HOME > メッセージバックナンバー > 2012年バックナンバー > 3月 > メッセージ2012年3月25日

『回復の日が来ます!パート2』

2012.3.25(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
アモス書 9章11節〜15節

『その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。‐‐これをなされる主の御告げ‐‐見よ。その日が来る。‐‐主の御告げ‐‐その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元どおりにする。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない」とあなたの神、主は、仰せられる。』


 ハレルヤ!みなさんおはようございます。花粉の郷にようこそおいでくださいました。今日はなんだか花粉がかなり飛んでいるようで、花粉症の方は本当に大変だと思います。そんな中、新城まで来てくださったことを感謝します。

 しかし、みなさん、やがて回復の日が来ます。季節が変わって花粉がなくなったら、必ず、回復の日が来ます。

 同じように、すべての領域において神は「回復の日」を備えておられると信じます。三月十一日に「回復の日が来ます!」というタイトルで語らせていただきました。

その後、祈りの中でさらに与えられた御言葉を、今日はみなさんにお分かちさせていただきたいと願っています。


 先週、私は熊本県高森町で奉仕をさせていただきました。特に、先週は忙しく、高森が終わってから東京でセミナーがあったり、昨日は川崎へ行ったりと、いろいろありました。

先週の日曜日は高森町で集会をしましたが、そこにはリバイバル聖書神学校を卒業し、新城教会のスタッフとして奉仕してくださった小林雅子さん、今は結婚されて菅原雅子先生が牧会されています。

 彼女は熊本に帰って七年になります。しかし最初、私は心配しました。彼女が赴任する教会は、高齢者の方が多くて、平均年齢が七十歳以上でした。メンバーも多くなく、若い女性が牧会できるだろうかと心配しました。

 しかし彼女は、弱さの中に働いてくださる神を信じ、赴任して行きました。真剣に地域のためにとりなし、教会に来られる方々の解放の祈りをして働きました。

すると主は、働きを祝福してくださいました。その後彼女は結婚し、子供も与えられました。


 七年経ちましたが、教会は成長しました。彼女が赴任した当時の三倍くらいになりました。今は若い方も来られていて、子供たちは七人になったというのです。神様は真実なお方です。写真を見せたいと思います。


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 ご主人はちょっと私に似ている方です。本当にかわいい子供が与えられました。神は弱さの中に働いてくださいます。

 どんな環境の中にあっても、真剣に主に従って行く時、恵みを与えてくださいます。


 今週、私は三日間ほど韓国に行きます。水曜日にはウォンジュという町で集会があり、木曜日にはソウルでジュビリーという大きな集会があります。韓国の大きな課題は国の統一です。そのための祈りが盛り上がっています。そこに日本人としては初めてだと思うのですが、招かれてメッセージをすることになりました。聖霊様によってメッセージが与えられるように、ぜひともお祈りしていただきたいと思います。韓半島に回復が訪れるように、祈りをよろしくお願いします。


 今日、読んだ聖書の箇所は、アモスという預言者が語った言葉です。アモス書九章十一節、


『その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。』


 そして十二節、


『これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。‐‐これをなされる主の御告げ‐‐』


神様が倒れているダビデの仮庵、別の言葉でいうと「ダビデの天幕」を建て直すというのです。それは何のためか、それは『エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ』というのです。

「すべての国々の人たちを救うため」に、神は特定の日を用意されているのです。


 アモスという預言者は紀元前八世紀くらいに生きていた預言者です。南ユダはウジヤが治めていた時代、また北イスラエルはヤラベアム二世が治めていた時代でした。

 また、この預言は、使徒の働きの中に引用されています。イエス様の兄弟ヤコブによって引用されています。

 イエス様の復活後、エルサレムで異邦人たちが続々救われて来ました。初め、救いはユダヤ人だけのものと考えていたのが、「あれ、異邦人たちが救われるようになったぞ。どういうことだろう?」という疑問のなかで、ヤコブが聖霊によって示されたのが、アモスの預言でした。その箇所をちょっと見たいと思います。使徒十五章十三節〜十八節、


『ふたりが話し終えると、ヤコブがこう言った。「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。」』


「ダビデの幕屋」が建て直される日に、「回復の日が訪れる」と述べられています。

 アモスの預言が、いつ語られたのかというと、アモス書一章一節、


『テコアの牧者のひとりであったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の二年前に、イスラエルについて彼が見たものである。』


