HOME > メッセージバックナンバー > 2012年バックナンバー > 3月 > メッセージ2012年3月11日

『回復の日が来ます!』

2012.3.11(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
エレミヤ書31章3節~6節

『主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう』と呼ばわる日が来るからだ。」』


 ハレルヤ!おはようございます。今日、こうしてみなさんの前に立ってメッセージを取り次がせていただける特権を、心から感謝します。
 今、聖歌隊の素晴らしい賛美を聴かせていただきましたが、今の賛美は、関東大震災の時にできた賛美でした。「地が揺れ動くような時があっても、主の十字架は決して変わることがない」と力強く賛美されました。
今朝、テレビをつけましたら、早朝から、東日本大震災の一周年記念日ということで、一年前の記憶を呼び覚ますような映像が流れ、悲しみの日であることがわかりました。
みなさんの記憶にも新しいことと思いますけれど、一年前に大きな地震が東日本で起きました。以来、日本は苦しみの中にあり、現在も継続しています。そんな中でも、主が今まで支えてくださったことを、心から感謝したいと思います。

 今日は、午後から、日本のためのとりなしの祈り会を開催したいと願っています。地震が二〇一一年三月十八日、二時四十六分十八秒に起こったというのですが、正確には十八・一秒だそうです。
今日は、二時四十六分十八秒を機に、日本全国で慰霊祭が行われます。様々な存在に向けて礼拝が捧げられる、そんな日でもあります。
 しかし私たちはクリスチャンとして、天地宇宙を造られた真の神様に、日本の未来を託す祈りを捧げなければなりません。
 この一年、私たちの教会からも、多くのボランティアが被災地に行って働いて下さいました。また一年近くに渡って、岡本信弘先生の娘の泉ちゃんが「CRASH JAPAN」の事務局で、復興のために専門的に働いています。今日はその復興最前線の模様を紹介する写真も送っていただきましたので、それを見ながら、被災地は現在どうなっているのかを知って祈っていきたいと思います。

 今朝、テレビを見ましたら、「地震や津波の映像が流れますけれども注意してください。PTSDの恐れがあります」と言うテロップが流れていました。それは、フラッシュバッグによって精神的に不安定になる可能性があるそうです。「注意して観てください」と表示が出ていましたけれども、昨年は津波などの映像や写真を多く見せられ、脳裏に焼きつき、ある意味で傷となって残ってしまったのかもしれません。
 しかし一方では、防災意識はかなり高まったのではないかと思われます。昨年の地震を教訓として活かしていかなければならないわけです。
 調べて見ましたら、九世紀から二十世紀までに、マグニチュード七以上の地震が、記録が残っているだけでも、五十回近く起こっています。ここに一覧表を作りました。

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 今日は地震のことを話しに来たわけじゃないのですが、地震の観測がちゃんとできるようになったのは江戸時代くらいからなのですが、昭和になりますと十六回起こっています。

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 そして、平成になってからは五回も起こっています。こういう国に私たちは住んでいるということを、よく理解しないといけないのではないかと思います。
 教会に来て、御言葉を聞くだけでなく、実践しなければいけないわけですが、「主があなたを守ってくださいます」と先ほども賛美しましたけれども、私たち側でできることは精一杯やって、できない領域は神様に守っていただくのです。

 震災の映像を去年の韓国のリバイバルミッションの時に、韓国の教会などにお見せし、日本のために祈っていただいたのですが、今からもう一度、その映像をみなさんに見ていただきたいと思います。みなさんにPTSDが起こらないことを祈りますけれど、とりなしという意味で、一年前、東北に何が起こったのかを、よく心に刻んで、日本の復興と回復のために祈りたいと思います。



 本当に大変なことが東北に、いや、日本に起こったことがわかると思います。私たちはこの国の癒やしのために祈り続けていく必要があります。今の映像を見てもう一度、心を新たにされました。

 今日は、そのこともテーマにしながら御言葉を学んでいきたいと思うのですが、この日のために主から与えられた御言葉は、エレミヤ書三十一章三節~六節です。もう一度読んでみたいと思います。

