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『復活!』

2012.4.8(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
使徒の働き 4章32節〜33節

『信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。



 ハレルヤ!みなさん復活祭おめでとうございます。復活祭礼拝を持つことができ、感謝しています。
 今日は世界中のキリスト教会がお祝いをしています。それは、イエス様の復活をお祝いしています。クリスマスよりも復活祭の方が重要ですが、日本ではあまり知られていません。今日は、「復活!」という題名で、みなさんと共に聖書から学んでいきたいと思います。

 「復活」とはどういう意味があるかというと、「死んだ者が生き返ること。よみがえること。甦生」となっていました。また、『「復活」とは、「キリスト教で、十字架上で死んだイエス・キリストがよみがえったことを言い、キリスト教の最も中心的な信仰内容。イエスの復活は罪と死に対する勝利であり、神の愛による人類の救いの完成という意味を持つ」』と一般の辞書に書かれていました。
 「復活」とは、キリスト教の中心的信仰内容です。これが本当ならば、聖書のすべてが成り立ちますし、これが嘘なら、キリスト教のすべてが崩れる最も重要な部分です。そんな重要な記念日ですから、私たちは大きくお祝いするわけです。
 お互いにもう一度、「イエス様の復活をお祝いします!」と、隣の方にご挨拶をしてください。

 今日は「スペシャル・バンド」の演奏もありましたが、スペシャル・ランチもあります。今日はスペシャルカレーだそうです。この間、スペシャルカレーという写真を貰いました。

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 こんなカレーは食べにくいですよね。しかし今日はこんなカレーじゃありませんから。
 世界に行きますと、食文化は多種多様です。先日、私はペルーに行きました。そこで、おいしいステーキをいただきました。食べてからわかったのですが、この肉はこんな動物でした。

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 わかりますか?モルモットです。でも、おいしかったです。いろんな動物が食材になっていますけれど、今日はこういう物は出ませんから心配しないでくださいね。おいしいものが出ます。

 今日は教会に初めて来てくださった方も多くおられます。またいつも来てくださっている方もいます。教会という場所は出入り自由ですから、ご自由にお越しになっていただきたいと思います。
 今日は、礼拝が始まる前に、年間一度ですが、「召天者記念会」がありました。召天者記念会とは、新城教会でお葬式をさせていただいた方々の家族や親族が来て、天に帰られた人たちのことを思い、天国に希望を繋ぐ集まりです。今日は百名以上の方々が集まり、祝福された一時でしたが、ちょっと悲しい気分にもなりました。
 毎回、天に帰られた方々の懐かしい写真が映し出されます。かつて新城教会で共に礼拝を守っていた「あの方も、あの方も、あの方も、天国に行ってしまった・・・」ということを意識して、寂しい気持ちになります。

 しかし、イエス様がよみがえられたことが事実ならば、もう一度出会うことができるはずです。
 クリスチャンには大きな希望があります。なぜならば、イエス様がよみがえってくださったからです。

 キリスト教とは、不思議な宗教です。私は、キリスト教を宗教のカテゴリーには入れたくないのですが、本当に不思議です。
 普通、世界宗教となりうる宗教はどういう形で拡がるかというと、それは権力者と共に拡大します。
 仏教にしても、日本に入って来る時、蘇我氏と物部氏の戦いがありました。物部氏は、「仏教なんかを日本に入れたら国神が怒る」と反対して、仏教擁護派の蘇我氏に戦いを仕掛けたわけです。どちらが勝ったかといったら、蘇我氏が勝って、仏教が日本に受容されたわけです。
 イスラム教はどうでしょうか。イスラムは常に権力者と共にあって、今でも巨大なイスラム国家の勢力と共に宣教が為されています。ヒンズー教でも同様です。
 しかしキリスト教だけは原点においてはそうではないのです。イエス様はこの地上で三年半しか民衆の前で教えませんでした。それもただの一般市民として人々に仕えたのです。
 その後、イエス様は祭司長や律法学者に捕らえられて、最後には十字架にかけられて殺されてしまったのです。私たちから見たら、「殺された」と見えるのですが、イエス様は決して殺されたのではなくて、「自ら命を捨てて、自ら命を受け取った方」です。しかし、一般的に見たら殺されてしまったわけです。弟子たちは自分たちの教祖を失ってしまったわけです。

