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『ここは天の門だ!』

2012.4.29(SUN)
新城教会主任牧師 滝元順
創世記28章16節〜22節

『ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」』


  ハレルヤ!みなさんおはようございます。今日はゴールデンウィークのただ中ですが、こうして集まって心から主を賛美できますことを感謝します。
 この頃、交通事故が多く、とりなして祈らなくてはいけないと思うのですが、今日は交通渋滞のただ中、教会まで来られたかもしれません。是非とも、安全運転に心がけていただき、祈りつつ運転していただきたいと思います。

 私は昨日、近江八幡市で奉仕がありまして、ブラジル人宣教師の教会で奉仕をさせていただきました。すでに昨日から渋滞が始まっており、普通なら二時間半から三時間で行けるところが、五時間ほどかかりました。集会は午後の二時から始まったのですが、すべて終わったのはなんと夜中の十一時でした。それからここまで帰って来ましたので、朝の二時くらいに到着しました。今もちょっと眠たいですが、メッセージを語りながら眠らないようにしなければいけないと思っています。しかし、守られて帰ることが出来まして感謝します。
 ちょっとその写真をお見せしたいと思います。

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 現在、ブラジルの方々が日本に多くおられ、新城教会にもインターナショナルの働きがありますが、この教会もたいへん元気な教会でした。日本人の方も結構集まっていまして、霊的戦いの集会をしました。ダンスもありました。

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 「イエスは日本の主」という衣を着て、踊って下さり、なかなか素晴らしかったです。
 この教会の牧師は日系の先生ですが、奥さんはブラジル人です。なぜ、日本に来たのかと聞くと、あるとき、国際的な集会に出席したそうです。その中で「世界の国々のために祈りましょう」というプログラムがあって、「日本のために祈ってくれる人はいますか?」と言っても、誰一人手を上げなかったそうです。そこで、その奥さんが、「誰もいないのなら、しょうがないから私が祈る」と、日本の為に祈ったそうです。そうしたら、その後、日系人のご主人と出会い、結婚して、日本に宣教に来たというのです。
 人生は、どう展開するのかわかりません。日々主は、様々な出来事を通して、私たちに語りかけておられると思います。

 人生は、神の計画と、自分の意思が巧みにからみあいながら進んで行くのではないかと思います。神は私たちの為に、完璧な計画を立てておられるはずです。しかし私たちには、自由意思が与えられていて、心の赴くままに自由に行動できます。
 もしも私たちが、神の計画を百パーセント受け取って生きるなら、人生には問題はなく、まっすぐに進むことが出来るはずです。しかし、自由意思がありますから、様々な道を自分で選択できるわけです。今日も、礼拝に行こうか行かまいか、みなさんの自由意思で決定され、ここに居られると思います。それらが総合され、人生の方向性は定められるのではないかと思います。
 いかに自分の意思が、神の思いと一つになるかで、人生の勝敗が決まるのかもしれません。

 時には、自由意思によって、神の御心から完全に離れてしまうこともあります。しかし神はご自分の計画に人を戻す為に、働いて下さるお方です。
 そして、そんな時に用いられるのが、「問題」ではないかと思います。
 時々、いろいろな問題が起こって苦しむ時、自分自身を神のみ前で省み、自分に対する神の意思がどこにあるのかを、確かめるようになります。

 実は、今日読みました箇所は、ヤコブという人物が問題のさなかで体験した出来事です。どんな問題かというと、聖書の中心的人物、元祖ユダヤ人は「アブラハム」という人物ですが、アブラハムは一人の子をもうけました。その子の名前を「イサク」といいます。やがてイサクはリベカという女性と結婚しました。
 さて、みなさん、リベカという女性は誰と結婚したんですか?イサクです。ちがいます。陽介です。これは我が家のジョークです。娘は自分の主人からの電話がかかってきた時の表示は、Issacとなっています。

 冗談はこのへんにして、イサクにやがて双子が生まれます。新城教会にも双子ちゃんがいますが、イサクに生まれたのは、ヤコブとエサウという二人でした。
 エサウがお兄さんでした。双子は先に出て来た方がお兄さんになるのでしょうか。ヤコブは、兄さんのかかとを掴みながら、出て来たらしいです。おもしろいですね。創世記は物語ですから、一気に読むと良く理解できます。家に帰ったら、今日のテキストの前後も読んでいただきたいと思います。そうすると、さらに味わい深くなると思います。

 この二人は、双子で同じ母親から出て来たはずですが、全く性格が違いました。ヤコブは、大変穏やかな人物で、男性でも、ちょっと女性ぽい人でした。家で料理をしたりすることが趣味で、穏やかな人物だったのです。
 しかしエサウは、すごく野性的な男で、野原をかけめぐって、弓矢を持って、小動物を捕らえたりして、家に持って来る野性的な男でした。性格が全く違ったのです。

