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『見捨てられた地がエデンの園のように』

2012.4.1(SUN)
新城教会牧師 上條実
エゼキエル書 36章33節~36節

『神である主はこう仰せられる。わたしが、あなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人が住めるようにし、廃墟を建て直す。この荒れ果てた地は、通り過ぎるすべての者に荒地とみなされていたが、耕されるようになる。このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった』と。あなたがたの回りに残された諸国の民も、主であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、これを行う。


 ハレルヤ!本当に久しぶりにメッセージができますことを感謝します。はやいもので、今日で四月に入りました。あっという間に今年も三ヶ月が過ぎてしまいました。今朝、ある兄弟と出会い、話している時「今月で六十歳になるので、今月で定年になるんだ」と聞き、もっと若いのかと思っていましたのでびっくりしました。と言いながら、自分も三人目の孫が七月に生まれる予定になっています。何と月日が経つのは早いんだろうと思う今日この頃です。

 今日午後のプログラムは、「新年度のためにとりなす祈とう会」をします。この教会では、多くの兄姉が新しい学校や職場に遣わされて行きます。また地域の役をされる方もおられます。その方々がクリスチャンとして良き証しができ、守られ、良き働きができるようにお祈りする時です。ぜひ皆さんご参加ください。
 この三月は、召天者記念会、納骨式が行われました。またお二人の葬儀がありました。お一人の方はこの教会にて、もう一人は東京にて行われました。来週の主日礼拝は復活祭の礼拝です。朝九時半より召天者記念会、そして十時半から伝道礼拝。その後ランチタイムが行われます。ぜひ新しい方々をお誘いください。先に天のみ国に帰られた兄姉も、私たちクリスチャンは再会ができることは感謝な事です。
 ですから今週は受難週となります。木曜日はイエス様が十字架にかかる前日であって、最後の晩餐が行われた日です。また弟子たちのために洗足式が行われた日です。金曜日はイエス・キリストが十字架にかかってくださった日です。そして三日目、日曜日が復活祭となります。ぜひ今週は十字架を感謝し喜び、復活のイエス・キリストを益々信じていきましょう。

 三月十一日に滝元順牧師が「回復の日が来ます」というタイトルで語ってくださいました。また先週も「回復の日が来ますパートⅡ」と題して語ってくださいました。私が今年のために与えられたみことばは、詩篇八十五篇なのですが、そのみことばも回復です。詩篇八十五篇八節、

『私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。』

 リビングバイブルでは、

『私は、神様の口から出ることばをひと言も聞きもらすまいと、耳をそばだてています。 神様の国民である聖徒たちが罪を離れさえすれば、平和を告げられるからです。』

 と書かれています。「罪から離れたら平和が与えられる」とあります。罪から離れたら、聖さを持つ時、十二節~十三節、

『まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。』

 私たちの国に、教会に、家族に私に良いものを下さり、産物が生じるという回復のみことばです。そして今日読んで頂いたエゼキエル書も回復を下さるとのみことばです。去年、日本は東日本大震災、台風など多くの苦しみを受けました。また経済的も不安定であり、様々な面で傷ついて苦しみました。今まで愛する日本の祝福とリバイバルを祈って来ているにもかかわらず、つらい事ばかりの一年でした。しかし今、私たち新城教会に「回復」というみことばを下さっています。私たちは期待しましょう。主は、苦しみのままで終わらせる方ではありません。必ずこの国に回復を与えてくださいます。今までの祈りは決して無駄ではありません。神が答えてくださるという約束、回復を与えてくださるという信仰をしっかりと握っていただきたいと思います。私たちは「霊的戦い」という言葉をよく聞きます。どのように戦うのかというとエペソの六章十七節

『救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。』
とあります。剣は武器です。それもみことばの剣です。だからみことばを宣言していく時に、暗闇の力を打ち負かすことができます。私たちがみことばを宣言し、大胆に「回復が訪れます」と宣言する時回復が訪れます。私はこの頃祈りの中で詩篇八十五篇十二節、

『まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。』

 このみことばを思い出す時に宣言しています。また先ほど読んでいただいたエゼキエル書三十六章のみことばも宣言しています。今日のタイトルは、「見捨てられた地がエデンの園のように」というタイトルをつけさせていただきました。私はよくリビングバイブルを読むのですが、先ほど読んで頂いたエゼキエル書三十六章のみことばの三十三節~三十五節を読むと

『神様はこうお語りになります。 わたしは、おまえたちを罪からきよめる日に、おまえたちを祖国イスラエルに連れ戻し、廃墟と化した国を再建する。捕囚のあいだ不毛の荒れ地のように放っておかれた農地は、再び耕される。 その地の荒れ果てた姿に、そこを通り過ぎる者は大きな衝撃を受けた。だが、わたしがおまえたちを連れ帰る時、彼らは言うだろう。 神様に見捨てられていた地がエデンの園のようになった。 廃墟となった町々が再建され、城壁が築かれ、人があふれている。」』

 今まで苦しんできた事柄、病い、心の傷なども「見捨てられた地がエデンの園のように」回復して下さる。それも今まで見捨てられていたところが、神の国である「エデンの園」のようにして下さるのです。ぜひ皆さんもイエスキリストの権威の中で宣言して下さい。必ず回復して下さいます。「見ずして信じる者は幸い」というみことばがあります。
 しかし回復というみことばを与えられたことをただ喜んでいてはいけないともみことばは教えています。回復を頂くためには条件があります。それはエゼキエル書の三十六章や、詩篇八十五篇などを見てわかることは聖さです。聖さがなかったら、絶対に私たちに祝福を頂くことができません。神と私たちは親子の関係によく例えられます。子どもが泥遊びを帰って来て、すぐおやつを食べようとしたならば、親は「手を綺麗に洗ってきなさい」と言います。それと同じように、ただ「みことばが与えられたから回復が起きる」と何もしないでいると、回復は頂くことはできないと知って下さい。主の前に聖さを頂かなければ回復は頂くことはできません。日本のことわざの中にも「棚からぼた餅」とありますが、「神様は今年は必ず祝福をくださる」と言いつつも、汚れた生活をしていたならば祝福はありません。神が回復を約束されることと回復、祝福を頂くことは別物だと思います。みことばをただ満足するだけでなく、私たちが神の前に徹底的な聖さを求めて行く時素晴らしい祝福、回復を頂くことができる。聖さという条件付きだと思います。