 しかし、その後、何が起こったかといったら、この弟子たちが、命がけで、イエス・キリストについて世界に向けて発信し始めたのです。そのために命を落とした人は数え切れないほどです。そのくらい真剣に福音を伝えたのです。
 それは不思議なことです。その原動力はどこから来たのだろうか?彼らを急き立てた原動力はどこにあったのでしょうか。それが、「主イエスの復活」にあったのです。

 でも、ある人は言います。「イエスの復活なんて、そんなの嘘に決まっている」と。「イエス様が十字架上で死んだのは、歴史的事実だけれど、キリストが葬られた後にローマ兵がどこかに遺体を隠したのではないですか」と言う人もいます。
 しかしどうでしょうか。ローマの兵隊がイエス様の遺体をどこかに隠したならば、その後、弟子たちが、「イエスさまがよみがえった!」と言い始めたわけですから、「おまえたちの言っていることは嘘だ!実は私たちが遺体を隠していたのだ。これ見ろ!」と遺体を出すことも出来たはずです。

 また、ある人は言います。「いやいや、弟子たちがイエスの死体を盗み出して、どこかに隠して、よみがえったと言ったんだ」と。
 でも、聖書を読んでいく限り、イエス様の遺体を盗み出すことは不可能に近い状況でした。ローマがその点も警戒して、墓を封印して、墓の前には番兵まで付いていたのです。
 でも、仮になんらかの方法で、イエスの遺体を盗み出して、どこかに隠して、「イエス様はよみがえった」と吹聴したらどうでしょうか。それは弟子たちの仕組んだ偽りですから、偽りのために命をかけることは考えられません。

 ある人が言いました。「人は、偽りのために命をかけることはできない。しかし、真理のためなら人は命を捨てる。」と。
 偽りのためには命をかけることは出来ません。真理のためなら命をかけることができるでしょう。

 なぜ、困難な状況下にあっても、使徒たちはイエス・キリストについて、世界に出て行って福音を伝えるようになったのかと言ったら、「彼らはイエス・キリストのよみがえりを実際に目で見て確認した」からに他なりません。それに大感動して、彼らは世界に出て行ったのです。そのことが今読んでいただきました、聖書の箇所からも読み取れます。使徒四章三十三節、

『使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。』

 彼らは、「主イエスの復活を非常に力強くあかしした」というのです。福音を伝える原動力がどこにあったのかと言ったら、それは「イエス様の復活を目の当たりにした」ところです。これは私たちにとって、大きな希望です。使徒の働き二章三十二節、では、『神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。』と弟子たちは力強く語っています。イエス様がよみがえったということは事実です。
 もしそれが嘘ならば、今日で教会を解散したほうがいいと思います。イエス様がよみがえったということが事実でないのなら、何も残りません。すべてが偽りになります。

 第一コリント十五章を家に帰ったら、ぜひ読んでみていただきたいと思います。ここでパウロはよみがえりについて、論じています。パウロという人物は、本当に頭がいいです。ここを読むと感動させられます。第一コリント十五章十三節〜十四節、

『もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。』
 また十七節には、
『そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。』

 イエス・キリストを信じるならば、すべての罪が赦され聖められると教えられていますが、「もしイエス様がよみがえったのが事実でないなら、あなたはまだ罪の中にいます。私も罪の中にいますよ」と語っているわけです。十九節には、

『もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。』

 この世界には、七十億人くらいの人が住んでいます。日本では一億三千万人くらいでしょうか。もしもイエス・キリストがよみがえったということが偽りならば、世界中でクリスチャンが一番みじめな人たちだと言うのです。
 しかし、逆を言えば、よみがえりが事実ならば、クリスチャンほど幸せな者たちはいないということではないでしょうか。
 なぜならば、イエス様のよみがえりは、永遠のいのちを、自ら証明してくださったのです。
 死後の世界も、神が完璧な世界を用意してくださっていると信じることが出来ます。