『主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう』と呼ばわる日が来るからだ。」』

 今日は「回復の日が来ます」とタイトルをつけました。ここに『主のもとに行こうと呼ばわる日が来るからだ』とありますので、「回復の時」というよりも、「回復の日」としました。神は回復の日を決めておられるのではないかと、ここから教えられました。
 エレミヤ書の三十章、三十一章は「慰めの章」と呼ばれます。イスラエルはかつて、一つの国でしたけれど、北イスラエルと南ユダに分かれてしまいました。その後、二つの国は大国に攻められ、北イスラエルはアッシリヤに、南ユダはバビロニア帝国によって滅ぼされてしまったのです。
 エレミヤは、そんなただ中で預言活動をした人物でもあります。特にバビロンに連れ去られ、苦しんでいる人たちに、預言を送りました。それを読んだバビロンに住んでいる南ユダの人たちが、もう一度、預言を読んで神から希望をもらって立ち上がったのです。そのような預言の書ではないかと言われています。
 イスラエルは、かつては神の民でありました。けれども分裂し、歴史から消されてしまうほどの運命をたどりました。

 しかしそんなただ中で、『主は遠くから現れた』とエレミヤは語っています。
神様が近くに来て「あなたを助けてあげますよ」と言ってくれれば嬉しいのですが、近くに現れるのではなく、遠くに見えるような時もあるのかもしれません。
 しかし遠くに現れた主がエレミヤに何と語ったかというと、『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた』と語られました。
「永遠の愛をもって、わたしはあたなを愛している」と、消えてしまったようなイスラエルの残りの民に語っておられるのです。
 ここから学ぶことができるのですが、神の愛はどんな状況の中でも変わることがないという事です。神は私たちに対して、永遠の愛を持っておられるのです。

 日本もいろんな問題が起こって、立ち上がることができないかもしれないと言われる今日この頃ですが、そんなただ中にも主は「永遠の愛をもって、わたしは日本を愛していますよ。それゆえわたしは日本に誠実を尽くし続けています」と語られているはずです。
 四節からは希望の言葉が語られます。

『おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。』

 サマリヤの山々にはぶどう畑ができますよと、植える者たちは植えて、その実を食べることができますよと。
 「サマリヤ地方」とは、北イスラエルを表します。アッシリヤに連れて行かれ、消えてしまったと思われた十部族ですが、故郷にぶどう畑を作るほど回復される日が来ると預言されました。
そして、『エフライムの山では見張る者たちが、「さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう」と呼ばわる日が来るからだ。』と語られました。
 日本に対しても主は、回復の計画を持っておられると信じます。

 先週は「神の愛」について語らせていただきました。ローマ人への手紙から学びましたが、ローマ人への手紙八章二十六節~二十八節、

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

「神様はどこに働いてくださるのか。それは、弱さの中に働いてくださる」と話しました。
 日本はこの一年、弱さを体験していますけれども、「その弱さこそ、御霊のとりなしが為されている現場である」と話しました。今、聖霊様が日本の弱さの中に、私たちの弱さの中に働いて、自らとりなしの祈りをしてくださっていると信じます。

 「とりなしの祈り」とはどういうものなのか。それはただ「神様、助けてあげてください」という嘆願ではなく「ある者と、ある者の間に入って、代価を払うという働きだ」と話しました。
 この国の弱さのただ中に主がお入りになり、代価を払って下さっておられるのです。とりなしの祈りは重要です。

 日本は苦しみの中にありますけれど、苦しみのただ中に入り、祈ることができるのは、聖霊様、イエス様、そして「教会」です。特に、教会がただ中に入り、とりなし祈ることが大変重要であり、それが回復の鍵です。

