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『みことばは、あなたを守る』

2012.4.15(SUN)
新城教会副牧師 四元雅也
ルカの福音書4章16節~30節

『それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。 / 主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、 / わたしに油をそそがれたのだから。 / 主はわたしを遣わされた。 / 捕らわれ人には赦免を、 / 盲人には目の開かれることを告げるために。 / しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは言った。イエスは言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ』というたとえを引いて、カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、ツァラアトに冒された人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた。』

 ハレルヤ!今日はこうして皆さんの前で聖書の話ができることを心から感謝いたします。前回メッセージさせていただいたのは、昨年十一月二七日でした。最近は、年に四回くらい礼拝で講壇に立たせていただいています。季節ごとに一回ペースというわけですが、僕の気分的には「えっ?もう来たか」という感覚です。
 まあ、それほど頻繁なわけではありませんので、メッセージ作りにも気合いが入ります。祈りながら、直前の一週間はゆっくり時間をかけてメッセージを組み立てていくわけです。家族もそんな僕に気を使ってくれて、準備をしていたりすると、祈りながら見守ってくれ、「がんばって」と声をかけてくれたりします。ありがたいことだと思います。前回メッセージしたときのことです。いつも礼拝の時に、次男の詩苑が一番前の席で聞いています。僕が話を終えて講壇から降りて席に戻ろうとすると、彼が通路脇から僕の前に手をさっと出しました。これはハイタッチだなと思って、僕もヨッシャとばかりに手を出して「ありがとう」という気持ちで応えたんです。その瞬間に息子が言いました。「へたくそ!」
 これは全くジャストミートなコメントでした。僕は思わずその場でずっこけて「ほっといて~!」って突っ込みたくなったのですが、何とか平静を装いつつ後ろに行ってからニヤニヤしたわけです。彼はそういうツボがわかる男だと思います。確かに僕のメッセージはそんなに上手くないですが、あまりに「へたくそ」ではここにおられる皆さんに申し訳ないですので、今回はがんばりたいと思います。

 今読んでいただいたみことばを理解するためには、ルカの福音書四章を全部読んで、全体から考えた方が良いので、また少し長いのですが、一節から一三節も読みたいと思います。

ルカの福音書四章一節~一三節
『さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四〇日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。』

 ここでは、荒野で四〇日に及んだ断食を終えたイエスさまが、悪魔から三つの誘惑を受けることが書かれています。イエスさまの生涯を見るとき、いつもつきまとうようにイエスさまを陥れようとした悪魔の存在を見ることができます。それはマタイの福音書の中では、イエスさまが誕生して、まもなく訪ねてきた東方の博士らによって、救い主イエスさまの存在を知った時の支配者ヘロデが、自分の立場を脅かす存在としてイエスさまを恐れ、捕らえて殺そうしました。その背後にも、救いの計画を何とか阻止しよう、救い主を亡き者としようとする悪魔の影が見えます。ルカの福音書の中では、イエスさまが救い主としての立場を公にするにあたって、まずヨハネからバプテスマを受け、そして、荒野で四〇日間断食の中で悪魔の誘惑に遭われたと書かれているこの箇所が、イエスさまを滅ぼそうとする悪魔の最初の描写です。ペテロの手紙第Ⅰ五章八節には、

『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』

と書かれています。イエスさまの周りにも、それこそ悪魔が何とかイエスさまを陥れようと始終歩き回っていたのかも知れません。ルカの福音書四章始めでも、悪魔はイエスさまの前に三度現れて、三つの言葉でイエスさまを誘惑します。「荒野の誘惑」と呼ばれる悪魔とイエスさまとの戦いについては、皆さんもよくご存じのエピソードと思いますし、時間の制限もあるのであまり詳しくはお話しできないのですが、少しだけ解説したいと思います。