 先ほどお話ししましたように今週は受難週です。イエス・キリストが二千年ほど前に、私のために、わざわざ神の位を捨てて、この地に来て罰を受けてくださり、十字架にかかって下さいました。そして滅んで下さり、三日目に甦って下さった週です。大きな犠牲を払い救って下さいました。今度は私たちがお返しする番です。何をお返ししなければいけないのかというと聖さです。だから、日々の生活をよく点検しましょう。
 私たちはどれだけ十字架を感謝しているでしょうか。どれだけイエス・キリストを愛しているでしょうか。どれだけイエス様を宝物としているでしょうか。あなたは命がけで、このイエス・キリストを守って行こうと思っているでしょうか?迫害や問題、病いなどが自分に押し迫ってきた時、イエス・キリストこそ救い主であって、いやし主なる方。またすべての問題を解決して下さる方。回復くださる方と信じていますでしょうか?その第一段階として聖さをしっかり追い求めて行く器になって行かなくてはなりません。救いはただ「恵み」です。イエスキリストを信じた時、神の子とされ、救われるのです。しかし恵みであるため、なんの苦労もしていないので、救いを軽く考えてしまいます。今日しっかりイエスキリストの十字架を考えてください。イエス様はあなたのために鞭を打たれました。それも革の鞭で打たれただけではなくて、注解書を見ると、鞭の兵が先に尖った骨を付けたので、打たれると肉が裂けたと書いてあります。またイエス・キリストは拳や平手で殴られました。また唾をかけられました。もしあなたが人から唾をかけられたら、どのように思いますか。最悪だと思います。イエス・キリストは様々な苦しみを受けてくださいました。そしてまた聖画では裸同然のイエス様、腰巻きだけのイエス様が描かれています。しかし私の想像ですが、十字架は、張り付けてすべての住民のさらし者になったのですから、恥さらしのため、あまり良い話ではありませんがあの腰巻きはなかったんじゃないかと思います。私たちの為に裸で恥を受けてくださったと思います。また、「わたしは渇く。」と喉の渇きという苦しみを受けてくださいました。イエス・キリストこそ、「こんな苦しみを受けたことはない」というほど、苦しみを受けてくださり十字架にかかってくださいました。また手足に釘を打たれました。そしてみんなから「おまえは人を救ったじゃないか。私を救ってみろ」など悪口を言われました。あまりの苦しみでイエス・キリストは朝の九時から三時までの間十字架にかかり息絶えられました。十字架上、槍で胸を突かれた時、血と同時に水が流れたとあります。ある方は、「苦しみのあまり心臓が破裂したのではないか」と言っています。それはあなたのためであり、私のためです。ただイエスキリストが受けて下さった事を信じた時、私たちは恵みによって救われるとあります。なんにも私たちは苦労せずに、ただ自分を罪人だと認めて「イエス様、あなたを信じます」と受け入れた時に、救いをいただけると聖書にあります。私たち恵みで救われます。恵みだからなんの体験がないため、恵みを忘れて軽く考えてしまうのです。今日十字架の愛を心から感謝して、聖さをお返ししていかなければいけません。あなたのためにイエス・キリストは、あなたを助けたいために、あなたが滅びないために、十字架にかかって下さり、滅んで下さり、葬られ、三日目によみがえられた方です。こんな苦しみを私の代わりに受けて下さったのですから、軽く考えないでください。恵みだから、何も苦労していないからと軽く考えないで下さい。私たちはイエスキリストを命をかけて守っていかなければいけません。

 こんなことをお話しするのは、特に東日本大震災にて被災された方には不謹慎だと言われてしまうかもしれませんが、大津波が来た時、多くの人が必死に逃げ、津波にのみ込まれても助かった方を報道で聞く時、良かったなぁと思います。やっと津波から守られた方々が「家、財産などすべてを失ってしまったが、命があるだけで本当に感謝です」というインタビュー聞いた時、これは霊的世界にも同じ事が言えると思いました。裁きから救われたということがあまりにもピンと来ていなかったのですが、やっとの思いで助かった、救われた事を大きな津波とダブらせて、救われていることを心の底から「良かった」と思わされました。あなたはどうでしょう?恵みによって救われました。しかし救いを軽く考えてしまい、自分の生活、行い、語っていることば、見ているものを吟味せず、悔い改めもせず、大きな津波に向かって、歩いて行ってしまっていませんでしょうか?気がついた時には遅く、津波にのまれてしまい出られなくなり、亡くなってしまうようなものではありませんでしょうか?この受難週と復活祭は人ではなく、自分には聖さがあるのかどうか?自分に悔い改めなくてはならないことがあるのかないのかを総点検する時であってほしいと思います。もう一度しっかりとイエスキリストと聖さを土台としていきましょう。また、あの津波の時映像は高台から撮影されていました。先に高台に逃げた人たちは、今津波がどんな大きさで、どこに迫ってきているか見えていました。だから「そっちに行ってはダメだ、早くー!こっちだ!あっちだ!こっちに来たら助かるよ!」と叫んでいました。あなたは家族、友人、地域の人たち、愛する日本の人たちに、逃れる道を教えていますか?叫んでいますか?今実際に東海、東南海、南海地震などが同時発生する「南海トラフの巨大地震」のことをテレビや新聞で伝えています。危ないのでみんな対策を考え、備えています。しかし、私たちクリスチャンは備えもなく、危ないと言うことすら伝えることができないでいます。これでいいのでしょうか?この受難週を迎え、もう一度私たちはイエス様という高台に早く来るように大声で叫び、またもう絶対に罪に対して曖昧な考えでいないように、罪を軽く考えないように、悪しき力に対して戦って行かなくてはなりません。日本は人口の〇・二パーセントくらいのクリスチャンしかいません。九九・八パーセントの人たちが、あの津波の来るところで何も気づかず生活しています。また一度は恵みによって知った私たちが、また津波の、それも一番危ない場所に出かけています。悔い改めましょう。聖さをいただきましょう。向きを変えて、滅びの場所からイエスキリストという高台に逃げようではありませんか?ヘブル人への手紙 十二章二節、