 今日は召天者記念会がありまして、ちょっと悲しみを新たにしたのですが、毎年、召天者記念会で語らせていただくのは、ただ亡くなった方々を忍ぶとか、思い出にふけるのではなく、「やがて会うことができる!」という希望のメッセージです。
 私たちの周りにも、一緒に愛を育んで来たような人たちが、先に天国に帰って行かれたかもしれません。しかし彼らは、確実に永遠に生きていて、やがて私たちは彼らと会うのです。

 教会の仕事は多種多様です。本当にいろんな働きがあります。一般に言われる「冠婚葬祭」と呼ばれるような事柄も全て含みます。また、日曜日には毎週、礼拝があります。いろんなことがあるわけです。けれども、教会も徐々に成長すると、あまり望むことではないのですが、葬式も避けて通れません。
 今年になってからも、葬式がいくつかありました。先々週も葬式が二件続けてありました。この方々は家族がクリスチャンで、クリスチャンではない方々だったのですが、ぎりぎりセーフでイエス・キリストを信じて天にお帰りになった方々の葬式でした。

 牧師の仕事はいろいろあるのですが、日曜日に礼拝でメッセージを語らせていただく仕事もありますけれど、礼拝メッセージは、それほど負担ではありません。なぜなら、みなさんが、このような者のメッセージを、わざわざ時間を取って聞きに来てくださっているからです。本当にありがたいと思います。
 私はいろいろな所で奉仕をさせていただいていますが、先々週は、韓国でも奉仕をさせていただきました。韓国に行きますと、日韓関係にはまだまだ緊張感がありますから、そこでの奉仕は難しいでしょ、と言われることがあります。しかしそれも、そんなに負担ではありません。なぜならば、「メッセージに来てください」と、わざわざ頼まれて韓国まで行くからです。みんな私の話を聞く気で来てくれていますから、大丈夫です。ちょっと先々週の韓国での集会の模様の写真をお見せしたいと思います。

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 これはカンウォンドのウォンジュという町での集会ですが、狭い教会だったのですが、みんな座り込んで、ぎっしりで酸欠で倒れるんじゃないかというくらい人が集まりました。集会の途中で私が撮った写真ですけれど、こんな日本人の男のメッセージを聞きにわざわざ来てくれました。

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 次の日は、ソウルのサラン教会という大きな教会でメッセージをさせていただきました。ジュビリーと言って、特に韓国の一番大きなテーマ、南北統一のために祈っているグループの集会でしたが、日本人として初めて奉仕をさせていただきました。

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 大勢の方が集まられました。やはり海外で奉仕をするのはちょっと緊張するんですが、大丈夫です。

 しかし一番大変な現場はどこかと言いますと、まだイエスさまを信じておられない方で、もうしばらくしたらこの方は死んでしまうだろうという、危篤状態の方の所にお邪魔して福音を伝える場面です。
 でも私は、感謝なことに、そういう時になると燃えるところがありまして、「なんとかしよう!」と思って出向いて行くわけですが、もっとも大変な現場かもしれません。
 私はこの地上ではあんまり好まれていないかもしれません。かえって憎まれている方が多いかもしれませんが、天国においては私のことを喜んでくださっている方もいるんじゃないかとふっと思います。それは私の伝道といのりによって、滑り込みセーフで天国に入った人たちが何人かいるからです。

