからない毎日を過ごしています。しかし全能者に信頼するならば、万が一の事件が起こったとしても、「あなたは守られます!完璧に守られます!」という守りの保証書が手渡されているのです。

 私たち教会のスタッフたちは、朝九時に会堂に集まって祈祷会をしています。この頃、祈りの課題に加えているのが、「地震が起きないように」ということを祈っています。特に、礼拝中に地震が起きませんようにと、ちょっと自己中心的な所もありますが、礼拝中には絶対に地震が起きないようにと祈っています。
 この建物も年代物になってきまして、まだまだ大丈夫だとは思うのですが、ちょっと心配なところもあって、前もお話しましたけれども、天井は、落ちない天井はないと言われています。建物は倒れなくても、天井は必ず落ちてくるのです。みなさんの頭の上から電気器具が落ちて来たら、当たったら死んでしまうかもしれません。礼拝中、地震が起こったら、すぐに椅子の下に入っていただきたいと思います。そういうことも想定しながら、礼拝に出ていただきたいと思うのですが、でも、礼拝中に地震が起こらないように、また、日本が守られるようにと祈っています。
 しかし、今日にでも、明日にでも、大地震が起こるかもしれない国に住んでいるわけです。

 先週、韓国に行きましたら、この頃、釜山という韓国の南の街がありますが、土地の値段が上がっていると聞きました。なぜ、土地の値段が上がっているのかと聞くと、日本人が大勢避難してきているからだというのです。日本に住んでいると地震にあうから、韓国の南の日本に一番近い街に日本人が大勢入って来て、東京なんかからも大勢移住して来ているというのです。だから、不動産の値段が上がって迷惑しているというわけです。
 海外に逃げている人もいるんだと思って、少しびっくりしましたけれど、現実は何が起こるのかわからない国に私たちは生活しているわけです。でも私たちは、全能の神様からの保証書をいただいています。今週も全能の神から保証書を受け取っていることを心に留めて、歩んでいただきたいと思います。

 万が一何かがあったとしても、『千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない』と約束されているわけですから、これを信じるべきです。
 『あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。』と。地震とかそういう災害が悪者への報い、裁きだとは言ってはいけません。けれども、ある意味、日本が長いこと先代から、呪いの道を歩んでいますから、何があったって文句は言えないのです。
 しかしそんなただ中にあっても、保証書を手にしている人たちは安心してくださいと語られているわけです。アブラハムに与えられた祝福が、今、信仰によって私たちの物ならば、詩篇の記者に与えられた祝福も、私たちの物であるということです。詩篇九十一篇十章、

『わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。』

 『あなたの天幕』これは家を表します。幸せとはやはり家族の幸せを表します。家族の中で誰かに問題があったら、みんな暗くなります。しかし、保証書の中には、『あなたの天幕にわざわいは近づかない』と保証されていますから、信仰によって信じることです。「私には保証書があるんだ」と「私の家にはわざわいは近づかない!」と宣言して、お帰りになっていただきたいと思います。

 詩篇の九十一篇を見ると、特に「わざわい」が何かというと、昔も今も、「恐ろしい疫病」というような、「病気」が大きなわざわいというか、人生を苦しみに導く要素になっていることがわかります。
 疫病とか、えやみ、それは病気関係です。私たちは健康だと思っていても、いつ何時病気になるのかわかりません。体の仕組みは本当に複雑ですから、どこがどうなるのかわかりません。バランスがちょっと狂っただけで、明日から生活できなくなるかもしれません。いくら優秀な病院に行っても、体のすべてはわかりません。神様しかすべては知りません。
 でも、全能なる神に信頼していくのならば、あなたの健康を守ってあげます、と約束しているのです。これがアブラハムの祝福であり、信仰によると私たちの祝福です。

 今日はみなさん、健康に関しても、全能の神に信頼する、それが基本です。その信頼の中で、健康が支えられることをまず最初に、押さえておかなければなりません。 詩篇九十一篇十節、

『わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。』

 続いて、十一節に、

『まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。』

 このところに、「わざわいはあなたにふりかかりません。また、病気もあなたの天幕に近づかない」と、「まことに」という言葉が使われています。この「まことに」を訳し方を変えると、「なぜなら」と訳すことができます。
 『なぜなら主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる』と書かれています。