 アモスが回復の預言を受け取ったのは、どのような時点であったかというと、「地震の二年前」と記録されています。イスラエルに大きな地震があったようです。その二年前にこの幻をもらったというのです。

 「地震」と神の回復の動きに、何らかの関係があるかもしれないことを知らされます。イスラエルに大きな地震が起きる前に、神は回復の預言をあらかじめ与えられたのです。そればかりか、国々に対する異邦人の救いについても語られたのです。

この所を見る時、日本に大きな地震が起こりましたが、主は日本にも「回復の日が来ます!」と語られていると信じます。また個人にも「回復の日が来ます」と語ってくださっていると信じます。アモス書九章十四節、


『わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元どおりにする。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。』


 神様が語られる時、同じことを繰り返し語られる場合があります。先々週語った御言葉は、エレミヤ書三十一章でしたが、三節から読んでみますと、


『主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう』と呼ばわる日が来るからだ。」』


 エレミヤにも主は、同じことばを語られました。神は私たちに対しても回復の日を用意しておられると、ここから学ぶことができるわけです。

 そして、どのような時に回復が訪れるのか、その手がかりを学ぶことができます。それが「ダビデの倒れている仮庵が起こされる日だ」と。ダビデの天幕が建て直される日、回復が訪れると預言されているわけです。それはどのようなことを意味するのでしょうか。


イスラエルはエジプトから脱出して、荒野を四十年にわたって彷徨いました。そんなただ中でも、神は彼らと共におられました。神が共におられることが分かるように、神は一つのことを行なわれました。神は「幕屋」と呼ばれるご自分の住まわれる(臨在される)場所を作られました。それは移動式の天幕で、民が移動すれば、天幕も一緒に移動しました。その中には神の箱が安置されていて、主の臨在が現わされ「わたしはあなた方と共にいる」と語られたのです。


やがてイスラエルはカナンの地に入り、だんだんと落ち着いて来ました。王制が敷かれ、初代の王はサウルでした。この時代にもなると、荒野を共に進んできたモーセの天幕は、あまり重んじられなくなりました。

 サムエルという預言者によって、ミツパでリバイバルが起き、神の箱が安置されたのですが、その後、民はあまり関心を払うことはありませんでした。


 しかし、ダビデの時代になって変化が起こりました。荒れ果てていた、倒れていた幕屋が、ダビデ王によって復興したのです。

 幕屋はどういう場所であったかと言うと、神と出会う場所でした。同時に多くの血が流される場所でもありました。いけにえとなる動物がそこでほふられて、血生臭い場所でもあったわけです。

しかし、ダビデが幕屋を回復した時、一つのことが付け加えられました。それは本来、あったものですが、失われていたものでした。

 それが何かといったら、「神に対する礼拝」でした。神への心からの礼拝が回復したのです。特にダビデは、賛美を重んじました。あらゆる楽器を使って主を賛美し、今までは血生臭いモーセの天幕を、賛美で満したのです。ダビデによって、幕屋は賛美の満ちあふれる場所に変えられたのです。


 「倒れている仮庵が起こされる日、すなわち、ダビデの幕屋が建て直される日に回復の時が来る」とは、「神への礼拝が回復する時、回復が訪れる」ということです。


 今日私たちは日曜日に集まり、礼拝を持っています。礼拝とはどのような意味があるのでしょうか。それは神を心から誉めたたえると言う意味です。

プロテスタント教会の礼拝スタイルをある人が見て、こう批判したそうです。「なんだこれは。歌付きの講演会じゃないか」と。先ほどみんなで賛美をしましたが、その後この様に牧師が話をしています。「これは単なる歌付きの講演会で、礼拝でも何でもない」と言ったそうですが、それではいけないと思います。「礼拝」と名がつくならば、私たちは命がけで神を賛美し、神を誉めたたえ、神に近づく場でなかったらいけないのです。