 去年も秋にクリスチャンの奥さんのご主人が亡くなりました。その人は教会嫌いで、癌になっていて、あまり時間がないという状況になりました。奥さんはなんとか永遠のいのちについて、天国について、永遠の準備を語ったのですが、ご主人はいっこうに聞く耳を持ちませんでした。
 実は、かつて私はその人に呼びつけられて、たいへん怒られました。「うちの家内がクリスチャンになって困っている。絶対に我が家の家風にはあわん。だから、あんた、家内の前でキリスト教をやめろと言ってくれ」とか言って、キリスト教が大嫌いな人でした。
 そのようなご主人でしたから、なかなか福音を伝えるのが難しかったです。奥さんが「主人は受け入れないけれど、病室に来てお話ししてください」と言われました。「でも部屋に入ったら、出て行け!と言われるかもしれませんがその時はよろしく」と言われて、「いいですよ。そういうのは慣れていますから」と言って、出かけて行きました。病室の前まで来て、恐る恐る戸を開けて中に入って行きました。
 そうしたら、人間というのは、病気になったりすると心が変わるものです。私に「なんだキリスト教は!」と言ってた人が、私が彼の病室に入るや否や、彼は大粒の涙を流して、「来てくれたんですか!」と言って、喜んで受け入れてくれました。
 私は「もちろんですとも。今日は永遠の希望について、語るために来ました」と言って、お話をし始めたら、看護師さんが入って来て手当てが始まってしまいました。外に出されてしまいました。
 三十分くらい待たされました。そしてまた病室に戻って行ったら、「まだ待っていてくださったんですか!」と言って、彼がまた大粒の涙を流し始めました。そしてイエス・キリストを救い主として信じました。
 イエス様を信じてから、彼は本当に安らかになって、それから意識があったのは数日間だったそうですが、奥さんと一緒に賛美をしたり、聖書を読んだり、新城教会の礼拝の模様をインターネットで見たりして、安らかに天に召されて行ったのです。
 「良かったなぁ〜」と思いました。神様は本当に生きておられて、天国に入るタイミングも支配して下さるのです。今まで反対していたような人でも、ちゃんとタイミングを計っておられるということを、感じます。

 実は、二週間前もそんなことがありました。今、東京集会というのをやっているのですが、そこに来ている方のご主人が、同じように病気になって余り長くないということでした。
 でも、そのご主人は、「無神論」じゃなくて、「無神」だというのです。「無神論」というのは、数ある論理の一つですが、彼は、あえて「無神」と言いました。彼は、神は存在しないと固く信じている人でした。「人は死んだらすべてが終わり」と信じ切っているのです。
 みなさん、どうでしょうか。死んで一環の終わりならば、それほど寂しいことはありません。シャボン玉のように、フ〜っと大きくなって、ぱちんっと弾けて、「壊れて消えた♪」と。世界のどこにも、広い宇宙のどこを探しても、その人の命のかけらさえ残っていないとしたら、そんなに寂しいことはありません。
 そのご主人はそういう考えを持っている人でした。いくら奥さんや家族が一緒にお祈りしようと言っても、「祈りなんか必要ない。祈りを受け取る存在はいない」と言って、ずっと拒否していたそうです。
 しかしいよいよ危なくなって、「順先生、うちの主人はそんな人ですけれど、病室まで来てくれませんか?」と頼まれました。それが二週間前でした。私のスケジュールを見たら、最短で土曜日の午前中ならば行くことができました。どうしようかと迷いました。少し行く日を伸ばして月曜日にしようかと思いましたが、祈ったら「すぐに行きなさい」と言われたような気がしたので、土曜日に出向いて行きました。
 その方は、ある意味で有名な方で、芸能関係の仕事をされている方で、大河ドラマの特殊効果などもやっておられたそうです。今も、そのような会社の社長でした。
 しかし徹底した無神論者でした。「絶対に神はいない。すべてが自然に発生した」と信じているわけです。