 一つ目の誘惑は「空腹を満たす」ことをテーマにした誘惑です。

 僕は、四月一日から腹痛と下痢で三日間病に伏せっていました。その間ほとんど食べ物を口にすることができませんでした。四日目の水曜日にやっと復帰して、水曜主日礼拝に参加しました。礼拝の間には、スタッフたちがランチをつくってくれます。日曜日のランチはカレーですが、水曜日の方はバリエーションがいろいろありまして、毎週違ったメニューで礼拝後にみんなでいただくわけです。その日は和食で汁物と味ご飯でした。僕は食べれるかどうか心配でしたが、思い切って礼拝後のランチを食べてみました。そうしたら三日ぶりの食事で、メニューもヘルシーなものでしたので、ものすごく美味しく感じました。ご飯を食べられることが本当に感謝なことなのだと、普段は感じない恵みを深く実感することができました。また、午後からも昼ご飯をしっかり食べて、もりもり力が湧いてくるのを感じました。ご飯の力を体験したわけです。

 イエスさまは、四日どころか四〇日間も断食したのですから、僕とは全然次元が違います。四〇日が過ぎたときに、イエスさまは空腹を覚えられました。そうすると悪魔が近づいてきて「あなたが神の子であるなら・・」というキーワードで誘惑しました。神の子であるなら、空腹なんかで苦しまなくても良いでしょうと。

 僕には四人子どもがいますが、最近はだんだん大きくなって食べ盛りになっています。中学三年生になった長男の聖徒は一番伸び盛りです。彼の食べっぷりを見ると感心します。毎日どんぶりで二杯くらいはぺろりといきますし、さっき食べたかと思うとすぐ「腹減った」と言って、またジャーの残りメシをあさっているような状態です。よくもそんなに入るものだと、ある意味感心するわけです。しかし、空腹を人前にさらけ出すのはちょっと品がないと感じられますし、人をほめる時に「この人は素晴らしい方です。食いしん坊です」とは普通言いません。
 聖徒のことをかく言う僕も若いときがありました。この四月で献身して満二〇年を迎えることになったんですが、献身したての頃、ある集会に行ったとき、そこに集まっていたみなさんから、レストランに連れられてごちそうになったことがありました。それは、素晴らしいコース料理でした。一時間くらい談話しながら楽しく食事していたら、アイスクリームが出てきました。それを食べ終えたとき、僕は主催者の方に「この後がメイン料理ですかね?」と尋ねました。すると、申し訳なさそうに「これで最後ですけど」と言われてしまいました。僕は若気の至りで、コース料理はデザートが出てきたら最後だと知らなかったわけです。わざわざごちそうしてくれたのに、とんでもないことを言ってしまったと思いました。それから何日間かは落ち込みました。そのときに「食いしん坊は罪だ」と思いました。

 悪魔はイエスさまに言いました。「そこら辺の石ころに命じてパンにしてしまえばどうですか?簡単に空腹を満たすことができるはずです。あなたは神の子なのだから。」もちろんイエスさまは、石に命じてパンにすることもできたはずです。しかし、イエスさまは、そうはされなかった。なぜでしょうか?
 食べなければ生きることができないというのは、人間の本性です。その他にも、服がないと生きていけないですし、住む家も必要、いろいろと人として生きていく上での基本的必要、「人間社会」といっても良いかも知れません、その象徴が「パン」なのではないでしょうか。「パン」という一言で、人間が生きていくということを表しているのではないかと思います。
創世記を見ますと、アダムは悪魔に騙されて、食べてはいけない木の実を食べて神から離れ、人は神様の前で罪あるものとなりました。アダムが罪を犯して堕落したとき、神様は、人が生きるために労苦して、額に汗しなければ糧を得ることができないように定められた、と創世記に書かれています。イエスさまは、悪魔から誘惑されたときに、安易に神の力を使ってしまったならば、完全なる人間として私たちの救い主になる、という使命を実行する資格を、イエスさまは失ってしまったことでしょう。しかし、そのような人間の必要を否定したり、労苦して働かなければならないという、神による定めから逸れることをせず、我々と同じ人間として、空腹を実感し、その苦しさを味わった上で、「生きるためにはパンも必要だが、もっと大切なことがある。それは、神から発せられるみことばに聞くことだ。」と仰せられました。この聖書箇所と同じ状況を描いたマタイの福音書四章四節には、