 国に起こるいろいろな問題は、どこに原因があり、だれの責任なのかと言われると、それはなかなか難しい問題です。
今回の地震と、その後起こった原子力発電所の崩壊に関し、政府の原子力政策に問題があったとか、東電に責任があると言われ、様々な論議がなされていますけれども、事故が起こるまでは誰一人として、クレームをつけることもなかったわけですし、安全対策を高めていなかったのは事実ですから、国民全体の連帯責任とも言えるのかもしれません。
しかし、責任はどこにあるかというと、実は、霊的世界においては教会にあるのです。
 なぜなら、教会とは、破れ口に立ってとりなす使命があるからです。自分も日本人として国の罪を憂えて、教会は主の前にとりなし祈る使命を託されているわけです。それを果たさなかったら、最終的に何処に行き着くのでしょうか。
 私たちは、日本に住むクリスチャンとして、日本にある教会として、このような大災害が起こった後、その事を真摯に捉え、神の前に悔い改め、真剣にとりなし祈らなければなりません。
 もちろん日本は先ほども話しましたように、昭和に十六回もマグニチュード七以上の地震が起こっていますから、それは歴史が証明する地震国です。今後も地震は起こり続けるのです。日本は、そのような地理的、構造的条件が備わっている国です。
 しかし、そんなただ中に主は教会を建て、破れ口をふさぎ守る命令を下しておられると思うのです。
 このような時期にあって教会は、この重要な責務を果さなければならないのです。それをもう一度心に刻まなければならないことを教えられます。

 しかし先ほど読んだローマ人への手紙八章二十八節には、

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』

とあるように、様々なことが起きるかもしれないけれど、主を信じる者たちが、神を愛する者たちが、神のご計画に従って召された人々が国に住んでいる以上、必ず、すべてのことを働かせて益としてくださるのです。
 様々なことがこの国にこれからもあるかもしれません。しかし、主を愛し、主の計画を掴んだ人たちが国にいるならば、必ず、すべてのことを働かせて益としてくださるのです。
 なぜならば、私たちに対する神の愛は大きなものだからです。先週学んだ所でありますけれど、ローマ人への手紙八章二十九節~三十二節、

『なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。』

 「あらかじめ知っておられる人々」、また、「あらかじめ定められた人々」とありますが、一つ確実に言えるのは、今日、席に座っておられる方々は、確実に「あらかじめ知っておられる人々」、または「あらかじめ定められた人々」に入るのです。
 私たちはどういうわけか、この時代に選ばれ、今朝、ここに座っています。。
私たちのために、神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々を義と認め、義と認めた人々にさらに栄光をお与えになるというのです。

 国にこれからも、いろんなことが起こるかもしれないし、人生にもいろんなことが起こるかもしれないけれど、あらかじめ定めた人たち、選んだ人たちを、その中で訓練し、次のステップ、次のステップへと進ませ、神の栄光を現す器として下さるのです。
 それほど私たちには、国に対して、これからの歴史に対して、大きな責任と使命が与えられているのです。ゆえに、「定められ、選ばれた人」と呼ばれるのではないかと思うのです。

 これらのことから何が言えるのか、それは『御子といっしょにすべてのものを恵んでくださらないことがありましょうか』と言うことです。国に勝利を与えて下さらないはずはないのです。
 続いてローマ書八章三十五節~三十七節、

『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』

さらに三十八節、三十九節を読んでみますと、

『私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』

と結ばれています。「様々な艱難があったり、苦しみがあったり、迫害があったり、飢えがあったり、裸があったり、危険があったりするかもしれなけれど、そんなただ中にあっても選ばれた人たちは、圧倒的な勝利者になるのです。私たちを主キリスト・イエスにある神の愛から、引き離すことはできないと、力強く語られています。
神様は、どんなに深く私たちを愛しておられるのでしょうか。

 私たち日本人は、神様は裁きを与える恐い存在だというイメージが強いです。祟りを与えるんじゃないか、苦しみを与えるんじゃないか、そんなイメージが強いのです。
しかし、聖書をよく学んでいきますと、神様は私たちに対して、大きな愛を持っておられることがわかります。
 様々なことが周りに起きるかもしれないけれど、私たちに対して、深い愛で接してくださっているのです。
 ローマ書八章三十五節~三十九節を、リビングバイブルで読んでみますとわかりやすいです。