 病院について病室に入ると、たいへん苦しそうな顔をした一人の男性が横たわっていました。私の顔を見ても、目を合わせないし、喜んでいない様子でした。「取り付くしまがないな」と思いました。すると看護師さんが入って来て、いろいろと手当てが始まって外に出されました。
 しかし私は一生懸命、外で祈りました。「この時しかチャンスはないかもしれません。是非、主よ、チャンスを与えてください」と祈りながら待っていました。
 やがて、「入ってもいいですよ」と言われましたので、病室に入って行きましたら、辛そうな顔はしていましたけれども、私が来たということでベッドを起こして、対応して下さいました。
 彼は、「ちょっと痛みがあるので、ぶっきらぼうな顔をするかもしれませんけど、すいません」と言ってくれました。
 そして開口一番、「私は無神論じゃなくて、無神です。また、私はそんなに長くないと思います。」と言いました。私が見ても、そんなに長くはないと感じました。「死んだらすべてが消えると思ってますから」という会話から始まりました。
 イエス様のことや、永遠のいのちについてどのように伝えたらいいのか、これでは難しいと思いました。
 そうしたら、彼がぽつりと言いました。「私は今回の病気を通して、家族の愛を初めて体験することができた」と言いました。「病気になって弱くなった私の為に、妻も娘たちも本当に良くしてくれた。家族っていいなと心から感じている。」と語りました。
 きっと彼は忙しく働いていたのでしょう。だから、家族もばらばらで、あまり家族の愛を感じることがなかったみたいです。しかし病気になって、家族の愛をしみじみ感じたというのです。
 彼は続けて言いました。「もう少し早くから、家族の間にこういう雰囲気があったら幸せだったのになぁ」。
 私は、「ご主人の考えでは死んだら、すべてが終わりですよね。でも、私たちクリスチャンは、死んですべてが終わりではないのです。今、地上でこんなに麗しい愛を互いに感じていますが、それが死によって消えてしまうのではなく、やがて天国で順番に家族のメンバーが集合して、地上で育んでいた以上の愛を味わうことが出来るのですよ。」とお話ししました。
 私は続けて話しました。「キリスト教は、宗教のように見えるけれど、決して宗教じゃありません。これは事実です。本当に神がおられるなら、死後の世界もあるはずです。神が実際におられるならば、それを認めるのは宗教ではありません。死んですべてが消えるのがいいか、今感じている愛が死後の世界でも継続するのがいいのか、どちらがよろしいでしょうか?」と聞きました。
 「もちろん今感じている愛が、継続することを望みます」と言われました。私は心の中で「やった!」と叫びました。
 「その望みをかなえる為には、イエス様を救い主として受け入れる、お祈りをするだけでいいのです。永遠のいのちが与えられます」と言うと、「わかりました」と答えて下さいました。

 私は、イエス様が彼の心に来てくださるように、永遠のいのちを与えてくださるように祈りを導きました。家族も涙ながらに、祈りに加わっていました。「アーメン!」と結んで帰ってきました。
 それが土曜日の午後のことでした。しかし彼は、月曜日に天に帰って行きました。あの時に訪問できて良かった!!彼と話すことができて、祈ることができて、本当に良かった、と思いました。

 私が病室を去った後、家族と一緒に、さらにお祈りをされたり、賛美をしたりする時間が持てたというのです。奥さんは「主人は確実に天国に行ったと思います」と喜んでくださいました。
 本当に神の愛は深いなぁ、神は一人として滅びることを望んでおられず、救われて永遠のいのちを持つことを願っておられると実感しました。

 火曜日、水曜日と葬式を持たせていただきました。その方は有名な方でしたから、葬式をすると千人ぐらいは集まるのではないかと思いました。しかし、本人の遺志と家族の希望で、ごく近い身内だけで葬式を行いました。
 ご自宅が広かったので、ご自宅で葬式をさせていただきました。私は水曜日から韓国で奉仕があったので、前夜式で奉仕をさせていただきました。本葬は上條先生が導いてくださいました。本当にすばらしい葬式でした。
 しかし、葬式も、新城教会でやればすべてが整ってます。簡単にできるのですが、アウェイの東京で行うのはなかなか難しいところがあります。いろいろと必要なものを持って行ってやりました。
 しかし考えてみたら、「奏楽者がいないな・・・」ということになりました。葬式の中で賛美する時、奏楽者がいなければ寂しいです。どうしようかと思って、誰かキーボードを弾いてくれるといいなと思いました。「ご家族の中でキーボードを弾ける人いませんか?」と聞くと、「いない」というのです。それで、私の息子が東京に住んでいますから息子の嫁さんが昔、キーボードを少し弾いていたという噂を聞いたことがあったので、「奥さんは弾けないか?」と聞くと、息子が「それは無理、駄目だ。」と言うのです。
 「じゃぁ、誰かキーボード弾いてくれる人はいないか?」というと、「いるよ!目の前に」と彼が言うのです。誰かいるのかと聞くと、「カズ加藤さん」と言いました。
 なんと、日本一のキーボード奏者、カズ加藤さんが居られたのです。それで急遽、カズ加藤さんに来てもらい、葬式の賛美の伴奏とミニ・コンサートもやってもらいました。来られた人たちは芸能関係の人たちですから、良かったです。皆、演奏にすごく感動し、喜んでくださいました。
 「いや〜、主の山に備えありだな〜」と思ったのですが、誰かが天に帰って行く瞬間、すべて主がスケジュールをコントロールされているんだと実感しました。