 本来、モーセの幕屋に祭司たちが入って行く時には命がけだったわけです。もしかしたら殺されてしまうかもしれない、と言う緊張感がありました。これは一つのモデルです。

今、私たちも命がけの礼拝と賛美を持って、神の御座に近づいて行く、それが礼拝です。そして、真の礼拝が回復する時、この地にリバイバルが起こるのです。それも、国々に対するリバイバルが起こると教えています。礼拝とは、そもそも命がけです。中国のクリスチャンは政府から迫害されています。自由に礼拝できないのです。

 しかし、日本はある意味、感謝しなければなりません。別になんのお咎めもなく、礼拝に来ることができるからです。地下に潜らなくても良いのです。多少、花粉は飛んでいるかもしれませんが、感謝しましょう。


 ダビデの天幕が回復する時、何が起こるかに関して『これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ』とあります。世界の国々が救われるためには、そして、世界宣教のためには、「まず、わたしとの関係、礼拝を建て直しなさい」と語られているのです。イザヤ書十六章五節、


『一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行う者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。』


イザヤも心から主を礼拝し、命がけで主に仕えていく者がいるならば、回復の日が訪れると預言しています。

 先ほどもちょっと説明したのですが、サウルの時代は、神の箱はあまり省みられなかったし、荒野を渡って来たモーセの幕屋も軽んじられていました。かつては行われていた礼拝も、どこかに消えて しまい、レビ人たちも消えてしまっていた状況でした。

 しかし、ダビデが神から一つのことを教えられたわけです。第二サムエル記六章十二節〜十五節、


『主が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された、ということがダビデ王に知らされた。そこでダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上った。』


前にもこの箇所を学んだことがあるのですが、主の箱、神の箱は、オベデ・エドムという所に安置されたままでした。しかし、その家とそこに属する人たちが祝福された、という噂をダビデは聞いたのです。それでダビデは国の中心、自分の生まれた町に神の箱を運んだわけです。

 その時に、どんな風に運んで行ったかというと、第二サムエル記 六章十三節、

 

『主の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。』


 六歩、歩いただけで、一匹の牛を生贄として捧げたというのです。生贄を捧げる行為はモーセの時代からずっと続いて来たものです。旧約時代、罪を赦してもらうためには、獣が血を流さなければなりませんでした。ダビデは六歩ごとに肥えた牛を捧げたのです。それは大きな犠牲です。

 そして第二サムエル記六章十四節〜十五節、


『ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上った。』


 さらにダビデはどのように、神の箱をダビデの町に運んで行ったのかと言うと、六歩ごとに肥えた牛を捧げると共に、賛美と喜びを持って、踊りながら運び上がったというのです。

 実はダビデが回復した天幕へは、神への賛美、礼拝、そして踊りが加えられたのです。

詩篇を見ますと、ダビデは多く賛美について語っています。賛美はどうあるべきかがそこで知らされるわけです。

 今日も、賛美がたいへん恵まれました。いろいろな楽器を用いて主を賛美しました。

しかし、私が小さい頃、教会ではあまり楽器を使いませんでした。母が足踏みオルガンをギコギコと踏んで弾いていました。歌はずれるは、演奏はずれるはで大変でした。しかし、この頃はこうして多くの楽器で歌えるのは恵みです。

 ダビデが天幕を建て直す時、神は賛美の重要性、礼拝の重要性を教えました。詩篇の最後一五〇篇は賛美の章であります。詩篇一五〇篇一節〜六節、


『ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。』


 今日、みなさんに息はありますか?息がなかったら、死んでいるわけです。『息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。』となっています。私たちは「ハレルヤ!」と言いますけれども、これは「主を誉めたたえます!」という意味です。私たちは息をしていますから、恵みに感謝すると共に、神を賛美し、神を礼拝することが全世界の回復に繫がるという奥義を知らなければなりません。


 日本の教会は多くの楽器を使って賛美するスタイルを長年持ち合わせていませんでした。しかし近年、日本の教会の賛美が変わって来ました。

 私は若い頃、グロリアシンガーズというバンドでギターを弾いていました。今から四十年以上前の新城教会は、ギターを弾いただけでみんなに批判をされました。私が初めてギターを教会で弾いた時、皆が窓を開け始めました。なぜならば、あまりにも音がうるさいということでした。下手だったのもあったのですが、あまりにもうるさくて戸をあけて、「音よ出てけ、出てけ」というサインでした。賛美グループ苦難の時代でありました。グロリアシンガーズというグループも、何度も解散せよと言われました。それでも何とか何とか戦いながらやって来たら、そのうち日本の賛美も変わって来ました。今ではどこの教会でも、ギターを使ったり、ドラムを使ったり、ベースを使ったり、キーボードを使ったりして、元気よく賛美をするようになりました。