『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」』

 これは、イエスさまが、申命記八章三節のみことばを引用されたみことばです。イエスさまはみことばによって悪魔に勝利されたのです。

 「食べる」という、人が生きる上で最も基本的な必要が断たれた一種の極限状態に立たされると、人間は普段覆い隠されている罪の本性が現れるのではないでしょうか。食べるために人を襲い場合によっては殺してまで奪うこともある。歴史の中でも「食べる」ということに象徴される人間社会は繰り返し争い、戦争を引き起こし、多くの破壊をきたらしました。イエスさまは、四〇日間食を断って、人の営みの中での極限状態を味わった上で、なおも神様を求めみことばを求めることを、それらの人の必要よりも上位に置かれ、人としての模範を示されたわけです。私たちもみことばを慕い求めるときに、世にある人の欲がもたらす破壊や滅びから逃れ、守られるのです。

 二つ目の誘惑は、イエスさまが悪魔との戦いに勝利して世界の王になるという、父なる神様の計画を外れて、悪魔による別の方法で、通られるはずの苦しみを通らずに、簡単に世界の王になることができますよ!という甘い誘惑でした。ルカの福音書四章五節~七節

『また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」』

 悪魔は「もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」と言いました。「拝む」ことは、簡単に実行できます。内面が伴っていなくても拝む「動作」は簡単にできます。ぺこりと頭を垂れたり、手を合わせ、題目を唱えたりすることは、心が伴っていなくても簡単にできてしまいます。悪魔は「そうしたら、あなたにすべてのものを差し上げます。」と誘いかけました。しかし、イエスさまは、このように答えられました。ルカの福音書四章八節

『イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」』

 ここで悪魔は「拝めば、全世界はあなたのものです」と言いましたが、イエスさまは、拝むだけでは十分とせずに「仕える」ことを付け加えられました。クリスチャン人生も、拝むだけでは不十分であり、仕えることが大切だと思います。クリスチャンとして本当の恵みを体験できるのは、神を拝むことではなく、神に仕えることの中にあると思います。ローマ人への手紙一二章一節には、

『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。』

 ローマ人への手紙一二章では、イエスさまによって救われた人が、そのからだを神にささげていく、これが本物の礼拝なのだよと教えています。その具体的な表し方は、二節以降に書かれています。まず、心を変えなさい。そして、からだをささげる礼拝という意味で、キリストの体、すなわち「教会」の中にあって賜物を生かして、互いにへりくだって仕え合うことが書かれています。ローマ人への手紙一二章は、ぜひ後で個人的に読んでいただきたいと思います。

 礼拝に参加しての神様との交わりは、大変祝福されるものです。楽しいときです。心がスッとしたり、イライラしていたのが落ち着きを取り戻したり、平安になったり、嬉しくなったり、励まされたり、喜びが湧いてきたり、良いことがたくさんあります。皆さんも毎週喜んで礼拝に参加されていることと思います。それに対して「仕える」ということは、時々大変だと思うことがあります。仕えるときには犠牲と責任が求められますし、負担になることもあります。しかし、ローマ人への手紙一二章一節によると、そのような奉仕の中にこそ、霊的な礼拝がありますよ、というのです。