 イエス様がよみがえったことが事実ならば、今話している、永遠のいのちも事実です。さらに聖書は、「死んだ人たちがやがて復活する」とまで語っています。第一テサロニケ四章十三節〜十八節、

『眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。』

 今読んだ、ここに記されていることを、すべて信じることができますか?体が古びて死んで、魂は天国に行って、永遠に過ごすことができるということは、望むところでありますし、理解できます。
 しかし聖書はそれから一歩進んで、なんと、天に帰られたイエス様が地上に再び帰る「再臨の日」が来るというのです。

 その日に、どういう事が起こるのかというと、イエスにあって眠った人々、すなわち、先に天国に帰った人々を、イエス様が地上に連れて来るというのです。そればかりか、この地上で滅びてしまった肉体が復活して、元通りになると言うのです。
 また、再臨の時点でイエス・キリストを信じている者たちは、栄光の体に瞬間的に変えられ、私たちは空中で主と出会うというのです。それから、私たちは永遠に主と共に過ごすというのです。すごいことじゃないですか。
 私たちは、「死んで肉体はおしまい。魂は天国に行って、それから天国でずっと過ごす」としか考えませんが、聖書の世界はすごいのです。「この地上で使っていた体は、古くなったんだから捨ててもいいじゃない」と思いますけれど、なんと、地上での体さえも回復し、復活して、その時点で生きている人たちは、瞬間的に復活の恵みにあずかって、イエス・キリストと出会うと告げているのです。

 普通で考えたら、すごい飛躍です。もしも私が宗教を作るならば、「死んだら天国に行って、天国でずっと生きますよ。」というところで止めておきます。教祖が再び地上に帰って来る、なんて言い出したらどん引きされそうです。相当、頭のおかしい人たちじゃないの?と言われそうです。
 だから、普通、宗教を作るならば、絶対にここまでは言わないと思うのです。でも、聖書はすごいです。「死んだ人たちがイエス様の再臨と共に帰って来て、復活する」とまで告げているのです。
 ちょっと信じがたいように思われるかもしれないけれど、イエス様がよみがえったことが事実ならば、それもすべて実現するのです。これらはすべて、イエス・キリストの復活に原点があるわけです。

 今は、世の終わりの時代だと思います。人間がどう努力しても、うまくいかない世界が出来ています。私はイエス様が再び帰って来られる日は近いと考えています。
 今回の原子力の問題を見てもどうでしょうか?原子力発電所は人が作り出した物ですが、壊れた原発を人の手で治めることができないのです。日本の福島で二つ、三つ壊れただけでもこういう状況ですから、世界中の原発が壊れ始めたら、世界はどうにもならない状況になるはずです。人類の手では、もはや治めることは不可能になります。もしも核戦争が始まったら、誰も「止めて、止めて」と言うことはできないのです。

 そのようになったら、誰が出てくるのでしょうか?天地宇宙を造った神が出現し、人間の歴史に終止符を打つほか手はないのです。
 そんな日が来るのです。信じられないと思うかもしれないけれど、イエス様がよみがえってくださったことが事実ならば、これらはすべてが現実になり得るのです。

 今日、私たちはイエス様が復活されたという、復活の日にこの場に立っているわけです。第一ヨハネ一章一節〜二節を読んでみますと、イエス様の弟子であったヨハネがこんな事を語っています。

『初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、‐‐このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。‐‐』

 ヨハネは、初めからあった、聞いた、目で見た、じっと見た、手でさわったというのです。このよみがえりのイエス様に出会った弟子であったヨハネは、復活の現実に接したのです。
 「じっと見た」という言葉は、訳し直すならば「驚きを持って見た」と訳すことができます。イエス様のよみがえりを、彼は驚きの目を持って目撃したのです。よみがえりのイエス様に出会った感動のゆえに、命を惜しまずに福音を世界に伝えていったのです。今日の主題のテキストであります使徒の働き四章三十二節、