 これを「時代の流れ」という風に思わないでいただきたいのです。それはダビデの天幕の回復そのものであり、回復の日が来るための備えであると信じています。

 どんな働きでも、新しい事が始まる前後は戦いがあるものです。今、日本の政治の形態が変わろうとしています。それで毎日のようにニュースの中では新しい動きと、それに対する反発です。ダビデも同じだったのです。


 神の箱をダビデの町に運び上げる時に、一国の王様であるダビデが自分を失ったかのように、神の前に喜び踊って礼拝したのです。その姿を、ダビデの奥さんが見ていたのです。奥さんは、旧体制のサウロの娘だったのです。彼女がなんと言ったかというと、第二サムエル記六章二十節〜二十三節、


『ダビデが自分の家族を祝福するために戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。」ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。私の目に卑しく見えても、あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった。』


ダビデが主の前で、自分が王という立場を忘れて、着ているエポデという服が脱げてしまうほど、激しく喜んで踊っているのを見て、「はしたない。もうちょっと何とかしてよ。」と嫌みを言ったわけです。しかし、ダビデは、『私はその主の前で喜び踊るのだ』と語りました。


 ダビデは神に対する礼拝、賛美の重要性を知っていた人物でした。それはただ単に、神を礼拝するだけでなく、国々への回復に繫がることを知っていたと思います。

 私たちも今、リバイバルと日本の回復を願っていますけれども、そのためには、神への礼拝と賛美をさらにさらに、命がけで捧げて行く必要があります。


 一九九二年の二月、教会に激しく聖霊様が訪れてくださいました。そして五月くらいから不思議なことが起き始めました。それは県民の森で賛美している時、初めての体験でしたけれども、自分の足が勝手に動いて、踊り始めてしまうことが起こったのです。何がなんだかわからなかったのですが、自分で止めようにも動きを止めることができませんでした。それは五月の連休の頃でした。県民の森で賛美し祈っている時、勝手に足が動き始めて、激しく踊らされました。帰り道も足が勝手に動いていて、何かおかしくなってしまったのではないかと思いました。その後、県民の森の祈祷会に来た人たちに、同じことが起こって広がって行きました。それは今日まで続いています。


 しかしそのことで、私たちは多くの人たちから批判されました。「夜中に県民の森に行って、彼らはきちがいのように踊っている」と批判されました。私も、なんでそんなことが起こるのか理解できず、ある時、神の前に出て祈ったことがありました。その時、一つの御言葉を与えてくれました。それが、ヨエル書二章二十一節〜二十四節(新共同訳)


『大地よ、恐れるな、喜び躍れ。主は偉大な御業を成し遂げられた。野の獣よ、恐れるな。荒れ野の草地は緑となり木は実を結びいちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす。シオンの子らよ。あなたたちの神なる主によって喜び躍れ。主はあなたたちを救うために秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。麦打ち場は穀物に満ち搾り場は新しい酒と油に溢れる。』


 この御言葉が私の心の中に入って来ました。特にこの二十四節の『シオンの子らよ。あなたたちの神なる主によって喜び踊れ。』「主によって」踊らされることがあることに気づかされました。

 その後の記述が何かというと、『主はあなたたちを救うために秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。』それは、リバイバルに繫がるということを、主が私に語りかけてくださいました。

 この踊りは主から出たものなんだ、ということに気づきました。賛美していたら体が勝手に動き出し踊ってしまうので、何事かと思っていましたが、聖霊様が来られる時にそういうことが起き、その延長線にリバイバルが起こると教えられたのです。

それはまさしく今から考えたら、ダビデの倒れている仮庵が起こされる、ダビデの天幕の回復でした。


 一九九二年七月でしたが、この場で賛美集会が開かれている最中、会衆全体に聖霊が注がれ、赤ちゃんからお年寄りまで、狂ったように踊りまくったことを今でも覚えています。あれは、まさしくダビデの天幕の回復でした。その延長線上に国々の民が救われ、リバイバルが起きるという、預言的な現れだったことに、今になって気づかされます。