 この教会には、今日も三〇〇人かそれ以上の方が集っておられます。この教会で副牧師として働かせていただいている私としては、一週間に一度、心の洗濯と、体に休息が必要な皆さんが、ここに来られたときに安心してくつろぎ、一人ひとりが快適に有意義に恵まれて、心も体もリフレッシュしてこの時間を過ごされることを願っています。そのために責任を持って働くことがスタッフの仕事です。至らない者ではあっても何でもさせていただきたいというのが私たちのモットーです。教会スタッフは皆そんな思いで奉仕しています。できれば、私たちだけで教会の実務はすべてカバーして、皆さんにはゆっくりしていただけたら一番良いと思います。しかし、実際には、そうはいきません。特に日曜日には、週報にも毎週大勢の奉仕者の名前が書かれているわけですが、いろんな方が重荷を担って奉仕してくださることによって、この快適な時間と空間が支えられているのです。そんな表に出てこない功労者に、普段なかなか気持ちを伝えていないので申し訳ないと思いますが、本当に感謝しています。

 こんなことを言っておいてこう言うのも何なのですが、今日は、皆さんに日曜日の奉仕者募集のプリントが配られています。もちろん強制するものではありませんので、自由に受け止めていただければ結構なのですが、もし、やってみたいと思われたら、喜んで神様と神様の会衆のために奉仕してください。

 それと、教会の中で実際に自分は奉仕らしい奉仕をしていないと言って悲観する必要はありません。からだをささげるということは、教会という空間的に限定された場所についてだけ言っているのではなく、日々の日常で対人関係を正しく振る舞うことや、忠実さ、誠実さを持って働くことなど、切れ目のない私たちの人生そのものが、主にささげられたものであることが、むしろ大切であることがローマ人への手紙一二章全体から語られています。

 ここでも、イエスさまはみことばを通して悪魔に勝利されました。

 三つ目の誘惑で悪魔は、神の力を試させようとしました。この誘惑は、冒険心をくすぐるような誘惑だったのかも知れません。どんな冒険心かというと「神様が確かに自分を危機的状況から守り、支えられるのかどうかを試す」という冒険心です。ルカの福音書四章九節~十一節

『また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」』

 僕は、たまに高いところに登って作業することがあります。教会の中の電球を換えたりするときです。天井が高いので落ちたら大けがをするかもしれないので、ヘルメットをかぶりリードをくくりつけて落ちないように注意を払いながら作業します。結構スリルがありますが、最近は慣れてあまり怖いと思わなくなりました。
 人間は時々スリルを楽しむことがあります。遊園地でわざわざスリルを体験するために絶叫マシンにお金を払ったりもします。体操やフィギュアスケートなど、アクロバティックな動作を見たり、格闘技や、カーレースなどに興味を持ち、エベレスト登山や太平洋横断など、危険を伴う冒険にも人々は心を奪われます。仕事でもあえてリスキーなことに挑戦する人もいます。人生にはスリルを味わい、自分の力を試したいという欲望があります。ですからリスクを冒して冒険する人にあこがれを持ち、自分が人よりも凄いことができるということを誇示したいと、本能的に求めるものです。

 実は、偶像礼拝することに共通する理念がここにあると思います。すなわち、自分が何か凄いものになりたい。人からの称賛を受けたい。少しでも上へのし上がりたい。そのために、自分の都合に合わせて神様を担ぎ出して利用する。
 思いどおりにならないと、「神様は祈りを聞かれない」と不平不満を言い、中には、祈っても自分の思いどおりの結果にならなかったと言って、信仰を捨てる人もいます。神様を試し、しるしを求めることは、自分の意のままに神様を動かそうとすること、神様を自分の下に置いてコントロールしようとすることです。人間は神様によって動かされるのが本当で、決して神様を動かしてはなりません。ルカの福音書四章一二節

『するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」』

 これも、申命記六章一六節からイエスさまが引用されたみことばです。私たちが神様に祈るとき、人の領域を超えた神様のみ業を求めるとき、それは、神様が望んでおられることを祈るのであり、自分の要求を神様に突きつけるものではありません。ヨハネの福音書五章一九節

『そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」』

 イエスさまは、その人生の中で、ご自分の父である神様のみこころを知り、それを行うことのみに徹し、神様に従い通されました。この三つ目の誘惑にも、イエスさまはみことばを通して勝利されました。

 このようにイエスさまは、三つの誘惑を通して人間の救い主としての資質を試され、そのすべてにみことばによって合格された、すなわち、救い主は人の道を逸脱することなく生きる完全な人であり、なおかつ父なる神様に一〇〇パーセント仕え、自己実現ではなく、みこころを一〇〇パーセント実行していくという完全なる神の子であることを、同時に成就されたのです。

 荒野での三つの誘惑の後、悪魔はしばらくの間イエスから離れたと一三節にあります。その間、イエスさまはガリラヤ地方を巡りながら、人々を教えられいやしを行われました。すると、イエスさまの評判が周り一体にくまなく広がったと書かれています。しかし、悪魔はイエスさまが育った町であるガリラヤのナザレで再びイエスさまを陥れようとしました。

 ルカの福音書四章一六節には、『ナザレに帰られたイエスは、安息日にいつものように会堂に入られた』とあります。その会堂は、イエスさまが幼いときから礼拝を守っていた「なじみ」の場所であり、そこにいた会衆もなじみの人たちでありました。しかし、その日は様子が違いました。会衆はイエスさまに聖書の朗読と勧めを依頼したのです。それは、ガリラヤ一体に広まっていたイエスさまについての評判を聞き、自分たちがよく知っているイエスがどうして評判になっているのか、その真意を確かめ、あわよくば恩恵にあずかろうと思ったのかも知れません。
そこでイエスさまは、イザヤ書の預言を朗読されました。それは、イスラエルを苦難と敵の支配から解放し、自由を与えるメシヤ・救い主の到来を預言するみことばでした。そして、自分こそが、この預言に描かれているその者(救い主)であると威厳をもって宣言されたのです。

 ナザレの人々はそのことばに即座に感動し、他の町の人たちがそうであったように、始めは「イエスをほめた」とあります。イエスさまのことばには権威がありました。四章の一五節にも三二節にも、イエスさまの語られたことばに権威があったと書かれています。みことばの力を信じるなら、彼らもイエスさまを信じたかも知れません。しかし、ここで、悪魔が人々の中に働き始めました。その中のある人が「あれは俺たちがよく知っているイエスじゃないか。大工のせがれが何を言っているんだ。自分が救い主だというなら俺たちにその力を見せてみろ。ちまたで噂になっているように病を癒してみろ。俺たちの中で見せることができればおまえを認めてやる」と、イエスさまにしるしを求め始めたのです。あの荒野での誘惑のように、人々はイエスさまの神の子としての「力」を試そうとした。
 イエスさまは「預言者は自分の郷里では歓迎されません」と言い、二五節~二七節では、旧約時代のイスラエルに遣わされた二人の偉大な預言者、「エリヤ」と「エリシャ」でさえ、イスラエルに遣わされたにもかかわらず、イスラエルでは奇跡を行わず、サレプタのやもめとシリア人ナアマンの二人の異邦人が奇跡を体験した。それは、同国のイスラエルが彼らの語る預言の言葉を信じなかった彼らの不信仰の故だ、と皮肉を込めてナザレの人々に告げられました。

 私たちの信仰でも、一番激しい戦いがあるのは、自分が生まれ・育った環境の中、一番身近にいる人たちを通してというのが案外多いのではないかと思います。ある人は両親が一番の反対者であり、自分の伴侶・子どもたち、地域の人たち、職場の上司や同僚が、一番の敵のような状態かも知れません。それは、イエスさまでも経験された出来事なのです。