 子供たちを見ているとおもしろいですよね。本当に同じ母親から生まれたのかなと思うくらい、性格って違うものです。このヤコブとエサウも全く違ったのです。
 お父さんとお母さんは、二人を均等に愛せば良かったのですが、お母さんのリベカは、エサウよりもヤコブを愛しました。しかし、イサクは野性的なエサウを好んだのです。父派と母派に分かれていました。どこかの家と同じだな、と思うかもしれません。案外そういうことって、よくあると思います。
 お母さんのリベカは、エサウよりもヤコブが何しろ祝福されるように、いつも立ち回り行動しました。
 当時の家制度では、長男が財産をすべて受け継ぐ、「長子の特権」というのがありました。日本にも長男が家を引き継いで行く文化があります。
 昨日はブラジル人教会でセミナーをさせていただいたのですが、日本の文化とか習慣の中にある、サタンの策略について話してください、と頼まれました。「日本では長男が家を受け継ぐ文化があります。ブラジルはどうですか?」と聞くと、「そんなこと、聞いたことがない」というのです。「じゃぁ誰が家をやるんですか?」と聞くと、「適当に、残った人がやるんだ」と言っていました。やっぱり移民の国は違うなと思いました。

 エサウは元々、長子の特権によって、お父さんの遺産と祝福を全て引き継ぐようになっていたわけです。しかし、お母さんのリベカは、弟のヤコブになんとか引き継がさせたかったわけです。
 ある日、お父さんのイサクがエサウに言いました。「俺はおまえを祝福し、おまえに遺産をあげたい。その前に、おまえが捕った獲物を料理してくれるか。あの味を味わってからおまえを祝福したいんだ。」と言ったら、エサウは、「お父さん。任せてください!最高の獲物を獲ってきます!」と言って、野原に飛んで行きました。
 それをお母さんのリベカは聞いていました。「これはまずいことになった・・・」ということで、すぐにヤコブを呼んで「すぐに最上の羊を持って来なさい。あんたは料理がうまいから、その肉を料理をしてください。そして、エサウに化けてお父さんを騙し、祝福を受け取りなさい。」と言いました。

 エサウは、なんと身体的特徴までも野性的でした。毛深かかったのです。でも、ヤコブの肌はつるっとしていました。
 人間も毛深い人も、つるっとした肌の人もいます。私の友人の牧師は毛深いです。彼はいつも言います。「おれは腕を蚊にかまれたことがない」。なぜかと聞くと、「蚊が腕にとまろうとするが、毛深くて針が刺さらないで毛にからまって死ぬ」というのです。すごいですね。
 エサウもそんな感じだったのかもしれません。身体的特徴は隠しようがないので、ヤコブは山羊の毛を腕に巻いて父親を騙しました。イサクは年を取っていたので、まんまと騙され、エサウにあげる予定の祝福を、ヤコブにすべてあげてしまいました。

 その後、エサウが帰ってきました。「お父さん!いい獲物が捕れましたよ!」「えっ?なんだい、それは!さっきおまえは料理を持って来たじゃないか!?」と言うと、「いや、私は今帰って来たばかりです。」「じゃぁ、さっき来たのは誰だ!?」と言うことになりました。なんとヤコブがまんまと、母リベカと共謀して祝福を奪い取ってしまったわけです。

 そんなことが起こったもんだから、兄は弟に対して激しく怒りました。これは兄弟の骨肉の争いです。普段からエサウは気の荒い野性的な男でしたから、「ヤコブの野郎めが!」と、言ったかどうかはわかりませんが、「殺してやる!」と言って、ヤコブを殺そうとしたのです。兄弟喧嘩で収拾がつかなくなることがあります。
 こんなことになってしまったので、母リベカは、ヤコブを自分の兄、ラバンの家に避難させました。ヤコブは長子の特権を受け取ったのはいいのですが、その後、大きな問題が起きました。
 日本でも遺産相続で、財産は貰ったけれど、その後、泥沼に入っていくことがあります。そのようなことは、何千年も前からあったわけです。
 ヤコブは相当落ち込んだと思います。彼は一人でラバンの所まで旅をしなければなりませんでした。結構、距離があったと思います。彼は東に向かって旅立って行きました。
 「これから私はどうなるのか・・・。」ある場所まで着いたら日が暮れたので、石を枕にして眠りについたというのです。
 先ほど読んだのは創世記二十八章十六節〜二十二節でしたが、その前の二十八章十節〜十五節。

『ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」』

 この時、彼は人生最大の危機を感じていたのかもしれません。荒野のただ中で、枕もソフトな羽毛枕ではなく、石ころを枕にして寝ていたのです。良い夢なんか、見れっこなさそうですよね。
 しかし、そんな荒野のただ中で、すばらしい夢を見たのです。彼に天からはしごがかかっていたというのです。はしごというのは普通、下から上にかかるものですが、ここを読むと、「天から地に向かって」はしごがかかっていたというのです。そしてそこを、天使たちが下り・登りしていたというのです。天使たちは上にいますから、上から下に来て、また、登って行ったわけです。
 そしてそこには、主が立っておられました。そしておじいちゃんのアブラハムに、かつてかけられた神からの祝福の言葉を、最悪な状況の中でヤコブはいただいたのです。
 『あなたは西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。』『この約束を成し遂げるまで、決してあなたを捨てない』と神は語られたのです。

 みなさん、ヤコブに語られた言葉が、私たちへの言葉となったら、どんなに素晴らしいでしょうか。
 聖書は『アブラハム、イサク、ヤコブの神』と表現していますけれど、その延長線に主を信じる者たちがいるのです。アブラハムの祝福を受け継ぐのは、私たちクリスチャンなのです。
 ということは、ヤコブにかけられた言葉は、同時に、私たちにもかけられていると信仰によって受け取るのです。