 そして今もう一度、「あの時注がれた霊を再び燃え立たせなさい」と主が教会に語っておられるような気がしてなりません。

 アモスは主からの言葉をいただきました。九章十三節、


『見よ。その日が来る。‐‐主の御告げ‐‐その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。』


 「耕す」とは、種まきのための準備段階です。種を蒔くとやがて成長して収穫に至るのです。「刈る」とは収穫です。なんと、耕す者と、刈る者が近づくとは、種が蒔かれてすぐに収穫する、すなわちリバイバルを表しています。

 それが倒れていたダビデの仮庵が起こされる日に起きます、と告げているわけです。


 アモスの預言がイスラエルに大きな地震が起こる二年前に主から受け取ったものだと記録されているように、日本もこれからどういう道を歩むのか心配です。しかし、この様な状況下において、教会が倒れたダビデの天幕を起こし、神への礼拝と賛美を復興するなら、リバイバルが国に訪れるはずです。

 九十二年に起こったことも、預言的なことだったと思います。当時は意味がわかりませんでしたが、主が二十年に渡って導いてくださったことを心から感謝すると共に、初めに私たちに回復の日のための準備情報を与えてくださっていた事に気づかさ、主の御名を崇めます。そしてもう一度、主の前に出て行く必要を教えられます。


 ダビデという王様は一国の王でしたけれども、それ以上に、天地宇宙を造り世界を治めておられる神の偉大さについてよく知っていた人でした。彼は弱さもあったのですが、神を心から礼拝した人物でした。

 第一歴代誌二十九章一節〜九節を見ると、彼がどんな思いで主に向かっていたかという、心意気を学ぶことができます。やがてこのダビデの天幕は、後にダビデの子、ソロモンによって、移動しない固定された神殿へと変わったわけですが、自分の息子ソロモンに対して、彼が聖霊によって語ったことが第一歴代誌二十九章一節〜九節に書かれています。


『次に、ダビデ王は全集団に言った。「わが子ソロモンは、神が選ばれたただひとりの者であるが、まだ若く、力もなく、この仕事は大きい。この城は、人のためでなく、神である主のためだからである。私は全力を尽くして、私の神の宮のために用意をした。すなわち、金製品のための金、銀製品のための銀、青銅製品のための青銅、鉄製品のための鉄、木製品のための木、しまめのう、色とりどりのモルタルの石の象眼細工、あらゆる宝石、大理石をおびただしく用意した。そのうえ、私は、私の神の宮を喜ぶあまり、聖なる宮のために私が用意したすべてのものに加えて、私の宝としていた金銀を、私の神の宮のためにささげた。家々の壁に着せるため、オフィルの金の中から金三千タラントと、精銀七千タラントを、金は金製品のため、銀は銀製品のために、またすべて職人の手による仕事のために、ささげた。そこで、きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、主にささげる者はないだろうか。」すると、一族の長たち、イスラエル各部族の長たち、千人隊、百人隊の長たち、王の仕事の係長たちは、みずから進んで、神の宮の奉仕のために、金五千タラント一万ダリク、銀一万タラント、青銅一万八千タラント、鉄十万タラントをささげた。宝石を持っている者は、これを主の宮の宝物倉にささげ、ゲルション人エヒエルの手に託した。こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。』


 ここから彼の主に対する態度がどんなものであったのかが、わかります。二十九章二節に、『私は全力を尽くして、私の神の宮のために用意をした』とありますけど、私たちも全力を尽くして、心の全てを尽くして、礼拝するものになりたいです。ダビデの「全力を尽くして」というところから学びたいと思います。


 そして三節には、『私の神の宮を喜ぶあまり』とあります。「喜ぶあまり」というのは、喜びにあふれて主を礼拝しましょう、と教えています。

 その後に、『オフィルの金の中から金三千タラントと、精銀七千タラントを捧げた』とありますけれども、これは、最高の物を捧げたことを表しています。

私たちも最高の礼拝を主に捧げる、その時に、倒れた天幕が建て直されることを意味していると思います。


 そして、五節を見ますと、『だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、主にささげる者はないだろうか』と呼びかけていますが、ダビデは「だれか」に言われてではなく「みずから進んで」主を礼拝したのです。