『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』

 はずかしめをものともせず、私のために十字架にかかって下さいました。そしてヘブル人への手紙 十二章四節、

『あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。』

 罪と戦っていますか?戦ったことありますか?私たちの生活を吟味して下さい。聖餐があります。十字架をあまりにも軽く考えていませんか?救いを無にしていませんか?神の前に悔い改めることがあったなら、後回しにせず、聖さを頂きましょう。イエス・キリストは罪のために死んでくれました。はずかしめをものともせずに、十字架にかかってくださいました。クリスチャンというのは、キリストに似た者という意味だそうです。あなたはキリストに似た者となっていますか?職場で、学校で、家庭の中であなたを見て「あなたの信仰を知りたい」「あなたの神さまを教えてほしい」と言われる者になっていますか?イエスに似たものとなりましょう。しかし神は罪に対して悔い改めていながら、常にもっと悔い改めろとは言いません。エレミヤ書 三章十二節、

『行って、次のことばを北のほうに呼ばわって言え。背信の女イスラエル。帰れ。‐‐主の御告げ‐‐わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。‐‐主の御告げ‐‐わたしは、いつまでも怒ってはいない。』

 私たちは人間の力で一生懸命がんばろうとして、聖さを求めて行く時、人間の力で長続きしません。背伸びして歩けば、何百メートルで疲れてしまいます。自分の力では駄目なのです。今日、覚えていただきたいのです。自分で一生懸命聖さを求めないといけないというと、知らないうちに自分の力で一生懸命やろうやろうと思って、再度罪をしてしまうと挫折してしまいます。自分の力ではできません。

『わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。わたしは、いつまでも怒ってはいない。』

 私たちは罪を悔い改めましょう。いつまでも、主は「おまえこの間、こんなことをしたじゃないか。また、こんなことをしたのか」と言われる方ではなくて、ここでは『いつまでも怒ってはいない。』悔い改めた罪は全部、神様は忘れてくださると書いてあります。ヘブル十章十七節

『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。』

ともあります。悔い改めた罪をいつまでも怒っている神ではなく、何と思い出すことはしない。とあります。ルカの十五章の所に有名な放蕩息子のところが書かれています。自分で築いてきた財産をいとも簡単に、酒や女、ギャンブルに遣い果たしてきたら、私なら赦すことができるだろうかと思います。しかしその親、この親は神さまを表していますが、ルカの福音書十五章十七節~二十四節を読んでみますと、

『しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。』

とあります。十八節に、「自分は飢え死にしそうだ。あの父の所にはたくさん食べ物がある。悪かった。もう一度父の元に返ろう」と、彼は気づいたのです。罪を悔い改めようと。そして、行動を起こして、父親に対して悔い改めために帰りました。その父は怒るどころか、

『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。』

あなたが悔い改めた時、この放蕩息子のようにイエス・キリストは回復を下さいます。とがめることなくもう一度子どもとして迎え入れて下さり、あなたが帰ったと言うことで祝宴まで開いて下さる神です。あなたが悔い改めるなら回復を与えて下さいます。何とすばらしいことでしょう。