 また、どんな時に神と出会うのかというと、自分の思いで威勢良く歩いている時ではなく、いろんな問題があって、「もう駄目だ。これからどうなっちゃうんだろうか・・・。いい夢なんて見れっこない」という、失望のただ中に、主は立たれると言うことです。
 今日もしも、みなさんの中で、そのような環境の方がおられたら、その場所に、主は立たれるのです。天から地へ、天の軍勢が上り下りする場所であると、信仰によって受け取ったらいいと思うのです。
 創世記二十八章十六節〜十七節、

『ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」』

 その夢に彼は大変感動しました。そして、その場所の名は、ルズでしたが、「ベテル」と街の名を変えてしまったのです。ベテルとは、どういう意味かといいますと、「神の家」とか、「天の門」という意味です。
 私たちが住んでいるこの街も、新城、「新しい城」という名が付いていますけれど、これが「神の家としての新しい城、ベテル」にならなければならないのです。
 そして「ここが天の門だ」と呼ばれる街になるよう、祈っていかなくてはいけないのです。

 先週は、午後から「霊的戦いセミナー」をさせていただきました。特に、「占星術」について語らせていただきました。結構いいセミナーだったと思います。後から録音を聞いて、自分が語っている言葉で恵まれましたから。家内に「あんたおめでたいね」と言われますが、多分聖霊によって語ったと思います。「うまいこと話したな~」と我ながら感心しました。
 私は先々週の土曜日に、「明日はセミナーもあるから、街のために祈らなくてはならない」と思い、「主よ。どこでとりなして、祈ったらいいですか?」と祈ると、「山に登って祈りなさい」と語られたような気がしました。そして新城の南に「吉祥山」という、かつての星占いの山があります。そこに私は家内と登って祈りました。
 下から登ると結構大変です。途中で家内は、「疲れた。手を引っ張って」と言ったので、お手々繋いで歩いていると、上からどっかの兄ちゃんが降りて来て、「歳取ってるのに仲いいね」というような顔をして通り過ぎて行きました。私たちは仲がいいですが、ただ、家内の巨体を引っ張って登ったので疲れました。山に登って、新城の街を眼下に見ながら、主に祈りました。

 その時、稲妻のようにと表現したいのですが、私の心の中に御言葉が響いてきました。それが、今日、みなさんに語っている箇所です。主は、「この街がベテルとなるように、天の門となるように祈りなさい」と語ってくださいました。

 さて今日は午後から、北、南、東、西と、新城の四隅の山に登って祈る「四方から祈祷会」を行います。ぜひみなさん参加して下さい。この街が単なる新城ではなく、神の家となるように、ベテルとなるように、「天の門だ」と呼ばれる街に変えられるように祈りましょう。人々がこの街で主と出会うように、祈りたいと思います。

 ヤコブは人生で最悪の中で、神が現れ祝福の言葉を語って下さったのです。それで彼は勇気を出して旅立ち、お母さんの兄、ラバンの家に行ったのです。
 さて、ラバンが住んでいた地域は、どういう場所だったかというと、カナン人と呼ばれる原住民が住んでいた地域でした。アブラハム一族が入って来る以前から、すでに人々が住んでいました。
 人類は初めは同じ場所に住んでいたと聖書は告げています。それはバベルの塔付近に住んでいたのですが、バベルの塔を建設したことによって、神によって散らされたのです。
 あのバベルの塔の頂上で何をやっていたのかと言うと、それは占星術でした。人々は星占いをやっていたのです。その結果、言葉が通じなくなり、世界中に散らされたのです。

 この頃、星占いを、人々は結構簡単にやっています。朝、テレビを見ると「今日の運勢、しし座の人・・何とか座の人」とか言われると、ぱっと見てしまう傾向があります。
 しかしみなさん、あれは大変危険です。星占いは人類最古の悪霊との交流方法であり、大きな束縛を人々にもたらします。先週はセミナーでそのことを話したのですが、星占いの結果として人類は散らされたのです。
 バベルの塔から北に散らされた人たちの一派が「カナン人」と呼ばれて、その地に住んでいました。彼らもまた、星占いを中心とする偶像礼拝に満ちた生活をしていました。リベカのお兄さんは、そんな文化のただ中に住んでいました。
 ヤコブは、真の神を知っている一族が住む場所から旅立って、母の兄が住んでいる異教の地に入って行ったのです。

 私たちは、日本文化の中に住んでいます。日本人は日本の文化を自然に受け取ります。どこの国でも、それぞれ特徴的な文化があって、「文化は神が創造したもの」という人がいますが、それは大きな間違いです。何処の国でも、文化の根底は、その土地の人々の犯した罪や、偶像礼拝によって形成されています。文化とは一つの集団が共有している考え方です。ですから、文化によって知らないうちに、間違った考えを、簡単に受け取るようになるのです。