 今日ここにおられるお一人一人が、他人の信仰ではなくて、自らが進んで、主を心から喜ぶ者となる時、大いなる勝利がやってくると信じます。

さらに九節を見ると、『全き心を持ち、』とあります。また、『直ぐな心で』という表現もありますけれども、ダビデが全力を尽くして、喜びにあふれて、最高のものを主に捧げ、自ら進んで全き心で直ぐな心で主に関わった時、回復が訪れたことがわかります。

そしてそれが、全世界のリバイバルに繫がるのです。


 毎週のように礼拝に集っていますけれども、ただ自分自身が恵まれるとか、家族の為だけではなく、日本の回復のために、いや、世界の回復のためにも、私たちは全力を尽くして主を誉めたたえ、喜びにあふれて、最高の賛美を、最高の礼拝を自ら捧げる時に、主は真の回復を与えてくださるのです。


 この教会は設立されて六十三年くらいになりますが、様々なことがありましたけれど、主が今まで守ってくださったことを心から感謝しています。

 私は、年に一度くらい、この教会に与えられた預言を分かち合っています。これを中心にするわけではないのですが、心に留める時ようにしています。

九十三年の五月頃、すごく大変でした。甲子園ミッションが十一月にあり、その前にいろんな問題が起こって本当に押しつぶされそうでした。そんな時、世界的な預言者の一人シンディー・ジェイコブス先生が新城に来てメッセージを語ってくださったことを、今で覚えています。その時に語られた預言は、今振り返ると知らない内に実現していることに気づかされます。心から、主の御名をあがめます。それを読んでみたいと思います。




 主はあなた方に言われます。私はこの所を神の聖き山、祈りの山にします。そして、それは全世界のための祈りの山です。そして、私にさえも神があなた方に祈りの山を与えることが見えます。それは物質的な意味での祈りの山です。やがてその山に全世界から人々が来るようになります。そこに奇跡が起きます。そして、私が与えようとしているその場所には多くの神社が立っているでしょう。神はその神社を全部除かれ、その山が先生方の物となります。これは、神様だけに出来ることです。

 そして、宣教を増し加え、あなた方はやがて全世界に教会を持つ教会になります。ここは日本で海外宣教師を最大に送る教会になります。

 木が新たに成長するために剪定が必要なように、この教会も主によって一度、剪定されました。しかし、去って行った全ての者のために、神は彼らの代わりに、三倍の人を連れて来るでしょう。そして、これは神が与える失われた者となります。

 この教会は大いなる伝道の教会となります。そして、この教会の若い世代の中から、将来の日本の最も偉大なる伝道者が出ます。そして、あなた方の子孫は悪魔の門を勝ち取ります。

 神はこの教会に不可能なことについて神を信じる、信仰の賜物を与えられました。この教会からダニエルとヨセフが出ます。ダニエルは政治関係、ヨセフは経済関係の器です。そして、素晴らしい聖書神学校と、印刷物配布のための印刷所が生まれます。

 この教会には、子供たちのために十分な部屋がありません。ですから私がこの教会を実を結ぶぶどうの木とします。この教会から子供たちのための学校が生まれます。これは神様のみが為される大きなビジョンです。

 そして、神はここに歌を作る学校を作ります。神はこの所から世界を巡るであろう、預言的な歌をもたらされます。そして、人々は日本語の讃美を英語に直します。神の恵みが豊かにありますように。




このように語ってくれました。あの頃は、手ほどの雲も見えない時代でしたけれども、シンディ先生を通して主が私たちの教会に語ってくださったことが、今になってわかります。この時に語られた事柄が本当に実現しています。預言を参考にして行動したわけでもないのに「気がついたら実現していた」ことが多くあります。さらに主は、成し遂げようとされていると思います。


 私は、先週のフェルナンド先生のメッセージを読んで、恵まれました。私たちの信仰の通りになると。信仰を持たなくてはいけないと思ったのですが、二〇〇〇年六月四日、ここで誰がメッセージを語ったか覚えていますか?それは私の友人の牧師で、スリヤ佐野先生がメッセージを語ってくれました。先生には賛美の賜物があって、多くの賛美を作っています。ちょうどその頃はスーパーミッションの時期でした。先生が語ったメッセージは、今日、私が語っているのと同じ内容のメッセージを語りました。