 ナザレの人々はイエスさまのことばに激高し、群衆となってイエスさまに押し迫り、会堂から引き出し町の外まで連れ出して、崖の上から突き落とそうとしました。まさに悪魔的な行動に打って出たのです。しかし、イエスさまは、「彼らの真ん中を通り抜けていった」とあります。これは不思議な出来事です。崖っぷちまで追い詰められたイエスさまは、すんでの所で群衆の手を振り切り「這々の体で逃げおおせた」ではありませんでした。堂々と彼らの「真ん中を通り抜けていった」のです。崖っぷちまで追い詰めた彼らがなぜ突き落とすことができなかったのか?誰ひとりとしてイエスさまに手をかけることなく、イエスさまは去って行かれました。それは、悪魔が荒野で誘惑をしたときに用いたみことば『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』と書かれたみことばを、悪魔は逆手にとってイエスさまを誘惑したのですが、この窮地で神様は、悪魔が用いたみことばを逆手にとって、逆転勝利のためのみことばとされたのです。御使いたちが来て、イエスさまを取り巻いて彼らに手出しをさせなかったのだと思います。群衆の背後の悪魔は、自分が誘惑のために用いた聖句によって、神がイエスさまを確かに守られることを煮え湯を飲まされる思いで見たのです。ここに悪魔が誘惑のために取り出したみことばさえも用いて、勝利を得られる神様のすごさを垣間見るのです。

 みことばはあなたを守るのです。

 我が家では今年に入ってから、家族全員で毎週一箇所みことばを暗記することを共通の課題にしています。昨年は「マルモの掟」というドラマがはやりましたが、その中に出てきた「掟ノート」を真似て、家族で覚えるための「みことば暗唱ノート」というのを作りました。
僕は第一青年会を担当していますが、その中でもみことば暗唱ノートを作りました。週報にも、今年から今週のみことばコーナーが設けられ、聖句が掲載されるようになりました。みことばを覚えていますか?みことばを心に蓄えていきましょう。

 覚えるのと共に大切なのは、みことばを正しく理解することです。そのためにはなるべく多くの集会でメッセージを聞くことが大切です。今日はサンデースクールがあって、山崎ランサム和彦先生による「ルカ文書」が、昨年度の「ルカの福音書」からの続きで、今回から「使徒の働き」の学びが月一回行われます。これも大切です。ぜひ、みことばを慕い求めて参加してください。また、信仰本をたくさん読んでください。

 先週は日本が緊張した週でした。北朝鮮のロケット発射で大きな騒動になりました。日本中がやれ24時間体制の監視迎撃態勢だの、パック3だのイージス艦だのと騒然となっていましたが、結果はいささかあっけないものとなりました。先週は祈りの中でもミサイル発射が成功しないで被害がないように祈りましたので、祈りが応えられたと思いました。北の最高指導者の求心力に大きな汚点がついたという点でも良かったと思います。民衆の生活を犠牲にして、力もないのに無理矢理に軍事増強を推し進めることの限界が見られたのではないでしょうか?今後の北朝鮮のために更に祈っていきたいと思います。
 日本の主力ロケットの打ち上げ成功率は昨年一二月現在で九五%だそうです。これは世界的に見ても誇れる数字になってきています。その背景には、庶民にはとうてい理解できないであろう緻密で高度な計算し尽くされた技術があります。私たちの信仰もそうだと思います。いくら僕の信仰がロケットのように飛ぶ鳥を落とすほどの勢いがあっても、みことばのバックボーンがないと、途中で進路を外れ、空中分解して落ちてしまうかも知れません。
 霊的戦いも、正しい聖書理解が基本にあるのとないのでは大きな差があると思います。イエスさまがみことばで悪魔を撃退されたのが私たちの模範でなければなりません。

 「みことばはあなたを守る」というのが今日のメッセージです。

 みことばを自分の都合に合わせて用いてはいけません。好きなみ言葉だけを支えにして信仰生活を送るのも片手落ちで危なっかしいです。私たちは日々、みことばを受けて、みことばから教えられ、矯正されて、励まされて生きていきたいと思います。