 私たちが自分の文化から違った文化圏に入って行くと、初めは違和感を感じるのですが、長いこと住んでいると段々と馴染んで来ます。
 私はよく南米に行きます。ブラジルにも行きます。日本の文化でブラジルに行きますと、面食らうことがあります。「ちょっとそこまで行きましょう」と言われて、私たち日本人の感覚ではどうでしょうか。「ちょっと」と言ったら、五分、十分、十五分くらい。遠くても二、三キロという距離ではないでしょうか。
 しかしブラジルで「ちょっとそこまで」と言われたら覚悟してください。「ちょっと」は、「百キロ以上」です。時間的には一時間以上です。それがブラジルの「ちょっとそこまで」です。
 また、「ちょっと待ってね」というのは、日本なら五分くらいです。しかし、ブラジル人の「ちょっと待ってね」は、だいたい一時間くらい待つ覚悟をしなければなりません。そこで「くそ〜!」と言ってはいけないのです。それがゆったりとした時間の流れの中に住んでいる大陸人たちの文化ですから。

 今朝はブラジル人の方もおられますが、日本に来てなかなか大変だったと思います。日本の「ちょっと」や、「すぐそこ」は厳しいですから。仕事では遅刻もできません。しかし日本に長いこといると、段々と日本化してきます。

 私は昨日、ブラジル人教会での奉仕でした。それで、「十一時半までに来て下さい」と言われました。「十一時半か。じゃぁブラジル時間で行けばいいかな」と思って、遅れて行きました。家内にも「十分や十五分は遅れても、全然いいと思うよ」と言ってたら、その教会、なんと、十一時二十分くらいから玄関にみんな立って私を待っていてくれました。ありゃ、こりゃ日本よりすごい、と思いました。だいぶ日本で鍛えられたなと思いました。異文化の人たちも、ある国の文化圏に長く住むと馴染んでしまうわけです。

 ヤコブも、カナン人の文化の中に入って、二十年くらい経ちました。だいぶその中で毒された部分が見受けられます。
 そんな中、またもやヤコブの家に問題が起こって来ました。ヤコブはラバンのところで素晴らしい嫁さんを見つけます。それは、ラバンの娘でラケルという女の子でした。すごい美人で「この子が欲しい!」とラバンに言ったら、「うちの娘が欲しかったら七年ただで働け」と言われました。それでヤコブは七年、ただ働きをしたのです。
 やがて年が満ちて結婚式がありました。向こうの結婚式は夜やります。真っ暗闇の中で結婚式をして、朝起きて見ると、大好きなラケルと結婚できたと思ったら、なんと、姉のレアだったのです。信じられないことですが、妹と結婚したと思ったら姉ちゃんをもらっていました。朝起きたら嫁さんが違ったのです。
 それでラバンに文句を言ったら「この辺の文化では、妹から嫁にやらせることはできん。姉からだ。だからレアをやったんだ。でも、妹もやるから、あと七年ただで働け」と言われました。それでヤコブは十四年間もただで働かされました。ヤコブは穏やかな人だったから、十四年間も文句も言わずに働いちゃったわけです。すごいもんです。
 そんなことでヤコブはラバンの家で、二十年以上生活していました。そのためにその文化にどっぷりと浸かっていました。ラケルとレアはヤコブに子供生み家庭も出来ました。しかし二人嫁さんがいましたから、いろんな問題が起きました。
 レアがヤコブに「ディナ」という子を産みました。その子もやはりその地域に住んでいましたから、土地の人たちと交流があったわけです。その中で一つの事件が起こりました。創世記三十四章一節〜二節、

『レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを訪ねようとして出かけた。すると、その土地の族長のヒビ人ハモルの子シェケムは彼女を見て、これを捕らえ、これと寝てはずかしめた。』

 起こってはならない事件が起こったのです。ディナが強制的に犯されるというような、悲しい事件が起きたのです。それはどうしてかというと、ディナが、土地の娘と交流するために、自ら出向いて行って事件に巻き込まれたわけです。
 この問題は後に大きな問題となりました。シェケムという人物はディナが好きで強制的に犯したわけですが、嫁にくれと申し出てきました。しかしこれはヘブル的文化を持つ人たちには許されないことで、ディナの兄、シメオンとレビが激怒しました。「妹になんということをしてくれたんだ!」と。
 それで、策略を巡らせて、「結婚させてあげてもいい。でも俺たちユダヤ人は割礼という儀式を受けるんだ。割礼を、一族全員が受けてくれたら、ディナを嫁にやってもいい」と言いました。
 また、カナン人たちも、ユダヤ人一族から嫁をもらったら、彼らの持っている財産も横取りできるということで、彼らもまた策略的に割礼を承諾したのです。
 「よし、それじゃぁ、全員、割礼を受けよう!」と割礼に参加しました。
 割礼を受けると三日目くらいに一番痛いみたいです。その時に、なんとシメオンとレビが、家に攻め込んで、この街の人たちを殺したりして、大変なことをしました。そんなことをしたもんだから大事件へと発展したのです。創世記三十四章二十五節〜三十節、

『三日目になって、ちょうど彼らの傷が痛んでいるとき、ヤコブのふたりの息子、ディナの兄シメオンとレビとが、それぞれ剣を取って、難なくその町を襲い、すべての男子を殺した。こうして彼らは、ハモルとその子シェケムとを剣の刃で殺し、シェケムの家からディナを連れ出して行った。ヤコブの子らは、刺し殺された者を襲い、その町を略奪した。それは自分たちの妹が汚されたからである。彼らは、その人たちの羊や、牛や、ろば、それに町にあるもの、野にあるものを奪い、その人たちの全財産、幼子、妻たち、それに家にあるすべてのものを、とりこにし、略奪した。それでヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。」』