 みなさん。私たちクリスチャンには「御使い」という存在が派遣されているのをご存じでしょうか。私は霊的戦いの仕事をしていますから、悪魔・悪霊についてよく話しをするのですが、ちょっと話しすぎだなと思われるかもしれませんが、それも使命というようなところもあるので、許していただきたいのですが、私は霊的戦いをやっていて、悪魔・悪霊よりももっと関心を持っているのは、この「御使いたち」の働きです。
 霊的戦いが始まった日、一九九二年二月十三日に聖霊が注がれて、七月から地域の霊的戦いが始まったのですが、その時に何に対して目が開かれたのかといったら、クリスチャンには御使いが派遣されているということでした。すなわち天の軍勢が、我々の所には派遣されているということなのです。
 みなさん、これは、悪魔・悪霊どもよりも、もっともっと強い、さらに多い軍隊が派遣されているということです。

 「全能の神」というキーワードで、聖書を勉強していくと、これが「御使い」と関連していることがわかります。全能の神はご自分の使いである、天使たちを遣わして人々に保証を与えるという関連性があります。
 「全能の神」というのは「エル・シャダイ」と呼ばれていますけれど、これはヘブル語ですが、聖書には御使いの名前が幾つか出てきます。イエス様の誕生を告げ知らせたのは、「ガブリエル」でした。また、イスラエルを守る守護天使は「ミカエル」と呼ばれます。どうでしょう。ガブリ「エル」、ミカ「エル」と呼ばれています。「エル」シャダイと「エル」という言葉が共通しています。これは、神と天の軍勢がなんらかの関連性があるのではないかと思われます。なんらかどころか、密接な関連性です。
 聖書は、全能の神が私たちの中に働く時には、必ず、天の軍勢を動員されるという図式があるわけです。
 なんで私たちが守られるのか。まことに「主は天使たちを送って、あなたを病から守り、わざわいから守り、あなたを助けます」と告げているのです。

 今週は、全能の神から強い天の軍勢が遣わされ、完璧に守られる週であることを宣言します!
 「アーメン!」うちの親父の声だけちょっと聞こえましたが。では、もう一度宣言します!「今週は、全能の主から、強い天の軍勢が派遣される週であることを宣言します!アーメン!」
 いいですね。みなさん、悪魔・悪霊どもよりも強い、天の軍勢が私たちの周りにさらに多く展開していることを、確認していただきたいと思います。

 昨晩は、私の母親の誕生パーティーがありました。母親は百歳くらいかと思ったら、まだ八十九歳でした。でも、八十九年、よく生きてきたもんだと思ったのですが、二年前くらいに母は病気になりまして、それは筋肉が衰える病気だと診断されました。変な病気だなと思っていたのですが、体の力が抜け、身がかがんできて、動けなくなって来ました。私は「これは一年も持たんだろうな・・・」と思いました。私も旅が多いので、「母親の葬式に出ないわけにはいかんしな・・・」と思って、「神様、母の葬式のスケジュールをうまく調整してくださいね」と祈っていました。
 人は、やがてこの地上から出ていかなければなりませんから、こんなこと本人を目の前にして言うのも何ですが、「八十数年も生きたら、もう十分生きたかな」というようなところもありますから、少し時間差はあるかもしれないけれど、母が死んでも五十年以内にはまた会えるから、と思っていました。私は案外さばけているところもあるのですが、でも、葬式くらいは出たいなと思って、「神様、葬式の予定をうまく組んでください」と祈っていました。私は確信していました。絶対、この一年の間に母親の葬式があると。
 みなさんも私の母を見て、そう思っていたかもしれません。母は、日を追うごとに弱まり、元気がなくなって、着陸ももう秒読み段階だと思っていました。

 そうしたら、近頃、意外にしゃんとして来て、元気になって、毎朝の教会の祈祷会にさえ出て来るのです。おいおいおい、という感じです。そして、いろんな所に顔を出すようになって、昼飯は自分で作ったりしているのです。
 普通、筋肉が弱くなるような病気は、弱くなり始めたら、徐々にもっと弱くなって着陸です。けれども、うちのばあちゃんは、着陸かと思ったらびゅぅーんと上昇し始めたのです。なんか、先日の中国南方航空のようです。あらすごいなと、ちょっとびっくりです。
 昨晩も、それで誕生パーティーがありまして、ケーキが用意されておりました。誰が買って来たのかわかりませんが、「89」という数字のケーキがあるのです。そんなのが用意されていて、感謝だなと思いました。やっぱり、この地上で長らく生きるのはいいことですから。
 最後にケーキを食べる時になって、「89」という数字を誰も切りたがらないのです。私は言いました。「みんな呪術的だね」と。それで、私がカットしてあげました。私はそういうことを恐れません。89を切っちゃったら89歳で死んじゃうんじゃないか・・・。そんなこと、思わなくてもいいのです。来年は90というケーキが並ぶという信仰を持てばいいわけです。