『信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。』

 みなさんどうでしょうか?「クリスチャンになったならば、財産は全部教会に持って来てください。すべて持ち物は共有にして、分配して、みんなで共同生活をして、福音を伝えましょう!」と、私が語ったら何人ここに残るでしょうか?「あんただけがんばってね」と言って、みんないなくなっちゃうかもしれません。こんなことを語ったら、「カルト団体じゃないですか?」と言われてしまいます。
 でも、初代教会はそんなにまでして、福音を伝えたのです。では、どこに原動力があったのでしょうか。それは使徒の働き四章三十三節にあるように、

『使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。』

 彼らがイエスの復活を、ただ噂に聞いただけでなく、目で確認し、驚きの目を持って見つめ、また手でさわり、事実を確認したのです。それで、大感動して、何が何でも命がけでイエス・キリストについて告げ知らせようと、世界に出て行ったのです。それが宣教の原点です。
 この箇所を読むだけでも、私たちが持っている信仰が事実の上に成り立っていることがわかります。
 みなさん安心してください。イエス様はよみがえって、今も生きておられるお方です。永遠の世界もあります。体のよみがえりもあります。そして、永遠の裁きもあるのです。聖書に書かれていることは、すべて真実です。弟子たちがとった行動からも、それを学ぶことができます。

 今日は、「復活信仰」を堅く持つ日ではないかと思うのです。今年は主が「回復の日が来ます」と言われています。みなさんに主が、回復の日を与えてくださると信じます。
 しかし、先週の県民の森の祈祷会で祈っていた時、主が語って下さいました。「回復の日ではなく、復活の日が来る」と。そして、「復活の信仰を持ちなさい」と語られました。
 「回復」とは、どういう意味があるかというと、「一度悪い状態になったものが元の状態に戻ること」を言います。風邪を引いたけど回復したというのはどうでしょうか。まだまだ、生きている状態です。
 しかし、「復活」とは何かというと、死んだ者が生き返ることです。私たちが持たなければいけない信仰は、回復信仰ではなくて、復活信仰だと思うのです。まだ命があるのが元に戻るどころか、死んでしまってすべてが停止している中でも、生き返るという、復活の信仰に深く根ざさなければならないと思います。

 主は、私たちに復活の恵みを与えてくださるのです。弟子たちが復活のことを力強く宣べ伝えた時、その上には大きな恵みが留まったというのです。私たちが回復以上に復活の信仰を深く心に刻み、復活の力と共に生き抜くなら、それは永遠の世界まで続くのです。
 イエス様が帰って来られ、私たちの体のよみがえりの日まで、私たちはこの信仰を堅く保っていきたいものだと思います。

 最後にみなさんと共にお祈りをして、聖餐式を行いたいと思います。聖餐式には、イエス様が十字架にかかって死んで下さった、血を流してくれた、肉を裂いてくれた、また、主の死をつげ知らせるという意味があります。本当にイエス様が私たちのために死んでくれたのだと。そして、死んだだけでなくて、よみがえってくださったということを意識して聖餐式を持ちたいと思います。
 今日、復活の信仰を深く心に刻んでいきたいと思います。最後に一言お祈りさせていただきたいと思います。


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて心から感謝します。今日は、復活の信仰を持って御前に出ることができますことを、感謝します。死んで全く命のない事柄の中にも、あなたは回復どころか「復活」を与えてくださると学びました。主よ、心から感謝します。
 今日は、その原点であるイエス様の十字架と復活を、もう一度、私たちは厳かに、心に刻み、主の復活を喜びたいと願っています。今からの聖餐式を特別祝福してください。この聖餐式を通して、よみがえりのイエス様と一つになることができますように。
 今、ここに置かれていますぶどうのジュースを、御言葉と聖霊によって、あなたの血潮に変えてください。またこのパンも、主よ、どうか、裂かれた肉体として変えてください。イエス様と一つとなることができるように。御言葉と聖霊によって、聖餐式を導いてください。
 復活の主がここにおられることを心から感謝します。今日は、復活の主に深く出会う、そんな時にさせてくださいますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。