 カナン人の文化の中にラバンもヤコブも住んでいたわけです。そこで新しい家庭が出来たわけです。その土地の人とうまくやっていかなければ生きていけません。しかし、その土地の人に攻撃を仕掛けたわけですから、「今度は、全員が殺されてしまうかもしれない。本当に困ったことをしてくれた」と、ヤコブは息子たちの行った行為で大変困惑しました。
 この地に二十年くらい住んで、やっと慣れてきて、みんなとも関係が良くなってきたと思ったら、子供たちが大きな問題を起こしたわけです。

 人生ってこういうところがありますよね。ヤコブにとっては一難去ってまた一難という感じで、子供が問題を起こして、再度、いのちを狙われる羽目になりました。やっと落ち着いたと思ったらまた、息子が、孫が同じような事件を起こすことがあります。まさに同じようなことが、ヤコブにも起こりました。彼は心が重くなったわけです。
 子供たちが事件を起こして、自分たち一族が殺されるかもしれない、どうなっちゃうか・・・。そんな時に、また主が現れてヤコブに語りました。創世記三十五章一節〜三十五章七節、

『神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」
彼らは手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪とをヤコブに渡した。それでヤコブはそれらをシェケムの近くにある樫の木の下に隠した。彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。ヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょに、カナンの地にあるルズ、すなわち、ベテルに来た。ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それはヤコブが兄からのがれていたとき、神がそこで彼に現れたからである。』

 二十年以上前に、エサウに殺されそうになって、荒野の真ん中で石を枕にして眠っていたときと同じように、神が現れてくださったのです。その時、ヤコブは「こここそ、神の家だ!ここは天の門だ!」と叫んだのですが、その後、その場所を去って、二度と戻ってくることはありませんでした。ラバンの所で、異教の神々のただ中で、その文化にどっぷり浸かり、彼は真の神を知っていたはずなのに、カナンの神々、偶像礼拝が家庭のただ中に入っていました。異教的な文化に毒されて、それを当然かのように受け入れていたのです。そんな中で、また、問題が起きたのです。
 ヤコブの人生を見る時に、人生でなぜ問題が起きるのか、その基本的理由がわかるような気がします。

 しかし問題が起こることによって身を正し、神の前に再度出る事が出来ます。神に近づき、神に出会うことができるのです。そしてそこがベテル、神の家、天の門となるのです。しかし少し安定してしまうと、人は弱い者で、神から離れた他の領域に入ってしまうことが多いのです。
 「必ずここに帰って来ます」と言い残しながら、悪の文化にどっぷり浸かってしまうことがあるのです。

 そんな中、いろんな問題が起こり、神が問題を通して、彼が以前、石の柱を立てて目印にしておいた「ベテル」に戻されるのです。しかし問題の根源に、異教の神々への礼拝、偶像礼拝があったのです。
 神様は、時々私たちの人生の中で、いろんな問題を許されることがあるのだと思います。しかしそれは神が問題を与えるのではなく、こちらの自由意思の選択の間違いで、敵に心を開いてしまったり、門を開いてしまう結果によって起きるのだと思います。
 けれども、そのようなことを通して、もう一度、神との関係を自らの自由意思によって見直すようにと神はメッセージを送られるのだと思うのです。

 実にヤコブも、二十年間ほど経過し、家族も安定して、ラバンの元で幸せになりました。実に、彼は祝福されていたのです。周りの人たちとは全然違う、神の祝福の中に住んでいたのです。しかしその文化に安住していたのです。
 そんなただ中に問題が起こり、再度神は「あなたが神と出会った原点、ベテルに戻りなさい」というメッセージを発信されたのです。その時、彼は決断したのです。そして彼は勇気ある行動をとったのです。

 ここから学ぶことができるのは、私たちが常にベテル、神の家、天の門にいるならば、決して問題は起こらないということ。しかし、そこから離れると、いろんな問題に遭遇し、自分と神との関係を正し、「ベテルに戻ることができる」ということだと思うのです。
 人生も同じことが言えると思います。いろんな問題が起こったら、自分自身についてもう一度足下を見直し、見つめ直し、神との関係がどのようになっているのか、もう一度吟味しなければならないのです。
 ヤコブも子供たちの問題で、自分と神との関係を見つめ直させられました。「しらないうちに油断して、偶像がいっぱい家の中に入っている!」と気づいたのです。

 旧約聖書を読むと偶像は完全に「焼き捨て」、「砕いて、粉々にする」ように命じられています。でも、ヤコブは何をしたのでしょうか。偶像を排除する為にみんなから偶像を受け取ったのですが、創世記三十五章四節、

『彼らは手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪とをヤコブに渡した。それでヤコブはそれらをシェケムの近くにある樫の木の下に隠した。』

 耳飾りも昔は魔除けでした。それを外してヤコブに渡したのです。それらをヤコブは「隠した」というのです。本来は隠してはいけないのです。打ち砕かなければいけなかったけれど、やっぱり、その地域の文化の中にあって、壊すのはちょっと恐かったのでしょう。祟りがあるのではないかと思ったのでしょうか。
 案外、日本のクリスチャンも、偶像を壊すと祟りがあるかもしれないから、「順先生やって」という人もいます。「じゃあ、俺が祟られてもいいのか」という感じですが、私は全く恐くないです。