 でも、なんで母親が良くなったのかなと思っていました。それは、もちろん、みなさんが真剣に祈ってくれたからだと思います。本当に感謝いたします。
 でも、一番祈ったのは、やはり私の父だと思います。うちの親父は今からの話を、あんまりしていないみたいですが、うちの親父の名は明と言います。ここにもいますが、彼は案外、昔から霊感が強い男です。
 彼は母親が病気になって、ちょっと落ち込んでおりました。いつもは元気がいいですが、「明先生、奥さんを亡くしたらどうなっちゃうのかな・・・」と、みんなどきどきしていました。彼は、妻のいやしを真剣に祈っていました。
 「主よ。家内をなんとか癒やしてください!」と。やっぱり、真剣に祈っていたので、神様が助けてくれたのだと思います。

 ある時父は、夢を見たそうです。夢だか、幻だか知りませんけれど、ある夜、鍵が掛かっているはずの家の中に、突然、一人の男が入って来たというのです。これは夢の話です。男が入って来たので親父がびっくりして、「誰だ。おまえは!」と叫ぶと、男は「わしは天使だ!」と答えたというのです。
 親父は「何しに来た!」と聞くと、「あんたの奥さんを治しに来た」と答えたそうです。
 そんな夢だか幻を見た後、なんと、着陸寸前の母親が、上昇し始めて今があるわけです。
 アブラハムにも九十九歳の時に主がお現れになったとありますが、その後、天使が現れています。天の軍勢、天使と全能の神の働きには、強い関連があるのです。

 全能の神を信じると、なんと天の軍勢が、私たちのところに遣わされて、私たちを病気からも守り、病気になった時には神からの癒やしの保証書を持ってきて、「あんたを直してあげますよ」と手渡してくれたり、また敵が来た時には、敵をやっつけたり、そういう働きがあるのです。すごいことじゃないでしょうか。

 みなさん、私たちは、悪魔・悪霊どもとの戦いを意識しなければなりませんが、それ以上に、主が御使いたちに命じて、私たちを守っているゆえに、『わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。』と約束されているのです。

 私たちに、天の軍勢が遣わされていることをしっかりと理解しましよう。聖書を見ると、御使いとか、主の使い、天使、天の軍勢、というようにいろんな表現が使われていますけれども同じ存在です。それは三百回くらい出て来ます。
 神様がどのくらい、ご自分の軍勢を派遣して我々を守っているのか、わかりません。

 ある時、イエス様の弟子たちが、子供たちを馬鹿にしました。その時、イエス様が弟子たちをたしなめられて、マタイ十八章十節、

『あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。』

 子供たちは大人と比べると問題が少ないです。子供たちの世界と大人たちの世界を比べたら、どっちが幸せかといったら、子供たちの方がずっと幸せだと思います。夜眠れないとか、いつも暗い顔をしている子供たちは少ないですよね。いつもはつらつとしています。
 子供と大人とどっちが病気が多いか。もちろんこの頃は子供の病気も増えていますけれど、やっぱり大人の方が病気は多いし、いろんな犯罪とか、何から何まで比べたら子供たちの方が少ないのです。
 それは子供だから、若いからだろう、と言われるかもしれませんが、それだけではないのです。子供たちには、ここに書いてあるように、「彼らの天の御使い」というのがいつも一緒にいるからです。だから、子供たちは守られていると言えるのではないでしょうか。

 これは私の推測ですが、神様は公平な神様ですから、人が生まれた時、私たちを霊的な世界でも守るために、その人専用の天の軍勢を派遣してくれているのではないかと思うのです。天の軍勢が、私たちを守る為に派遣されて、それもセットで人は創造されているのかもしれません。
 でも、私たちが罪を犯したり、主から離れたり、自分勝手に生活すると、だんだんと光の軍勢の数が減って、いつのまにか敵の方が周りに多くなるのかもしれません。その結果、いろんな問題が起きるのかなって、時々思うのですが。
 今日は私たちに神が割り当ててくださった、天の軍勢が回復して、守りが完璧になったら素晴らしいですよね。
 全能の主を私たちの神とする時、そのことが起こるわけです。そして、子供たちが守られているのと同じように、大人たちも守られ、新しい世代も神の祝福にあずかることができると教えているわけです。

 今日、ここに本当に多くの方がおられます。もう長いことクリスチャンをされている方、この頃教会に来られた方、私はクリスチャンではないという方もおられるかもしれませんが、誰にでも、祝福の道と呪いの道が用意されていて、それを選択するの私たち個人の責任です。
 私たちは良い道を選択しなければなりません。それは何かというと、「わたしは道であり、真理であり、いのちです」と語られた「イエス・キリストの道」なのです。私たちがイエス・キリストを道として選び取るならば、子々孫々、未来に至るまで、アブラハムの祝福を共有することができるのです。