『では、いったいだれが、私たちをキリスト様の愛から引き離せるでしょうか。私たちは困難や災難に会い、また迫害され、殺されるかもしれません。しかしそれは、神様が、もう私たちを愛しておられないからでしょうか。また、もし私たちが飢え、文なしになり、危険にさらされ、死に脅かされるなら、神様に見捨てられたことになるのでしょうか。違います。旧約聖書にこう書いてあるからです。「神様のためには、いつでも死ねる心がまえでいなければならない。私たちは殺されるのを待つ羊のようだ。」しかし、こうした中にあっても、私たちは、いのちを投げ出してまで愛してくださったキリスト様によって、圧倒的な勝利を得るのです。神様の愛から私たちを引き離せるものは何一つない、と確信しています。死にもいのちにも、そんなことはできません。御使いにもできません。地獄の全勢力を結集しても、神様の愛から遠ざけることはできません。今日の恐れも、明日の不安も同様です。あるいは、私たちがどこにいようと――空高くのぼっても、海の底深くもぐっても――私たちの主キリスト・イエスの死によってはっきり示された神様の愛から、私たちを引き離せるものは、何一つありません。』

 わかりやすいですね。周りには、いろんな事が起こるかもしれないけれど、そんなただ中で、主は私たちを圧倒的な勝利者としてくださると言うのです。
 この「圧倒的な勝利」をギリシャ語で見てみますと、「ヒュペルニカオ」という言葉が使われています。

 実は先週、リバイバル聖書神学校の卒業式がありました。今回は卒業生があんまり多くありませんでした。六名でした。卒業生が多くないのはある意味では、嬉しい事です。なぜかというと、一年コース、二年コースに入った方々が三年コースへと、献身の度合いを深めた結果だからです。今年は六名の方々が、これから最前線に出て働く決意と共に卒業されました。

 新城教会から、岩木姉妹と、うちの娘の婿であります陽介が卒業しました。三年間ようがんばったなと思います。卒業式は、荘厳な中にも主の臨在あふれるものでした。みなさんも、ぜひ聖書を深く学んでいただきたいと思います。

 聖書を深く学んでいきますと、神様は、たいへん深い愛で私たちを愛してくださっていることがわかります。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、ギリシャ語で聖書をちょっと勉強してみると、なお深い意味がわかってきます。
 「圧倒的な勝利者」とありますけれども、これは「ヒュペルニカオ」と言う言葉です。
「圧倒的な勝利」とはどういう意味かというと、「度を超えて打ち勝つ」という意味です。それは「度を超えて」と「打ち勝つ」という言葉がドッキングしてできた言葉だからです。「勝利してまだ、余りがある、おつりがくる」という意味です。また、「勝利者以上である」という意味もあります。

 様々なことが周りにあっても「そんな中でも、あなたは圧倒的な勝利者となることができますよ!」というのが聖書の教えです。
ローマ人への手紙。八章三十七節を口語訳聖書で読んでみますと、

『しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。』

と訳されています。「圧倒的な勝利」というのは、余裕の勝利です。勝っておつりが来るくらいの勝利者になってみたいですよね。この間の、なでしこジャパンの勝利のように、ぎりぎりの勝利ではなく、私たちは「圧倒的な勝利者」です。

 先日、テレビ番組を見ていたら、池上彰が歴史をわかりやすく解説していました。彼がうまいことを言っていました。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と語っていました。愚かな人は経験に学び、賢い人は歴史に学ぶと語っていました。「本当にそうだな」と思いました。
 日本はかつて、帝国主義の中で、最後にはどん底にまで落ちてしまいました。日本の転落の原因は何かというと、日本は歴史に学んだのではなく、経験に学んだからだと言うのです。ゆえに間違った道を選択してしまったというのです。