 ヤコブも二十年くらい、カナン人と共に住んで、ちょっとそういう風になっていたのかもしれません。壊さないで、木の下に隠したのです。
 新改訳は『隠した』と訳されていますが、新共同訳では『埋めた』となっています。どちらでも、同じようなもんだと思いますが、やはり彼は変わっていたと思います。

 でも彼が、偶像から離れた時、神が彼らを守られたのです。地域の人たち、その周りの人たちは、「あのヤコブの一族は何をしたんだ!もうあの一族を殺してしまえ!」といきり立っていたのですが、なんと、彼らが街から出てベテルに行こうとした時、追って来なかったのです。その街の人たちに、大きな恐怖が下り、ヤコブの一家を追うことができなかったというのです。
 それで彼らは無事に、かつて目印の石を立てておいたベテルに戻り、神への祭壇を築き直すことができたのです。

 私たちが偶像を取り除き、神の前に自分の姿勢を正すことが、人生の中で最も大切であると、ここを読みながら示されました。
 さて、ヤコブはかつてベテルでどのような決断をしたのかというと、二十八章十六節〜二十二節のところで、「この場所が神の家、天の門だ!」と感動して、彼が石の柱を立てましたが、二十八章二十二節で、

『石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。』

 かつてヤコブが何を決断したのかと言えば、「私に与えられる物の十分の一は必ず神に捧げます」と決断をしました。しかし異教の地に行き、神との契約を彼はちょっと忘れてしまっていたと思われます。
 聖書を見ますと、すべての領域に関わることですが、「十分の一というのはあなたの物ではない。それは神の物だ」と告げています。レビ記二十七章三十節、

『こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。』

 私たちはいろいろな領域と物質に囲まれて生活していますけれど、その十分の一は神のものであると言うことです。
 考えてみれば、神様って大変気前がいいですよね。神様が元々、全てを創造したのですから「十分の九は神のものだ。十分の一ぐらいはおまえにやる。」ではなくて、神様側は「十分の一でいいですよ」と言うのです。十分の九はあなたのものですよと。
 人生の中で大事なことは、「神の領域と自分の領域をしっかりと区別すること」です。それが神の家、ベテルに留まり続ける鍵となるのではないかと思います。

 人生において与えられる、十分の一は神のものだと、私たちはどのくらい認識しているでしょうか。
 私たちに与えられている時間は、一日、二十四時間ですが、その中の十分の一は神様の時間であると、どのくらい認識しているでしょうか?
 また、いろんな収入があると思いますが、三十万円取ったら、三万円は神のものだと、どのくらい強く認識しているでしょうか。
 十分の一は神に捧げしなければならないという認識は、ただ、経済の領域だけでなく、時間においても、人生に関わるすべての領域に関連していると思われます。人生の中で、神のパートとして聖別しなければならない、より分けなければならない領域があるということを、しっかりと認識しないと、ベテルから離れてしまい、その結果、いろんな問題で苦しむ羽目になり、痛い目にあって、ベテルに戻される繰り返しかもしれません。それも感謝なことですけれど、あまり良いことではありません。

 神は私たちに、自由意志による選択権を許されていますけれど、そのうちの「十分の一は神の物」であることを忘れないようにしたいです。
 ですから、時間も意識して使っていただきたいです。「私に与えられた時間の十分の一は神のものです!」と。今日、日曜日の午前中、二、三時間教会で過ごすのも、十分の一を神に捧げていることになりますよね。
 また、今日の午後、四方からの祈祷会があります。「山の上か。それは辛いな。好きな人だけ行って祈ってくれ」という考えもあるでしょうが、「少しは大変でも、山に登って主の為に、街を勝ち取る為に祈ろう!」という決断もあります。それは十分の一という概念で、神のために時間を区別する為に重要です。
 今日は「ギデオン協会」の働きための献金もあります。私たちは受け取った経済的な祝福も、その十分の一は神のものという意識が必要です。

 聖書は、旧約聖書から新約聖書に至り、一つの結論が出るわけですが、旧約聖書から新約聖書に至って、捧げ物の概念は十分の一で貫かれています。しかし第二コリント九章七節には、次のように記されています。

『ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。』

 私たちが神の領域をしっかりと認識し、喜んで神のために献げる時、すなわち、時間も人生も経済も献げるときに、そこはベテルとなるのです。
 この「喜んで、自主的に」という新約聖書の基本姿勢を踏まえ、「十分の一」という概念を理解するとき、大きな祝福となるのです。マラキ書三章十節、

『十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。‐‐万軍の主は仰せられる‐‐わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。』

 この十分の一には「お試しコース」があるのです。それは「祝福のお試しコース」です。もちろん、これを経済的な祝福や献金という領域だけに限定して捉えないでいただきたいのですが、すべての面における適用だと考えます。しかし一番わかりやすいのは、収入の十分の一を献金することかもしれません。
 しかしそれも、千円の中の百円ならいいですが、十万円の中の一万円となるとちょっと躊躇するでしょう。三十万円で三万だったらもっと躊躇します。一千万円になったら百万円です。かなり躊躇すると思います。でも、それは強制ではなく、「試してみたら祝福される」ということです。