 しかし、先生がメッセージを語る前に、新城教会に対する預言の言葉を語って下さいました。昨日読んで感動しました。

彼がこの教会に奉仕に来る前日に、私たちのために祈ってくれていたようです。「そうしたら神様からの預言的な言葉をもらったので発表します。でもみなさんで吟味してください」と前置きして語りました。ちょっと読んでみたいと思います。




 新城という町は、新しい城と書きますが、神の前に城のような働きをする町であると信じます。城は敵が攻めてきても城壁があり、敵の攻撃をくい止め、すべての戦いの基地のような働きをする場所です。そこには王が住み、その町を治めその国を統治する、敵との戦いの中で要塞のような働きをする中心的な場所です。

 新城は新しい城と書きます。古い城ではありません。神様は私たちにこの時代に新しい聖霊のぶどう酒を与え、それを入れるための新しい革袋を備えられます。この町にある十字架は天に延びており、どこからも見えるような位置にあり、また霊的な意味でこの町の真ん中に神様によって置かれました。それは、終わりの時代に注がれるご自身の新しい霊、新しいぶどう酒を入れるための新しい革袋です。

しかしそれは、ただの革袋ではなく、その革袋は城の役割を果たします。それは神の王国にとって今はまだ世界中で働いているサタンの王国に対し、この教会はサタンの王国に立ち向かう神の国の要塞、城として、基地として宣教の中心として神がこの教会を選ばれたと信じます。

 それゆえ、神様は数十年前から多くの恵みを与えられ、ビジョンを与え、多くの器たちを形造り、それはすべて神の御手の働きです。そしてこの教会から色々なミニストリーが生まれ、育ち、全世界、全日本に福音を伝えるための力強い砦として成長し続けています。

 滝元明先生は日本を代表する伝道者として何十年も前から主に仕えて来られました。この教会はそのビジョンを受け継ぎ、チームとしてさらに拡大し、この町だけでなく、日本全国に対して霊的な要塞となり、戦いのために必要な機材・材料を送り出し、全日本を勝利に導くために仕える教会です。




このような言葉を与えてくれていたんだと、心から感謝し、主の御名をあがめました。

そのために必要なのは、倒れたダビデの天幕をもう一度起こす、主への礼拝です。全力を尽くして喜びのあまり、最高の物を自ら、全き心で、直ぐな心でダビデのように捧げる、真の礼拝者を主が求めておられると思うのです。


 今日、私たちは回復の御言葉を手にして、主の前に出て行きたいと願っています。

アモスの預言は地震の二年前に与えられたわけですが、日本に合わせて考える時、主がこの言葉を日本にも語ってくださっていると信じ、主の前に真の礼拝者となっていきたいと願っています。


 今からみなさんとご一緒に、聖餐式の時を持っていきたいと思います。イエス様が私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださったことを心から感謝し「日本に回復の日を与えてください」と祈りましょう。そのために、ダビデのように命がけの礼拝者となり、主に仕える者となれるように、ご一緒に祈っていきたいと思います。


 ハレルヤ、父なる神様。御名をあがめて心から感謝をいたします。あなたは回復の日を定めておられることを信じて、心から感謝します。主よ、どうか、日本に回復の日を与えてください。回復の日のために私たちは選ばれ、ここにいることを感謝します。

まず主よ、ダビデのように心から主を誉めたたえる者となることができますように。倒れたダビデの天幕をもう一度起こす者となりますようにお願いいたします。

 あなたが私たちの罪のために、十字架にかかって死んでよみがえってくださったことを記念する聖餐式に出ています。私たちのすべての罪を十字架の血潮で聖めてください。そして、全身全霊で主に仕えることができますように。全身全霊で主よあなたを誉めたたえることができるように。主よ、私たちをダビデ以上にしてください。

 今からの時、主よあなたに委ねます。聖霊を注いでくださって、リバイバルのために整えてください。かつて主が与えてくださった預言が実現するためにも、主の前に出ることができますようにお願いします。日本と世界のリバイバルのために、私たちを使ってください。

今ここに備えられています、パンとジュースを聖霊によって御言葉によって、あなたにお捧げします。主よ、あなたと一つにしてください。尊いイエス様の御名を通して、祈りを父なる神の御前にお捧げいたします。アーメン。