 そして最後に、今までエゼキエル書三十六章の最後の節、三十八節まで学びました。そして三十七章が始まります。三十七章の一節からは何が書かれているか、みなさんご存じでしょうか?三十七章一節~十三節

『主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。
私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。』

賛美にもある「息よ四方から」です。干からびた骨を神がエゼキエルに見せたのです。その時に、「この骨が生き返ることをおまえは信じるか?」と言った時に、エゼキエルは「主よ、あなたがご存じです」と言いました。その時に、エゼキエル書三十七章九節~十節、

『そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。』

とあります。自分の力では絶対に、こんな事できません。私たちには何もできません。
しかし預言したとき甦ったのです。九十二年の時、この教会に聖霊様の激しい訪れがありました。あの時はすごかったと、いつまでも九十二年のことを振り返り、それにしがみついてはいけません。あのときは素晴らしい訪れがありました。しかし今日もう一度、いや、毎日聖霊の息が吹きまくり、干からびた現実、問題、病いなどを生かして頂きましょう。今廃墟となったような荒れ地となったような、日本に、教会に、家族に、私に聖さを持って、聖霊の働きによって、驚くべき神の業を見せて頂きたいと願い、あなたも預言しましょう。

『「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」』

死んでいる部分に息よ四方から吹いてこい!と預言して生かして頂きましょう。聖霊さまに期待しましょう。この箇所を見ると主が預言したのではなく、エゼキエルが預言しています。「息よ四方から吹いて来い。」その時に、聖霊の息が吹いて、なんと死んでいた人が甦ったのです。そうです、今日牧師とかスタッフに任せるだけでなく、あなたが主に期待して「息よ四方から吹いて来い。」と宣言し、預言して下さい。今日、回復が来ます。主は、荒れ地からエデンの園にしてくださる。エデンの園は主がアダムとエバに用意した場所です。神様といつも交わる場所です。いつも木の実を取って食べ、神の栄光が放たれていて裸でも恥ずかしくないという、罪が混じっていなく、聖さで神の前に隠すことなく、裸でいることができた場所です。十字架の血潮を求めましょう。詩篇五十一章七節

『ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。』

雪よりも白い聖さを頂くことができます。そして死人は自分で行動することはできません。しかし、聖霊によって生かして頂きましょう。聖霊に満たして頂きましょう。今日も聖霊さまの訪れを求めましょう。「年を取っているからダメだ」ではありません。「救われたばかりだからダメだ」ではありません。あなたが家でも、学校でも、会社でも、特に問題のただ中で、「息よ四方から吹いて来い」と宣言して下さい。「今まで荒れ地だった所が今度はエデンの園になるように」とあなたが宣言したら、主は祝福与えて下さいます。あなたは今日、回復がほしいと思いませんか?聖さと聖霊の力によって回復が訪れます。回復が欲しいですか?私はほしくてたまりません。回復の時が来ていますから。
 今日今から聖餐をいただきます。徹底的な悔い改めをしましょう。聖さを頂き、そして、息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。と信じて預言しましょう!
 見捨てられた地がエデンの園のようになります。どんな事が始まるか楽しみですよね。主は生きています。今日十字架にかかったイエス様を見上げましょう。そして今も働く聖霊さまに期待して、預言しましょう。祈ります。

 愛する主よ、私たちは、回復の時が来ていることを信じて感謝します。この地上でも、寒い冬が過ぎ去って、春が来ています。様々な花が咲き、芽生えて来ています。主よ、私たちの生活の中に、この日本の中に、あなたの回復を与えてください。今から聖餐式をします。このパンとぶどうジュースは、御霊によって、血潮と裂かれた肉であることを宣言します。今日、この聖餐式によって聖霊の扉が開かれますように。回復が起きますように。エデンの園になりますように、期待します。この聖餐式を祝福してください。感謝してお祈りします。アーメン。