 実は、この教会で一番経済的にも、いろんな面で困難を体験したのは、やはり一九九二年のことです。あの時、聖霊が注がれて、霊的戦いが始まって、教団から追い出されてしまいました。当時、教会に多くの人たちが来ていましたが、多くの人たちが出て行ってしまい、すべての面で弱くなりました。
 ちょうどその時、隣の教育館を建築したばかりでした。当時のことを知らない人も多いかもしれませんが、一生懸命祈って、献金して、建物を建てたわけです。教会は、みなさんが献金してくださった範囲でやっていますから、「このくらいの借り入れは返済できるだろう」と考えて銀行から借り入れて建てたわけです。

 しかし、突如の事件で、一ヶ月の支払いが二百万円も不足してしまいました。これではやっていけないと思いました。教会始まって以来の危機だと。私はスタッフたちを集めて、「みんな覚悟してくれ。このままだと、みんな解雇だ。自分で好きな仕事をやってくれ」と言いました。私は昔、土木技術者をやっていましたから、「俺もまた測量設計の仕事をやろう」と思いました。「どうせ我土方なれどの親父の教会だから、みんなで土方をやったらいい」と思い、男のスタッフたちもいましたから、滝元組とか、建設業でもやろうかなと思いました。もう支払いはできないと思いました。
 しかし、そんなただ中で、誰とは言えませんが、新城市でビジネスをやっている二人のクリスチャンの兄弟たちが私のために慰め会を開催してくださいました。それには感動しました。「順先生がんばれ」と言って、私の好きなステーキを食べさせてくれたのです。友達というのはそういう時に本当に嬉しいものです。「心配するな。俺たちがついてる!」と力強い言葉をもらったのですが、「あんたたちが付いてても、金が付いて来なかったらやっていけねぇ」と思いました。しかし彼らは、「自分たちはビジネスをやっている。だからこの領域で神様に仕えて行こう」と決断したみたいです。
 私は全然知らなかったのですが、先日、その一人とお交わりをしたら、あの時に何を決断したかと聞いたら、自分の収入の半分、五十パーセントを神のために捧げようと決断したというのです。それはただの慰め会ではなく、実質が伴っていました。

 絶対・絶命、もう駄目だというのが、「ひと月二百万円も足らない、やっていけない・・・」というのが、不思議に乗り切ったのです。スタッフの誰一人、クビにせずに済んだのです。私の首もこんなに太くつながっています。
 その背後に、そのような献身的な方々の神に対する決断があったのです。私はつい先日そのことを聞いてたいへん感動しました。「影でそんなことをしてくれていたのか!」と。
 彼らの業界は、近年、激動の世界です。けれども、新城でその業界で生き残っているのは、その二人しかいないのです。彼らのビジネスは祝福されて、さらに拡がっています。この街で景気がいいのは、その二人しかいないのです。一般の人たちはほとんど駄目になってしまいましたが、彼らだけ生き残り、そればかりではなく拡大しています。先週もその一人と交わりをした時、「順先生、悪いけれど、新城教会が最悪になった時から、私は最高になった」と言うのです。
 その時に彼が「半分神様のために捧げます」と決断した後、ビジネスが急に祝福されて今があるというのです。「試してみないとわからんですよ」と言っていました。

 案外、私たちは、自分の物は自分の物。人の物も自分の物というような、世界に生きていますけれど、人生は、人の物と神の物をしっかりと区別しなければいけないのです。その時、私たちはベテルにとどまることが出来るのです。それも強制ではなく、「わたしを試してごらん。祝福されますよ」とお試しコース付きの法則があるわけです。

 「私は今まで十分の一を神に捧げていなかった。時間にしても、人生にしても、経済にしても、自分の為に使い過ぎていた」という方は、正してみてください。お試しコース利用済みの方はわかっています。本当に祝福されます。
 今日もギデオン協会の働きのための献金もあります。彼らは私たちができない働きをしてくれています。精一杯捧げて下さい。「この千円でカツ丼を食おうかな」と思っていても、今日は、「そうだ、神のために捧げよう!」と決断して下さい。
 「献金はもったいないな・・・」と思うことが時々あります。一万円札を献げるとき、「諭吉さん。さようなら~」なんて言って捧げる人がいますけれど、そんなこと言わないでいさぎよく、喜んで捧げて下さい。

 私たちがいろいろな問題を通して、もう一度信仰の原点、すなわち、神と出会った原点に戻っていく時、復活の主が元通りにしてくださるのです。

 私たちの人生にベテル、天の門が開かれるように祈りたいと思います。また、街にも天の門が開かれるように祈らなければなりません。
 天の門とは、「天から地にかけて、はしごがかかっていた」というものでした。そのはしごを天使たちが上り下りをしていたのです。そこが神の家、天の門だったのです。

 みなさん、新城がこのような街になるように祈らなければなりません。今日は午後から、四方に出て行って、新城に天からはしごが下ろされ、天使たちが上り下りする街になるように祈ろうじゃありませんか。
 また、みなさんの家にも、天からはしごがかかるように祈ります。天使たちが上り下りし、主が立っておられる家庭となるように祈らなければなりません。そのためには、まず街の為に祈らないといけないですね。