 江戸時代から明治に移って世界情勢がわかるようになり、日本は危機を感じたわけです。気がついたらヨーロッパの勢力がすぐ近くまで迫っていました。当時、植民地にならないで残っていたのは、朝鮮半島と日本だけでした。日本もやがて植民地化されるという強い危機を感じ、日本は自ら帝国主義の衣を着て、戦いに出て行ったのです。すると何が起こったのか、日清戦争で大国「清」に勝ってしまったわけです。
 そしてその後、最も強い国の一つであったロシアにも勝利したのです。日露戦争でバルチック艦隊を打ち破り勝利してしまったわけです。その経験は国民を大いに興奮させました。それが近代日本ができる一つの原動力となっていきました。
 やがて日本はアメリカと対峙しなければならない状況に陥ったわけです。当時の陸軍は、日清・日露で連戦連勝を体験して来た人たちが中心でした。彼らは、「日本は神の国だ。かつて蒙古が攻めて来た時だって神風が吹いて日本は勝ったじゃないか、日清戦争にも日露戦争にも勝つことができたじゃないか。だから、どんな戦いにも勝つことができる!」と言う考え方でした。
 それで三国同盟を結んでしまったのでが、最終的に仇となりました。
しかし、それに反対したのが海軍でした。「やめた方がいい。アメリカと戦争するのは無理だ」と主張しました。「アメリカと戦ったっても勝ち目はない」と、山本五十六を始め海軍は反対したのですが、最終的には経験論者たちの意見が勝ってしまったわけです。
 そして、日本は愚かな道を選択してしまったのです。

 私たちにも同じことが言えます。信仰も経験だけに基づいた信仰はやがておかしな方向に行ってしまいます。聖書にも信仰の経験談がありますが、二千年以上にも渡る長い歴史があるわけです。
 聖書は、長い歴史の中で証明された神の言葉です。この歴史に学ばなければならないのです。神が私たちに与えたヒストリー、まさしくそれはヒズ・ストーリーです。神の歴史、すなわち聖書に学ぶ必要があるのです。

 今、ローマ書の八章を読みましたけれども、これはパウロが語った言葉です。そして、新約聖書の記述も旧約聖書からの歴史的確認が必要です。

 みなさんと一緒に最初に読んだエレミヤ書は、どういう時代的背景があったかと言いますと、先ほどちょっと述べたのですが、イスラエルが北イスラエルと南ユダに分かれて、両国とも大国に捕囚された歴史があったわけです。そんなただ中で、神がこの預言の言葉をエレミヤに語ったのです。エレミヤ書三十一章十五節~十七節、

『主はこう仰せられる。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。」主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。‐‐主の御告げ‐‐彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。』

『主はこう仰せられる。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。」』とありますけれど、「ラマで聞こえる泣き声」とは何かといいますと、南ユダがバビロニア帝国に捕囚にされる前に、バビロニア帝国の軍隊は、ユダの人たちを「ラマ」という街に集め、そこからバビロンに人々を連れて行ったのです。

 ですから、ラマという街は、大きな悲しみの街でした。そこから子供たちが連れ去られたり、親子が引き裂かれたり、多くの人が殺された町でした。
 また、『ラケルがその子らのために泣いている。』と言う表現は北王国の滅亡のことを語っています。
しかし、そんなただ中にあっても、神はこう語られているのです。『あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。』

 やがて、バビロンに捕囚された人々は、七十年の歳月を経たある日に解放され、故郷に戻って来ました。そして国が再興されたのです。

 これは「歴史的事実」です。神様がイスラエルと、当時の大国との間に許された歴史、それを学ぶ時、まさに神は、様々なことがあっても、回復してくださるという事実を、歴史的にも学ぶことができるのです。
 さらに新約聖書に至っては、私たちを圧倒的な勝利者として下さると約束しています。「御子さえ惜しまずに与えてくださったのだから、与えてくれないものはない」と力強く語っています。あなたを圧倒的な勝利者にしてあげますと語っています。
新旧両約聖書に記されている歴史から、神は確実に私たちを愛してくださっていて、様々なことが起こるただ中で、全てを益としてくださり、勝利を与えてくださると確信するのです。

 日本において、様々な中に置かれていますけれども、エレミヤ書三十一章三節~六節。

『主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」』

 神は今、私たちに語っておられます。「様々なことがあるかもしれないけれけど、わたしは永遠の愛を持って日本を愛していますよ。わたしは日本に誠実を尽くし続けていますよ」と。
やがて日本は建て直され、タンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行くのです。
そして、六節にあるように、『「さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう」と呼ばわる日が来るからだ』と、リバイバルの日が来ることを信じます。