 でも、間違えてはいけないのが、祝福というのは、私たちが金持ちになるとか、「どうだ!」と威張るようなものではありません。「祝福とは何か」といったら、根源は、「神の御心の実現」です。
 祝福とは、神が私たちに与えてくださっている使命を掴むことが、一番の祝福です。祝福をただ、経済的祝福だとか、物質的祝福にすり替えられてはいけません。アブラハムの祝福とは何かといったら、「アブラハムが神からいただいた使命」でした。
 我々がこの地上に生まれたのは、神からの使命があるからです。使命がなければ、いくらお金があっても虚しいのです。

 近頃、大物歌手と言われるような人たちが、次々と亡くなりました。何年か前にはマイケル・ジャクソンという世界的スーパースターが急に亡くなりました。
 そして先日は、ホイットニー・ヒューストンというまだ四十代の世界スーパースターが亡りました。二人の結末はあまり喜ばしくないというか、なんで亡くなったんだろうかと疑問が残る、何か闇が関わっている感じです。
 彼らは巨額の富を手に入れ、大勢の人からもてはやされ、賞賛を受ける立場だったかもしれません。しかし、薬がなかったら眠れなかったようです。
 もしも彼ら歌う賜物が、すべて神の手の中で使われていたらどうでしょうか。相当多くの人たちが、癒やされ解放されたと思います。

 前にもお話ししましたが、私たちは、神から与えられた賜物を中心軸にいろんな戦いが起こるのです。マイケル・ジャクソンが歌も踊りも下手だったら、今頃生きていると思います。ホイットニー・ヒューストンだって歌が下手だったら、どこかで生きているでしょう。
 歌をうまく歌うのは、神から与えられた、天から与えられた賜物です。それを自分のために、自分の名声や、富のために使ったらどうでしょうか。いくらお金をもらったっても、賞賛を受けても、虚しいのです。富を持てば持つほど、薬を使わないと眠れないようになるのです。

 しかし、アブラハムの祝福とは、私たちに神から与えられる「使命」です。全能の神が私たちに使命を授けてくださる。そんなに嬉しい事はないじゃないですか。神から特別、任命されるのです。
 みなさんは「辞令/官職・役職などの任免の際、その旨を書いて本人に渡す文書」って、もらったことありますか?
 私は高校を卒業して、豊橋市役所で働いたことがあります。市役所の職員だったなんて、ちょっと見えないかもしれません。市長から辞令をもらって、仕事に就くのです。「あなたを○○課○○係所属に任ずる」とかいう辞令をもらって、その課に出向いて行きました。

 みなさん、私たちには神から辞令が出るのです。「あなたにしかできない使命があります」という辞令です。これこそアブラハムの祝福です。
 神は私たち一人一人に使命を与えてくださるのです。使命を受け取ったら、これは、他の何を受け取るよりも、人生は祝福されるのです。そして納得できるのです。
 「私はこのために生きているんだ。私はこのために生まれて来たんだ!」と。それがアブラハムの祝福です。また、それだけでなく、神は私たちに必要な物も授けてくださるのです。
 今日、私たちは信仰によって、アブラハムに与えられた祝福を自分の物として受け取っていただきたいと思います。使命を受け取って、いきたいと思います。

 私たちの所には、全能の神から、天の強い軍勢が派遣されていて、私たちを守っていることを今日も確認して、今週も、雄々しく歩んでいこうじゃありませんか。
 詩篇九十一篇のように、何があっても主は守ってくださる。保証書を私たちは持っている、ということを信仰と共に受け取っていきたいと思います。

 最後にみなさんと一緒にお祈りしたいと思います。イエス・キリストの十字架によって、アブラハムの祝福が私たちに与えられました。今日は伝道礼拝ですけれども、聖餐式をやった方がいいなと思いました。イエス様の十字架ゆえに、アブラハムの祝福が私たちのものとなったことを確認し、今から聖餐式にあずかりたいと思います。


 ハレルヤ、天の父なる神様、御名をあがめて感謝します。今日は、あなたが全能の神、エル・シャダイなる神であることをもう一度確認し、宣言します。私たちを助けてくださり、守ってくださる神であること、その保証であられることを学びました。今日ここに主が来てくださいますように。主が、私たちに使命を授けてくださいますように。イエス様の十字架によって、アブラハムの祝福が私たちのものになったことを心から感謝します。イエス様の十字架の愛と犠牲を心から感謝し、今から聖餐式にあずかります。アブラハムの祝福を受け継ぐ者として、祝福と使命をお与えください。感謝をもって、イエス・キリストの御名を通して、祈りをお捧げいたします。
アーメン。