 今、日本の街はどういう霊的状態かというと、天使が上り下りしているのではなくて、悪霊どもが上り下りしているのです。
 先週も占星術についてセミナーをさせていただいたのですが、偶像礼拝の原点に「星占い」があります。
 皆さんの中で自分の星座を知っている人、スイッチオン。ほとんどみんな知っていますね。私は知りません。星座を決して意識してはいけません。
 私はあえて知らないようにしていますが、占星術は、古代バビロニア帝国の時代に、すでにありました。その時にあったということは、ノアの時代にもあったことになります。
 エデンの園から追い出された人類が、再びヘビと遭遇したのが星占いを通してであると思うのです。星占いは強力で、実際に当たります。
 イエス様がお生まれになった時に、バビロンに住んでいた占星術師たちが救い主の誕生を探知し、家まで見つけてしまいました。しかしその後、二歳以下の子供たちは皆殺しにされてしまいました。

 なんで当たるのか。その理由に関して、先日、セミナーをさせていただきました。星占いは、元々、偽りが基礎になっています。
 今、世界の人で、地球が中心で、太陽とか星々が地球の周りを回っているという天動説を信じている人は誰もいません。みなさんの中で地球が中心で、太陽が地球の周りを回っていると信じている人はいないでしょう。天動説は偽りであり、地動説が真理です。

 でも、「星占いは、天動説を基礎としている」のです。地球が中心で、すべてがその周りを回っていると考えています。星座なんていうものも、実際にはないのです。星座とは、ギリシャ神話の神々を天に投影しただけです。星は天球という平面上にあるとして、それを適当に繋いだものです。自分の星座なんて言いますが、それは全くの偽りです。地上にある偶像の神々を、天に平面的に投影して、それを自分の生まれた月に対応させているだけです。

 しかし一方、聖書を研究すると、星の世界というのは神秘の世界です。ドイツの神学者でエーリッヒ・ザウアーという人物がいるのですが、彼は『世界の救いの黎明』という本を書いて有名になったのですが、その本にこのように書かれていました。

 「天使たちと星たちの間には、ただ形容詞的な比較ばかりではなく、その詳細のことは我々に知らされてはいないが、ある事実的、実際的な関連があることを聖書は証明している。」

 星々の世界は、ただ単なる物理的に星が存在するというだけにとどまらずに、霊的世界がその背後にあるというのです。それは天使の世界であったり、悪魔・悪霊どもの世界です。
 そこに向かって私たちが偽りを基礎に関わっていくとき、偽りの父である悪魔が、人々に直接手を出してくるのです。それ故、何が起こるのでしょうか。天から地に、はしごがかかるのです。それは天使ではなく、悪霊どもが降りてくるはしごとなるのです。
 新城でも、山々の頂はだいたい、占星術のために使われています。そこで星を見て、星座と地上には関連があるという偽りを通し、天上に存在する霊を地上に引き下ろす呪術がなされているのです。その為に、街にはしごがかかっているのです。それは天から悪霊どもが下りて来る、ヤコブのはしごの逆バージョン、悪霊のはしごです。
 私たちがその策略を見抜き、街にかかっている悪魔のはしごを打ち破るなら、今度は天使たちが街に上り下りし、主がそこに立たれるベテル、天の門になると信じます。

 今日はみなさんの人生においても、街においても、ひいては国においても、ベテルとなるよう、天の門となるよう、自分自身を正し、ベテルに住んでいるかを確認し、神の領域と、自分の領域をしっかりと区別し、主に仕えて行くならば、必ず、そこは天の門となり、神の家となるのです。気がついたら神の祝福の中、千代に至る祝福の中を歩んでいることを知るのではないかと思います。
 今日はそんな視点で、みなさんと共に新城、教会、人生に神の時が来るようにお祈りしたいと思います。

 今日はみなさんに神の知識を分かち合いさせていただいたのですが、昨日、ブラジル人教会の先生が話していたことを聞いて、なるほどと感じたのは「教会で神の知識を聞いても、実行しないと神の知恵にはならない」と話していました。
 私たちは神の知識を教会で受け取るのですが、実行しないと「神の知恵」にはならず、実現しないというのです。そこに私たちの決断が関わるのです。
 今日、私たちは決断と共に神の前に出て行きたいと願っています。一言みなさんとお祈りして、聖餐式を持ちたいと思います。祈ります。


 ハレルヤ。父なる神様。御名をあがめて、心から感謝します。この場所がベテルとなりますように。天の門となりますように。また、私たちを、ベテルに戻してくださいますようお願いいたします。
 イエス様、今日はあなたと出会うためにここに来ました。それも、よみがえりのイエス様と出会うために来ました。この聖餐式を祝福してください。もしも私たちの中に罪があったり、御心から外れている領域があるならば、聖餐式を通してもう一度、神の知識を神の知恵へと変えてください。
 主よ、私たちが常にベテルに生きることができますように。この場所が天の門となりますように。この教会に主がリバイバルの扉を開こうとされていますから、心から感謝します。そのために私たちを使ってください。
 今、この聖餐を、御言葉と聖霊によって祝福します。主がここに来て、お立ちください。この教会にはしごを下ろしてください。天使たちが上り下りしますように。そして主が、そこに立ってください。感謝します。すべての栄光をお返しし、イエス様の御名を通して祈りをお捧げいたします。アーメン。