 そのためには何が必要か、それはまず最初に、主によって選ばれた者たちが、この御言葉を受け入れ、どのように行動するかにかかっているのではないかと思います。
 私たちが神様から与えられた使命を受け取り、私たちが国の破れのただ中に入って、破れをふさぐ者にならなければならないと思います。使徒の働き三章十九節~二十節、

『そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。』

 三月十一日という、歴史に残る大きな記憶の日に、私たちは選ばれた者として、神のみ前に出る義務があります。「罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて神に立ち返りなさい」とあります。
 日本の罪をとりなし、悔い改めることが必要です。特に、「とりなしの祈りをしなさい」と、主が私たちに語られているのではないかと思います。
 私たちは日本に生まれ、日本における数少ないクリスチャンの一人としてここにいるのは、決して偶然ではないのです。それは回復の時、いや、「回復の日」を神は定められておられるからです。その日に向けて、私たちは使命を果たしていかなければなりません。

 今日も私たちは神様の前に出ていますけれど、主を信じる者として加えてくださっていることを心から感謝し、この国のためにとりなし祈る者にされたいと、心から願う者であります。
 もう一度このエレミヤ書三十一章三節~六節の言葉を読んでみたいと思います。

『主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう』と呼ばわる日が来るからだ。」』

 この御言葉が日本に実現するように、祈っていきたいと願っています。自分にも罪があったら、神の前に悔い改め、特に日本が長い間犯してきた罪を自分の罪として悔い改めましょう。神は愛なる神であると共に、義なるお方です。
 特に、聖書の中で一番大きな罪は、偶像礼拝です。北イスラエルが、南ユダが、捕囚された原因も偶像礼拝の罪でした。偶像礼拝によって彼らは異国の地に引きずられて行きました。
 そのような歴史的事実を見る時に、日本に様々なことが起こる原因の根底に、偶像礼拝があると言えます。
 私たちは偶像礼拝から救い出されて、今日があるのです。しかし、依然として多くの人々が偶像礼拝のただ中にいます。その人たちを差別するとか軽蔑するのではなく、自分たちもそこから救われた者として、愛し、とりなしていかねばなりません。

 偶像礼拝は、本物の神の霊と交わっているのではなく、神のふりをした悪しき霊との交わりであることを、知らせていかなければならないのです。

 「圧倒的勝利」の「打ち勝つ」、「ニカオ」という言葉が最初に使われているのが、「イエス様が強い者に打ち勝った」という霊的戦いの場面で使われています。
 圧倒的な勝利を得るためには、日本を支配する強い者、すなわち暗闇の力に立ち向かっていかなければならないのです。強い者と日本の間に、教会が侵入して、くさびとなって打ち砕くとりなしの祈りが重要であることを、深く知らされます。

 今から、みなさんでご一緒にお祈りをしたいと思いますが、ここに聖餐式の準備がなされていますが、私たちを愛して、ご自分の一人子、イエス様を遣わしてくださった神に感謝し、その方が、すべてを恵んでくださらないはずがありませんと書かれていますけれど、イエス様の十字架、復活を信じる者たちは、この国に必要なすべてを主が用意してくださることを信じて、主に呼ばわっていきたいと願っています。
 今日は、日本が長らく行っている偶像礼拝の罪を悔い改め、私たちが救われたように、この国の人々が救われるように、しばらくみなさんと共に祈りの時を持ちたいと思います。

 先ほども戦争のことについてお話しましたけれども、根源にあったのは、日本人の高ぶりでした。「俺たちは神の国だ、特別なんだ、日本の神々は最高だ、どんな敵にも打ち勝つことができる」というおごり高ぶりが、滅びを招きました。
日本の長い間の高ぶりが砕かれている時代ですが、「私たちは力のない者です。弱い私たちを助けてください」と、弱さを認め、自分自身の罪も悔い改めて、回復の日が来るように、ご一緒にお祈りしたいと思います。